「わが生活と音楽より」
ヴァレンティーナ・リシッツァ ピアノ・リサイタルを聴く

文:ゆきのじょうさん

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ロザリオのソナタ 2008年 日本公演パンフレット表紙

ヴァレンティーナ・リシッツァ ピアノ・リサイタル

ラフマニノフ:
練習曲「音の絵」イ長調 作品39の6「赤ずきんちゃんと狼」
前奏曲ト長調 作品32の5
前奏曲嬰ト短調 作品32の12
前奏曲ロ短調 作品32の10
前奏曲ト短調 作品23の5

ベートーヴェン:
ピアノ・ソナタ第23番ヘ短調 作品57「熱情」

休憩

シューマン:
「子供の情景」 作品15

タールベルク:
ロッシーニの「セビリアの理髪師」の主題による大幻想曲 作品63

リスト:
死の舞踏(オリジナル ピアノ・ソロ版)

アンコール
リスト:
ピアノ曲集「愛の夢」から第3番変イ長調
パガニーニによる大練習曲から第3番嬰ト短調「ラ・カンパネラ」

ベートーヴェン:
バガテルイ短調 WoO59「エリーゼのために」

ショパン:
ワルツ第6番変ニ長調 作品64の1「子犬のワルツ」 .

2009年1月19日、トッパンホール

拙稿「ヴァレンティーナ・リシッツァを聴く(観る)」で書いた、リシッツァの初来日リサイタルを聴いてきました。本稿で感想を書かせていただくのですが、その際にお断りしなくてはいけないことがあります。

 まず、以前にも書きましたが、私はピアノが弾けません。従ってまったくの素人の感想となることをお断りしなくてはなりません。この理解不足による誤解が多々あることを予めご了承ください。

 さらに、私はさほど多くないコンサート体験においては、ピアノ・リサイタルはほとんどありません。今回のプログラムの曲も生で聴いたのは初めてです。沢山のピアノ・リサイタルを聴きに行っている方なら当然と思われる事柄についても、私にとっては初めての経験です。それ故の表現の拙さがあることも、予めお詫び申し上げたいと思います。

 

■ トッパンホール

 

 今回の会場であるトッパンホールというところも、初めて行きました。サイトにあった地図をプリントして、それを頼りに飯田橋駅から歩いて何とか辿り着きましたが、聴衆の中には道に迷ったと話していた方もいました。「ロザリオのソナタ 2008年■日本公演 を聴く」で行った王子ホールと同様、凸版印刷創業100周年を機にトッパン小石川ビルに併設されたクラシック音楽専用のホールだそうです。座席数は408席と記載されていますので、王子ホールよりは少し大きめです。浮き構造という特徴を実感することはできませんでしたが、王子ホールよりは柔らかい響きのように感じました。座席は列ごとに半分ずれて並べられていますから、直前の方のためにステージが見えづらくなるということは避けられています。私の座席は前から数列目のほぼ中央。ピアノが正面に見えるところでした。鍵盤は見えず演奏する手指は残念ながら分からない席です。

 集まってきた聴衆は、ロザリオのソナタの時とは違った印象がありました。「○○センセイ」なという会話があちこちから聞こえてきます。ピアノを中心とした音楽家、教育者が多いのかなと思いました。当日券も売られていて、比較的年輩のご婦人方々が賑やかに買っていました。私の座席の周囲も年輩のご婦人たちが座っており、2列向こうの知り合いに声をかけたりしておりました。一方では若い男性の姿も目に付き、まさに老若男女という構成です。

