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モーツァルト 交響曲第29番イ長調 K.201
マーラー 亡き子をしのぶ歌(クリスタ・ルートヴィヒ(Ms))
R. シュトラウス 交響詩「死と変容」 作品24
カール・ベーム指揮シュターツカペレ・ドレスデン
録音:1972年8月15日(ザルツブルク音楽祭ライヴ) ORFEO(輸入盤
C607 031B) |
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■ あれこれ変遷の末に
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今年の最後に何を書こうか、実は3日間ほどまさにあれこれと変遷を重ねていたのである。書こうと試みて実際に聴いたものだけを不作為に並べてみても、交響曲ではカラヤン唯一のチャイコフスキー第1番、第2番、第3番、現代音楽ではオルフの「時の終わりの劇」(カラヤン)、シェーンベルクのピアノ協奏曲(ブレンデル&クーベリック)やヒンデミットの「白鳥を焼く男」(ゲオルク・シュミット&クーベリック)、さらに協奏曲だとラザール・ベルマンのピアノでリスト(ジュリーニ)とチャイコフスキー(カラヤン)とラフマニノフ(アバド)、オペラではR.シュトラウスの「エレクトラ」(ショルティ)、バルトークの「青ひげ公の城」(アダム・フィッシャー)、はては器楽曲で小川典子のジャポニズム(BIS)、等々、まさに転々としたのであるが、そんなときふと目に留まったのがこのディスクであったのだ。そう言えばこれまでベームについてほとんど書く機会がなかったなと、急遽思い立ち、ようやくこれに決まった次第である。
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■ 1972年のザルツブルク音楽祭
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この年のザルツブルク音楽祭には、当時は東側のオーケストラであったシュターツカペレ・ドレスデンが招聘された。この音楽祭でのカラヤン指揮のバルトークのピアノ協奏曲第3番(アンダ)とシューマンの交響曲第4番について、私はかつて7年以上前に一度書いたことがあり、その試聴記の冒頭に私が触れているカール・ベームとの演奏会こそが、このディスクのことなのであって、同じ年のザルツブルク音楽祭で行われたカール・ベームとの演奏会ライヴである。カラヤンとのバルトークとシューマンの演奏会は1972年8月13日、そして今回取り上げるベームとの演奏会は同年8月15日に行われたのである。
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■ モーツァルト
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全体のテンポはやや遅めの、まさにベーム主導のものであると思われる。単にタイミングだけから判断しても、ベームの残したベルリンフィルとの全集と、ほぼ軌を一にしていると言えるだろう。ところで、すでに多くの人が指摘していることではあるのだが、特に第4楽章冒頭の足を踏み鳴らしてテンポを維持する辺りの完成度の高さなどは隋一であるし、また、第2楽章の内声部を重視したバランスの良い歌わせ方なども、指揮者ベームがカペレの美点を本当に熟知しており、それをものの見事に引き出していると言え、ベームの残した数多くのモーツァルトの交響曲演奏の中でも、このライヴ録音は出色の演奏の一つであると言って差支えないだろうと思う。
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■ マーラー
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クリスタ・ルートヴィヒの求めで演奏したものであると思われるが、ベームにはかつて、60年代前半にフィーシャー=ディースカウの伴奏をした、正規盤のディスク(DG,ベルリンフィル)が存在している。そのディスクでのベームは、やや不慣れなマーラー演奏であるとの印象を、多くの聴き手に若干ではあるが持たせてしまったディスクでもあったのだが、ここでのルートヴィヒとの共演では、そのような不満をほとんど感じさせない。その間の経験値と、ベームとルートヴィヒとの相性の良さもあってか、このマーラーは十分に聴かせてくれる優れた演奏である。ベームが残したマーラー演奏の中では、たぶん最良の1枚であると思われる。
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■ リヒャルト・シュトラウス
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この日の演奏会のうち、実は最後のリヒャルト・シュトラウスのみ、既にドイツ・グラモフォンによりディスク化されていたもので、今回のオルフェオとの発売が初めてではない。このシュトラウスの演奏は、掛け値なしの「超」が付く名演であると思われる。凡庸な褒め言葉など完全に拒絶するほどに、音楽全体が壮絶なほどに美しくかつ官能的に深々と響きわたり、リヒャルト・シュトラウスの音楽が本質的に有していると考えられる、弦楽器群の分厚いが同時にやや渋い響きと、打楽器やホルンの重量感ある根底から揺さぶられるような力強い響きが、楽曲全体の強い緊張感を維持しつつ見事にブレンドした、そんな第一級のシュトラウス演奏である。私が通常思い描く「シュトラウス特有の音楽、特有の響き、特有の官能美」の全てがあると言っても過言ではない。理屈不要の、機会があれば絶対に聴いてみて欲しい録音なのである。老境のベームが当時は東側のカペレとの間に起こした、ザルツブルクでの奇跡的な演奏と言って、何ら差支えないだろう。
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(2016年12月31日記す)
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