LP(西ドイツ・エレクトローラ、再発盤)
CD(英EMI) |
モーツァルト 歌劇「フィガロの結婚」K.492(全曲)
- アルマヴィーア伯爵:ガブリエル・バキエ
- 伯爵夫人:エリーザベト・ゼーターシュトレーム
- フィガロ:ジェレイント・エヴァンス
- スザンナ:レリ・グリスト
- ケルビーノ:テレサ・ベルガンサ
- マルチェリーナ:アンネリーズ・ブルマイスター
- ドン・バジリオ:ヴェルナー・ホルヴェーク
- ドン・クルツィオ:ヴィリー・ブロックマイア
- バルトロ:マイケル・ランドン
- バルバリーナ:マーガレット・プライス
- アントニオ:クリフォード・グラント
- 二人の少女:テレサ・カヒル&キリ・テ・カナワ
オットー・クレンペラー指揮
ニュー・フィルハーモニア管弦楽団 録音:1970年1月
EMI(国内盤 TOCE-9746-48)
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国内盤 |
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■ 悪名高き最晩年の超スローテンポと一般的な評価
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クレンペラー唯一の「フィガロの結婚」全曲のディスクは、引退直前の最晩年に録音されたためもあって、全体がきわめて遅いテンポで貫かれた、かなり風変わりなこのオペラの全曲盤として、今なお知られている。以下は、かつて伊東さんがお書きになられた、このオペラ録音についての一般的な評価の紹介部分である。少し長いが引用してみたい。
私は、この「フィガロ」に罵詈雑言を投げつけられたとしても「そりゃ仕方ないな」と思う。全員がいいと思う演奏なんてないし、いいか悪いか意見が分かれる演奏の方が面白い。この演奏はおそらく「悪い」と決めつける人がさぞかし多かろう。私がこの演奏を聴いた時もびっくりした。超スローテンポなのだ。序曲からして無茶苦茶遅い。モーツァルトの序曲集に入っている「フィガロの結婚」序曲もやや遅めのテンポなのだが、その比ではない。気が遠くなるようなテンポなのだ。どうしてこう極端なことをしてくれるのだろうか。
おそらく歌手達もこのテンポでは歌いにくくてたまらなかっただろう。有名なバルトロのアリア「復讐だ! ああ、復讐とは楽しみだ」などでもせっかくの早口の歌が生きてこない。失速寸前のテンポの中で歌手達はほとほと困惑しただろうが、さりとて死に神の如き顔をした大指揮者に文句も言えず、唯々諾々と歌い続けたのだろう。全く気の毒な話だ。そんな演奏だから、オペラのCDにはよく抜粋盤が作られるが、このCDにはまず今後も抜粋盤が作られることはないだろう。
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■ 一部の肯定的な評価
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実は、伊東さんはこのオペラのディスクに一定程度肯定的な評価をされている、リスナーとしては少数派の一人なのである。そこで、再び引用してみたい。
しかし、誤解がないように申しあげておきたいのだが、それでもこの「フィガロ」には大変な価値があるのである。なぜか。非常に美しいからだ。超スローテンポによってこのオペラの持つ軽妙さがすっかり失われているとはいえ、大変美しい演奏だ。クレンペラーの遅いテンポによってモーツァルトが書いた音符のひとつひとつが手に取るように分かる。それは序曲から明らかで、考えようによってはこのオペラの隅から隅まで嫌になるほど堪能できるのである。こんな演奏をした例は少なくとも私はクレンペラー以外には知らない。クレンペラー85歳の時の演奏だけにこの超スローテンポは高齢からくる老化現象の現れと見ることもできるのだが、クレンペラーのことだから、確信犯的にこのテンポを採ったものと私は考えている。本当にふざけた指揮者だ。
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■ ここから聴こえてくること−個人的な経験より
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私事で申し訳ないが、私は高校3年次に、音大進学を前提とした「芸術クラス」に在籍していた。音楽選択者は14名で、私以外は全員女子でかつ全員が音大に進学した。美術選択者についても似たような傾向で、私の在籍していた高校は、設置課程が普通科であるにもかかわらず、当時は音大や美大への進学者が非常に多かったのであるが、この環境下に身を置けたことは、将来にわたって大きな得をしたように思える。
そんな3年次の音楽の授業は、ほぼ受験に直結した専門教育を前提とした授業が組まれており、歌の試験だけでも学期ごとに、「歌曲」や「オペラのアリア」に加え、コールユーブンゲンやコンコーネの試験もしっかりと行われていた。アリアについては、何曲かの選択肢(声域等)が与えられていたが、一人だけ男声のアリアを歌うことにそもそも抵抗があったのか、または教員自身が現役で二期会の舞台に立つ声楽家であったためか、後にも先にもこのときだけであるが、3回あった試験のすべてを女声のアリア、それもラ・ボエーム、トスカ、フィガロの結婚からのとても著名な女声のためのアリアを、かなり無理をして歌ったのである。これはいろいろな意味で実に良い経験であったといわざるを得ない。
このときに経験したことは、大きく分けて2点である。実はゆっくりと歌う方が、細部に至るまではっきりと楽曲解釈や分析、さらに微妙な音程や発声、くわえてブレスまで、先生だけでなく周囲の生徒に対しても、一切のごまかしが効かずに分かってしまうことである。オペラのアリアなどは、長丁場でもあるため普段から勢いと迫力(と雰囲気)で乗り切ることも多く、どうしてもスコアに書かれている細部を蔑ろにしがちなのであるが、ここでもクレンペラーのように、スコアを熟知した指揮者がこれほどまでにゆっくりとしたテンポでじっくりと演奏されると、まさに歌手にとって逃げ道が無くなってしまうのである。若い時分は、歌に限らず特に『速さ』に対してどうしてもあこがれるものであるが、ゆっくりと歌うことの大事さと難しさを知ったきっかけでもあったのである。
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■ ここから聴こえてくること−精緻なスコアの再現
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もう1点は、プラス方向の話である。どうしても、オペラのような大掛かりな楽曲の場合、自身が必要な部分以外まで、スコア(特に総譜)に目を通すことは少ない。ところが、ゆっくりと歌うことによって、スコア全体を精密に読まざるを得ないし、そもそもゆっくりと進行するため、少しスコアを読むことに慣れている人であれば、パート譜でなく総譜をじっくりと読み込むチャンスでもあるのである。このクレンペラーの指揮であれば、普段スコアを読むことがほとんどない程度の単なる音楽愛好家であっても、もし目の前にスコアがあったとしたら、きっとスコアを開いて見たくなるのではないだろうか。そして、その結果、如何にクレンペラーが単に遅い演奏なのではなく、モーツァルトが書き残した小さな動きまで、実に精緻に指揮をしているかが容易に見えてくるのである。
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■ この盤の究極的価値
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それでも、なお、これが実際のオペラハウスで行われた場合には、あまりの遅さに辟易して、途中で間違いなく退屈してしまうであろう。しかし、ディスクであれば、興味のある範囲だけでも良いし、我慢が続く時点まででも良いし、聴き手の自由意思で聴き方を決めることができるのである。そうしたとき、このクレンペラーの指揮から聴こえてくることは、単なるオペラ全曲盤ではなく、モーツァルトの総譜の精密さや、各々の歌手の細かい能力など、普段はあまり見えてこないものがあちこちから見えてくる、そんな宝の山であることに気づくだろう。私には、このように思えて仕方がないのである。
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(2023年12月15日記す)
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