 さて、演奏会が始まる前に、私は並々ならぬ緊張感を覚えていました。その理由は入場の際に渡された当夜のパンフレットにあります。パンフレットには有り触れた曲目解説ではなく、リシッツァ自身が執筆したという「プログラムノート」(岡本稔 和訳)が載っていたのです。それは各々の曲の解説ではなく、その曲の周辺や、その曲を自分はどのように考えているのかということが、多くの引用なども交えながら書いてあります。それらは、決して知識を誇示するような衒学的なものでもなく、蘊蓄や自慢話のようなものでもありません。淡々と書いてありながら強烈な主張があります。「ただものではない」と思いました。(以下の文章の小見出し《》として一部引用させていただきます。あくまでも文章の一部ですので、その旨ご理解をいただきたいと思います。)

 静かに演奏会開始のアナウンスがあり、場内が暗転してリシッツァが登場しました。

 

 

 

 登場したリシッツァを見て、すぐ思ったのは「なんと大きい人なんだ」ということでした。緩やかにウェーブしたブロンドの髪はDVDよりは短めでしたが、ややうつむき加減に大股でも小股でもなく歩いていても巨人のような迫力があります。ピアノの脇に立ってわずかに膝を折って会釈をしたのですが、まるで女王が配下を睥睨しているかのようです。服は肩から胸元まで顕わになった黒いドレスです。本来は腰あたりで結ぶためにあるのではないかと思うような長く黒い帯が左右2本ずつ、まるで十二単のように後ろに引きずっています。それらをそのまま後ろに流しておいて、椅子に座ります。演奏会前に見たときには椅子が低いと思ったのですが、実際に座るとさほどには感じません。しかし、身体全体から迫ってくる力は映像で見たとき以上に感じます。

 

■ 《ここにはハッピーエンドはなく、あるのはもうひとつの血だらけの歯だけ・・・》(作品39の6についてのリシッツァによるプログラムノート、岡本稔 和訳 以下《》部分は同じ)

 

 座った後、リシッツァはまるで瞑想するかのように前屈みのまま微動だにしなくなりました。しかし、身体全体から発している霊気が炎のように強烈さを増しているのが如実に感じます。場内は水を打ったように静まります。ゆっくり動き始めた両手が鍵盤に振り下ろされて作品39の6が始まりました。これは動画サイトで話題になった曲でもあります。いきなりそれを演奏会の最初に弾いたのです。ピアノが壊れてしまうのではないかと心底思いました。DVDや動画サイトでも感じたのと同じく、リシッツァは身体全体を使うのではなく、手を振り下ろすだけでピアノは目一杯振動するのです。低音は地響きをたてて、高音は突き刺すように吹き荒れます。続く前奏曲も合わせて、まるで一連の曲のようにリシッツァは弾ききっていきました。音には一点の乱れも曖昧さもありません。演奏会前はあれだけ饒舌だった年輩のご婦人がたも、演奏が終わると呆然として拍手をしていました。度肝を抜かれるとは、まさにこういう局面で使う言葉だなと思います。

 一方において、私は幾つかの点に気づきました。まずリシッツァの動きが結構前のめりになっていくことが多かったことです。冷徹に弾きとばすのではなく情念が満ちています。これは以前の動画にはなかったことでした。もう一点は、ピアノの音色です。幾種類もの色彩のあるフォルテを繰り出していくのです。圧巻だと感じました。他方において、多少の違和感もありました。ピアノの音色がある音域を境にして不自然に変わるようにも感じたのです。今回リシッツァが使っているピアノは、愛用しているベーゼンドルファーではなく(おそらくホールに常備されている)スタインウェイであることが関係しているのかもと考えました。まったくの憶測ですが、両者のピアノには構造上、決定的な何かの違いがあり、ベーゼンドルファーに慣れたリシッツァの奏法では、その違いからの音色の変化がはっきりと聞こえるのかもしれません。それはペダリングでの響きの処理のやり方がディスクで聴くものとは違うことにも関わっているのかもと思いました。

 轟音を残して全5曲の演奏が終わると、万雷の拍手です。顔色一つ変えずにリシッツァはピアノを後にしました。

 

■ 《ロシア・ピアノ・スクールによって普及された、ただ速く弾く「伝統」は全く無価値である。》(「熱情」第3楽章について)

