チェレプニン「ピアノ協奏曲第2番、第5番」の若干の聴き比べ

文:松本武巳さん

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LPジャケット

アレクサンドル・チェレプニン
ピアノ協奏曲第2番作品26(1923年作曲)
ピアノ協奏曲第5番作品96(1963年作曲)

アレクサンドル・チェレプニン(ピアノ)
ラファエル・クーベリック指揮
バイエルン放送交響楽団
録音:1968年3月、ミュンヘン
DG(西ドイツ盤139 379)LP


CDジャケット
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小川典子(ピアノ)
ラン・シュイ指揮
シンガポール交響楽団
録音:1999-2002年
Brilliant Classics(オランダ盤BRL9232)*ピアノ協奏曲全集
BIS(輸入盤BIS1717)*交響曲&ピアノ協奏曲全集

 

■ アレクサンドル・チェレプニン

 

 アレクサンドル・チェレプニン(1899-1977)は、ロシア生まれの作曲家、ピアニスト。サンクトペテルブルクに生まれ、5歳で父から音楽を教わり始める。父がバレエ・リュスの指揮者だったため、多くの音楽家の薫陶を受ける。18歳でサンクトペテルブルク音楽院に入学。ロシア革命後の1918年、一家はパリへ亡命。パリでアレクサンドルは本格的に作曲家、ピアニストとしての活動を始め、ラヴェル、ストラヴィンスキー、オネゲル、ミヨー、マルティヌーなどと親交を持つ。1933年、チェレプニンは民謡に目を向けるようになり、ロシア、グルジア(ジョージア)、アルメニア、アゼルバイジャン、ペルシャ民謡を採集した。

 1933年以降、中東と東洋へのコンサートツアーと同時期に、チェレプニンは彼が「自分で課した技術的公式」と呼ぶものから逃れる方法を探し始め、それを民間伝承で見つけた。後に中国と日本の民謡に特に興味をそそられた。1934年から1937年にかけて極東を訪れたチェレプニンは、中国と日本の作曲家を指導し、コンサートとともに生徒の作品の出版のために東京でコレクション・チェレプニンを設立した。才能のある若い中国人ピアニストのリー・シェン・ミンと出会ったのは上海で、後に彼の2番目の妻になった。日中戦争が激化すると妻と共にパリへ戻るが、ヴィシー政権下で活動を制限された。第二次世界大戦後の1948年、一家はアメリカへ渡り、1958年に市民権を取得。1960年代にドイツ・グラモフォン社と契約し、いくつかの自作自演のレコードを出した。その後チェレプニンはアメリカとフランスを往復する日々を送り、1977年9月29日パリ6区の自宅で生涯を閉じた。パリ郊外のサント=ジュヌヴィエーヴ=デ=ボワ・ロシア人墓地に父のニコライと共に埋葬されている。

 彼の作品にはロシア、中央アジア、中国、日本などの語法が混在しているが、特に彼が開発した9音音階が有名である。この音組織は日本を離れてからの発明だが、モノリズミックで軽快な筆致は晩年まで変わることはなかった。チェレプニンは来日当時「フジヤマ、ゲイシャ趣味」などと批判されていた。これは、西洋の技法を身に付けることが重要だと考える当時の音楽界の風潮に反し、日本の民族的語法を取り入れるよう弟子たちに勧めたことによる。近年まで彼の名はほとんど忘れられてきたが、次第に日本でも演奏の機会が増えつつある。

 

■ 伊福部昭

 

 伊福部昭のファンであればもちろん、伊福部昭を知っている人であれば、チェレプニンの名前も多分知っているだろうと思われる。チェレプニンは伊福部の作品を最初に認めた音楽家であり、実際に伊福部は1935年に「日本狂詩曲」という作品で、チェレプニン賞を受賞して世に出た作曲家である。そして来日時というごく短期間であったが、伊福部はチェレプニンに直接作曲を師事している。一方で、伊福部昭のファンであったとしても、チェレプニンの作品を聴いたことがある人は決して多くないのではないだろうか。

 

■ 父親とバレエ・リュス

 

