3大レクィエムを聴く
文:松本武巳さん
レクィエム
1.モーツァルト作曲
2.ヴェルディ作曲
3.フォーレ作曲
■ レクィエムに関係するキリスト教(特に旧教)概説
レクィエムとは、広義の死者のためのミサを指します。レクィエムという名は、このミサの冒頭・入祭唱がRequiem(安息)という語で始まるからそのように呼ばれているもので、そんなに深い意味はありません。レクィエムは通常式文ばかりでなく、固有式文にも作曲されてきました。一方、ミサとは、ミサ典礼の終りの際の司祭の言葉“Ite,missa est”に由来しています。ミサは最も一般的に用いられる教会行事の名称です。キリストの最後の晩餐の言葉を中心に、パンとブドウ酒によって祈念する典礼であり、キリスト教の中心的な典礼であると言えるでしょう。また、ミサ曲とは、広い意味ではミサの中で用いられる音楽ということになりますが、正確にはミサの式文にしたがって作曲されたものをミサ曲と言います。通常はキリエ、グローリア、クレド、サンクトゥス、アニュス・デイに対する一連の楽曲を指します。有名なグレゴリオ聖歌もミサ曲の一種で、カトリック教徒にとっては最もなじみの深い教会音楽です。実際に第2ヴァチカン公会議以前までは、教会葬で良く演奏されていました。
■ 第2ヴァチカン公会議
しかし、1962年から65年までの第2ヴァチカン公会議以後、多くの典礼式文が全面的に改正されました。レクィエムの式文も例外ではありませんでした。またミサにおける固有式文についても、かなり柔軟な変更が認められるようになりました。これらは第2ヴァチカン公会議以前ならば、不動の式文として唱える義務があったのです。現在、ミサのためのグレゴリオ聖歌集規範版は第2ヴァチカン公会議以後に編集された「Graduale Triplex」です。この聖歌集は、伝統的な聖歌を、改正された式文に合わせた内容に変更してあります。以下にごく簡単に説明しておきます。
一. 「アレルヤ唱」と「詠唱」
「Graduale Triplex」には7通りの聖歌(アレルヤ唱3曲、詠唱4曲)が示されており、その中から自由に組み合わせることが許されています。
二. 「怒りの日」
“怒りの日Dies irae”は完全に廃止された式文となりました。これは、最後の審判を描いた歌詞が、あまりにも厳格だったからです。歌詞は13世紀の中頃フランシスコ会の神父によって書かれていますが、1570年のローマ・ミサ典礼書では、認められた4つの読唱として認可されています。モーツァルトやヴェルディのレクィエムにおける“怒りの日”はあまりにも有名ですが、現在の教会で正規に歌うことは、実はないのです。
三. 「Libera me」
この聖歌は葬儀ミサ後に行われる告別式の冒頭で、司祭の先唱で歌われるものでしたが、歌詞の内容に問題があることから典礼自体から外されました。「Graduale Triplex」には代わりに6つの聖歌が示されています。
四. 「楽園にIn paradisum」
ミサ後の告別式で歌われてきた聖歌ですが、第2ヴァチカン公会議後、この聖歌は改訂され、さらに後半部分が完全に削除されました。
■ レクィエムの現代的位置づけ
私は、ミサ曲とは異なり、現代においてレクィエムは、宗教的側面に関してはかなり薄れ、一義的には死者のための鎮魂歌、あるいは広い意味での追悼のための式典用音楽であると考えます。少なくとも1960年代後半以後の、この種の録音は、宗教音楽であると即断する必要はほとんど無いとすら思っています。古い教会の典礼に則った音楽であるとは言えるかも知れませんが、それは単に死者への敬意を表すために用いたと言っても過言では無いと考えます。そして、このことは、結果的にレクィエムを古いしきたりから開放するとともに、非常に自由な厳かな音楽に変容させたと考えています。つまり、作曲された当時とは異なり、現代のほうがむしろ広く受け入れられる音楽になったと思えるのです。そして、レクィエムを楽しんだり、祝典音楽として用いたりしても、なんら不都合は無くなったとも思います。これは、キリスト教に弱いわたしたちにとって、まさに福音であったと思うのですが、皆様いかがでしょうか。
■ モーツァルトのレクィエム
そうしてみますと、モーツァルトの遺作にまつわる複雑な経緯のうち、キリスト教の側面を外してこの曲を捉えなおしてみますと、ジュスマイヤー巨悪説自体も変容してくると思うのですが、いかがでしょうか。実は、私は、学問上モーツァルトならばどうこうした、このような研究はとても大事なことだと思います。しかし、レクィエムがそもそも宗教音楽とは言い切れない現代においては、はっきり言いまして、他の未完の曲と同様に、単に未完成の一つの楽曲に過ぎないことになります。そのような視点から捉えなおしますと、むしろ誰が補作したか自体はどうでも良くなり、単に結果として聴き手が好きな補作を選べば良いと思います。なお、私自身は、ジュスマイヤー編曲のものが、単純に最も好きですし、彼の編曲には、和声上の初歩的なミスが散見される云々・・・と言う厳しい批判もありますが、私は敢えてその批判に反論しますと、では、その和声上の初歩的なミスがあることこそが、ダメな理由であると主張した方を、少なくとも一般向けの書物では、寡聞にして知りません(もちろん専門家の学術論文を除きます)。また、不幸にして和声上の禁則を犯した部分を聴き取ることが出来る私ですが、その部分も含めて、ジュスマイヤーの編曲版に対して、少なくとも聴き手としては不満に感じていないのです。
■ 好きなディスク
モーツァルト
レクイエム ニ短調 K.262
カール・ベーム指揮ウィーンフィルハーモニー管弦楽団
録音:1971年4月、ウィーン