 

 前半2曲目の「熱情」は、当夜の演奏会において、おそらく一番批判を浴びる演奏だったのではないかと思います。リシッツァは再登場して、椅子に座るとぐいと前に引きずりました。鍵盤との距離を変えた意味はよくわかりませんが、弾き始めた「熱情」は、ディスクで聴いた数少ない演奏のどれとも違ったものでした。一言で乱暴に言ってしまえば「浪漫的」ということになります。しかし奇をてらったものでも、即興的なものでもなく、考え抜いた結果、これが(現在)自分が信じる演奏なのだという揺るぎない信念で演奏されていると感じました。

 テンポは次々に変わっていきます。跫音になると轟音が鳴り響き、弱音になるとこの上もなく密やかになります。第2楽章も含めて全体は堂々たる風格に満ちており、往年の指揮者によるベートーヴェンの交響曲の演奏を聴いているような気持ちにもなります。女性が弾いていることも忘れて、益荒男ぶりに圧倒されてしまいました。自宅に帰ってから、私は手元にあるこの曲の演奏を幾つか聴いてみました。曲全体の大きな流れからみたときには当夜にリシッツァが弾いた演奏は決して奇異でも不自然でもなく、全体の構造からみたときにあるべきものを、拡大して聴かせたのだと思いました。これは確信がなければ出来ないことです。第2楽章では比較的テンポを動かさないのですが、音楽にはドラマがあります。テンポが止まりそうなくらいの和音に続く第3楽章では確かに「もっと速く弾ける」ことを感じさせながらも踏みとどまって、その代わりに一つ一つの音にえぐるような音圧をかけていきます。楽想の変化があると、突然弾けたように推進力が加わったりもします。最後のプレストになるとリシッツァのピアノは全開となり、堂々たる終結を迎えました。

 私には、この「熱情」は他には滅多に聴けぬ演奏だと感じ入ったのですが、個性が強すぎるとか、本来の曲の姿を歪めていると感じる人がいても無理はないとも思います。

 

 

 

 休憩に入って、アナウンスで「DVDを販売しています」とありました。既に持っているものだろうと思いながらも、様子を見に行ったところ、やはり以前紹介した3点でしたが、何とあっという間に全て完売したとのこと。それでも欲しいという人が絶えず、売り子はやむなく住所、名前を書いてもらって後日送るという対応をしていました。

 ロビーでの人々の会話もいろいろでした。やはり「熱情」の解釈に批判的な声もありました。「何かが憑依したようだ」とか「ただただ凄い」という感嘆もあり、「明晰な演奏」という声もありました。「腕と指が長い」という指摘も聞かれました。

 アナウンスがあって聴衆は席につきました。最初は多少空席があったのですが、ふと気づくとほぼ満席になっていました。客席が暗転して後半が始まりました。リシッツァは着替えてくるのだろうと予想していたのは見事に外れて、同じ衣装での登場となりました。

 

■ 《大人が、大人が弾いて楽しむために書いた作曲である。》、《「夢」は子供たちがみる夢の10倍は長いだろう。たとえ、最後まで夢を見続ける夢見がちな子供と比べても。》(子供の情景について)

 

 ちなみにシューマン自身は「子供心を描いた、大人のための作品」と語ったと伝えられているそうです。さて、この曲に対しても、最初にリシッツァは椅子をわずかに前にずらしていました。前半の爆走するような演奏はやや陰を潜めて、柔らかい音色を多く取り入れながらの演奏でした。「トロイメライ」もテンポはあまり揺れずに弾いていきます。これは最後の「詩人は語る」の伏線だったのではないかと、今なら私は思います。テンポはどんどん遅くなり、消え入りそうに、もう止まってしまいそうになっていきます。リシッツァは旋律すら崩壊させて虚無を満してきます。途中、本当に音楽が止まったのかというくらいになったとき、私の耳にかすかに短い旋律が聞こえたような気がしました。それはリシッツァが口ずさんだのか、別のところから聞こえたのかは分かりません。空耳だったかと思います。しかし、この瞬間が体験できたことで、個人的には前半の「熱情」と並んで、この「詩人は語る」が聴けたことが、当夜に行って本当に良かったと思っています。

