ポリーニの「新旧ベートーヴェン後期3大ソナタ」を比較試聴して思うこと

文:松本武巳さん

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LPジャケット
CDジャケット

1975年、77年録音盤(LP)

CDジャケット 2019年録音盤

ベートーヴェン
ピアノソナタ第30番作品109
ピアノソナタ第31番作品110
ピアノソナタ第32番作品111
マウリツィオ・ポリーニ(ピアノ)
録音:1975年(第30,31番), 2019年(新盤)、ミュンヘン・ヘルクレスザール
1977年(第32番)、ウィーン・ムジクフェラインザール
ドイツグラモフォン(旧盤LP、新盤CD)
 

■ ポリーニによるベートーヴェン後期3大ソナタ

 

 ポリーニの後期ピアノソナタ集について、全体を通して俯瞰し、比較し、ポリーニの今と昔を論評せよ。実はこれが私に与えられた課題であった。しかし私は、ベートーヴェンのピアノソナタは第24番から既に後期に差し掛かっており、後期ソナタ集とは「第27番〜第32番」を指すと考えているため、課題に応えることが困難であった。そのため、ハンマークラヴィーアソナタを、ディスクの発売を待ってすぐに試聴記を著した。引き続き、ここに最後の3大ソナタを取り上げることにしたい。最後の3曲が一連の楽曲であることは、分類上の争いが一切ないと言えるだろう。なお、第28番は論評しないことになるが、仮に第28番から第32番までの5曲を後期ソナタ集と捉えることを是とした場合でも、第28番のみ録音を残したピアニストや、第28番だけ録音を残さなかったピアニストがいることを指摘しておきたいと思う。

 ところで、私がかつてピアノ学習者であった20代前半まで、まさに大量の楽曲を譜読みし、暗譜し、とりあえず弾いてみるという、日本ではたいへん珍しい学習方法を取っていたため、今でも32曲のソナタ全曲をほぼ暗譜していると言った、特殊事情が存在することをお断りしておきたい。そんなことが可能なのかと思われる方もおられるであろうが、きちんと弾けるようになったら次の曲が与えられるという、日本で一般的なピアノ学習方法に向いておらず、ひたすら多くの曲を取り込みたかったことと、その一方で私は、誰もが取り組んだはずの楽曲の多くに見向きもしなかったのである。ピアニストやピアノ学習をある程度進めた方なら必ず通った筈のプロセスが、私からは脱落しているのである。

 このような私的事情をわざわざ記したのは、ポリーニがこれまでに録音した楽曲リストを見ていると、想像以上に完全に無視された作曲家の作品が多いことに気づくからである。演奏レベルは、天と地以上の差があり論外ではあるが、この私の過去の楽曲習得の方向性からポリーニを聴いてみるとしたら、多少はプロ・アマ問わず他人と違った私なりの視点から、考えてみることも可能ではなかろうかとそんな風に考えたのである。 

 

■ 旧録音について

 

 1977年のベートーヴェン没後150周年に合わせて、ポリーニが初めて録音したベートーヴェンであり、第30番と第31番は1975年、第32番は1977年の録音である。この録音当時のポリーニを、当時の音楽評論家たちは、演奏評に於いて以下のように表現していたと思う。少し列挙してみよう。

  • 重さと深さが同時に感じ取れる演奏
  • 力強くかつ柔らかいタッチ
  • 硬いが音の濁りが全くないタッチ
  • 音色は豊かで抑制の効いた表現
  • 緩急と強弱を自在に操る演奏
  • どこか観念的で表面的な演奏
  • 完成度の高い堅牢な構築物を思わせる
  • 音の透明感と強靭さが際立つ

 ここから言えることは、誰よりも力強く正確なタッチを持つと言ったような、優れた技巧面ばかりが強調されていると言っても過言ではないだろう。つまるところ、一部の例外を除いて、演奏評ではなく、技術評に過ぎなかったのである。極端な例として、当時のコンピュータの性能とポリーニの正確無比な技巧を比較しているものまであったくらいである。これは決して悪口を言っているのでなく、如何に当時の評論家たちがポリーニの登場に戸惑い、演奏に当惑したかを物語っていると言えるだろう。 

 

■ 新録音について

 

 2019年に再録音した第30番から32番。こちらは、2020年のベートーヴェン生誕250周年に合わせて録音された、ポリーニによる再録音である。

 第30番はやや速めのテンポで一貫し、高音の響きはとても透明な音色だが、低音の響きは以前のように力強い響きである。特に第3楽章の変奏曲の処理が卓越しており、ここにポリーニの演奏の確かな深化を感じさせてくれるのはさすがと言えるだろう。第31番は、第30番と同じ感想に加えて、第3楽章のアリアでは、実は意外なほど単純な旋律が、ポリーニにより手を変え品を変え見事に煌めいている。この部分でのポリーニの演奏はまさに白眉である。

