クレンペラー指揮の「ペトルーシュカ」を聴く

文:松本武巳さん

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CDジャケット

ストラヴィンスキー
ペトルーシュカ(カップリングはストラヴィンスキー/プルチネルラ)
オットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管
録音:1967年3月28、30、31日
Testament(輸入盤 SBT1156)

 クレンペラーの唯一の録音である、ストラヴィンスキーのペトルーシュカは色々な意味で、ハプニングの産物である。彼は、1965年頃に昔取った杵柄で、20世紀の音楽を集中的に録音する機会を与えられた。これは、フィルハーモニア・オーケストラをウォルター・レッグが見捨てて、それに対しクレンペラーが、NPOの総裁としてオケを救った事の見返りとして企画されたのかも知れない。

 しかし、彼はこの企画を放棄してしまった。本来はこれで全てが終わったのである。ところが、1967年パウル・クレツキが、NPOを振るコンサートをキャンセルした時代役として、総裁のクレンペラー爺がタクトを振ることになった。4月4日の事である。このコンサートは、本来クレンペラーが代役をこなし易いプログラムが組まれていた。ハイドンの時計交響曲や、ブラームスの第一交響曲であったのだから…

 事件はその時に起こった。
何と、クレンペラー爺は、「俺はペトルーシュカを振るぞ!」と突然のたまったのである。周りは驚愕仰天した。しかし、頑固一徹のクレンペラー爺が周りの説得などを聞き入れる筈も無い。そこで、EMIはやんわりと、「じゃぁ、2年前に中止になった録音を、コンサートの前に行いましょう。」と言った所、これが何と実現してしまった。そこで、3月の末に、録音のセッションが持たれた。しかし、殆どの部分の録音が、1回取りに終始し、そのままテープ編集もそこそこに事実上お蔵入りしたのである。

 まぁ、クレンペラー爺の自己満足のお手伝いとしては、悪くは無かったであろう。その後、幾許かの時間が経過し、録音スタッフもこのセッションの事を忘れかかったある日、突然クレンペラー爺は、「ところで、あのペトルーシュカはどうなった?」と言い出したので、周りはまたもや大騒ぎになった。担当者が、しずしずと編集途上のテープを差し出して聴かせた所、クレンペラー爺は「こりゃぁ、ひでぇや。お蔵入りで良いよ!」とのたまい、全ては、またもや終わったのである。

 それから、30年を超える長い時間が経過し、それこそ全てが歴史の中に埋もれた筈であったのが、またもや事件が起こった。クレンペラーの最愛の娘である、ロッテ・クレンペラーが、流石に血の繋がりとは恐ろしいもので、テスタメント社に「親父のペトルーシュカの録音がEMIに倉庫に眠っているのだけど、発売しない?」と持ちかけたのである。そこで、テスタメント社は、EMIとは仲が良い事もあり、テープを発見し、しかも1回取りとは言え、欠落部分が幸いにも(不幸にも?)無い事を確認した。

 遂に、このおぞましい経過を辿った録音が、世に出たのである。私の感想は、少しだけに留めたい。

 私は、コアなクレンペラー狂以外の普通のクラシックファンはこの録音に手出しをしない事をお勧めする。祟りがあるかも知れませんから…と言うのは冗談で、クレンペラーは変拍子を殆ど振り分けられていないのである。彼にこのような現代音楽を振るバトンテクニックが元々欠如していたのか、或いは、高齢になってからの録音のために、彼の意志通りに指揮が出来なかっただけで、頭の中では正確に振り分けられていたのかは知る由も無い。

 ただ、客観的な事実として捉えた場合、「トンデモない録音」になってしまっている。勿論、部分的にハッとするような旋律線を浮き上がらせているような箇所もある。しかし、全体として見た時、彼の偉大な足跡を知らずに聴いたら「ただの下手くそな録音」となっている。彼を知らない人が聴いたら、彼の偉大さを貶める結果になるかも知れないと思う。

 最後に、私の個人的感想を一言述べたい。私は、以前から彼にペトルーシュカのお蔵入り音源がある事を知っていた。これを聴けた事は、正直嬉しかった。しかし、例えば何らかの限定発売に留めて欲しかったと思う。少なくとも、ワールドワイドにしかも大々的な宣伝付きで発売して欲しくは無かった。ファンとは、複雑な物だと思う。自分は聴きたいが、他人には聴かせたくは無いのだから…

 実は、書き終えた翌日になって、何と伊東さんが既に記述された内容に極めて近似していることを、An die Musikのクレンペラーのページより確認を致しました。ただし、そこの内容の、今回テスタメント社からCDが出るに当って、編集のテープの中心となったテイクが、クレンペラーが聴かされた本人もお蔵入りを認めるに至ったテープと、かなり違った優れた物に変わっている、とのご指摘は、私としてはかなりの疑問を持っています。この点の、伊東さんのご指摘は、必ずしも正しいとは限らないと言えると思います。私は、この部分はテスタメント社が眉に唾を付けた物と理解しています。

 と言うのは、私が伊東さんとは違った指摘をした数少ない事実ですが、テイク3まで、取り進んだ部分は、テスタメント社の主張しているように多くの部分では無く、ほんの一握りの部分に過ぎない事が、かなり確実視されると言う事です。1テイクしか録音が完了していない部分の方が、全体から見れば圧倒的に多くを占めているのです。これはある英文雑誌の文書より(コピーのため、原典を指摘出来ません)得た情報です。その雑誌の元原稿を転居の際に紛失してしまったので、あまり強く主張出来ないもどかしさがありますが…(大事な文書を一箱、ゴミと間違えて捨てた引越し業者を深く恨んでいます!)

 従って、クレンペラー爺の聴いたテープと実際の発売されたCDとの間に大きな差異は無いと信じています。勿論、真実がどちらかは、神のみぞ知る事ではありますが…

 なお、伊東さんが、この録音が広く世に出て良かった、と記述されており、一方、私は聴くに値しないと断言している事こそ、CDを聴く、音楽を聴く楽しみに他ならないと言えると思います。前段の事実が、伊東さんの記述に近似しているにも関わらず、伊東さんは、このCDを肯定的に論じ、私は否定的に論じているのですから…

 

2003年1月20日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記