長富彩「リスト巡礼」を聴く
文:松本武巳さん
リスト
- エステ荘の噴水「巡礼の年第3年」より
- リゴレット・パラフレーズ
- 愛の夢第3番
- 献呈(シューマン=リスト)
- 糸を紡ぐグレートヒェン(シューベルト=リスト)
- 超絶技巧練習曲集第10番ヘ短調
- スケルツォーソ「クリスマス・ツリー」より
- カリヨン「クリスマス・ツリー」より
- ラ・カンパネラ「パガニーニによる超絶技巧練習曲集」第3曲
- 孤独のなかの神の祝福「詩的で宗教的な調べ」第3曲
長富彩(ピアノ)
録音:2011年4月1日〜3日、相模湖交流センター
DENON(国内盤 COCO-84900)■ 長い間の封印を解いて
私は長富彩(1986- )について2011年秋に、今回と同じリストのディスクに多少言及したのを最後に、彼女の演奏について言及することを長い間控えてきた。今回、ようやく封印を解く気に至ったので、彼女のデビュー第2作(実際には第3作)である当該ディスクについて、多少の思いを書く形で触れることにしたい。なお、評論を冷静に書くにはそもそも客観性を若干欠く立場であるとも思われるため、私の単なる独白であると受け取っていただいても差支えないことを、予めお断りしておく。
■ あまりに知り過ぎた時期があったために
長富は高校(東京音楽大学付属高校)に特待生で入学し卒業したとの経歴では推し量れない、そんな計り知れない才能を感じさせる一方で、少々破天荒に近い、そして性格的に多少荒れ気味の少女(不良少女とまで言うと言いすぎかも知れないが・・・)でもあった。確かに魅力満載な少女ではあるが、天然危険物的な腫物のような存在でもあったのである。たぶん、当時の教員の目から見ると、とても扱い辛い多少面倒な生徒であったのかも知れない。
■ 高校生時代から留学を決意するまでの長富
18歳で留学する前の長富は、天真爛漫に猛獣のように本能でピアノに向かっていたように良く言われるのだが、長富自身が例え肯定的に述懐してもなお、当時の私は決してそのようには感じ取れなかった。むしろ、単に2ちゃんねるその他、ネット社会の餌食になった籠の鳥の少女がそこにはあったのである。唯一、三鷹市内の教会で演奏したときだけは、もう少し生の少女がそこにはいたように記憶している。
■ ブダペストでの長富の自然体と、その後続いた作り顔の長富
2005年夏から2007年夏まで長富はブダペストに留学した。その留学最後の時期に、私は現地で続けて会う機会があった。そこでは長富のあらゆる拘束から解放された自然体の、まさに真の音楽家の卵の姿を見ることができた。1度目は夜のオペラ座至近、2度目は昼間にリスト音楽院至近のカフェで話し込んだ。ここで見た彼女の自然体の姿は、その後長い間日本で評価が上がっていく途上ですら、一度も見ることが叶わなかった。そんな本当に素敵な少女の真の姿を、私はブダペストで幸いにも見たのだった。日本に戻った長富は、もはや元通りの作り顔の長富であったのだ。そして、その顔はその後も長く続くのである。
■ 両親の生の演奏を知る数少ないファンとして見つめた長富
長富の父親は現役の声楽家、母親はピアニストであった。いずれの演奏も私は聴いたことがある上に、私がアマチュア合唱団に所属していた当時、父親がソリストで出演したコンサートすら経験している。長富の両親も私には一定の馴染みのある演奏家だったのだ。しかし、この視点から長富を見ることは、本来は避けるべきであろうと思う。一個の芸術家としての姿を見損ねる危険性が付きまとうからだ。
■ 長富の真の姿を見せ始めたコロムビアへのデビュー前後
やがて調律師の高木裕氏が長富の才能に目をつけ、それが機縁となってメジャーデビューを果たしたのが、当盤の前年に発売されたディスクである。難曲のイスラメイ(バラキーレフ作曲)を中心として、全体的なまとまりには若干欠けるものの、相当鮮烈なデビューとなった。この頃から、彼女の周囲は彼女の演奏に、抑制と均衡を徐々に与えつつ大事に育てていったように見受ける。その結果、長富は無理な爆音や無理な高速を避けて、じっくりと歌い込む姿勢を備えて行ったように思う。もちろん、評価は鰻上りに向上していった。
■ 話題性の向上と評価の定着と孤独との闘い
しかし、私には、この頃から長富の内面に、表面的な話題性とは裏腹のある種の孤独を感じて仕方がないようになってしまったのである。もちろん、私の邪推だったかも知れない。ただ、抑制と均衡を身に付けたとされる時期とほとんど同時に、長富は身辺の一見華やかさの陰に、深い孤独を感じ取れるような哀愁帯びた演奏に急激に変化していったのである。これは、単なる演奏家としての成長ではない、むしろ見えないところで長富は危機的な孤独との壮絶な闘いをしている、あるいは闘いに自ら臨んでいるように思えてならなかったのである。
■ オモテとウラ-演奏に向かう長富と、自然体の長富 世評は順調に上がって行った、そしてその後関西に居住地を変えて、さらに家庭も持ったようである。しかし、本来は長富のオモテの姿が演奏家としての姿であり、家庭を含む私的な部分がウラであるべきところが、長富の場合は正反対に、私にはオモテの姿が昔からの友人へのレッスンなどで垣間見せる姿であり、コンサートで見せる公式な姿が、長富のウラの姿となってしまったように思えてならなかった。一体いつ、アベコベになってしまったのだろうか。私はいつしか、本心から心配するようになってしまったのである。
■ あまりにも進化する度合いが早すぎた数年間
