「わが生活と音楽より」
2枚のフォーレ/レクイエムを聴く

文:ゆきのじょうさん

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■ ナウモフ盤:当惑と疑問

 

 ガブリエル・フォーレのレクイエムは名曲として知られています。何でも、モーツァルト、ヴェルディと並んで三大レクイエムの一つとして数えられているそうです。

 この曲については以前に「フォーレのレクイエム、ナウモフ版を聴く」 で採りあげたことがあります。その際に名盤として知られるコルボ指揮の1972年盤についても言及いたしました。さらにナウモフがピアノ独奏で録音したディスクについて「ここでのレクイエムが、まさに自分一人のための、自分一人による音楽となっている」と書かせていただきました。

 実は、それからずっと私の中で引っかかっていることがあります。名曲と言われているフォーレのレクイエムというのは、一体どういう曲なのか、もっと言ってしまえばフォーレという作曲家は一体どういう作曲家なのだろうかという疑問です。

 フォーレのレクイエムは確かに美しい曲です。愚作か名作かという分け方を求められたら名曲に入れるべき作品です。しかし、最近のリリースを見てもこの曲の新盤がどんどん出て、話題になっているということはありません。いわゆるメジャーの指揮者が、メジャーレーベルで録音したというのは、チョン・ミュンフン(1998年)くらいであり、ヘレヴェッヘ(2001年)、コルボ(2005年と2006年)が目立つ程度というところです。さらに前述のナウモフ盤を聴いたときに、私は初めてこの曲を自然に聴くことができたと感じることができました。と、同時にコルボ1972年盤ですらも、私はただ美しいと感じながら聴くことが出来なくなっていたのです。

 この心情の変化は何故なのだろうと思いながらいくつかのディスクを聴いていくと、下記のディスクに出会いました。

 

■ ラッター盤:決別

CDジャケット

フォーレ:
レクイエム 1893年版(第2版 ラッター校訂) 作品48
アヴェ・ヴェルム・コルプス 作品65-1
タントゥム・エルゴ 作品65-2
アヴェ・マリア 作品67-2
マリア・マーテル・グラツィエ 作品47-2
ラシーヌ賛歌 作品11
小ミサ曲

キャロリーヌ・アシュトン ソプラノ
スティーヴン・ヴァーコー バリトン
ジョン・スコット オルガン
サイモン・スタンデイジ 独奏ヴァイオリン
ケンブリッジ・シンガーズ
ジョン・ラッター指揮シティ・オヴ・ロンドン・シンフォニアのメンバー

録音:1984年1月、1988年2月、ロンドン、ケンブリッジ大学大ホール
英Collegium Records (輸入盤 COLCD109)

 このディスクの解説を読み、さらにいろいろと調べると先述のコルボ1972年盤やクリュイタンス盤などでの使用楽譜は1900年に出版されたフル・オーケストラ版であり、これは第3版と呼ばれるものだそうです。何と、この版はフォーレが作ったものではなくフォーレの弟子が編曲したものだそうです。

 フォーレはまず「入祭唱とキリエ」、「サンクトゥス」、「ピエ・イェズ」、「アニュス・デイ」、「イン・パラディスム」の5曲で1888年にフォーレ自身の指揮で初演しています。これが第1版と呼ばれるものです。これに「奉献唱」と「リベラ・メ」を加え、楽器も追加した版を1893年頃に完成させ、これが第2版と名付けられています。いずれの版も弦楽器は(独奏を除いて)ヴァイオリン・パートがなくビオラ以下の低音部のみ、木管パートもないという特異な編成を求めていました。その後、出版の話が持ち上がったのですが楽器編成からみて幅広く演奏してくれない(=楽譜として売り物にならない)と考えた出版社はフル・オーケストラ版を作るようにフォーレに依頼します。しかしフォーレはなかなかこれに応じず、そこで弟子が編曲したのが第3版であるとしています。すなわち、数多くディスクのある第3版はフォーレが意図したものではありません。ブルックナーの交響曲の改訂版のように音符をいじっている訳ではありませんが、いわば接ぎ木のようでもあり、まるで水墨画を極彩色の油絵に仕立て上げたとも言えます。極論すれば紛い物ということになります。

