「わが生活と音楽より」
二枚のベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲を聴く文:ゆきのじょうさん
■ 「ベートーヴェンらしくない」曲
たけうちさんの試聴記「無垢の人 ペーター・マーク」で話題となった「ではベートーヴェンらしい演奏とは何なのであろうか?」について、私の頭に上ったのが、ヴァイオリン協奏曲です。
大学オケでの数少ない演奏経験において、この曲はとても印象的でした。もちろんソロ・ヴァイオリンを弾いたわけではなく、オーケストラのセカンド・ヴァイオリンを担当したのですが、何度も練習して思ったのは「この曲はちっともベートーヴェンらしく弾けない」ということでした。
ここでの「ベートーヴェンらしさ」とは何だったのか? ベートーヴェンという作曲家に対して、私が抱いていた記号は「楽聖」「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」「力強い」「荒ぶる魂」などというものでした。したがって、ベートーヴェンの曲は「重厚で」「重々しく」「曲に何らかのメッセージがあり」「雄大なスケールである」ように思っていました。でも何度練習しても、このヴァイオリン協奏曲をそんなふうには弾くことが難しいのです。むしろこぢんまりと、典雅に弾いた方がよほど良いように感じました(勿論、技術がないのでそんな風に弾くこともできませんでしたが)。練習していくにつれて、この気持ちは大きくなり、ついには「ベートーヴェンの曲の中では異端」のように思ったほどです。
もちろん、このヴァイオリン協奏曲は有名な曲です。演奏もいろいろ聴きました。世の名だたる名演奏家が堂々と演奏しているのも素晴らしいと思いましたが、何となくこの曲の容量を超えているように感じました。では、典雅にこぢんまりと弾いた演奏を聴いたら、それが一番良い演奏なのでしょうか? 聴き手としてこの曲に対峙すると、どうもそんな風には割り切れないのです。今も美しい演奏というものはあります。例えば、レジス・パスキエが仏カリオペ・レーベルで先頃出したディスクはとても美しいものでした。オケも室内管弦楽団で等身大の音です。無理なところが一つもありません。では、これこそが私が求めていた演奏なのかというと、どうもそう言うわけにはいかないのです。
そんな中で、私が好んで聴くディスクは次の二枚になってしまいました。それらを紹介しながらもう少し考えていきたいと思います。
■ グッリ
ベートーヴェン
ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品61フランコ・グッリ ヴァイオリン
ルドルフ・アルベルト指揮コンセール・ラムルー管弦楽団
録音:1958年5月12日、サル・ワグラム、パリ
欧ACCORD FESTIVAL(輸入盤 4768964)割に速めの、きびきびとしたテンポで颯爽と序奏が始まります。それに続くグッリのヴァイオリンは太く浪々として、それでいて低音の響きも深いです。グッリは1926年生まれのイタリアのヴァイオリニストですから、録音当時32歳の若さです(ちなみにgoogleで「franco gulli」でイメージ検索すると、渋くて格好が良いです)。しかし、無闇に弾き飛ばすのではなく、弓を弦にしっかりつけて弾いています。速いパッセージでの弓の飛ばし方も音色を犠牲にしておらず、とても美しい演奏です。
オーケストラも同じようにヴァイオリン・パートは伸びやかに謳い、チェロなどの低弦パートも実に深く、ごうごうと鳴っています。アンサンブルもしっかりしており、これは指揮者のアルベルトの手腕もあると思います。アルベルトのバイオグラフィーはよくわかりませんが、残っている録音ではベルリンや、ケルンのオケとのものが多く、名前からみてもドイツの指揮者のようです。グッリの独奏にピタリとつけており、無理して鳴らさなくても、自然にこれほどのスケールの大きさが表現できることが、私は感銘を受けました。
■グリュエンベルク
ベートーヴェン
ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品61エーリッヒ・グリュエンベルク ヴァイオリン
ヤッシャ・ホーレンシュタイン指揮ニューフィルハーモニア管弦楽団録音:1967年3月31日、ウォルサムストウ・タウン・ホール、ロンドン
米Chesky(輸入盤 CD52)グリュエンベルクは、ウィーンに生まれて、英国で活躍しているヴァイオリニストです。生年がわかりませんが、おそらく若い頃の録音です。ホーレンシュタインの指揮する序奏は力強く、テンポは速めですが音はずっしりとしています。オーケストラに比べると独奏ヴァイオリンは、弾き始めは線が細いように感じましたが、聞き続けるに従って線が細いのではなく、鋼のような力強さがあることが分かります。録音日がグッリと同様に一日で行われているのは偶然ですが、グリュンベルク盤は曲が進むに従って独奏楽器の鳴りがぐんぐん良くなっていくので、おそらくほとんど編集なしで一気に録音しているように思います。
グリュンベルクの独奏とオーケストラの音色は大変よく似ています。ホーレンシュタインはアクセントを強めに豪快に鳴らそうとしていますが、オーケストラは粗雑になることがありません。そのためグリュンベルクのソロも無理がなく弾いていて、第1楽章のカデンツァも適度に粘ったり、ちょっとしたポルタメントもかかりますが、上品にまとめられています。第2楽章は遅めのテンポですが音楽はもたつかずに品良く進み、終楽章も凛とした音でスケール豊かに弾いています。オーケストラはやはり構えが大きく、強奏部では響き渡りますがうるさいことはなく、独奏を邪魔していません。
グッリの音楽が太く、より情熱的であるのに対して、グリュンベルクは輝きがあり、より品格が優っているように感じます。
■ ベートーヴェンらしさ、とは
結局のところ、これらのディスクを私が好んで聴く理由は何なのだろうと考えると、よく歌うが型が崩れずしっかりとした弾き方をする独奏ヴァイオリンと、主張するところは主張して豊かに響き渡るオーケストラ、ということになります。そして、双方が一致して目指している方向性が、私の好みに合っているということでしょう。これを単純に「ベートーヴェンらしさ」と一言で名付けることはできないのは明らかで「自分にとって良い演奏」でしかないと思います。
最初に掲げた私の矛盾は、当然ながら、ベートーヴェンというものへの記号性に囚われていたからです。そのような余分な記号を取り払って虚心坦懐に演奏を聴くことで、矛盾はなくなり音楽そのものを享受することができます。この点において、たけうちさんの出された結論には全面的に同意いたします。
しかしながら一方において、小さい頃に「楽聖ベートーヴェン」として聞かされた「作曲家として致命的な難聴という問題、それに一度は屈服して遺書まで書くが克服」という逸話、「運命はこのように戸を叩く」「ある英雄の思い出のために」などのエピソード、そしてあの「怖い顔をしてこちらを睨んでいる肖像画」によって、偉人として心に刻まれた世代にとっては、「ベートーヴェンらしい」というイメージは(それが都市伝説のような類であっても)そこはかとなく存在することも事実です。この「ベートーヴェン教」という信仰は、私たちをベートーヴェンに近づけてくれた部分もあり、また固定観念に囚われてしまう要因ともなったと考えます。
問題なのは囚われたかどうか、ではなく、囚われているということを認識していることではないでしょうか? 無批判に「ベートーヴェンらしい(らしくない)」と形容するのではなく、どんなふうに観じたかを伝える努力は、愛好家としては怠ってはならないと考えます。
これは、まったくもって、自らへの自戒でもあります。
2007年4月27日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記