「わが生活と音楽より」
わたしのカラヤン 第7章:
カラヤンのマーラーについての管見

第3節 カラヤンのマーラーに関する妄想
■ 第1項:第5番

文:ゆきのじょうさん

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 本節では、カラヤンのマーラーを録音順に、比較ディスクとともに見ていきたいと思います。ディスクは第1節第2項で一覧させていただきましたが、各々の曲において再度掲載させていただきます。

 

■ 第1項:第5番

 

 本項では、まず比較ディスクから見ていくことにします。

比較ディスク:

CDジャケット

マーラー:交響曲第5番

レイフ・セーゲルスタム指揮デンマーク放送交響楽団
録音:1994年4月20-22、25日、デンマーク放送コンサートホール
CHANDOS (輸入盤 Chan 9572(12))

 セーゲルスタムの指揮するマーラーは、拙稿で採りあげたブラームスと同様に実に個性的なものです。しかしよく聴くと決して独りよがりの解釈ではなく、曲の構造からみて適切と思うテンポを幅広く設定していて演奏しているのだと考えます。この点で特に第二楽章が実に分かり易く聴くことができます。私がセーゲルスタムのディスクを採りあげたのは、しかしながら、分かり易さが理由ではありません。この演奏が持つ独特の透明感です。

 ブラームスではおどろおどろしい感じがするほどのどっしりとした音楽をしていたので気が付きませんでしたが、セーゲルスタムはとても大きく音楽を動かすのに響きが不思議と混濁しません。それも、ある著名指揮者の代名詞のように引用される「レントゲン写真のような」という解体されたような透明感ではなく、初秋の澄み切ったそよ風が吹く晴れ渡った山間でひんやりとしていながらも空気の動きを感じるような、もっと動的な透明感です。シベリウスでも同じ印象が与えられるので、これはセーゲルスタムの特質の一つと考えます。即興的とも思えるテンポの揺れも周到なリハーサルの賜物でしょうし、何よりもこれだけの響きの透明さが確保されるためにはかなりの耳の良さと抜群のバトンテクニックがないと無理でしょう。もちろんオーケストラにも相当な技量が要求されます。

 セーゲルスタムが創り上げたマーラーの音楽が、マーラー自身が求めた音楽だったのかはもちろん分かりません。セーゲルスタムのマーラーは、世評ではどちらかというと「爆演」系として捉えられていますが、いわゆる「マーラー的」とする向きは少ないようです。その理由の一つが、上記の「動的な透明感」ではないかと、私は考えます。換言すれば第2節第2項で考えた通り、「マーラー的」演奏では「透明感」というものはア・プリオリには存在しないことになります。マーラーのスコアに内在する(と私が勝手に考えている)響きや音のずれがもたらす効果は「透明感」とは相容れないものなのだからです。

 セーゲルスタム盤は、したがって、世評で語られている「マーラー的」(このような表現が欧米でも『常識化』しているのかは知りませんが・・)とは別に次元で為し得た一つの名演であるという点で、私には欠かせないディスクです。

CDジャケット

マーラー:
交響曲第5番嬰ハ短調

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー

録音:1973年2月13-16日、ベルリン、イエス・キリスト教会
西独DG (輸入盤 415 096-2)

 カラヤンが初めて録音したマーラーの作品でした。もちろんセールスポイントにも事欠かずに、冒頭のトランペット・ソロに若手を起用したと謳っていました。このディスクが初めて出た頃は、あたかも天才「少年」トランペッターというような売り文句だったように記憶していたのですが、実際は当時23歳であったマルティン・クレッツァーだったそうです。確かに名だたる猛者たちが集っていたベルリン・フィルに突然登用された若造だったのでしょうから、子供扱いにされても仕方がなかったのかもしれません。

 そんな話題づくりに終始した感のある「第5番」でしたが、この曲を初めてのマーラー録音に選んだのは、曲がカラヤンの資質(美観?)に合っているからとの評論を目にすることが多かったように思います。しかし私が個人的に想像するに、カラヤンが「第5番」を選んだのはやっぱり1971年に製作された、この映画があったからだと信じています。

DVDジャケット

ベニスに死す

出演 ダーク・ボガード, ビョルン・アンドレセン 他
監督 ルキノ・ビスコンティ
製作 1971年、イタリア、フランス
ワーナー (国内DVD DL-11060)

