カルショーの名録音を聴く
3.ショルティとカルショー

文:青木さん

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 ショルティとカルショーの結びつきは、一般にはワーグナー「ニーベルングの指輪」全曲録音の偉業を成し遂げた二人、という側面でよく知られている。だが実際にはそれだけではなく、カルショーはショルティについて『ヴィクター・オロフとの最初の一枚以外は、何か理由があったり多忙だったりしたときを除いて、すべて私が彼と一緒に仕事をしていた』と述べている。その「最初の一枚」は指揮者としてという意味で、1949年8月にロンドン・フィルと録音したハイドンの交響曲第103番「太鼓連打」とヴェルディ「運命の力」序曲。ショルティのデッカ初録音は1947年、曲はブラームスのヴァイオリン・ソナタで、ピアニストとしてゲオルグ・クーレンカンプの伴奏を務めたものだった。

 指揮者としての二枚目は1950年11月にロンドン・フィルと録音したベートーヴェンの交響曲第4番だが、これについては本書では触れられていない。その次が1951年4月録音のスッペ序曲集で、その録音中にデッカの音楽家部長ハリー・サートンの葬儀があったという。サートンは、宣伝部でSPの解説を書いたり雑誌を作ったりという仕事に不満をもっていたカルショーに制作の仕事を与えた人物だそうで、いわば恩人の葬儀と重なったセッションということでカルショーの印象に残っていたのだろう。以後、デッカ時代におけるショルティとの最後の仕事とされるヴェルディ「レクイエム」を制作した1967年10月まで、カルショーとショルティの長い関係が続いたのだった。

 カルショーは本書でショルティについて、『私と同世代の指揮者たちで、うわべでなく本物の賞賛を勝ち取るために、ショルティ以上に懸命に働き、彼以上にそれを得た人物はいないと思う』と述べている。一方のショルティは、『ショルティ自伝』(木村博江訳,草思社,1998―以下「自伝」と表記)の中で、カルショーのことを『熱血漢で、音楽にたいする直観力も趣味のよさも持ち合わせていた』と評し、『ときには意見の食い違いもあったが、私たちは芸術的なコンビを組んで非常に満足すべきすぐれたレコードを制作できた』と述べている。ちなみにこの自伝は本書に劣らぬ面白本で、たとえショルティ本人に興味がなくても大いに楽しめること請け合い。強力にお奨めしたい。

 

■ パリ音楽院管との録音

 

 1950年代にデッカはパリ音楽院管とよく仕事をしており、モントゥー、マルティノン、ヴォルフらがフランスものやロシアもののレパートリーを録音していた。1956年5月にはクナッパーツブッシュの指揮で珍しくR.シュトラウスを録音し、続いてショルティがパリに到着。ところが、オーケストラにさほど厳しく接しなかったクナと違ってショルティは『オーケストラに挑みかかり、オーケストラも挑み返した』という。彼らはリハーサルと本番で首席奏者を交代させ、ショルティを激怒させたというのだ。そのせいで時間が足りなくなり、病気以外の理由での交代は認めない条件でセッションが延長されたものの、今度は兵役を理由に4人が交代。しかし彼らは二日後に揃って帰ってきたというから、まるでコメディのようだ。

 自伝の中でショルティは、パリ音楽院管との仕事のことを『このときの体験はショックだった』とし、延々と愚痴を書いているのが面白い。後にこのオーケストラを母体として設立されたパリ管弦楽団に係わることとなったのは、奇縁かもしれない。

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チャイコフスキー
交響曲第5番 ホ短調 作品64
ゲオルグ・ショルティ指揮 パリ音楽院管弦楽団
録音:1956年5月22〜26日 ラ・メゾン・ド・ラ・ミュテュアリテ、パリ
プロデューサー:ジョン・カルショー
エンジニア:ケネス・ウィルキンソン
デッカ(国内盤:ポリドール POCL2907)

 ショルティはこの曲をシカゴ響とも二度録音しているが、その一回目のものはテンポが遅く、二回目のものとこの演奏はほぼ同じ演奏時間。しかし基本的にインテンポのシカゴ響盤と違い、この演奏はかなりテンポが揺れ動いて落ち着きがないし、息の浅いフレージングとあいまっていかにもセカセカした印象。ショルティとしては(当時としても)完成度がかなり落ちるもので、オーケストラに対する苛立ちが反映されているかのようだ。

 そのオケの音色、特に管楽器はさすがに独特の味があり、冒頭からして引き付けられる。この曲の録音中、二日だけの兵役?に行くためセッションを抜けたのは第一オーボエ、第一ホルン、第二トランペット、第一チェロの四人だったという。ホルンの音量が一定しないのはそのためだろうか。良し悪しはともかくとして、退屈することのない面白い演奏であることは間違いないだろう。

