「わが生活と音楽より」
クリスティナ・ビイェルケによる二枚のヘンリクスを聴く文:ゆきのじょうさん
■ フィニ・ヘンリクス(Fini Henriques, 1867-1940)
フィニ・ヘンリクスは1867年12月20日、フレゼレクスベア(コペンハーゲン市内にある独立自治体)で生まれました。ヘンリクス家は裕福な家庭で音楽が日常生活の一部となっていました。彼は7歳のときに母親の支援を受けながら最初のピアノ曲を作曲し、8歳のときにはヴァイオリンの指導も受け始め、ラース・ヴァルデマ・トフテ(1832-1907)に師事しました。カール・ニールセン(1865-1931)は兄弟弟子にあたります。また、1883年からデンマーク王立管弦楽団の指揮者を務めていたノルウェーの作曲家ヨハン・スヴェンセン(1840-1911)から音楽理論の指導を受けました。
1888年から1891年まで、ヘンリクスはベルリンのプロイセン王立音楽院で、ヴォルデマール・バルギール(1828-1897、クララ・シューマンの異父弟)らの指導を受けました。さらに、トフテの師であり著名なヴァイオリニストであるヨーゼフ・ヨアヒム(1831-1907)が、彼のヴァイオリン演奏をプロフェッショナルなレベルまで大きく引き上げました。
コペンハーゲンに帰国後、ヘンリクスは奨学金を得てウィーン、ドレスデン、ライプツィヒ、バイロイトを訪れました。その後、1892年にはデンマーク王立管弦楽団に入団します。初めはヴィオラ奏者として、1895年からはヴァイオリン奏者として活動しましたが、彼の在籍期間は短期間に終わりました。一方で、室内楽の分野では精力的に活動し、自身の弦楽四重奏団「フィニ・ヘンリクス四重奏団」を設立し、1911年には室内楽協会「ムジクサムフネット」を創設し1931年まで会長を務め、その間、四重奏団が活動の中心となりました。
フィニ・ヘンリクスはオーケストラの指揮者としての時折の仕事を除いて、ヴァイオリンのソリストとして生計を立てました。彼はベートーヴェン/ヴァイオリン協奏曲のような大作も自作のカデンツァで演奏しましたが、ソロリサイタルでは、ユーモアを交えながらの卓越した演奏スタイルが人々に愛されました。1940年10月27日、彼はコペンハーゲンで亡くなりました。
ヘンリクスの作品にはオペラ、バレエやメロドラマ、戯曲のための音楽などがありますが、本領を発揮したのは室内楽や、ヴァイオリンやピアノのための小品でした。本稿では、私が以前から敬愛しているデンマークのピアニスト、クリスティナ・ビイェルケによる、ヘンリクスの二枚のアルバムを聴いてみます。
なお、デンマーク語としては「ヘンレゲス」がより近い表記とのことですが、慣例に従って「ヘンリクス」とします。■ ピアノ小品集
ヘンリクス:
● 格言 Op.6 から第4曲 私は愛する(1876)
● 絵本 (1899)
1. ABC
2. 人形の子守歌
3. 盲人のバフ
4. 夕べの祈り
5. 人形の踊り
6. 小さな兵士
7. 母の膝の上で
8. ひとやすみ
9. ボール
10. 本当に!
