「わが生活と音楽より」
グレゴリオ聖歌と声明が共演した二枚のディスクを聴く

文:ゆきのじょうさん

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 四半世紀以上も前、私が大学オケに在籍していた時のことです。当時の団長が、おそらくLPだったと思いますが、世界の民族音楽を集めたものを聴かせてくれたことがありました。例えば、インドから中東、ギリシャ、東欧、そして西欧と聴き続けて来ますと、一見不連続に思えるこれらの音楽が、何かが繋がっているのだと感じさせてくれました。

 さらに、拙稿「古い音楽をいろいろ聴いてみました」でも書かせていただいたように、12世紀の聖歌を聴いてみると聴き慣れた「西欧音楽」ではなく、まるで読経のような響きだと思いました。

 これらの、何となくもやもやした思いは、ある時の飲み会で、本サイトの執筆者である松本さんが、「チェコに旅行した際にこんなものを見つけましたよ。」と仰って見せてくれた一枚のディスクによって、一枚のベールがはがれたのでした。興味を持った私はネットで調べたところ、日本で取り扱っているサイトを見つけ、早速入手しました。それが一枚目のディスクです。

 

 

CDジャケット

遥聲(ようせい)

護身法
諸天漢語讃(律曲)
Alleluia Magnus Dominus  
総礼伽陀 / Misere mei Deus  
Conductus Mundus a munditia  
Antiphona Alieni insurrexerunt + Ps.Domine in nomine tuo / 諸天漢語讃(呂曲)  
Graduale lustus ut Palma
九條錫杖  
Agnus Dei XV  
神力品(偈文) / Cantio Ave virgo gloriosa  
Antiphona Sedit Angelus + Versus Crucifixum in carne  
阿弥陀経(引声)/ Kyrie IV  
Offertorium De profundis  
大懺悔  
Tractus Deus Deus meus  
吉慶梵語讃

プラハグレゴリオ聖歌隊
魚山流天台聲明研究會

録音:2006年11月、チェコ、チェスカリーパ、社会歴史文化郷土資料館、三位一体礼拝堂
チェコSONY/BMG COLUMBIA (輸入盤 88697077742)

 「声明(聲明、しょうみょう)」とは、仏教音楽を指すコトバであることは、不勉強であった私は初めて知るところとなりました。読経は、西欧音楽で言う音階や旋律はほとんどないわけですが、儀式などで数多くの僧侶たちが唱和する際には一定の抑揚が与えられます。いわば「メロディのついた読経」が「声明」なのだと乱暴に表現することが出来そうです。「声明」についての詳細はこのディスクの解説書に記載されていますが、ここでは私の理解できた範囲で書いてみることにします。

 紀元前5世紀に仏教が発祥したインドでも「声明」に相当する音楽はあったようです。しかし、それは現在まで伝わることはありませんでした。紀元後1世紀頃に大乗仏教が中国に伝わった後にも「声明」に相当する仏教音楽が発展したそうです。しかし845年唐の時代に行われた「会昌の廃仏」という宗教弾圧によって、一時衰退してしまったそうです。

 日本に仏教が伝来した538年(553年説もあり)以降、「声明」も伝わっていたのは確かなようです。最初は統一されていた「声明」は宗派ごとに異なっていきました。このような盛衰や変貌が起こるのは「声明」が西欧音楽のように記譜法が発達することはなかったため、口伝で行わなくてはならなかったことが問題であったわけです。

 805年に最澄が天台宗を日本に伝えたときに、天台宗の「声明」も伝えられ、それが「天台声明」と呼ばれることになります。同じ頃に空海が伝えたのは「真言声明」ということになります。「天台声明」はその後発展、変遷を経て現在、大原魚山流と名付けられて伝わっています。このディスクでの魚山流天台聲明研究會は「天台声明」の演奏団体の一つであり、1998年にチェコを訪れてカトリック教会でのミサに加わったのを皮切りとして、以後複数回訪れ交流を深めて、この共演アルバムを遺すに至ったわけです。