 録音はまずまず。同時に第2番「小ロシア」も録音されている。

 

■ イスラエル・フィルとの録音

 

 1957年にデッカはイスラエル・フィルとの録音を開始し、その最初がショルティ指揮のセッションだった。本拠地であるフレデリック・マン公会堂は当時まだなく、スタッフが録音場所に選んだのは、テル・アヴィヴから車で45分もかかる村にある映画館だったという。CDにクレジットされているリション・ル・ジオンというのは、その村の名前なのだった。

 カルショーによると当時のイスラエル・フィルはバランスの悪いオーケストラで、弦楽は素晴らしく木管も満足できたが金管は水準以下だった、という。クーベリックの指揮でドヴォルザークの交響曲第8番を録音したが、『金管の不出来のために発売できなかった』そうだ。弦や木管と違って金管奏者は海外での仕事が容易に見つかるためよい人材が国内に残らなかったことが、その理由だったとのこと。

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ロッシーニ(レスピーギ編曲)
バレエ「風変わりな店」全曲
ゲオルグ・ショルティ指揮 イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1957年3〜4月 リション・ル・ジオン、イスラエル
プロデューサー:ジョン・カルショー
デッカ(国内盤:ポリドール POCL2909)

 ショルティのパリからの到着が遅れた上、デッカを歓待する村議会の予期せぬ式典があったりしたせいで、なじみのない録音場所とオーケストラが相手の仕事としては充分な時間がとれなかった録音だったらしい。しかし、さほど深みのない軽い曲のせいか、そのような裏事情を知ったうえで聴いても特に不満は感じない。キビキビした展開と明るめのサウンドが曲想に合っていて、いい演奏だ。ただ、どうしても金管に注意して聴いてしまうので、例えば5曲目の「カン・カン」(駄洒落にあらず)で繰り返される単純なフレーズが素人くさく聴こえたりしてしまう。余計な先入観を植え付けられることもあるというのが、本書を読むことの欠点かも。

 カプリング曲として、デュカスの「魔法使いの弟子」が同時に録音されている。

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メンデルスゾーン
交響曲第4番 イ長調 作品90「イタリア」
ゲオルグ・ショルティ指揮 イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1958年5月 リション・ル・ジオン、イスラエル
プロデューサー:ジョン・カルショー
デッカ(国内盤:ポリドール POCL2908)

 カルショーはその後も何度かイスラエル・フィルの録音を担当したとのことなので、本書では触れられていない1958年のショルティのセッションも彼のプロデュースと思われる。4月(別の資料では11月)にはチャイコフスキーの弦楽セレナードとモーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」という弦楽だけの―金管の出てこない―曲が選ばれているのが面白い。5月にはメンデルスゾーンの「イタリア」とシューベルトの第5番が録音されており、ここでは前者を聴いてみる。

 ショルティとしては後にシカゴ響やウィーン・フィルと録音している曲で、それらで聴かれるある種攻撃的な演奏スタイルがすでに全開となっている。猛烈なテンポでギシギシと弾かせる第4楽章がその典型で、なるほど弦は優秀だが管楽器がついていけなくなりかけているほど。第1楽章で提示部をリピートしていないのはショルティとしては異例だが、当時はLPの片面に長時間を収録することに技術的制約があったそうなので、その関係かもしれない。

 

■ ウィーン・フィルとの録音

 

 ショルティは自伝の中で、ウィーン・フィルとの良好とはいえなかった関係を率直に認めている。理由はいろいろ書かれているが、技術的な側面としては、フレーズ冒頭の和音を正確に揃えないほうが温かいと考えるオーケストラと、それをみっともないことだと考えるショルティとの、解釈上の相違だったという。ショルティ曰く、『私はウィーンでいちばん好きな道は、空港にむかう道路だと口癖のように言った』『ウィーンを離れるときはいつもほっとしたものだった』…あまりに正直な告白だ。

 ショルティとウィーン・フィルの初録音は、本書でのカルショーの記述によるとR.シュトラウスの「アラベラ」となっているが、「ショルティ自伝」や他のディスコグラフィ類によると、ワーグナーの「ワルキューレ」第3幕が先らしい。それはともかく、『後年には状況が好転するのだが、このときは、ショルティは完全に彼らから嫌われた』とのことで、彼らとはもちろんウィーン・フィル。『ウィーン・フィルは、その気になれば獰猛な反ユダヤ主義者となりうる。そしてこのときは、ショルティがその標的なのだった』。

