「わが生活と音楽より」
二つの平均律クラヴィーア曲集を聴く文:ゆきのじょうさん
「バッハの平均律クラヴィーア曲集は、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ集と並んでピアノ音楽の最高峰に数えられ、ハンス・フォン・ビューローが各々を、音楽の旧約聖書、新約聖書と呼んだと伝えられています。」・・・そういう逸話を聞いた若い頃の私は、ひねくれ者なのでこの作品には関心を寄せては来ませんでした。従って平均律クラヴィーア曲集については世評の高かったリヒテルやヴァルヒャ、グールドも聴くことはなく過ごし、CD時代になっても棚にあるのは「ジャケ買い」したケネス・ギルバート盤(アルヒーフ)しかありませんでした。そんな私がこの曲集に興味を持ったのはジャズ・ピアニストであるジョン・ルイスの演奏をLP時代末期に聴いたからでありました。そして今なお、リヒテルもグールドも聴かない私が、今よく聴いているディスクを二つ紹介したいと思います。
■ クロシェ
ヨハン・セバスチャン・バッハ:
平均律クラヴィーア曲集
第1巻 BWV846‐BWV869
第2巻 BWV870‐BWV893エヴリーヌ・クロシェ ピアノ
録音:2000年9月、アメリカ芸術文学アカデミー、ニューヨーク
米MUSIC & ARTS (輸入盤 CD-1180)クロシェはパリ生まれで、ルフェビュールやプーランジェ、エドウィン・フィッシャーに師事した後に、ゼルキンの招きでアメリカに渡り、現在はニューヨークで教師となっている女流ピアニストです。以前はフォーレなどのフランス音楽や、ブレンデルとの連弾で録音を残していましたが、教鞭をとるようになってから新しい録音はほとんどなかったそうです。このバッハは以前、アメリカ議会図書館から発売されていたディスクでした。市場には出ることはなく、クロシェ自身の公式サイトでの通信販売のみとなっていたものです。それをMUSIC & ARTSが一般向けに販売したもの(リイシューになるのでしょうか?)が今回紹介するディスクです。
ともかく、なんと美しい音なのでしょうか。響きが美しいとか上品であるというだけではなく、一つ一つの音色が円やかに優しく迫ってくるのです。使用しているピアノはスタインウェイであると書いてありますが、どうするとこのような音が出せるのか、ピアノについては門外漢である私には見当も付きません。一曲一曲はインテンポのようでいて秘やかに動いており、一本調子ではありません。例えば、第1巻第1番フーガや、第3番プレリュードなどにおいて曲想によって、ふっとテンポが緩む瞬間はこちらの心まで奪われてしまいそうです。円やかといってもスケールが小さいわけではなく、響かせるところはきちんと響いていて、それでもささくれ立つことはなく迫ってくるのです。第1巻第4番プレリュードでは音楽は呻き、フーガでは瞑想的になるなど、書いていってはキリがないほど魅力的な演奏です。バッハの音楽をピアノで弾いた演奏はいくつか聴きましたが、これほどにため息がつくような美しい演奏は初めてでした。
■ リフリング
第1巻 第2巻
ヨハン・セバスチャン・バッハ:
平均律クラヴィーア曲集
第1巻 BWV846‐BWV869
第2巻 BWV870‐BWV893ロベルト・リフリング ピアノ
録音:1985年2-3月、オスロ大学アセンブリ・ホール
英Simax (輸入盤 PSC1044-45(第1巻)、1046-47(第2巻))リフリングは1911年オスロ生まれ、ノルウェーの誇る大ピアニストで「真のノルウェー紳士」と言われたそうですが、私は初めて知りました。ケンプ、そして(クロシェと同じく)エドウィン・フィッシャーに師事して、教育活動を盛んに行ったそうです。1988年に亡くなる前、74歳の時にこのディスクが録音されました。何でもノルウェーで初めてバッハの平均律クラヴィーア曲集全曲をコンサートで弾いたピアニストでもあるそうです。
リフリングもスタインウェイを弾いていますが、聴いた印象はクロシェとは随分違います。リフリングのピアノは良い意味で土臭く、渇いた木の香りがするような音です。これを聴くと、「ああ、ピアノの本体は確かに木で出来ている。」と感じ入ります。録音も響きがデッドであることが更に印象を強くするようです。古風な感じもするのは、(どことなくですが)チューニングのためのようにも思います。リフリングは技巧を誇示して弾くタイプでもなく、浪漫的に演奏するのでもありません。淡々と折り目正しくバッハの音楽に向き合っていると感じます。
ではリフリングの音楽には潤いがなく、枯れ果てた演奏かというとそう言うわけではありません。聴いていると次第に心に迫ってくるものがあります。例えば、第1巻第5番プレリュードでは、クロシェが早いテンポで全体の美しい響きで音楽を作っているのに対して、リフリングは一つ一つの音を明晰に、ゆったりと始めて、段々音一つ一つに力がこもって大きな音楽となっていきます。特に第2巻になるとリフリングは更に雄弁になってきます。第15番プレリュードなどはいかにも乗って弾いているのが分かります。
■ 最後に
アルバム全体の作り方も両者の特徴が出ていると思いました。CD4枚組であるのは同じですが、クロシェが第1巻を2枚目の途中までにして、第2巻を残り2枚ちょっとに振り分けています。一方、リフリングはCD2枚ずつに各々の巻を分けています。巻ごとの演奏時間は、クロシェが1時間51分24秒、2時間26分12秒、リフリングが1時間50分36秒、2時間18分16秒であり、第1巻の演奏時間に大差がないのに第2巻にかける時間が、クロシェの方が長いのが興味深いです。第21番のようにゆったりした演奏もありますが、クロシェがどの曲も長いというわけではなく、差し引きでこのような結果になったようです。
この二つのディスクは聴いた印象がだいぶ異なります。しかし一見堅苦しいような、味気ないようなこの曲集に真摯な姿勢で向かっている点ではまったく同じであり、どちらもが聴き続けたいアルバムであると思います。
2007年4月23日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記