 解説書で的確に表現されているように、「声明」は「地声の無伴奏男声ユニゾン」です。そして欧州からみれば「異教徒のミサ」なわけです。それが同じ「無伴奏男声ユニゾン」であるグレゴリオ聖歌と共演するといったいどうなってしまうのか、正直「怖いモノ聴きたさ」があったことは否めません。

 それが最初の「護身法」から「諸天漢語讃」と聴いてみると、まずその美しさに驚かされました。日本の現代作曲家が仏教音楽や雅楽を元にした西洋音楽を作っており、それらのいくつかを聴いたことがありましたが、乱暴に言ってしまえば「オリジナル」である「声明」の持つ美しさや力強さは、遙か別の次元にあることが最初の2曲だけで否応なく知るところになりました。

 続いて、グレゴリオ聖歌が歌われ、引き続いて「声明」が歌い進んで、それにグレゴリオ聖歌が同時進行するという試みが行われます。いわゆる和声という観点からみて、このような同時進行がどのように評価されるのかは、音楽学の素人な私には語る術はありません。しかし、ただ聴いている限りでは不協和音のような不快感はまったく存在しません。それよりも、交互に聴いてきたときに感じたある印象がさらに確かめることができるようになり興奮しました。

 その印象を何と表現してよいのか、的確な言葉が思いつかないのですが、感じたままを書けば「音楽の高さ」ということになります。それは音程という物理学的に解釈できるものとは異なる、音楽が展開する標高が異なるという印象です。グレゴリオ聖歌は高い天井を持つ教会で歌われるから、ということでもないのでしょうけど、音楽は歌い手の身長よりさらに高いところに位置づけられて響きます。一度高い天井に舞い上がって、また舞い降りてくるという感覚です。一方、「声明」は僧侶が座して、または歩きながら歌われるから、なのでしょうか、歌い手の身長と同じか、それより低い高度で響き、拡がります。グレゴリオ聖歌は私の頭上から顔にかけて届きますが、「声明」はお腹から首もとへと迫っていると言い換えればよいのでしょうか?

 この「音楽の高さ」の違いによって、両者が同時に歌われていても、聴き手は重層化した音楽の響きを味わうことができると感じました。そして、この音程とは別の次元での「高さ(標高)」が、各々の国の音楽を感じる際にも無意識のうちに私たちの体内で共鳴する縁となっているのではないかと思った次第です。実に貴重な、そして深く考えさせられるディスクであったと思います。

 ところで、「声明」とグレゴリオ聖歌の共演は、このディスクが何も最初ではなかったことが、その後調べてみてわかりました。10年以上遡って、両者は何と日本で出会っており、その録音が遺されていたのです。

 

 

CDジャケット

祈り-グレゴリアンチャントと聲明との出会い

《ダ・パーチェム》
入祭唱:平和を与えたまえ
主よ,あわれみたまえ:主よ,あわれみたまえ第1番
天には神に栄光あれ:天には神に栄光あれ第1番
昇階唱:心は喜びに はずんだ
拝領唱:平和をあなたがたに与える
朗読:イザヤの預言
入祭唱:光はわたしたちの上に輝く
聖なるかな:聖なるかな第12番
入祭唱:神の霊は全地を満たした
拝領唱:神のみわざをほめ歌う
賛美歌:神はゆるぎない力
賛美歌:ともに喜べ
平安を与えたまえ:平安を与えたまえ第1番

《天台聲明 四箇法会-地球環境保全・世界平和祈願》
入堂讃

散華
対揚
表白
般若心経
《アンコール》
平安を与えたまえ 第1番 / 四智讃

フルビオ・ラムビ指揮カントーリ・グレゴリアーニ
天台聲明音律研究会

1995年11月15日、横浜、神奈川県立音楽堂、ライブ録音
ビクター・エンタテイメント (国内盤 VICG-5393)
 