 その後デッカは「ワルキューレ」全曲をクナッパーツブッシュの指揮で録音することにしてショルティを落胆させたが、そのプロジェクトは第1幕が終ったところで頓挫してしまい、代わりにショルティが「ラインの黄金」を録音することになって、やがてそれが「ニーベルングの指輪」の全曲録音に発展していった…というあたりは、本書ではほとんど述べられていない。これはもちろん、1967年に出版されたカルショーの著作『リング・リサウンディング』との繰り返しを避けたからだろう。

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ベートーヴェン
交響曲第5番 ハ短調 作品67
交響曲第7番 イ長調 作品92
ゲオルグ・ショルティ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1958年9月17〜24日(第5番)、10月14〜17日(第7番) ゾフィエンザール、ウィーン
プロデューサー:ジョン・カルショー
エンジニア:ゴードン・パリー
デッカ(国内盤:ポリグラム POCL4575)

 その「ラインの黄金」の制作にあたってカルショーが抱いていた不安、それはショルティが同時にベートーヴェンの交響曲の録音を望んでいることだったという。カルショーは、午前がベートーヴェンで午後がワーグナーという録音はマイク・セッティング等で録音担当エンジニアの負担になることと、ショルティのベートーヴェンが他の巨匠たちの名盤を凌ぐ商品になりそうにないこと、を挙げてショルティの希望を拒否しようとしたそうだ。ショルティはショックを受けつつも引き下がらずに妥協案を出し、3・5・7番の三曲を録音してみて、それが成功すれば残りを録音し駄目なら全集録音を諦める、ということになった。日程も「ラインの黄金」の前後に日を分けて、まず第5番と第7番が録音され(後者と同時にカーゾンとチャイコフスキーの協奏曲も録音)、翌年5月に第3番(同時にスッペ序曲集)を録音。しかし他の曲が録音されなかったことからも知れるように、結果は『温かい反応を得られず』に終わったのだった。もし当時これらが好評だったら、ウィーン・フィルによる初のベートーヴェン交響曲全集がショルティの指揮で録音されたかもしれない。

 演奏はひたすらストレートかつダイナミックで、かといってスポーティーな爽快さには縁がなく、むしろ溢れ出るマッチョな熱気が暑苦しいほど。第5番の第3楽章トリオの入りでは、大方の指揮者は(意外にもフリッツ・ライナーでさえ)テンポを緩めてタメをとるところだが、ショルティはひたすら急速のインテンポを貫いて一気呵成に進めてしまう。それでいてゴリゴリと力を込めて弾かせているので、スムーズな流れとその音響とに面白いコントラストが生じている。ここがいちばん特徴的だが、全編を通じてこういう感じの演奏だ。

 数年前、FMでウィーン・フィルの演奏会のライヴ録音(生中継だったかも)で第5番が放送され、誰の指揮だったか忘れたほど印象に残らない演奏だったのだが、最後に余った放送時間の埋め草にこのショルティ盤CDの第1楽章が流れた。実に鮮烈だった。確かに当時カルショーが考えたようにフルトヴェングラーやワルターらを基準にすれば、これは相当に異質な演奏かもしれない。しかし現在の感覚からするとこれはモダンなスタイルの中にパッションの込められた快演であり、例えばこのずっと後に一世を風靡したカルロス・クライバーの演奏などはまさにこのショルティ盤の延長線上にあるものだ。世に出るのが早すぎた録音だったのかもしれない。

 しかしこの録音によって、ショルティとウィーン・フィルの関係はさらに悪化したそうだ。本書には出てこないが、このときコンマスだったウィリー・ボスコフスキーが「ショルティを絞め殺してやりたい」と言ったという有名な逸話もある。

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ワーグナー
「ニーベルングの指輪」ハイライツ
・楽劇「ラインの黄金」(録音:1958年9〜10月)
 〜虹のかけ橋−ワルハラ城への神々の入場
・楽劇「ヴァルキューレ」(録音:1965年10〜11月)
 〜ヴァルキューレの騎行、ヴォータンの別れと魔の炎の音楽
・楽劇「ジークフリート」(録音:1962年5,10〜11月)
 〜森のささやき
・楽劇「神々のたそがれ」(録音:1964年5〜6,11月)
 〜ジークフリートのラインの旅、ジークフリートの葬送行進曲、フィナーレ
ゲオルグ・ショルティ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:ゾフィエンザール、ウィーン
プロデューサー:ジョン・カルショー
エンジニア:ゴードン・パリー、ジェイムズ・ブラウン
デッカ(国内盤:ポリドール POCL9831)

