「わが生活と音楽より」
二人の女性奏者によるブラームス/ヴァイオリン協奏曲を聴く文:ゆきのじょうさん
「昔、中世の頃。深い森の向こうに小さな美しい王国があった。王国には白亜の城があり、そこに美しい王女がいた。ある日、突如として王国は攻め込まれる。圧倒的な敵国の兵力の前に王国は混乱に陥り、絶体絶命の危機が訪れる。その時、白馬にまたがった騎士が王女を助けに現れる・・・」
ブラームスのヴァイオリン協奏曲の冒頭、オケの序奏からソロヴァイオリンが弾くまでの部分が長い、と文句を言った小学校低学年の私に対して、父はこんなふうにストーリー仕立てにして話しました。これに元ネタがあるのか、父の創作によるものなのかは、分かりませんが、こんな原体験を受けた私は、この曲は誠に浪漫的な曲だと思っている節があります。
この曲の名盤と言えば、伊東さんが取り上げていらっしゃる、オイストラフ、クレンペラー/フランス国立放送局管の競演です(英EMI 7243 6 74724)。伊東さんが書いていられるように大家同士が余裕をもって対峙して気宇壮大な演奏を繰り広げています。LP時代から私もこの演奏を良く聴いていましたので、やはり何となくですがこの曲は男性奏者が堂々と弾かなくてはならないと刷り込まれていた嫌いがありました。
しかし、最近になって女性奏者で素晴らしい演奏をしているディスクに出会うことができました。いずれも20代での録音です。
■ リトル盤
ブラームス
ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品77
(カップリングはブルッフ/ヴァイオリン協奏曲第1番)
タスミン・リトル ヴァイオリン
ヴァーノン・ハンドリー指揮ロイヤル・リヴァプール・フィル
録音:1991年9月15-17日、フィルハーモニック・ホール、リヴァプール
欧EMI(輸入盤 7243 5 74941 2 0)タスミン・リトルは1965年にロンドンに生まれたヴァイオリニストと言いますから、このブラームスは26歳のときに録音されたものです。
序奏は重厚に、ゆったりとインテンポで始まります。それに続くリトルのソロも実に堂々たる、構えの大きい演奏です。音はたっぷりとしており、浪々と奏でています。そう言われずに聴けば、とても20代の女性が弾いているとは思えません。すべては正攻法で、全くのごまかしがありません。録音のせいかどうかは分かりませんが、残響はさほどでもないのに、リトルのヴァイオリンは身体全体で響き渡っていると感じます。カデンツァはこの演奏中白眉と言ってよいものです。奏者の息づかいがそのまま演奏に表現され、高音部では音は細くなるどころか、むしろ響きが深くなっていきます。ハンドリーが指揮するオーケストラもスケール豊かにソロを支えています。
第2楽章は比較的淡々としています。リトルの演奏は控えめに始まってフレーズはむしろとぎれとぎれで、侘び寂びの世界に近い印象です。次第に響きは満ちてきますが声高にならず品格が保たれています。
第3楽章は一転して華やかな、快活なスピード感溢れるものです。このテンポでもリトルの演奏は音色が保たれているので、聴いていて息が詰まるような切迫感はありません。面白いのはオケがぐんぐん燃えていってしまうところで、まるでライヴ演奏を聴いているような興奮を与えてくれます。最後も堂々たる終結を歌い上げています。
このような立派なブラームスを録音したリトルは、意外にディスクが多くありません。1999年にフィンジ/ヴァイオリン協奏曲の初演・初録音で話題になったそうですが、その後も散発的なリリースのみです。ほとんどは協奏曲ですのでリサイタル盤や室内楽なども聴いてみたい奏者です。
■ フィッシャー盤
ブラームス
ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品77
(カップリングはヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲イ短調作品102)ユリア・フィッシャー ヴァイオリン
ヤコフ・クライツベルク指揮アムステルダム・ネザーランド・フィルハーモニック管弦楽団録音:2006年12月、ヤクルトザール、ビュアス・ファン・ベルラー、アムステルダム
蘭Pentatone Classics(輸入盤 PTC5186066)フィッシャーは1983年6月、ドイツ生まれと言いますから、このディスクは23歳の時ということになります。ジャケット写真で見る限りはまだ少女のようなあどけなさを残した小柄なヴァイオリニストです。
第1楽章冒頭のオーケストラの呼吸がすばらしいです。あざとさ一歩手前のテンポの動かし方で、ソロが出るまでに十分な雰囲気を作っていきます。この解釈にした理由はフィッシャーのヴァイオリンが始まってすぐわかります。フィッシャーは線が細い印象を受けますが、ポルタメントはかけたり、テンポは自在に動き、高音で歌い上げるときは弱音で儚げに響かせたりで、それはそれはやりたい放題演奏しているという印象です。ソリストのフレーズごとに細かい揺らめきに対して、クライツベルグは見事な語り口でぴたりと付けていきます。両者とも、これ以上踏み外したら安っぽい演歌になるぎりぎりのところで品の良さを保っているところは、ただものではないと思います。
第2楽章はこの調子でスローテンポの綿々とした演奏をするのかと思えば、すっきりとした早めのテンポで始めます。しかしフレーズによっては止まりそうなくらいに粘ったり、きびきびと追い込んだりとやはり変幻自在です。それでいて甘ったるくはなく、爽やかさが全編にわたり流れています。
ほぼアタッカで続く第3楽章はリズム感を前面に出した演奏です。しかしフィッシャーのヴァイオリンは音色を犠牲にせず品の良さは保たれています。オケはティンパニがドロドロと鳴り響くこともあるのですが、もたもたしたところがありません。ソロと管楽器とうまく絡めて聴き所もつくりながら、プレストの結尾に入る直前では、フィッシャーは聴き手がのけぞらんばかりの時代がかった大見得を切って、それから一気に突き進み、最後は実に格好良く締めています。正直期待はまったくせずに聴き始めたディスクでしたが、粋な、良い意味で歌舞伎のような、そんな演奏が聴けました。フィッシャーとクライツベルグはおそらく相性がとても良いのでしょう。オーケストラを変えながら、モーツァルト、チャイコフスキー、ハチャトリアンなど多くのディスクを残しています。
フィッシャーは21歳にして既にバッハの無伴奏ヴァイオリンをリリースしています。このディスクも誠に素晴らしい。伸びやかで美しい音を駆使して、自分の考えるバッハをためらいもなく大いに謳歌しています。いつか別の機会に採り上げたいほどです。これらの演奏について、若さを理由とした注文をつけることはいくらでも可能でしょう。事実、フィッシャー自身がバッハでのライナーノートで、「私がたった21歳でバッハの無伴奏を録音するべきかどうか、多くの人が不可思議に思うのは疑いもないことです。」と書いています。一方において、自分自身はバッハと小さい頃から向き合い続けてきており、様々な体験を通して、今、録音することは必然なのだ、という主旨のことも書いています。全然優等生ぶらない、主張のしっかりとした演奏家と感じましたのでこれからが楽しみですし、容貌からしても、もっと人気が出ても良いように思います。
同じ20代で録音された演奏ですが、その方向性は随分と異なります。リトルは正攻法で、品格を保ちながら、オイストラフに負けず劣らずの気宇壮大な演奏を繰り広げています。一方、フィッシャーは表現の濃密さで聴き手を自分の世界に引きずり込んで、それがまったく嫌味でないどころか、思わず「ほぉ」と唸るような演奏です。しかし、両者ともその根底には、浪漫的な流れがあり、それ故私にとっては魅力ある演奏となっているのだと思います。
2007年7月12日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記