「わが生活と音楽より」
随想 マリナーとピノックを聴いて文:ゆきのじょうさん
はじめに
本稿で私が述べていることは、個人的体験に基づく考察です。何ら学究的に検証したことではありません。真実を探求するなら文献などの調査が必要ですが、それは専門家に譲ることにしたいと思います。あくまでも一音楽愛好家である自分が聴いてきた経験からの個人的な随想として読んでいただければと思います。
第一部 ネヴィル・マリナー
天才ペーター・ダムのモーツァルトを聴く(文:伊東さん)
「マリナー指揮アカデミー室内管の演奏は、言うなれば大変スポーティで、流麗そのもの。スピーディな演奏ともいえる。さらさら流れる音楽は、一般大衆が持つモーツァルトのイメージにぴったりかもしれない。しかし、はっきり言ってつまらない。退屈する。」
マリナーの「惑星」を聴く(文:青木さん)
「とにかくこの演奏、指揮者の個性というものがほとんど感じられない。」「その音楽作りはやっぱり中庸的かつ最大公約数的、すべてにわたって妥当な表現で、指揮者の際立った主義主張は感じられないのだった。」
「外面的効果を狙わずにこのような高水準を達成することがいちばん難しいのだとすれば、マリナーはやはり実力者ということになる。」
エニグマ変奏曲を聴く(文:青木さん)
「マリナー盤の大きな特徴はやはり「フィリップスの好録音によるコンセルトヘボウ・サウンド」ということになってしまい、マリナー自身の個性が浮き彫りになることはありませんでした。」
これらは、An die Musik誌上でのサー・ネヴィル・マリナーという指揮者についての評論です。あと「私とカペレ」において青木さんが、マリナー指揮カペレの「ボレロ」について書かれていますが、マリナーの指揮について言及されていません。
このように、当サイトにおけるマリナーという指揮者の評判は(一部の好意的意見を除けば)、散々と言っても良いでしょう。「流麗でさらさら」「没個性」「中庸」これらがマリナーについての評判です。そして、このようなマリナー評はよく目にすることが多く、さらに私自身もまったくその通りだと思っていますし、この稿を書いているときもその考えは変わりません。好きか嫌いかと言われれば、嫌いの部類に入ります。そのマリナーという指揮者を、私なりにどう考えているのか? 自分自身の考えを整理するためにも、今回この稿を書いてみることにしました。
青木さんが書かれているように、マリナーの録音は膨大です。オペラ録音は少ないのですが、バロック、ロマン派、イギリス音楽やシェーンベルクなどの近代・現代音楽までレパートリーは幅広く、協奏曲のバックでの録音を入れなくてもその数は間違いなくカラヤンをしのぎ、世に送り出したディスクは史上最多でしょう。ところが、「ではマリナーの代表盤は何か」と問われても、これというものを出せる人は少ないでしょう。ディスコグラフィーもない状態ですし、マリナー愛好家が立ち上げたサイトすらも調べた範囲では国内外に存在しません。
マリナーは、元々ヴァイオリニストでした。1952年にロンドン・フィルに入団。1956年からロンドン響の第二ヴァイオリン首席を経て、コンサートマスターとなって1968年まで在籍しました。その間、1959年にアカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ(アカデミー室内管。以下ASMF)を創設したとのことです。ASMFは常設・固定メンバーの団体ではなく、オーケストラ奏者たちが集い、曲毎にメンバーも入れ替わる柔軟な構成だったようです。マリナーはこのASMFを指揮して意欲的に沢山の録音を行います。私個人的なまとめ方をさせていただければ、この頃のマリナーのコンセプトは、一つは自国イギリス音楽の録音、もう一つは既存の大オーケストラでの伝統に囚われない形でバロック音楽からモーツァルトまでの楽曲を再生すること、にあったのではないかと思います。それまでの大指揮者と大オーケストラの余技のような扱いであったバロック音楽を等身大の演奏にするという気概が、当時のマリナーにあったのではないかと考えます。そしてその気概こそが、マリナーの不幸の始まりではなかったかとも考えます。マリナーの録音から、その事例を挙げてみます。