 父親のニコライ・チェレプニン(1873-1945)は著名な医師の息子で、ロシアのサンクトペテルブルクで生まれ、当初は法律家を志したが断念し、サンクトペテルブルク音楽院にてリムスキー=コルサコフに師事した。その後、同音楽院の指揮科の教授に就任した。印象主義の影響とロシア国民楽派の伝統に立ち作曲した。ディアギレフのロシア・バレエ団の指揮者を務めバレエ音楽に傑作を残した。1909年から14年にかけてディアギレフのロシア・バレエ団に指揮者として参加し、最初のパリ公演で指揮者を務めた。1918年にロシア革命を避けてグルジアに渡りトビリシ音楽院の院長に就任。しかし赤軍のグルジア侵攻に伴い、イスタンブール経由でパリに亡命し、1945年に亡くなった。

 ニコライ・チェレプニンはフランス印象主義の影響を受けた最初のロシア人作曲家と言われており、古典的で明晰な構成と軽妙洒脱な響きを好む傾向が強い。ロシア人作曲家には珍しく、息の長い旋律を持続させ劇的表現を発展させるということは苦手であった。母校のサンクトペテルブルク音楽院では、学究肌の教師として名高く、愛弟子の一人にセルゲイ・プロコフィエフがいる。プロコフィエフはしばしばチェレプニン邸を訪れ、アレクサンドル・チェレプニンに深い影響を及ぼした。

 ニコライ・チェレプニンは、力強いロシア精神とフランス印象派の繊細さを融合させた舞台音楽で知られる。1898年からサンクトペテルブルクのマリインスキー劇場の指揮者として、アレクサンドル・ベノワと仕事をした。アンナ・パヴロワとヴァーツラフ・ニジンスキーが出演した「ル・パビリオン・ダルミデ」でのコラボは、ディアギレフを刺激するのにとても役立ち、1909年にセルゲイ・ディアギレフのバレエ・リュスによって初めて上演された。パリで舞踏作品を発表するというアイデアにチェレプニンは当初から関わり、1909年から1911年まで共同音楽監督を務め、ニジンスキーのためにバレエ「ナルシス」を書いた。

 

■ ラファエル・クーベリック

 

 1950年から53年のシーズンまでシカゴ交響楽団の指揮者を務めていた際に、同じく1950年からシカゴに定住していたチェレプニンの作曲した交響曲第2番を、シカゴ交響楽団とともに1951年に初演している。このような現代音楽を積極的に取り上げたことが、後にクーベリックが女流評論家のクラウディア・キャシディから地元の有力新聞シカゴ・トリビューン紙上で、執拗な攻撃を受けたきっかけの一つとなったことは、かなり有名な話である。

 その後、1963年にベルリンの音楽祭における委嘱作品であったピアノ協奏曲第5番の初演を行ったピアニストであるマルグリット・ウェーバーと、過去に共演歴や録音歴のあったクーベリックは、作曲者チェレプニン自身がピアノを担当したバイエルン放送交響楽団とのピアノ協奏曲第2番と第5番の録音において、伴奏指揮者を務めて、ドイツ・グラモフォンにここで取り上げた協奏曲録音を行ったのである。そんな過去の経緯もあってか、このディスクにおけるチェレプニンとクーベリックは非常に息の合った演奏を行っており、作曲者の自作自演盤としては出色の出来となっていると言えるだろう。

 

■ 小川典子

 

 ロシア出身で、戦前たびたび来日して伊福部昭、早坂文雄、松平頼則、江文也らを指導し、民族主義的作曲を推奨した日本音楽界の恩人アレクサンドル・チェレプニンだが、これまでほとんど録音のなかった彼のピアノ協奏曲を、BISの一連のシリーズ録音でピアノを担当したのが小川典子である。小川典子が持ち味の切れの良い演奏で、性格が大きく異なるピアノ協奏曲全6曲を一人で担当し、シンガポール交響楽団と当時音楽監督であったラン・シュイとともに完成させた功績は大きく、日本の音楽史において重要な作曲家であったアレクサンドル・チェレプニンの再評価が、今後徐々になされることであろう。(指揮者のラン・シュイに関しては、1年ほど前に取り上げた、「大地の歌」の中国語歌唱盤もぜひ参照して欲しい)

