ヤナーチェク作曲「1905年10月1日、街頭にて」を聴く

文:松本武巳さん

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CDジャケット

ヤナーチェク作曲
「1905年10月1日、街頭にて」
(他に「草かげの小径より」第1集、「霧の中で」も収録)
ピアノ:沢由紀子
録音:1997年
ART SERVIS(チェコ盤ART 006)=日本語解説付き

 

■ ヤナーチェクの謎のピアノ曲

 

  ヤナーチェクは、「人間もその環境も無視するものは、そもそも音楽でありません。わたしが作曲家として成長するならば、民謡と人間の言葉を通じてです」と語ったことがあります。今回取り上げる曲は、ピアノソナタ「1905年10月1日、街頭にて」と、一般に呼ばれていますが、私はここでは、「ピアノソナタ」の名称を用いないことにします。なぜなら、この曲はまさに環境(事件)について語った曲であり、絶対音楽(ソナタ)では無いからです。

 
『ブルノ・ベセダ会館』全景(現在はブルノ・フィルの本拠)

『ブルノ・ベセダ会館』全景(現在はブルノ・フィルの本拠)

『フランティシェーク・パヴリークを追悼するプレート』(左角の下側)

『フランティシェーク・パヴリークを追悼するプレート』(左角の下側)

『パヴリークの《像》』(プレートの上) 『パヴリークの《像》』(プレートの上)
『ベセダ会館』正面入り口《大理石の階段と街灯》 『ベセダ会館』正面入り口《大理石の階段と街灯》
 

■ 事件の概要 

 

 この曲の書かれた動機は、社会的な事件がきっかけです。当時チェコは、ドイツ人とチェコ人の対立が高まっていました。教育はすべてドイツ語で行われており、家族同士はドイツ語で話し、使用人同士や家族と使用人の会話ではチェコ語で話す、という風に、上流家庭では使い分けていました。チェコ人は、チェコ語を自由に使いたい、という当然の思いが強く、ブルノでもこの考えは同じでした。1905年10月、チェコ人のためのチェコ語大学の設立を支持するチェコ人のデモ隊と、鎮圧に当たったドイツ軍が衝突し、フランティシェーク・パヴリークという20歳の労働者が死亡する事件が起こりました。

 これに激怒したヤナーチェクは、このピアノソナタを一気に書き上げたのです。元来、ヤナーチェクが作曲したのは、第一楽章「予感」、第二楽章「死」、第三楽章「葬送行進曲」から構成される、ピアノソナタでした。しかしヤナーチェクは、初演前に第三楽章を焼き捨ててしまいました。残る2つの楽章も作曲者によって、プラハでヴルタヴァ川に投げ捨てられてしまったのです。幸いにも初演のピアニストを務めたルドミラ・トゥチコヴァーが、第一楽章と第二楽章の写しを取っておりましたので、ピアノソナタの一部分が、無事に残されました。ヤナーチェクが70歳になったとき、このピアノソナタの写しがあることが公表されたのですが、ヤナーチェクはその際、出版できることを喜んだと言われています。

 

■ ヤナーチェクによる碑銘 

 

  「ブルノの芸術会館の上がり段の白い大理石。庶民の労働者フランティシェーク・パヴリークは斃れ、血に染まった。上級教育を求めるためにだけ現れ、むごい殺人者によって刺し殺された。」

 

■ ソナタの断片として生き残った楽曲

 

  少なくとも、全楽章を通して演奏することは、焼き捨てられたはずの楽譜が、どこかから発見されることでも無い限り、今後も決してあり得ませんので、私はこの曲を、出版譜と同様に「1905年10月1日、街頭にて」と呼ばせていただくことにします。

 

■ ゆきのじょうさんの指摘から-《街頭にて》と《街灯》の謎解き

 

  Z Ulice(街頭にて)とUliční lampa(街灯)に関する、ゆきのじょうさんからの、一見『言葉遊び』に思えるご指摘(2009年5月掲載の「コダーイとヤナーチェクのピアノ曲を聴く」)ですが、まずはベセダ会館の正面入り口の写真をご覧ください。当時の街灯は、この会館に限らず、もはやチェコには存在しておりませんが、当ベセダ会館は、当時の雰囲気を多少とも醸し出している街灯を、現在も設置しております。そして、ここで、この言葉遊びから、何が導き出せるかですが、私なりに以下のようにお答えしておきたいと思います。

 Z Uliční lampaという風に、『街頭にて』と『街灯』をミックスして見ますと、チェコ語では、実は『街路灯にて』という意味になるのです。私は、事件の起きた場所の現在の写真等から、ゆきのじょうさんの一見『言葉遊び』に思えるご指摘に対し、大真面目に、「1905年10月1日、街頭にて、街灯の下の、大理石の階段で、事件は起きたのである。」とお答えしたいと思っています。

 

■ 当該ディスクについて 

 

  最初は、ルドルフ・フィルクシュニーの名盤を紹介しようと思いましたが、ときとともに考えがだんだん変化してきました。この沢由紀子さんのピアノは、チェコ製のピアノ(ペトロフ)を用いており、なぜか私の気持ちに馴染んでくるのです。私は、そもそもヤナーチェクを聴くとき、何らかの癒しを求めて聴くことが多いので、ヤナーチェクのピアノ曲集として、沢由紀子さんのCDをぜひお勧めしたいと思います。国内に輸入代理店は存在しませんが、海外のCDネットショップでの取り扱いは、現在でもありますので、入手が困難であるとまでは思いません。多少の時間と根気を要しますが、必ず入手可能であると考えています。

(2009年8月3日、ブルノで記す=写真も同日に筆者が撮影したもの)

 

2009年8月29日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記