ヨハン・セバスチャン・バッハ
ブランデンブルク協奏曲全集
ネヴィル・マリナー指揮 ASMF
1971年、ロンドン
欧フィリップス(輸入盤 26088/89)この録音でのマリナーの意欲的な試みはどうでしょうか? 第1番では第三楽章を除いて、通常のバロック期の協奏曲の形式にしたり、第2番ではトランペットではバランスがとれないということでコルノ・ダ・カッチャにしたり、第3番の二つの和音で終わる第二楽章ではヴァイオリン・ソナタ ト長調BWV1021のアダージョを転用、第5番でのチェンバロのソロを短いヴァージョンにしたりするという、当時チェンバロで参加していたサーストン・ダート(この全集録音中に急逝)の研究成果を積極的に取り入れて、刺激的なディスクとしました。その9年後にマリナーは再びこの曲を録音します。
ヨハン・セバスチャン・バッハ
ブランデンブルク協奏曲全集
ネヴィル・マリナー指揮 ASMF
1980年、ロンドン
欧フィリップス(輸入盤 470934)ヴァイオリンはシェリング、リコーダーはペトリ、オーボエがホリガー、フルートをランパルとまさにオールスターキャスト! 豪華布陣! なのですが、71年盤にあった気概が80年盤にはまったくと言って良いほど希薄です。名手たちの妙技は楽しめますが全体の表現は凡庸、マリナーの主張も見えてきません。同じことはモーツァルト/レクイエムでも言えます。77年の最初の録音は当時珍しかったバイヤー版、でも90年の再録音では通常のジュスマイヤー版を使っています。
この間にどうしてマリナーは変節してしまったのでしょうか? 以下は私個人の体験からの暴論でしかないのですが、そのきっかけは次のディスクの登場にあると思います。
ヨハン・セバスチャン・バッハ
ブランデンブルク協奏曲全集
グスタフ・レオンハルト 指揮とチェンバロ
フランス・ブリュッヘン リコーダー、フラウト・トラヴェルソ
ジキスヴァルト・クイケン ヴァイオリン
ビーラント・クイケン、アンナー・ビルスマ チェロ
他
1976/77年、アムステルダム
欧ソニー(輸入盤 SB2K62946)それまでも、コレギウム・アウレウム合奏団のようにピリオド楽器を用いた演奏は出ていました。でも物珍しさだけが目立っていたように思います。このディスクをバッハ自筆楽譜のファクシミリ付きLPセットで聴いたときの衝撃は今なお忘れられません。今でこそ当たり前になった独特の弦楽器奏法を初め、ここには今新しい芸術が生まれたという新鮮さがありました。そして同時に、モダン楽器でのバッハ演奏が一時代前のものになってしまった瞬間でもあったと思います。
マリナーがこのレオンハルト盤を聴いたのかどうかは分かりません。レオンハルト盤の登場は、結果的にはマリナーがやろうとしていたことが結実した証とも言えますが、一方でマリナーがモダン楽器でやるべきことがバロック音楽の世界ではなくなってしまった、とも言えます。だから再録音ではオールスターでの演奏しかなくなってしまったのだと私は考えています。その後、モーツァルトの交響曲全集をホグウッドがピリオド楽器で発表していく中で、マリナーは次第にバロックや古典派から離れて、ロマン派などの楽曲をディスクにしていきます。ASMFからも離れて大オーケストラの常任になったり、冒頭で取りあげられた客演での録音も行います。しかし、私にはそれらを聴いても70年代前半までの活きの良さ、輝きが感じられません。中庸で流麗、仕上げの美しさは不変ですが、何かが失われたように感じます(その失われた何かを知る手がかりは、ピノックについての考察で述べたいと思います)。
