「わが生活と音楽より」
わたしのカラヤン 第7章:
カラヤンのマーラーについての管見

第3節 カラヤンのマーラーに関する妄想
■ 第4項:第4番

文:ゆきのじょうさん

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 「第三もそのうちに・・・」
と第1節第1項で採りあげたインタビューでカラヤンは語っていました。カラヤンの言い間違い、インタビュアーの聞き間違いがなかったとすれば、この時点ではカラヤンは、第5番、大地の歌、第6番の次には第3番の録音を構想していましたが、実際は第4番の録音となったということになります。第3番での独唱者はアルトですから、もしかするとカラヤンは、「大地の歌」で起用したルートヴィヒで録音するつもりだったのかもしれません。

 さて、そのカラヤンによる第4番について考えていく前に、まず告白をせねばなりません。この曲については、私は下記のディスクが一番心惹かれる演奏なのです。

比較ディスク:

LPジャケット

マーラー:交響曲第4番ト長調

セレスティーナ・カサピエトラ ソプラノ
ギョルギィ・ギャレイ ヴァイオリン・ソロ

ヘルベルト・ケーゲル指揮ライプツィヒ放送響

録音:1976年12月20-22日、1977年11月17-19日、1978年1月20日、ライプツィヒ、パウル・ゲルハルト教会
KING RECORDS (国内盤 KICC9494)
(ジャケット写真はLP ドイツ・シャルプラッテン 国内盤ET-5035)

 それまで「マーラー的」「ユダヤ的」という形容詞で賞賛されていたディスクを聴いていましたが、よく分からない音楽で有り続けていた私にとって、このケーゲル盤は実に衝撃的でした。とても個性的な演奏であり、特に弦楽器での「こぶし」のかけ方は他のどの演奏にもないニュアンスに満ちています。そして、個人的な感慨として何と澄み切った冷たい音楽なのだろうという感想があります。ケーゲル盤での「透明感」は、第5番で紹介したセーゲルスタム盤での「透明感」とは別の種類です。弱音を重視して生々しさは皆無なのですが、弦楽パートは実に冷たい響きです。どうするとこのような演奏になるのかは素人なので分かりませんが、少なくともビブラートはかなり控えめになっており、弓の返しでのアタックは柔らかく、そして駒とは離れた位置で弾いているのだろうなと想像します。いつ聴いても第一楽章の鈴の音や、第三楽章の時間が静止した冷たい演奏からは、私はどうしても聖夜を連想してしまいます。このような独特な演奏を聴いていた私は、やがてカラヤン盤も手にすることになりました。

CDジャケット

マーラー:交響曲第4番ト長調

エディット・マティス ソプラノ
ミシェル・シュヴァルベ ヴァイオリン・ソロ

録音:1979年1月22-24日、2月22-24日、ベルリン、フィルハーモニー
ポリドール (国内盤 F35G 50305)

 ケーゲル盤に慣れ親しんだ耳には、カラヤンの演奏はとても温かく聴こえました。演奏時間もゆったりしていて第三楽章と第四楽章では各々2分近く長くなっています。どこまでも凍り付いて聴き手を突き放すようなケーゲルに比べると、第一楽章からカラヤンは人なつっこく語りかけてきます。これは第6番までにはなかった色彩でした。もちろん曲調の違いが際立たせている要素も否定できませんが、それ以上にカラヤンがこの曲を気に入っているのだな、と感じさせてくれるのです。それまでの録音でカラヤンが確立してきた「自分が納得いく衣をかけたような音」を駆使しつつ、さらに慈しむように一つ一つの音を紡ぎ出しており、カラヤンが考える「卑しさ」はこの第4番で完全に制御されています。第一楽章の最後のまとめ方もテンポ設定から強弱の綾まで極上の出来映えです。

 第二楽章ではトリオに入るときの呼吸の深さと、そこからの奥行きのある響きの組み立てが聴きものだと思いました。それからは存分にポルタメントを掛けたヴァイオリンが連綿と歌い、第一楽章では(おそらくカラヤンの指示によって)荒々しさがあったシュヴァルベの独奏もここでは不気味さはありません。「マーラー的」な色合いを、ここまで出来るのかと思うくらいに取り除いてします。しかし、今聴こえてくる響きは世評で言われつづけた「ただ美しいだけ」「深刻さのない薄っぺらな音楽」では断じてないばかりか、むしろ神々しさすら感じることが出来ると思います。