 

■ ピアノ協奏曲第2番

 

 フランスに亡命して以後、落ち着いて音楽活動をし始めた頃に、パリで作曲されたピアノ協奏曲第2番は、ちょうどラヴェルやストラヴィンスキーらと親交を深めた時期に相応しい、非常に軽快でとても洒落た少々プーランク風の作品であり、曲はトランペットの楽しそうなメロディーで開始される。作曲当時の時代背景を明確に示す作品であり、彼独自の9音音階や「Interpoint」と呼ばれる対位法が用いられている。作品は5つのセクションから成り立っており、次々に変奏されて行く変化に富んだ曲で、とても魅力的な協奏曲であると言えるだろう。

 ところで、チェレプニンは1967年にソビエト連邦から正式に招待されて半世紀ぶりに帰国した際に、モスクワでこの「ピアノ協奏曲第2番」のソリストを務めている。この際に若干の補訂を行ったために、ドイツ・グラモフォンの自作自演レコードには「第2版」による演奏と表記されている。

 

■ ピアノ協奏曲第5番

 

 ピアノ協奏曲第5番作品96は1963年の作品。ベルリンの音楽祭の委嘱作品である。不思議な透明感のある美しさに溢れた作品で、チェレプニンの東洋趣味はかなり濃厚なもので、小川典子のピアノは硬質なタッチと響きで、チェレプニンの作風に基本的に合っていると思われる。ただし音の広がりはやや直線的である。

 ラン・シュイの指揮するシンガポール交響楽団は、かなりレベルの高い演奏であると言えるだろう。ややもすると曲調が大きく変化し続けるため、まとまりのない散漫な演奏になりかねないこの協奏曲を、ラン・シュイが要所で上手く描写することによって全体を何とか引き締めている。それでも旋律自体が一種独特であり、随所にまるでプッチーニの「トゥーランドット」や、ピアノ協奏曲「黄河」のように聞こえてしまう部分が存在することは、指揮者の腕をしても避けられないように感じられる。

 管弦楽技法や構成自体は非常に長けており、日本や中国で若手作曲家の指導と育成に当たった後の作品であるためか、アジア的なメロディーや独特の音階など俗にいうエスニック要素が色濃く反映されている協奏曲である。また、部分的に父ニコライの弟子であったプロコフィエフを連想させるようなところも確かにある。一方でチェレプニン特有の打楽器へのこだわりが発揮されているところも散見される。ショスタコーヴィチやプロコフィエフの交響曲が好きな方に、お勧めできるような気がする。

 

■ 最後に

 

 チェレプニンはロシア出身の音楽一家であり、父親のニコライ・チェレプニンもバレエ音楽でとても有名であった。チェレプニン一家はロシア革命を避けて1921年にパリに亡命したため、アレクサンドルはパリで作曲家・ピアニストとして世に出て活躍し、実際にはフランスの作曲家といっても良いところがある。チェレプニンは1930年代半ばから上海で暮らした経験を持ち、彼の2番目の妻は中国人である。東アジアの音楽に強い興味を抱き自作にとり入れたことで知られている。たびたび来日し多くの作曲家を見出し支援した。戦前の日本で録音も残しており多大な貢献をした人物として知られているが、彼の作品はこれまで聴く機会にほとんど恵まれなかった。

 チェレプニンは、今や忘れ去られる寸前のように思える。生前はルツェルン音楽祭のテーマとして取り上げられた経験を有する作曲家であるのに、どうしたことなのだろうか。原因を考えてみるとチェレプニンの作風は非常に多彩であり、しかも時代ごとに縷々変遷しており、アジア風の旋律やリズムを取り入れたり、ドビュッシーなどの印象主義的な雰囲気を感じさせる作品があったり、技巧的な側面の強い曲が残されたり、実に多種多様なのである。このようなことも、チェレプニンの評価が確立しなかった要因の一つであろうと思われるが、もう少し聴かれても良いように思えてならない。

 

(2021年4月12日、祈りを込めて記す)

 

2021年4月14日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記