マリナーはパワーヒッターではなく、こつこつと質の良い仕事をしてきた職人であることは大変評価できると思います。argoやPhilipsなどの古いLPを最近購入して聴いても、どれも大きなはずれがありません。それがマリナーの個性なのだと言われれば、そうなのだと思います。個性に乏しいと言われた指揮者は多くいます。その中で晩年や死後に大きく再評価された方も少なからずいます。マリナーは1924年生まれと言いますから現在81歳になります。
第二部 トレヴァー・ピノック
今、購入したレコードを袋に入れながら店主は言いました。
「良い演奏だろう? アルヒーフが引き抜こうとするだけのことはあるよな。でもね・・・」
「でも?」と店主から袋を受け取った私は聞き返しました。
「・・・僕はCRD(レーベル)に残った方が良かったと思うけどね。」ピノックという存在は以下のディスクを聴いたときの衝撃とともに私は知ることになりました。
C.Ph.E.バッハ:
弦楽のための6つのシンフォニア Wq182
トレヴァー・ピノック指揮イングリッシュ・コンサート
録音:1979年、ロンドン
欧ARCHIV(輸入盤 4775000)飛ぶ鳥を落とす勢いという比喩では到底追いつかない、ぼやぼやしていればこちらの魂を持って行かれそうな、そんな途方もない勢いを持つ演奏です。レオンハルトやアーノンクールらの演奏がピリオド楽器を自分のものにしようとする格闘を聴き手に迫るのに対して、ピノックの演奏は既にピリオド楽器が自分たちの芸術表現の道具となっていると感じました。そして若々しさと楽しさ、ひたむきな情熱が如実に伝わってくる演奏でした。
ピノックは20歳の時、1966年にフラウト・トラヴェルソのシュテファン・プレストン、チェロのアンソニー・プリースらとのガリヤール・アンサンブルで楽壇にデビューしたそうです。1973年、ピノック27歳にして、ヴァイオリンのサイモン・スタンデイジらを加えてピリオド楽器の演奏団体イングリッシュ・コンサートを結成し、同じ頃に台頭したホグウッド、ガーディナーらとともに新世代のピリオド楽器の旗手として注目されることになりました。
その頃のCRDというマイナーレーベルでの録音はCDではImpogramレーベルでまとめて聴くことができます。アルヒーフでメジャーデビューする前の伸び伸びした屈託のない、そして意欲的な演奏がそこにあります。
アルヒーフに移籍してからも、ピノックの躍進は続き、次々に録音を行っていきます。私は夢中で買い求めました。ヘンデルの「水上の音楽」は今なお愛聴盤ですし、合奏協奏曲集も典雅で響き合う音楽に酔いしれました。バッハのチェンバロ協奏曲集時は日本レコードアカデミー賞を受賞しました。LPからCDへの移行期であった当時、LPにこだわっていた私にピノックのLPボックスが「最後通牒」を突きつけたことも一つの思い出です。1987年、ヴィヴァルディの「調和の霊感」の箱を開けたときに、それまでLPサイズで入っていた解説書がプラスチックの枠に入れられたCDサイズの小さな解説書になっていました。LPの時代は終わったのだなとその時に悟りました。CDになってからの翌1988年、ヘンデルのメサイヤと、もう一つのディスクが私の心を捉えました。
コレルリ
合奏協奏曲集作品6
トレヴァー・ピノック指揮イングリッシュ・コンサート
録音:1987/88年、ロンドン
西独ARCHIV(輸入盤 423626)私にとってのピノックの最盛期はこの年だったのだと思います。各パートの響きは溶け合い、大きな起伏をもって楽曲が奏でられます。声高でも、刺激的でもない、等身大で音楽を心から楽しんでいる様が伝わるような気品のあるディスクでした。実際、この録音は1989年の古楽バロック賞を受賞しています。
しかしこの当時、創成期の盟友だったプレストンやプリースはイングリッシュ・コンサートから去っており、その後スタンデイジも独立します。90年代になると私はピノックのディスクを追い求めることはなくなっていました。ピノックは1993年から94年にかけてモーツァルト/交響曲全集を発表しますが、そこには往時の輝きは失われていると感じていました。モーツァルト交響曲全集リリース後にはアルヒーフとの契約はうち切られて、ピノックの新盤は目にすることはなくなりました。2003年になりピノック自身もイングリッシュ・コンサートから去っています。