 戦後50年を記念して「声明」による平和祈願コンサートが企画され、ルクセンブルク、善光寺、横浜で開催することになり、その際、ミラノのグレゴリオ聖歌隊が来日したので、共演の話が持ち上がったのだと解説書にありました。長野では6回のコンサートが行われたのだそうですが、そこではグレゴリオ聖歌が終わるときに「声明」が重なる形での演奏を行ったそうです。このディスクに収められている横浜での演奏会は、そのような重なりは行っておらず、収録通りとすればまずグレゴリオ聖歌が前半に演奏し、後半に「声明」が演奏されたようです。

 先にご紹介した「遥聲」は、礼拝堂という小さな空間でのセッション録音でした。一方当盤では、比較的小さいと言ってもフルオーケストラでの演奏会も行われる音楽ホールでの(おそらく編集なしの)ライブ録音です。二枚のディスクの条件はかように異なるわけですが、実に興味深いのは、当盤においてグレゴリオ聖歌が終わって、「声明」が始まると音のレベルがまったく違っていることです。

 グレゴリオ聖歌では、ホール一杯に響き渡って音楽が充満していました。しかし「声明」に代わってまず独唱で「入堂讃」が始まると、西洋音楽でいうピアニッシモで始まっているということを加味しても、音は彼岸から湖面を漂う霧のように奥深い静けさをもっており、私は思わず身を乗り出して聴き入ろうとするくらいでした。やがてユニゾンとなって音の物理的強さは増してきますが、音楽の迫りようが増すわけではありません。録音スタッフもこれに気づいたのか、「唄」からは録音レベルを上げているようです。

 このことをもって、グレゴリオ聖歌は大ホールでも演奏可能であるが、「声明」が室内楽ホール向きなのであるとが、乱暴な優劣をつけようというわけではありません。一枚目の「遥聲」で感じた「音の高さ(標高)」の違いが、演奏される空間において、どのような効果をもたらすのかということを考えるきっかけになっているということだけなのです。

 さて、最後にアンコールとしてグレゴリオ聖歌が始まって、次第に「声明」が加わって同時進行し、最後は「声明」だけとなって静かに終わる、という演奏が行われています。すなわち「遥聲」で行われていた試みと同じです。グレゴリオ聖歌から、「声明」に音楽が受け渡されて、このCDのタイトルである「祈り」が世界と時空を越えて融合するという試みを示したと感じられるものです。何気なくやっているようですが、どこで聖歌と「声明」をかぶせるかという点で詳細な検討が行われたのは想像に難くはありません。

 「祈り」で演奏している「天台聲明音律研究会」と、「遥聲」の「魚山流天台聲明研究會」との関係はよくわかりません。双方とも同じ人から指導を受けているようですが、演奏者名を比べても重複はしていませんでした。紹介文を読む限り、「天台聲明音律研究会」は関東が中心で、「魚山流天台聲明研究會」は関西が中心となっているようです。「天台聲明音律研究会」も海外公演を行っているそうですが、「祈り」に収録されたグレゴリオ聖歌との共演を含めて、「魚山流天台聲明研究會」の「遥聲」においては、「天台聲明音律研究会」の活動についての記載は見あたりませんでした。

 解説書の記述にもあったように、同じ「地声の無伴奏男声ユニゾン」という形式でありながら、当然ながらグレゴリオ聖歌と「声明」とは別の音楽です。相互にはまったく関連性はないと思います。しかし、別の音楽でありながらも、想像ほどは別ではなかったという点も強調されなければならないとも思います。

 両者を同時進行させるという試みをしても、想像ほどは無謀とは感じられません。そして、私が感じる「音楽の高さ」と重層化という印象が、両者は別物だけど、「何か」があると思わせてくれました。

 

■ 謝辞

 

 一枚目の「遥聲」のディスクは、演奏している魚山流天台聲明研究会の公式サイトで見つけ、入手したものです。ところがこのサイトは私が購入した直後、4月一杯で閉鎖されてしまったようです。もし、松本さんがこのディスクを見せてくれなかったら一生、出会えなかったのかもしれません。偶然とはなんと不思議なものであろうかと思った一枚でもありました。この場を借りて松本さんに厚く御礼申し上げます。

 

2009年5月18日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記