「わが生活と音楽より」
An die Musik 10周年に寄せて(1)
ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第0番を聴く文:ゆきのじょうさん
前回の拙稿が、当サイトの栄えある10周年記念日に掲載されるという名誉をいただいて、とても恐縮しております。せめてもの感謝とお祝いの気持ちを込めて何か「10」周年記念という企画を打ち出せないのかと知恵を絞ってみましたが、非力ゆえに思い浮かべることはできませんでした。何しろ交響曲第10番と言っても(ハイドンやモーツァルトを除けば)マーラーとショスタコーヴィチぐらいしか思い浮かばないのです。
それでは「10」ではなく「0」だったらどうなのだろうと考えてみましたが、これもブルックナーの第0番くらいしか思い浮かばないな、と考えていたときに、そうだ、この曲があった、と思い至り筆をとったのが本稿です。
それにしても何やら10周年にしては珍曲となりました。一頃、ベートーヴェン/交響曲第10番というのが宣伝されたことがありましたが、それと似た後世の人がでっち上げた紛い物、あるいはイェナ交響曲のように他人の作品がベートーヴェン作と伝わったかのような曲に思えましたが、れっきとした、ベートーヴェン14歳の作品と伝えられています。
この曲はピアノ独奏パートの写譜しか現存しないそうです。しかしそこにはベートーヴェン自身によるオーケストラパートのピアノスコアが書き込まれており、ここからフルート2本、ホルン2本、弦楽五部にスイスの音楽学者ウィリー・ヘスが復元したものが1939年に発表されました。初演はエドウィン・フィッシャーにより1943年に行われたそうです。その後1961年に改訂版が発表されましたが、そこでのカデンツァではフィッシャーのアイデアが採用されていると言います。私はLP時代に、フォンタナという1000円の廉価盤でこの演奏の存在を知りました。現在は以下のCDに載っています。
ピアノ協奏曲第0番変ホ長調 WoO 4
リディア・グリフトウーヴナ ピアノ
ハインツ・ドレッセル指揮フォルクヴァング室内管弦楽団録音:1967年?
独PHILIPS(輸入盤 442 580-2)第一楽章アレグロ・モデラートはフルートとホルンが長閑なテーマを歌い、それを弦がピチカートで支えて、やがて伸びやかな弦楽合奏となります。続いてピアノ独奏が入るのですが、ここまでちょっと聴いていると、モーツァルトに似ているようにも感じてしまうのですが、この曲の作曲時期は1784年頃ですのでモーツァルトは当時28歳。ピアノ協奏曲は第14番くらいの頃ということになります。このディスクの解説書によれば、モーツァルトのピアノ協奏曲の楽譜が発刊される前の作曲であり、むしろヨハン・クリスチャン・バッハの影響が強いとのことです。展開部になると何となく力強さのようなものが加わってきており、ここまで来るとベートーヴェンらしいかも、と思えてきます。最後のカデンツァはそれまで用いられてきた旋律を自然に回顧していくもので、まったく無理なく聴くことができます。末尾も可愛らしく締めくくります。ピアノ独奏のグリフトウーヴナはポーランド出身。1955年第5回ショパンコンクールで第7位に入賞したのだそうです。40年前の録音とは思えないほどの活き活きとした響きで聴かせてくれます。カデンツァも堂々たるものです。
第二楽章ラルゲットは、密やかに始まりますが、やがてピアノとオケの絡み合いが繰り広げられてきます。ドレッセルの指揮にはもたついたところがなく、オーケストラも技術的には昨今と見劣りがしません。特に首席フルートの輝きが印象的で、ピアノと実によく合っています。
第三楽章ロンド:アレグレット。ピアノソロから始まります。そのテーマが典雅でベートーヴェンの番号付きの協奏曲に聴き劣りがしません。ロンド形式で紡ぎ出される掛け合いも楽しいものです。グリフトウーヴナは端正に弾いているようで、ほのかにニュアンスを変えていくので、単調な印象は全く受けません。最後にホルンが浪々と吹ききる中でピアノが丁寧に演奏しているのもよく、終結は踊り終わったかのようなリタルダントとなります。