ピノックの何処に私は魅力を感じたのでしょうか? やはりアルヒーフデビュー時の、はち切れんばかりの破天荒も言える疾走感だったのではないかと思います。安全運転ではなく挑戦的な表現が新時代の到来を教えてくれました。しかし、アルヒーフから新盤が出るたびにピノックの演奏は聴き心地が良いものの、表現は次第に穏当になってきたように感じます。新しいものを目指すことから今あるものを大切にしていくような演奏になっていった、されど深みが出てこない、そういう方向に向かっていったのではないか。そんな気がしています。上述のモーツァルトでも、颯爽としたテンポは以前と変わりありませんが、どこか違います。
以前ヴァイオリンを弾いていた私の個人的な感想としては、この違いの一つは運弓にあると考えています。ピリオド楽器ではモダン楽器と比べて奏法は違うのでしょうけれど、1980年代と90年代とのピノックの演奏では運弓の速度が異なるように感じます。80年代のピノックの演奏は、弓全体を弾ききるように聴こえます。この場合奏者は一斉にアインザッツを合わせる必要があるので、一つの運弓の終わりと次の始めの間には緊張感が走ります。90年代には、テンポは同じでも運弓の伸びが不足しています。あたかも(モダン楽器での話ですが)、弓の先半分程度を使っているかのようです。運弓が十分ではない時は、音の始まりはぼけてしまいます。
この違いは、図らずもマリナーの70年代初めと70年代終わりでの聴感の違いと一致します。私がマリナーの項で表現した「気概」、「活きの良さ」、「輝き」はこの運弓の違いが一つのように考えます。そしてこれと同じことがピノックでも起こってきたという感想を持っています。
ピノックは1946年12月生まれですから、今59歳です。まだもう一花という余地はありますが、現状では忘却されていく芸術家の一人になってしまっているのは残念です。
エピローグ
私自身の中では、マリナーとピノックは22歳違いで世代が異なり、何となくですが関わりが希薄な芸術家同士のように勝手に理解していました。しかし、ネットでこのディスクの存在を知って、不勉強であった私は愕然として、あわてて購入いたしました。
コレルリ
合奏協奏曲集作品6
ネヴィル・マリナー指揮ASMF
1973年、ロンドン
英DECCA(輸入盤 443862)このディスクで、なんとピノックとホグウッドがチェンバロで参加しているのです。当時31歳のホグウッドはこの作品6の校訂を行っているので参加しているのは当然と言えます。ところが、マリナーは27歳のピノックをホグウッドとともに一番最盛期だった(と私が考えている)時に登用していたのです。調べた範囲ではマリナーとピノックのバイオグラフィーには両者の関係を示す記載はありませんでした。しかし、若きピノックが、マリナーの勢いの流れに一時期でも一緒にいたということは言えます。そして、マリナーが新時代を築くことになる若者達を遠ざけるのではなく、積極的に関わろうとしたことも事実でしょう。最後にはマリナー自身がバロック音楽の分野では過去になってしまったとしても、そこには受け継がれるものがあったのだと思いたいです。このディスクが録音された年にピノックはイングリッシュ・コンサートを設立しています。
以上の考えはくり返しになりますが、勿論、資料がない状況での私個人の妄想でしかありません。しかし、73年録音のマリナー盤と88年録音のピノック盤のコレルリを聴き比べると、時を越えて、何かが通じているように感じてしまってしょうがないのです。
2006年3月13日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記