ショルティ&シカゴとクルツ&カペレのチャイコフスキー第5番を聴く

文:松本武巳さん

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CDジャケット チャイコフスキー
交響曲第5番作品64
組曲「白鳥の湖」
サー・ゲオルク・ショルティ指揮シカゴ交響楽団
録音:1987年(シカゴ、オーケストラホール)
DECCA(輸入盤 425 515-2)

LPジャケット チャイコフスキー
交響曲第5番作品64
ジークフリート・クルツ指揮シュターツカペレ・ドレスデン
録音:1978年1月(ドレスデン、ルカ教会)
BERLIN Classics(輸入盤 0093302BC)(ジャケット写真はETERNAのLP)
 

■ 特に期待せずにトレイに載せた結果

 

 私は、チャイコフスキーが嫌いではないが苦手である。特に交響曲は苦手としている。基本的にロシアの重戦車的な演奏は、私の期待する音楽とは異なるし、その一方でカラヤンのように非常に美しく歌われても、これまた感動できないのである。私にとってチャイコフスキーは、そんな厄介な作曲家であるため、近年では特に交響曲は、トレイに載せること自体がほとんどなくなってしまっている。
 そんな私が、何気なくショルティが晩年に再録音した交響曲第5番のディスクをトレイに載せてみた。これは、どちらかと言えば、余白が組曲「白鳥の湖」であったから聴いてみることにしたのが実態に近いのだが、要するにトレイに載せて聴き終えた結果、私は大きな衝撃を覚え、すぐさまこの試聴記を書いているのである。

 

■ いったいショルティの何に衝撃を覚えたのか

 

 ショルティは何時だってショルティである。彼の演奏スタイルは、盤石と言えるほど、良くも悪くも一切変化したりブレたりしないのが、ショルティその人である。このディスクでも、楽曲の最後の最後は毎度おなじみの金管の爆発・炸裂である。しかし、ここでのショルティは、いつも以上に歌心に溢れており、一般に良く言われるようなロシアの大地や自然を思わせるような音づくりとは、少々異なっているのである。
 比較していうなら、全体の構成や終盤の音楽の突進と金管の炸裂は、表面的にはムラヴィンスキー指揮の名盤の誉れ高いドイツグラモフォン盤と似ているだろう。しかし、ムラヴィンスキーからはまさにロシアの大地と、重戦車の迫力を感じるのだが、それらをムラヴィンスキーは、あくまでも能動態で表現することに徹しているのに対して、ショルティからは聴こえてくる迫力の根源は、むしろ受動態としての表現に聴こえるのである。
 その結果、ムラヴィンスキー盤で感じる重戦車的な突撃・突進は、時と場合には待ち構える大砲や一斉砲撃にもなりうるのだが、ショルティ盤では、新幹線かTGVでロシアの大地を時速300キロで一気に駆け抜ける、または非常に逃げ足の速い音楽として聴こえてくるのである。
 余白の白鳥の湖は、とても美しくしなやかな音楽として、実に見事な演奏を繰り広げている。欧州本流の音楽家は、バレエ音楽を振らせてみると、深いところでの共感や愛情を感じることが多い。ショルティの棒からもそんな心が伝わってくる名演奏である。バレエ的なものが体内に深く根差しているとでも言えるような、そんな愛情に満ちた素敵な組曲演奏である。

 

■ カペレファンなら誰もが知っているクルツ盤

 

 これを聴いている最中に、ジークフリート・クルツ指揮シュターツカペレ・ドレスデンの演奏が、突然私の脳裏に蘇ってきた。私は、まさに自身の耳を疑い、実際に1978年録音のカペレファン以外には知られざる名演奏を、本当に久しぶりにトレイに載せてみた。似ていない、本当に似ていない。しかし、自身の脳裏で両者が完全に被さってくることを、まるで防げないのである。いったいどうしたことか?
 念のため、かつて伊東さんが紹介された文章を読み返してみた。伊東さんの紹介された内容とほとんど同じような感想を、私自身も今なお抱いていることに何ら変わりがないことに気付いた一方で、では、どうして、このクルツの演奏とショルティの演奏が重なってくるのだろうか?