 第32番は、冒頭から旧録音よりはるかに速い演奏にまずは驚かされる。技巧的にはタッチが危ういだけでなく、明らかな綻びや破綻寸前になっている箇所も確かに見られるが、ひたすら前に前に突き進む力に聴いていて圧倒されてくる。第2楽章後半の長い重連トリルでは、かなり技巧的に危うい場面も多々見られるし、明らかに曖昧な音も混じってはいるが、それらを突き抜けた強い意思が、聴き手にストレートに伝わってくるような演奏である。 

 

■ ポリーニはどのように変化したのか、あるいはしなかったのか

 

 ポリーニはベートーヴェンのピアノソナタ全集を、1975年の第30番、第31番から録音を開始し、約39年かけて2014年の第16番〜第20番で全集録音を完了した。その間にポリーニの演奏形態自体は徐々に変化していき、後期ソナタの録音当時はひたすら正確さを追求し、硬い音で強く弾くスタイルであったが、1980年代の中期ソナタの録音では、ペダルを使う頻度が増しレガートを意識した演奏になっていき、2000年代に入って録音された初期ソナタになると、とても角の取れた穏健さが録音に増していったと言って良いだろう。

 私は幸運にも、ポリーニ最初の来日以後、最大10年の空白期間(1992年〜2002年)はあるものの、ほぼ継続して彼のステージに定期的に接してきた。そんな私には、彼が危機的な状況を迎えているように感じ、心配した時期もあるにはあったが、基本的な姿勢に於いて劇的な変化を感じたことはない。もちろん、技巧面はなだらかな下降線を描いていたし、見た目も少しずつ老化していったし、ましてや今世紀に入ったころには、すでに前屈みに歩くようになってもいた。 

 

■ ポリーニの今と昔について思うこと

 

 祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
 遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱忌、唐の祿山、これらは皆旧主先皇の政にも従はず、樂しみをきはめ、諌めをも思ひ入れず、天下の乱れん事を悟らずして、民間の愁ふるところを知らざつしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。
 近く本朝をうかがふに、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、これらはおごれる心も猛き事も、皆とりどりにこそありしかども、ま近くは、六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申しし人のありさま、伝えへ承るこそ、心もことばも及ばれね。

(『平家物語』冒頭より)

 誰もが知っていると思われる平家物語の冒頭部分である。中学校あるいは高等学校で必ず学習し、かつ多くの方は暗唱もさせられたのではないだろうか。私も、学生時代苦手科目の筆頭であった「国語科」でもあり、ひたすら呪文のように覚えた少々辛い記憶が今も脳裏に残っている。 

 一方で、以下の文章を強制的に覚えさせられた経験を持つ方は、平家物語よりは少ないにしても、やはりかなり多いのではないだろうか。成績不良学生であった私が、ポリーニの今と昔について思うときに、なぜかこの苦労して暗唱させられた二つの古典が、ほぼ同時に頭に浮かんでくるのである。そして、ポリーニの今と昔とは、私には以下に引用する方丈記の冒頭に近いように思えてならないのだ。

 行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたかは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
 世の中にある、人と栖と、またかくのごとし。玉敷きの都の内に、棟を並べ、甍を争へる、高き賤しき人の住まひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。あるいは、去年焼けて、今年作れり。あるいは、大家滅びて、小家となる。
 住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、僅かに一人二人なり。朝に死に、夕べに生まるる慣らひ、ただ水の泡にぞ似たりける。
 知らず、生まれ死ぬる人、いづ方より来りて、いづ方へか去る。また知らず、仮の宿り、誰がためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、主と栖と、無常を争ふさま、言はば、朝霧の露に異ならず。あるいは、露落ちて、花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。あるいは、花しぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、夕べを待つことなし。

(『方丈記』冒頭より)

 つまり、結論として私が思うに、ポリーニはいつだってポリーニなのである。何一つポリーニは変節などしていないのだ。ただ、当然ではあるが肉体は加齢とともに必ず少しずつ衰えていき、人生経験は逆に着実に積み重ねられていく。その中で、ポリーニの心境の変化があったとすれば、若いころは、特に録音に於いて内面を決して見せない精神のバリアを構築していたが、年とともに全てを見せ、時には弱さを含めて聴き手に正直にさらけ出す、そんな心のバリアフリーに大きく変化していったのである。

 その結果、楽曲の根本理解が深まったり演奏解釈が大きく変化することなく、むしろ老境とともに若者風の演奏形態が顕著になっていったと考える。それは、彼自身の現状の身体能力を超越し、颯爽とスポーツカーをドライヴするような解放された音楽づくりであり、自由闊達な演奏なのである。ポリーニの技巧が明らかに衰えた現在においても、ピアニストの標準レベルを超えているからこそ可能な、まさにポリーニしか絶対になしえない演奏である。若いころの強靭で力強い超絶技巧が、老境の今になっても当時の貯金としてきちんと演奏に生かされているのだと、私にはポリーニの録音遍歴について、そんな風に思えてならないのである。

 

(2022年12月4日記す)

 

2022年12月4日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記