 名作の誉れ高いこの映画を、たぶん私は高校の時にテレビで放映されたものを観たのだと思います。「退廃美」というコトバがこれほど似合う映画はなかったと考えますし、何と言っても全編に流れるマーラーの第5番、アダージェットが耳に残らないはずはありません。

 さて、カラヤンのディスクに戻りましょう。カラヤンがマーラーを演奏(録音)するに至ったのは、第1節第1項で引用したように:

 「マーラーを避けていたのは、マーラーの特殊な音色が、私のキャパになかったためです。マーラーは『崇高さ』と『卑しさ』が近しい状況にあります。しかし、自分が納得いく衣をかけたような音を手にすることができました。」

という言葉が残っています。カラヤンの指摘するマーラーの「崇高さ」と「卑しさ」が何だったのか、ぜひインタビュアーに突っ込んでいただきたかったところですが、そこの記録はありませんので、あとは想像(妄想)に頼る他ありません。「崇高さ」は後述させていただくこととして、「卑しさ」については第2節で考えてきた通り、「楽譜に書かれた音符に更に恣意性を加えること」、「マーラーの音楽(スコア)が持っている音符と響きのずれ(=濁り)」、「主観・主情が排除できないような作り」、「(松本さんの言葉を借りれば)粘着、妄想、分裂と言った気質が演奏に必要かのようなア・プリオリとしてあること」、を意味していると私自身は考えます。それでは、カラヤンがマーラーを録音しようと決断するに至った「自分が納得いく衣をかけたような音」とは何だったのでしょうか? 原文が分からないので実際はどのようなニュアンスなのだったのかは分かりませんが、文字通りであれば「衣をかけたような音」ですから、従来のマーラー演奏に何らかのベールを掛けたような効果を与えた、と読むことができます。さて、そのような観点からカラヤンが初めて録音したマーラーの交響曲である第5番を聴いてみたいと思います。

 セールスポイントであった冒頭のソロ・トランペットは呆気にとられるほど美しく、その後に続くベルリン・フィルの合奏力は卓越しています。そして聴き続けていくと、私はあることを感じざるを得なくなってきました。それは実に丁寧で一つ一つ紐ほどくような演奏だな、ということです。第一楽章においても、特に金管楽器などが粗野に咆哮するような音楽がくり返されるのですが、そこをカラヤンは(響きの重ね合わせや、おそらくは和声としても)不協和なものを美しく響かせることに腐心していると思います。これを全ての音に対して徹底させています。最後の驚くばかりの深いピチカートですら、きっと何度もリハーサル(あるいは録音し直し)をしたことでしょう。その結果的には丁寧で実に分かり易い音楽であるという印象を持つのですが、反面勢いを持って前に突き進む要素は希薄になります。私は第一楽章でのカラヤンのマーラーへの向き合い方は、大変誤解を招くかもしれないことを承知の上で申し上げれば、ブルックナーにおけるチェリビダッケの音楽作りととても似ていると感じました。

 第二楽章になってもカラヤンの向き合い方は変わりません。フレーズの移り変わりは自然な呼吸で何事もなかったようにやり過ごし、急に音が細かく書き込まれることでインテンポでは絶対揃わないだろうと思う箇所も、巧みにテンポをわずかに緩めて見事に乗り越えてしまっています。弦楽パートは(もちろん録音上の効果もあるでしょうが)これ以上無理だろうと思うレベルを更に超えて強弱とニュアンスを込めています。このディスクに限らないのですが、カラヤンのマーラーに対しての非難は、「深刻さがない、深みにかける、内面性が欠ける、薄っぺら」「人工美の世界、ただ美しいだけ、(批判的に)耽美的」という論評を目にすることが多いのは事実です。これらの言説の根底には第2節で書かせていただいたような「マーラー的」「ユダヤ的」演奏が絶対的であるという前提があります。私は「マーラー的」「ユダヤ的」というものがア・プリオリとして存することに納得できていないので、これらの批判を、共感をもって受け容れることができないでいます。第二楽章最後の頂点での有無を言わせない盛り上げ方を聴くと、ますますその感を強くしてしまうのです。

 第三楽章は第2節第2項で採りあげたブリッグス編曲オルガン版で感じたように、楽譜通りにきちんと演奏すると陳腐さが際立つような危険を孕んでいると思います。ここでカラヤンは(私が想像するに)、前の2楽章とは異なるアプローチをしたのではないかと邪推しています。ここでの演奏は丁寧さよりも勢いが勝っています。目立たないようにポルタメントすらかかっていますし(スコアの指定通りなのかもしれませんが・・)、そして驚くことにアンサンブルが多少乱れることも辞さなかったようです。もちろん周到なリハーサルを経ていることは間違いありませんが、それまでの微に入り細にわたるような磨き上げ方ではなく、ほぼ一発録りのような推進力を重視していると感じます。

