祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱忌、唐の祿山、これらは皆旧主先皇の政にも従はず、樂しみをきはめ、諌めをも思ひ入れず、天下の乱れん事を悟らずして、民間の愁ふるところを知らざつしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。
近く本朝をうかがふに、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、これらはおごれる心も猛き事も、皆とりどりにこそありしかども、ま近くは、六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申しし人のありさま、伝えへ承るこそ、心もことばも及ばれね。
(『平家物語』冒頭より)
誰もが知っていると思われる平家物語の冒頭部分である。中学校あるいは高等学校で必ず学習し、かつ多くの方は暗唱もさせられたのではないだろうか。私も、学生時代苦手科目の筆頭であった「国語科」でもあり、ひたすら呪文のように覚えた少々辛い記憶が今も脳裏に残っている。
一方で、以下の文章を強制的に覚えさせられた経験を持つ方は、平家物語よりは少ないにしても、やはりかなり多いのではないだろうか。成績不良学生であった私が、ポリーニの今と昔について思うときに、なぜかこの苦労して暗唱させられた二つの古典が、ほぼ同時に頭に浮かんでくるのである。そして、ポリーニの今と昔とは、私には以下に引用する方丈記の冒頭に近いように思えてならないのだ。
行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたかは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある、人と栖と、またかくのごとし。玉敷きの都の内に、棟を並べ、甍を争へる、高き賤しき人の住まひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。あるいは、去年焼けて、今年作れり。あるいは、大家滅びて、小家となる。
住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、僅かに一人二人なり。朝に死に、夕べに生まるる慣らひ、ただ水の泡にぞ似たりける。
知らず、生まれ死ぬる人、いづ方より来りて、いづ方へか去る。また知らず、仮の宿り、誰がためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、主と栖と、無常を争ふさま、言はば、朝霧の露に異ならず。あるいは、露落ちて、花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。あるいは、花しぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、夕べを待つことなし。
(『方丈記』冒頭より)
つまり、結論として私が思うに、ポリーニはいつだってポリーニなのである。何一つポリーニは変節などしていないのだ。ただ、当然ではあるが肉体は加齢とともに必ず少しずつ衰えていき、人生経験は逆に着実に積み重ねられていく。その中で、ポリーニの心境の変化があったとすれば、若いころは、特に録音に於いて内面を決して見せない精神のバリアを構築していたが、年とともに全てを見せ、時には弱さを含めて聴き手に正直にさらけ出す、そんな心のバリアフリーに大きく変化していったのである。
その結果、楽曲の根本理解が深まったり演奏解釈が大きく変化することなく、むしろ老境とともに若者風の演奏形態が顕著になっていったと考える。それは、彼自身の現状の身体能力を超越し、颯爽とスポーツカーをドライヴするような解放された音楽づくりであり、自由闊達な演奏なのである。ポリーニの技巧が明らかに衰えた現在においても、ピアニストの標準レベルを超えているからこそ可能な、まさにポリーニしか絶対になしえない演奏である。若いころの強靭で力強い超絶技巧が、老境の今になっても当時の貯金としてきちんと演奏に生かされているのだと、私にはポリーニの録音遍歴について、そんな風に思えてならないのである。
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