私自身は他の5曲と遜色ない曲だと感じましたし、もっと聴く機会があっても良いと思いましたが、CD時代になってからも他の演奏に出会うことはなく、演奏会でも採りあげられたと言う話も聞きませんでした。ピアノ協奏曲全集は数あまたに発売されましたが、この曲を含めた全集というのは目にすることはなく時は過ぎました。どうもこの曲の独奏はピアノではなくチェンバロであるという説もあるようだと知り、ピアニストたちにとっては興味のない対象となっているのかな、と思ったりもしていました。
そんな中で何の気なしにCDショップで手にとったディスクに、この曲が載っていたのに驚きました。それが次に紹介するディスクです。
ピアノ協奏曲第0番変ホ長調 WoO 4
エーファ・アンダー ピアノ
ペーター・ギュルケ指揮ベルリン室内管弦楽団録音:1976年11月、ベルリン、キリスト教会
独BERLIN Classics(輸入盤 0091322BC)ベートーヴェン:知られざる作品集第2巻に収載されていた演奏です。冒頭からして別の復元ということが良くわかります。グリフトウーヴナ/ドレッセル盤では、弦のピチカートにホルンとフルートのみで演奏されたものが、アンダー/ギュルケ盤では弦楽合奏は弓で奏されています。その後も細かい箇所を逐一挙げることはできませんが、あちこちで異なっている印象があります。グリフトウーヴナ/ドレッセル盤ではウィリー・ヘスの編曲と表示されていますし、一方のアンダー/ギュルケ盤でも、「ピアノスコアからの復元と、カデンツァはウィリー・ヘスによる」と明記されています。指揮者のギュルケが、あのギュルケ校訂版の「運命」を出している人と同一人物でしょうから、ひょっとしたらウィリー・ヘス版を下敷きにして、ギュルケが独自の校訂を行っているのかも、と思います。
さて演奏ですが、グリフトウーヴナ/ドレッセル盤が比較的華やかで、軽やかな演奏であったのに対して、アンダー/ギュルケ盤はもっと低音が響いており重心の座った、威風堂々たる演奏になっています。第一楽章、第二楽章は早めに演奏されており、特に第二楽章ラルゲットでは違いが顕著に出ています。グリフトウーヴナは一つ一つの旋律に色合いを付けていくように弾いていますが、アンダーは音を縦に直立させるように硬めの音色で積み上げています。同じ曲なのに随分と違うものだと思いました。
第三楽章もきびきびとした音楽の運びをしています。弦楽器の一つ一つの音の締めくくりは断ち切るように処理されています。ところが、後半のピアノソロで突然アンダーはテンポがぐっと落ちて、しかもカデンツァのように自由な動きを出してきたのには、驚かされました。どこから別の演奏かのように柔らかい響きと自在なテンポの揺れが始まります。第一楽章からの淡々とした曲の進め方はもしかすると、この部分のための伏線だったのかと思わせるほどです。グリフトウーヴナのような色彩の細かい描き分けはありませんが、アンダーもなかなか聴き応えのある演奏をしています。
アンダーの他のディスクとしてはレーグナー指揮ドレスデン・シュターツカペレとの演奏でマックス・ブティングというドイツ現代音楽作曲家のピアノ協奏曲の録音があるそうですが、他には目立ったものがありません。グリフトウーヴナもショパンの協奏曲録音があるようですが現在はカタログ落ちしているようです。
さほど知られていない女性ピアニスト二人が、ベートーヴェンの、余り知られていないピアノ協奏曲を弾く。おそらく好楽家や、音楽評論家からみれば採るに足らないディスクでしかないのでしょうけど、そこにも音楽を聴く楽しみがあると、私は信じています。そんな楽しみ方をしている人間もいるということを語らせてくれるのが、当サイトが10年続いた理由の一つだと私は考えています。
2008年11月8日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記