このことは、単に演奏が深化したとか、精神的に大人になったとかでなく、公式の姿がウラの姿である長富にとって、まるでモーツァルトの人生のように、一気に青春時代を駆け抜け、一気に老成していくような危機感を感じ取らせるような、そんな演奏の急激な深まりであった。一気呵成に駆け抜ける演奏よりも、じっくりと丁寧に歌い込む演奏には、いわゆる年季が必要であるにもかかわらず、長富はその域に20代で易々と到達してしまったのである。これは何かが違う。私にはどうしてもそのようにしか思えず、2011年秋を最後に彼女の演奏を追いかけたり彼女のディスクを聴き込むことを、ある程度中断した。孤独との闘いの中で精神的な祝福を必ずしも得られていない、そんな薄幸の女性像と長富がどんどんと重なっていったのである。
■ リストに向かう長富と、ブダペストでの長富のオーバーラップ
私はリスト巡礼のディスクを久しぶりに取り出した。そのきっかけは今年の6月に2007年にブダペストで会った際の写真が、長富自身から添付で送られてきたことがきっかけであった。そして、私は5年ぶりにディスクを聴き直した。そこには、ブダペストでの本当に幸せかつ充実した2年間をオーバーラップさせる演奏が聴こえてきた。そして、長富にとってリストは、通常の愛好する楽曲とは異なった、深い魂の音楽になっていることにようやく気付いたのである。そして、この気付きは、長富が孤独の中で何かの平安を得られているからこそ見せることの可能な演奏であることも同時に気付かせてくれたのである。私は心から安心し、そして楽曲に浸ることができた。以下に何曲かのコメントを記しておきたい。
■ リゴレットパラフレーズ
7分13秒をかけている。彼女がじっくりと歌い込んだ賜物であろう。この曲は音大生を含む専門家予備軍には、非常に知られた楽曲であるにもかかわらず、ピアノを弾かない愛好家には馴染みのないリストの編曲ものの1曲に過ぎないのである。しかし、私は非常に好意的にこの演奏を捉えたことを表明したいと思う。これを聴いてから、ヴェルディのオペラを聴いてごらん、と。
■ 愛の夢
非常に有名な小品である。4分32秒と言う、標準的な演奏時間である。私には残念ながら、今回の録音中ではもっとも凡庸な演奏であると感じてしまった。決して悪くはない。あまりにも普通の演奏なのである。それ故、逆説的に捉えれば、一般には高く評価される可能性があるとも言えるだろう。なぜなら、普通の演奏を高いクオリティで示した名演であるとも言えるからである。
■ 献呈
言わずと知れた、シューマンの歌曲集「ミルテの花」からの編曲で、肝心のクララからは不評であった編曲でもある。じっくりと4分12秒をかけて演奏している。非常に遅めのテンポで統一した長富であるが、ここでは若者の恋と言うよりは、ある夫婦が昔を追想したラブレターとなっているように思える。そんな弾き方を20代前半の若い演奏家がしたことに対して、驚きを隠せない。
■ 糸を紡ぐグレートヒェン
4分24秒をかけている。私はこの演奏内容は評価が割れると思う。なぜなら、たぶん長富はかなりの思い入れを演奏内でたっぷりと語っており、その思い入れに通暁できない聴き手には残念ながら不評であろう。しかし、ここで気付くことは、歌曲やオペラからの編曲ものの多くは、長富はかなりの思い入れを持って、じっくりと歌い込んで弾いているのである。まるで、歌い手に対して聴かせたいと念願しているような、そんな想いのこもった演奏である。
■ ラ・カンパネラ
まさに彼女の十八番であるが、ここでもじっくりと歌い込んで5分12秒をかけている。かつて猛獣のように本能的かつ攻撃的な弾き方をしていた長富の、精神的な深化を感じ取れる演奏である。さすがに、ありとあらゆる機会に弾いてきたこの曲の最終的な姿を、長富はわずか24歳で提示したように思えてならない。細部の詰めも含め、新境地を示した演奏であると言えるだろう。ちなみに彼女のこの楽曲の過去の演奏は、非常に多く残されており、このディスクと比較してみることが誰にでも容易である。
■ 孤独の中の神の祝福
私はかつてこの曲の評論を記したことがある。ブレンデルとアラウとボレットを比較検討した内容であった。しかし、この長富の演奏は、ある種の涙なくして聴くことの出来ないような、深い苦悩と孤独と愛と憎しみと、そして死への不安まで感じ取らせる演奏であるが、楽曲の最後に至って安らぎへと音楽が昇華し、心の平安の下に楽曲を終えているのである。当事者以外には到底理解できないような特別な深い感情がこもっており、そこからはまさに宗教音楽を通じて第三者に寛容さを求めるがごとく、聴き手に対して長富は何かメッセージを突きつけているのだ。何がここまで長富の音楽を一気に深化させたのであろうか。
■ 不安と安らぎ(当録音の真の価値)
長富のこの数年間の深化の度合いは、むしろ私を非常に不安にさせる。しかし、この孤独の中の神の祝福の演奏にように、彼女の内心において悩みを解決できるような、そんな道筋を見出したような「リスト巡礼」における演奏内容全体を冷静に判断するとき、長富の危機はいつしか去ったのかも知れない。そんな風にも思えるような安らぎを、このディスク全体から感じ取らせてくれたことに、私は安堵している。
(2016年10月21日記す)
(2007年8月、ブダペスト市内「リスト音楽院」近くの交差点で)
2016年10月21日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記