 そこで、フォーレが本来望んでいた響きは何であったかが問題になります。第1版、第2版とも楽譜が現存せず、遺された資料から復元する試みがなされて、ラッター校訂とドラージュ校訂の二つの第2版が発表されたというわけです。このディスクは勿論ラッター校訂の初録音です。

 確かに第3版と比べると管弦楽の響きは暗く晦渋さに勝ります。全体に外に拡がる輝きというよりは、内に向かう深遠さを感じます。演奏自体は卓抜した調和に満ちた響きを創り上げる合唱に聴き惚れてしまいます。しかし、聴けば聴くほど不思議なことに、向こうから訴えかけてくる曲ではなく、こちらから遠ざかるような曲と、私は受け止めてしまいました。

 そもそもフォーレはこの曲を世の沢山の人々に聴いて欲しいと思ったのでしょうか? 第1版は父母の死を動機として書かれて、友人の葬式の際にマドレーヌ寺院で初演されたそうです。したがって、フォーレのレクイエムは他者に対して何かを訴えかけるというよりは、ひたすら個に没入していく曲なのではないか? それを(しかもキリスト教徒でもない)私はただ美しい曲だからということだけで、享受することが許されるのかという疑問を持つに至りました。第3版は紛い物のレッテル故に素直に楽しめず、第2版には近づきがたくなっていました。私はやむを得ず、この曲を聴くことを止め、決別することにしました。所有していた多くのディスクはCDラックが手狭になったこともあって処分しました。

 それからしばらくして、私は次に紹介するディスクを聴き、考えが変わることになります。

 

■ エル・エスコリアル修道院聖歌隊盤:再会

CDジャケット

フォーレ:
レクイエム(ピアノ伴奏、少年合唱版) 作品48
ジャン・ラシーヌの讃歌 作品11

ハビエル・ロドリゲス・ブラオホス ボーイソプラノ
アルベルト・パドロン ピアノ
ハビエル・マルティネス・カルメーナ指揮エル・エスコリアル修道院聖歌隊(作品48)、レアル・カピーリャ・エスクリアレンセ(作品11)

録音:2006年6月、スペイン、エル・エスコリアル修道院講堂
スペインDies(輸入盤 DIES 200712)

 エル・エスコリアル修道院というのはマドリード近郊にある王宮、博物館などと合わせた施設の一部であり、ユネスコ世界遺産に登録されているそうです。Diesというのは、この修道院の聖歌隊の自主レーベルということです。

 このディスクでのレクイエムは「ピアノ伴奏、少年合唱版」と銘打たれていますが、もちろんフォーレがそういう編曲版を作っていたわけではないようで、聴いてみると第3版の楽譜が基本になっているようです。従って、おそらくはこの録音のために作られた楽譜なのでしょう。

 したがって、フォーレがあずかり知らぬ編曲版という点では第3版と同様「紛い物」です。しかもソプラノ、バリトンの独唱は全てボーイソプラノのパートに書き換えられていますから、もっとタチが悪いと言われても仕方ありません。聖歌隊の少年合唱はよく訓練されていると思いますが、古今東西の名合唱団に比べるのは無理があります。ピアノ伴奏もナウモフの演奏とは次元が違いすぎます。どこをとっても、フォーレのレクイエムをこよなく愛する方々は、それこそ「歯牙にもかけない」、語るに値しないディスクでしょう。

 しかし、私個人はこのディスクを聴くことで、フォーレのレクイエムと再会できたと感じました。聖歌隊の合唱は技術的な問題を越えて、ナウモフのピアノ編曲盤を聴いたときと似たような「自然さ」に加えて、「人なつっこさ」を感じました。フォーレのレクイエムで歌われている語句は、おそらく聖歌隊が他の曲でも歌っているものと同じものが多いと思います。彼らは音楽としてだけではなく、何か普段の言葉としてレクイエムを歌っていると感じます。ジャケットはあざといばかりに、純粋無垢な聖歌隊の少年たちを強調した造りになっているのはさておくとしても、このディスクで感じることが出来る人なつっこさはフォーレのレクイエムの、別の側面を教えてくれたと思います。

 少なくとも、現時点では私はフォーレのレクイエムを、その美しさに没入して聴く音楽ではなく、微笑みながら聴くべき音楽だと考えています。

 

(2008年6月5日、An die MusikクラシックCD試聴記)