 以上のように、第5番においてマーラーがスコアで繰り出す様々な仕掛けや試みに対して、カラヤンは様々な試みをもって立ち向かっていると私は思いました。そして、その試みはかなりの部分で成功していると言えます。しかし、一方においてカラヤンに課題も残したのではないかと想像します。すなわち第5番においては「自分が納得いく衣をかけたような音を手にすること」については、未達成だったのではないかという疑問です。

 カラヤンは第5番の録音を1973年2月16日に完了しています。そしてその翌日の2月17日には演奏会に掛けているのです。LPとしての発売日は調べられませんでしたが、編集は後回しになった可能性があります。当時の覇気溢れるカラヤンとベルリン・フィルだから為し得たのでしょうが、それにしても大学祭前日のような強行スケジュールです。

 第一楽章と第二楽章でカラヤンが試みた、スコア上の(カラヤンが考える)問題に対する解決は、第三楽章での勢いによる解決とは方向性が異なります。したがって聴いた印象では一貫性がないようにも感じます。元々のマーラーの音楽がそうなのだと言ってしまえばそれまでではありますが、それではカラヤンは「マーラー的」演奏観の呪縛から解き放たれていないことになります。第四楽章においては天下のベルリン・フィルの弦楽奏者たちが渾身の気合いを込めて演奏しています。録音効果もあるでしょうが、これほど倍音が美しく響く高貴なアダージェットはありません。しかし、映画「ベニスに死す」で使われた時に「記号」として刻まれた「退廃美」という匂いは皆無であり、「第5番の第四楽章」としての位置づけ以上の表現は採用していません。さぞや連綿とやってくれると期待した私は肩すかしをくらった気持ちになりました。

 ここであわてて付け加えますが、だからカラヤンの第5番が中途半端であるとか、「外面的」であるという決まり文句を適用させようという考えはありません。第五楽章では、あの複雑な音楽をかくも見通しよく、ここぞというところでの聴かせどころも事欠かず、それでいて洗練の極致の響きを実現しています。これは、ただ美しく演奏しようとか、卓越した技量のオーケストラを駆使すれば出来るというような代物ではありません。第5番でのカラヤンが試みた方法は、論理でスコアを分析して、オーケストラの類い希な能力で真っ向から挑んだ所作だったと考えます。

 以上の、カラヤンが第5番で試みた演奏姿勢は余人には為し得ない次元での方法論であり、カラヤンだからこそ出来たとも言えると考えますが、同時に、カラヤンはこれで「自分が納得いく衣をかけたような音を手にすること」が出来たとは考えていなかっただろう、と考えます。これはカラヤンが「マーラー的」なものから背を向けて演奏した帰結であって、ここには影としての「マーラー的」記号が排除されていません。「マーラー的でない」演奏を目指す行為が、「マーラー的」演奏とは何かと同義になってしまう危うさがここにあると思います。

 第5番はカラヤン最初のマーラー録音としての話題は獲得しましたが、音楽評論家たちの格好の攻撃の的となったのも事実です。一般人もカラヤンの第5番を語ることは異端者扱いで魔女狩りにもあうような暗黙の圧力があって、語られることは少なかったと思います。それが変化するのは1995年になってからで、かのオムニバス盤である「アダージョ・カラヤン」の冒頭に第5番第四楽章は用いられたことにあります。このディスクはベストセラーになり、その余りの売れ行き故に巷では「カラヤン自身が企画して一儲けした」という都市伝説もあるようです(もちろんカラヤンは1989年に死去していますから企画できるはずはないのですが)。それにしても何たる皮肉でありましょう。満を持して自信を持って世に送り出した時には無視に近い散々な批評を受けて、自分の意志ではない企画もので、初めて第5番は(アダージェットだけではあるものの)広く認められたのです。

 「美と純粋さの創造は精神的行為だ。精神への到達は感覚を通しては絶対に不可能だ。感覚への完全な優位を保つことによってのみ、真の英知に到達できる。さらに真理と人間的尊厳へも。」

 映画「ベニスに死す」より、主人公アッシェンバッハの台詞

 

2009年9月5日、An die MusikクラシックCD試聴記