 これは第三楽章になれば、当然より顕著となります。当然カラヤンもここが聴かせどころと思っていたでしょうし、聴き手が大きな期待を抱くだろうと予想していたでしょう。何を聴かせてくれるのかと身を乗り出して聞き耳を立てる人々に対して、「まあ、そんなに力を入れないで聴いてごらんなさい」と言わないばかりに、驚くばかりの遅いテンポを冒頭から設定してくれています。これでは深く腰掛け直して背もたれに身をまかせるしかなくなります。やがて変奏は速くなっていくのですが、もうすっかり聴き入った耳ではただその美しさに委ねているしかなくなります。その後に訪れる巨大な音響も、もちろん禍々しい棘は取り除かれているのですが、ただただ圧倒されるだけです。「これはマーラーが書いたスコア通りなのだ」という揺るぎない自信があります。そして、その先に見えたものをカラヤンは表現しているのだと思います。それこそが、カラヤンが言うマーラーの音楽が持つ「崇高さ」ではないでしょうか? この第4番において、カラヤンは「崇高さ」を「卑しさ」から完全に分離することができたのだと思います。第三楽章の幕切れで澄み切っていながら、深い響きを弦楽器が作っています。まさに会心の出来映えとカラヤンは思ったに違いないと私は勝手に想像します。

 第四楽章は「粘りすぎ」「軽やかさが欠如している」などと言われています。第三楽章での手練手管を用いた演奏の後では、このテンポは当然だろうと私は思いますし、マティスの声もほの暗さが見え隠れするような響きが得られているので、一つの見識ではないかと私は考えます。ゆったりとしたテンポで聴き手の心は癒され、呼吸も楽にできるようになっては来ないでしょうか? マティスの声と、それにぴたりと寄り添うベルリン・フィルの、聴き手を柔らかく包み込んできます。この曲の数々の演奏に形容される「天国的」という言葉が正しいのであれば、カラヤン盤はそれだけの安寧をもたらしてくれるに十分な至芸であると信じます。実に聴き手に優しいマーラーです。

 カラヤンが一連のマーラー録音において、第4番をどのように位置づけていたのか、は分かりません。この曲を録音して、翌シーズンからカラヤンは10ヶ月に11回と集中的にこの曲を演奏会に掛けました。マティスとの契約もあったと思いますが、それ以降は演奏していません。第4番のディスクの日本での評価は当然のように散々であった記憶があります。そして、レコード/CDのセールスも芳しくはなかったようです。その証拠として2009年8月現在において大手通販サイトで見る限り、ジャケット替えも含めて単発で出たのは1994年が最後であり、2009年7月の「カラヤン没後20年企画」では、第5番、大地の歌、第6番、そして第9番(スタジオ録音)が発売されたのに、第4番だけは発売されませんでした。このようなレコード会社の扱いをみても、カラヤンのマーラーで一番売れないディスクなのだと思います。

 しかし、私はカラヤンの第4番は、カラヤンのマーラー録音史においても特筆すべき名演だと信じています。第6番と双璧を為す最高傑作と言って差し支えないと思います。それ故に是非再発し、今一度多くの人に聴いていただきたいと願っています。ただし、その際にはオリジナル・ジャケットであることは必須です。

 第5、大地、第6の3作は同じフォーマットでの「虹」のジャケットでした。ところが第4番では元々ボックスではなく、LP一枚であったこともあるとは思いますが、グラモフォンの黄色いタブレットにタイトルが記載されています。それに対応するためか、虹が乱立したデザインです。沢山の虹がある風景は現実味が希薄です。大地を表す緑に二つ、空を表す青に二つ、その境目には、より鮮やかな「虹」が「あるべきように」描かれています。このジャケットは、カラヤンがこの曲に入れ込んだ様子を抽象的ながらも的確に表していると私は考えます。しかも、ここでの「虹」の数5つは、カラヤンが遺したマーラーの交響曲録音数と奇妙に符号しているのです。

 マーラーの音楽を、完全に純粋な音響芸術としてケーゲルは表現しました。ここには人智は否定されています。まさに虚無であり、それ故の冷たさを補完するような心情を聴き手は自ら持たなくてはなりません。カラヤンは巷で「マーラー的」と考えられているものを排除してきました。したがって耽美的な音響のみの意味性のない演奏と捉えられています。しかし、ケーゲルが採ったアプローチと違い、カラヤンはもっと温かさを通わせて極上の平穏を実現させているのです。この両者がほぼ同時期に東西ドイツで為し得ているという偶然を、私はとても感銘深く受け容れています。

 

2009年9月8日、An die MusikクラシックCD試聴記