 

■ 《結局、彼は王子さまだった。それに対してリストは平民、ショパンは見せかけの貴族だ。ノブレス・オブリージュ「貴族の義務」!》(タールベルクについて)

 

 タールベルクはリストと当時の欧州楽壇で覇を争い、演奏で試合をしたという逸話は知っていましたが、その曲はディスクでも聴いたことがありませんでした。もちろんロッシーニの主題を用いたこの曲も初めて聴いたわけです。演奏は確かに分かり易いものでした。タールベルクは演奏で派手なパフォーマンスをせずに「鍵盤は、ビロードで出来た骨のない手と指で摺るように押さえなければならない」と言ったという逸話に倣ったわけではないでしょうが、ここでのリシッツァはDVDで見たように上半身はほぼ直立不動で、そして愉しげに弾いていきます。途中、弾いているフレーズに合わせて歌うように口を動かしてもいました。

 

■ 《結局、誰もが自分の考える地獄というものを創造するのだから。それを制限するのはその人の想像力しかあり得ない。》(死の舞踏について)

 

 最後の「死の舞踏」についても、管弦楽伴奏版はディスクで聴いたことがありましたが、ピアノ・ソロ版は初めてでした。管弦楽伴奏版でも難曲だと思っていたのに、ピアノ1台ですべて弾いてしまうというのを生で聴いたときには文字通り「空前絶後」としか思えませんでした。流石のリシッツァも顔面が紅潮してきて、グリッサンドもこれでもかと弾きとばしていきます。ピアノが壊れてしまうのではないかというくらいに楽器全体が響きます。音楽は混沌を極めながらも、怒濤の頂点を目指します。そして必然であったかの如く、あっけなく断ち切るような幕切れとなりました。

 万雷の拍手がありましたが、此処でも下品なブラボーはない代わりに熱狂的な熱さを感じさせる拍手でした。

 アンコールでリストを弾いたのはある程度予想できましたが、まさか「エリーゼのために」を弾くとは思いませんでした。まるでショパンを聴いているような濃密な音楽を展開していき、当然のように最後は「子犬のワルツ」で締めていました。本編だけでも十分満たされたのに、アンコールでも更に充実感が得られたのは幸せでした。

 

 

 

 終幕後、サイン会があるというので参加しました。待っていてどんな大柄な女性なのだろうかと思っていましたら、意外なほど小柄で細身の女性が登場したのです。ステージでは途方もない霊気を漂わせていたのに、私服になるとすれ違っても分からないくらいになっていました。声もちょっと舌足らずで可愛らしく、ちょっとあわてん坊な感じもありました。実際のところ、それはステージ上でも少し垣間見られていたのです。「子供の情景」を弾き終わって退場するときのこと、ドレスに靴が絡まってちょっと転びそうになったのです。リシッツァは「あら大変、転けちゃったわ、あぶない、あぶない」という感じで両手を少し広げて、スキップ気味に舞台袖に入ったのです。

 聴き手を鷲づかみにするような、身体全体から沸き上がる強烈な霊気。演奏中、憑かれたように変容していく音楽、そしてどこか純粋さを感じる素の表情・・やはり「のだめ」に近いところにいるピアニストの一人だと勝手に思いました。

 

 

 

 リシッツァは隣国の韓国には何度もツアーに来ているそうですが、日本は初めてでした。今回のただ一度のリサイタルがどのような波紋を広げるのかは分かりません。出来れば今度は、愛用のベーゼンドルファーでのリサイタルを催して欲しいと思うと同時に、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集などの新盤を出して欲しいと願わずにはいられません。

 

2009年1月22日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記