DG(輸入盤 4135532)ベームのDG盤は、私も良く聴きました。しかし、偏見の持ち主でもあった彼の音源は、ラクリモーザ以後の出来が落ちるように思えてなりません。もちろん、私がそのように偏見を持って彼の録音を聴いていたからかも知れません。ところが、当時のLPは、表面にラクリモーザまでが収録されていることが多かったために、この後半部分の出来が落ちるという不満は、かえって便利でもあったのです。実際に、ベームのLPは表が擦り切れる状態になったとき、裏面はまだとても綺麗なディスクであったのです。
モーツァルト
レクイエム ニ短調 K.262
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリンフィルハーモニー管弦楽団
録音:1975年9月、ベルリン
DG(輸入盤 4777164)一方、全曲を通して最も良く聴いていたのは、カラヤンの3種類のDGへの録音のうち、1975年のベルリンフィルを指揮したディスクでした。良く、カラヤンは通俗名曲まで一切力を抜いたりしないことを指摘されますが、カラヤンで聴くと、ジュスマイヤーの補作部分も名曲に聴こえてくるのです。結果として、私はカラヤンのお世話になったのです。それゆえ、私には、カラヤンのモーツァルトは最悪であるとの議論に与することが出来ないのです。しかも、最も好きなディスクは、最悪の評価を付けられたDGへの後期交響曲集と録音時期が接しているにもかかわらず、この考えは個人的には不変なのです。
■ ヴェルディのレクィエム
この曲は、開始間もない時点でのディエス・イレーにおける強烈な印象から受ける感覚も、関係があると思いますが、まるでオペラのようであると常に言われ続けていますが、私はこの曲にこそ、今回取り上げた3曲の中では、最も宗教性を感じ取ってしまいますので、聴き手の嗜好の問題とは、そもそもそんなものであるとの証左であると言えるのではないでしょうか。
ヴェルディ
レクイエム
リカルド・ムーティ指揮ミラノ・スカラ座管弦楽団、合唱団
録音:1987年
EMIジャパン(国内盤 TOCE14143)ディスクは、このムーティのライヴ録音がすばらしいと思いますが、彼の指揮や、独唱陣は特にすばらしいと思っておりません。このメンバーであればむしろ普通だと思います。ただ、合唱団のあまりのすばらしさから、この盤を真っ先に挙げることにしました。
ヴェルディ
レクイエム
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリンフィルハーモニー管弦楽団
録音:1972年、ベルリン
DG(輸入盤 453091)一方の、カラヤンの1972年録音には、本当にお世話になりました。某合唱団で歌った際に、スコアを片手に擦り切れるまで聴いたのは、実はこの1972年盤のカラヤン指揮のディスクでした。この盤に関しては、客観的な評価が出来ない過去を有しているため、ここではリストに挙げるに留めておくことにします。
■ フォーレのレクィエム
実際に現在も教会で取り上げられる回数が最も多いのが、フォーレのレクィエムであると思われます。第2ヴァチカン公会議以後も、レクィエムを教会で取り上げること自体はなんら問題がありませんので、この曲の価値が減じたわけではないと思います。ただ、この曲は今回取り上げた他の2曲とは決定的に異なる点があります。それは、この曲の本質的に持っている室内楽的な曲想です。そのために、教会でピアノやオルガンをメインとした、教会独自のヴァージョンでの編曲演奏は、非常に多くの機会があると言えるでしょう。その伴奏をベースに声楽が入ってくる形式での教会での演奏機会は多いと思いますし、他の2曲ではこの形式での演奏はほとんど考えられないのではないでしょうか。そうしますと、そもそもフォーレのレクィエムは、モーツァルトやヴェルディとは異なり、そもそも管弦楽用の曲では無いと考えたほうが良いのではないでしょうか。
フォーレ
レクイエム 作品48
コルボ指揮ベルン交響楽団
録音:1972年5月、ベルン
ワーナー(国内盤 WPCS22092)コルボの旧盤は、室内楽的な魅力も大いに表出しており、すぐれた演奏であることは確かだと思います。名盤の誉れ高いことも良く理解できます。
フォーレ
レクイエム 作品48
コルボ指揮シンフォニア・ヴァルソヴィア
録音:2006年
Mirale(輸入盤 MIR028)一方のこの新盤は、熱狂の日(5月の東京国際フォーラムのイベント)で、5000人収容のホールで演奏したメンバーでの録音です。しかし、この演奏を合わせて旧盤も聴きなおしますと、コルボの魅力は、教会での宗教音楽を荘厳に奏でる姿勢ではそもそもなかったことが判ってきます。コルボの魅力は、フォーレのレクィエムの宗教的な祈りを深く表したものでは無かったと、現在は思っています。もちろん、このことはコルボの名誉を貶める意味合いを決して含んでおりません。むしろ、1970年代の早い時期に、宗教から多少切り離したところでレクィエムを語ったところに、コルボの本質的な魅力があったように、私には思えてくるのです。
フォーレ
レクイエム 作品48
ボーイズ・エアー・クワイア
ビクター(国内盤 VICP62874)少年合唱とクワイアマスターのバリトンのみで歌っています。こういう演奏も有りなんだなと、思い知らされた次第です。
■ さいごに
少なくとも、私はレクィエムを宗教音楽であると捉えなくなってからの方が、これらの楽曲を聴く視野が広がったと思っています。キリスト教との接点が多くないと思われる方にこそ、そんな視点からぜひレクィエムを聴いてみていただきたいと念願して、この小文を閉じたいと思います。なお、この小文の執筆動機は、一連のゆきのじょうさんの論文に触発されたことがきっかけとなったことを、記して御礼申し上げます。
(2008年6月18日記す)
2008年6月20日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記