11. 見知らぬ人
12. 鞭と手綱と
13. 学校から
14. 回す人
15. ホームシック
16. 小さな騎手
17. 魔女の踊り
18. 眠り姫
19. 泣き叫ぶ子供
20. 鬼ごっこ
● 旋律のプロファイル Op.38 (1911)
1. 蔦
2. 悲しみのワルツ
3. 夏時間
4. 遊ぶヤギ
5. 憂鬱
6. 子供の眠り
7. 憧れ
8. 夜明け
9. 優美
10. スプリンター
11. からかい
12. 衒学者
13. 愛のワルツ
14. おくやみ記事
15. 村の冗談
16. フラッパー
17. 七面鳥
18. 晩夏
19. 過去
20. 諦念
● エロティック Op.15 (1896)
1. メロディ
2. 愛のワルツ
3. 蝶々
4. 小さなロマンス
5. 流行歌
クリスティナ・ビイェルケ ピアノ
録音時期:2018年6月24-26日、デンマーク、コペンハーゲン、デンマーク音楽アカデミーコンサートホール
デンマークDACAPO 8.226150
《格言》作品6は10曲から構成された小曲集なのですが、ビイェルケはその中から第4曲だけを採りあげています。わずか17小節、1分半ほどの長さです。ところがこの1曲を聴いて、私の胸は切なさと暖かさで一杯になりました。楽譜は以下のサイトで、PDFにて閲覧できます。Aphorismen, Op.6 (Henriques, Fini)
譜面画像 (パブリックドメインです。)付点八分音符と十六分音符からなる旋律が8回繰り返されるだけの単純な構成です。それをビイェルケは最初の付点八分音符をやや長めに開始して、そこからインテンポになったかと思えば、2回目の旋律では三拍目の前で「溜め」をつくります。四分音符の長さも変化させて旋律が伸縮し、揺れ動きます。強弱も譜面どおりではありません。11小節目のデクレッシェンドは三拍目から減衰していきます。冒頭から4回出てくる「PP」の指定でも響きが痩せることがなく深みをもたせていきます。最後の「PP」になって初めて引き込まれていくような弱音となって、フィナーレの「PPP」を上品に鳴らして締めくくります。
この衝撃は以前にも体験しています。「クリスティナ・ビイェルケによるベートーヴェン/ディアベリ変奏曲を聴く」でのディアベリ変奏曲冒頭のワルツです。ビイェルケがこれを意識したのかどうかは分かりません。少なくとも、ビイェルケがこの1曲で私たちをヘンリケスの世界へ見事に誘ってくれます。実に見事な選曲と演奏だと思いました。
さて、続く《絵本》は元々のタイトルが《Billedbogen. Tyve Billeder af Børnelivet fortalte for Gamle og Unge af Fini Henriques》(絵本 ― 大人と子供のために語られる子供時代の20の絵画)であり、シューマンの《子供のためのアルバム、1848年)の流れを汲む作品とされています。ヘンリケスの作品の中でも有名なものの一つです。子供向けに作曲されたため演奏は容易ですが、ビイェルケはここでも単純に譜面どおりに淡々と弾くことはありません。第7曲「母の膝の上で」フレーズ全体を大きくひとかたまりと捉えてテンポを変化させています。第9曲「ボール」ではまさに弾んだり転がったりする様子を表現しながら、ふっと間を空けて聴き手をはっとさせる工夫もあります。第18曲「眠り姫」は子供向けとは思えない、ショパンのような抒情を込めています。《絵本》全曲中、白眉といってよいでしょう。
《旋律のプロファイル》は、10曲ずつ収めた2つのセットとして発表されました。ヘンリクスの作品ではそれほど有名ではありません。技巧的には大人向けとなっていて、深みが強まっています。第2曲「悲しみのワルツ」の冒頭は静かで物憂げな雰囲気に満ちていますが、中間部はサロン音楽のような華やかさと優雅さがあります。そこから唐突に冒頭の主題が回帰して、独特の和声の進行をビイェルケは強調することはせず、静かに紡いでいくのです。第4曲「遊ぶヤギ」では跳躍する音符を華やかに演奏しています。第8曲「夜明け」は鳥のさえずりが聞こえるかのようであり、第13曲「愛のワルツ」は、円舞というよりは静かに散策するかのようです。最終曲「諦念」では、微妙に揺らぐ和声が心を打ちます。最後に収められた《エロティック》は、ヘンリクスが20歳代最後に発表された曲集です。ここでは第3曲「蝶々」に惹かれます。デンマークの国蝶は「コヒオドシ」なのだそうです。ジャケットの蝶がコヒオドシかどうかは分かりませんが、翅を広げても5cm足らずだそうですから、この曲のように比較的せわしく飛んでいる様子が描かれていると思いました。
まったく未知の作曲家でしたが、このピアノ曲集でその魅力を堪能しました。■ ヴァイオリンとピアノのための小品集