 

■ 邪推の可能性を否定しえないが・・・

   クルツとカペレは、1978年の録音当時、現実にソ連の支配下にあった。そんななかで、カペレの音楽的特質を存分に生かしたチャイコフスキーの第5番を録音したのである。一方のショルティとシカゴ響は、1987年当時ペレストロイカの真っ最中であったソ連を外界から注視しながら、チャイコフスキーの第5番を録音したであろう。当時の西側はソ連のペレストロイカ政策を、漠然とした期待を込めて見守っていた時期にあたる反面、旧東側の民主化への民衆の実力行使は、日々激しさと高まりを見せつつあった。そんな当時、ショルティはシカゴ響の音楽的特質を存分に生かしたことは、もちろんクルツ盤と同じであったと思うのである。ただ、カペレの特質とシカゴ響の特質は、天と地ほども異なるものではあったが、両者ともにドレスデンならではの音、シカゴならではの音、を各々しっかりと持っていたのである。そして、その音に対するファンは、それこそ世界中に多数いたのである。
 つまり、演奏を表面から捉えると、ショルティの演奏は、ムラヴィンスキーの演奏に近かった反面、演奏を内的な側面から捉えると、むしろクルツの心情に近かったのではなかろうか。念のため、蛇足であるとは思うが、ショルティは旧東側のハンガリー・ブダペスト出身である。
 

■ 音楽と政治

 

 このような背景は、決して音楽家のみならず、聴き手も各々が持ち合わせているため、たとえ音楽家がそのような意図を持っていない場合でも、聴き手が勝手に意図を祀り上げることすらあるのが、音楽の持つ強さでもあり同時に弱点でもあるだろう。そんなことを、なぜか久しぶりに痛感してしまったのである。そしてこのような感情は、個々の内面と体験によって形成される部分が多いため、今回の文章を読んで否定的に捉える方や、反論したい方も多いかもしれない。しかし、音楽とはもとよりそのようなものなのである。言葉を伴わない分、音楽はより政治的にもなれるし、いわゆるプロパガンダの先陣を切ることも可能なのである。このような音楽に込められた感情を、私は大事にしたいし、仮に間違ったとしても音楽自体の罪は軽いのである。

 

■ ショルティとクルツ体験

 

 私はショルティを生で聴いたのは、1980年にロンドンフィルと来日したときと、86年にシカゴ響と来日した時の2回であった。一方のクルツも実は生で体験している。1981年にクルツはドレスデン国立歌劇場と来日し、さらに83年と87年にはベルリン国立歌劇場と来日しており、それぞれ1〜2回オペラを観た記憶がある。90年も来日予定であったのだが、確か来日しなかったように記憶している(もしかしたら、自身の観た演目の指揮者変更に過ぎなかったのかも知れないが・・・)。
 オペラばかりではあるものの、私はクルツの指揮を幸運にも5回観ることができたのである。それも、ウェーバー(魔弾)、モーツァルト(後宮)、ベートーヴェン(フィデリオ)、ワーグナー(タンホイザー)、リヒャルト・シュトラウス(サロメ)と多岐にわたっている。
なお、当時のプログラムには、クルツは、トランペットのプロとしての演奏歴があることと、ドレスデンの演劇部門の指揮者を長年務めたことが記されている。
 その意味で、ショルティ盤を聴いているときに、クルツ盤の演奏が脳裏に蘇ったのは、過去の自身のナマ体験が影響しているのかも知れないし、私にとってクルツに対する共感度が今もなお高いのかもしれないことを、改めて実感した次第である。そんな過去のクルツ体験を私に蘇らせてくれたことも含め、ショルティのチャイコフスキーの第5番のディスクをトレイに載せた甲斐があったのである。こういう偶然性も、音楽を聴く楽しみの一つであろう。

 
  (1983年、ベルリン国立歌劇場来日公演プログラム)
 
  (1987年、ベルリン国立歌劇場来日公演プログラム)
(いずれも筆者保存のプログラムより)
 

(2016年12月1日記す)

 

2016年12月3日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記