ヘンリクス:
● ロマンス Op.43(1919)
● ノルディック・ダンス(c.1920)
● エロティコン Op.56(1921)
● マズルカ Op.35(1911)
● 晩夏 Op.50(1909)
● 魔女の踊り(作曲年不詳)
● レリジオーソ Op.34(1911)
● 子守歌(1915)
● クライネ・ブンテ・ライエ Op.20(1899)
1. 羊飼いの少年
2. パントマイム
3. 頷く男
4. メヌエット
5. 蚊の踊り
6. エロティック
● カンツォネッタ Op.27(1923)
● 悲しみ(1923)
● バレリーナ Op.51(1921)
● ノヴェレッテル Op.26(1905)
1. Allegro non troppo
2. Andante sostenuto
3. Allegretto grotesco
4. Allegro non troppo
● 小さなワルツ(c.1920)
● 子守歌(1921)
ヨハンネス・ソー・ハンセン ヴァイオリン
クリスティナ・ビイェルケ ピアノ
録音:2018年6月27-29日、デンマーク、コペンハーゲン、デンマーク音楽アカデミーコンサートホール
デンマークDACAPO 8.226151
いずれも「ピアノ小品集」と同様に演奏時間は2分から3分程度であり、長くても5分くらいです。録音データで見ますと「ピアノ小品集」の録音に続いてセッションが組まれています。ビイェルケがピアノ曲で、ヘンリケスを十分に弾き込んでから取り組んだと言えるでしょう。冒頭の「ロマンス」は、エルガー「愛の挨拶」(1888)を彷彿とさせる、まさに愛らしい一曲です。続く「ノルディック・ダンス」は目が覚めるような快演となっています。ハンセンのヴァイオリン演奏に、ビイェルケはかなり切り込んでおり、一気に聴き手を盛り上げてくれます。
「マズルカ 」と「子守歌」は、2004年にビイェルケはアーネ・バルク=メラーのヴァイオリンで、「ロマンティック・ヴァイオリン・ソナタ」というアルバム(デンマークDACAPO 8.226005)で収録していますので14年ぶりの再録音となります。旧録音では「ロマンティック」というアルバムタイトルのとおり、連綿とした浪漫的な色彩に富んでいました。再録音での演奏時間は、マズルカが5:39から4:48、子守歌(1915)は2:55から2:30といずれも速くなっています。その結果、サロン音楽のような洒脱さが前面に出ていると感じました。
ヴァイオリンソナタを除いてヘンリクスはいくつかの曲集を作曲しています。そのうち2曲が今回のアルバムで全曲録音されました。《クライネ・ブンテ・ライエ(Kleine bunte Reihe)》と《ノヴェレッテル(Novelletter)》です。《Kleine bunte Reihe》は《絵本》と同じ1899年に発表されました。「羊飼いの少年」は長閑な草原を思わせる曲調で、ハンセンの演奏はとても伸びやかで、ビイェルケの合いの手も見事です。双方の発想が見事に一致した「メヌエット」に続いて演奏される「蚊の踊り」はヘンリクスのソロ演奏の定番曲の一つだったそうです。個人的には「熊蜂の飛行」よりお洒落で、もっと聴かれてよいと思いました。そして、最後の「エロティック」は切ない抒情に溢れていて、これも名曲です。ビイェルケのピアノも哀切に満ちた音色でした。
《ノヴェレッテル》は1905年の作品です。4曲から成りますがいわゆるタイトルがありません。内容も聴き手におもねるような技巧的な効果やサロン音楽の赴きはありません。この曲は、ヨーゼフ・ヨアヒムの後任としてプロイセン王立音楽院教授になったフランス生まれのアンリ・マルトーに捧げられています。ヘンリクスがマルトーに会ったかどうかは記録がありませんし、この曲をマルトーが演奏したかどうかも不明とのことです。4曲ともとても「攻めた」曲となっています。ハンセンもビイェルケも、かなり弾き込んでいると思うくらいに、両者は丁々発止の掛け合いをしています。
《ノヴェレッテル》を挟んだ小曲たちも味わいが深いですが、「バレリーナ」は様々な技法を駆使しながらも、愛らしい印象となっているのが素敵でした。
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フィニ・ヘンリクスを、私はこれまでほとんど知りませんでした。クラシック音楽愛好家のなかでも知っている人は多くはないでしょう。しかし、聴き込むほどにヘンリケスの作品はとても魅力のあるとわかりました。さらに、ビイェルケはその魅力を深めています。もっと聴かれてほしい二枚のアルバムだと思いました。
2025年1月16日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記