 ショルティの「指輪」は「ワルキューレ」しか持っていないし、それとて全曲通しては一度聴いただけ。ここではハイライト盤の紹介でご容赦を。ショルティとウィーン・フィルは、デジタル録音初期に「指輪」のオーケストラル・ハイライツ(当時の邦題は「ニュー・ワーグナー・デラックス」)なる管弦楽曲集を録音しているが、このハイライト盤はそれとほぼ同じ構成になっている。

 冒頭は「ラインの黄金」からいきなりフィナーレ部分で、カルショーは録音後に『終景のラインの乙女たちの声は、虹のかけ橋の下から聴こえてくるはずだ』と言ってみたそうだ。2チャンネルで上下感を出せるはずもないが、批評家たちがこの嘘を真に受けたので、1961年の「サロメ」の時に『新しい嘘を試すことにした。オペラ録音に関して、まったく新しい録音法を開発したと言ってみたのだ』。これがかの「ソニック・ステージ」の正体だという。

 お馴染みの「ヴァルキューレの騎行」には、やはり圧倒される。これを聴き慣れてしまうと、オーケストラだけの演奏はできの悪い短縮版カラオケにしか聴こえない。馬に乗ったヴァルキューレたちが空から集まってくる、というイメージが先入観になっているせいか、音響が左右と奥行きだけでなく上下にも拡がって聴こえるかのような、立体感のある音場構成が素晴らしい。まさに「ソニック・ステージ」だ!

 「森のささやき」では管楽器の濃い音色が効果的。「神々のたそがれ」フィナーレはド迫力で、ビルギット・ニルソンの強烈歌唱、崩壊場面の凄まじい効果音、そして力感漲る管弦楽の強奏で、圧倒的なクライマックスを形成する。1時間強のハイライト盤でも感銘を受けるのだから、全曲を聴いてきてこの大フィナーレにたどり着いたときの感動は、相当なものなのだろう。

 

■ ロンドン響との録音

 

 本書でカルショーがロンドン響に言及しているのは、1962年のジョージ・セルとのセッションについて触れている箇所で、『そのころ、ロンドン交響楽団は世代の交代期にあった。そのために秋にセルが戻ってきたときには、最高の状態ではなかった』と述べている。そのときに録音されたチャイコフスキーの交響曲第4番がセルの死後の1972年までリリースされなかったのは、編集でどうにもならないミスがいくつかあるせいでセルが発売を許可しなかったからだという。

 ショルティとロンドン響のモノラル時代の録音はメンデルスゾーン「スコットランド」やモーツァルト「プラハ」と第25番くらいしかないようだが、1963年のショルティ初来日はこのオーケストラとの公演だった(ロンドン響も初来日で、モントゥーとドラティが同行)。録音上の本格的な付き合いはその年から始まったバルトークとマーラーのシリーズ。1959年になぜかベルリン・フィルと録音されていたロシアものの小曲集も、1965年にカルショーのプロデュースでほぼ全曲がロンドン響と再録音されている。

マーラー
交響曲第1番 ニ長調
ゲオルグ・ショルティ指揮ロンドン交響楽団
録音:1964年1月17〜18日、2月3,5日 キングスウェイ・ホール、ロンドン
プロデューサー:ジョン・カルショー
エンジニア:ジェイムズ・ロック
デッカ(国内盤:ポリドール POCL3600〜1)

 カルショーはマーラーの曲が大の苦手で、比喩的ではなく肉体的に猛烈な不快感を覚えるほどだったらしい。コンセルトヘボウ管とベイヌム盤及びショルティ盤を制作した第4番だけは例外だったのかもしれないが、ショルティはカルショーの考えを変えられると思い、彼らはこの第1番に挑んでみたものの、『編集の終わりまでには、もうこれ以上我慢できないことがわかった』。そのため、以後ショルティは当時新人だったデーヴィッド・ハーヴェイのプロデュースで他の7曲を録音し、マーラー交響曲全集を完成したのだった。

 20年後のシカゴ響との再録音によって色あせたという評価もあるこの旧盤だが、なかなかどうしてそんなことはない。ショルティらしいエッジの鋭さはむしろこちらの方が上だ。全体としてはシカゴ響盤以上に強面でハードボイルドなマーラーで、もしかするとカルショーが苦手としたのはマーラー全般ではなくこの「ショルティ指揮のマーラー」だったのではないか、と思わせるような演奏。世代交代は終ったのか、オーケストラの技巧にも問題は感じないし、ティンパニの音色などはシカゴ響よりもどっしりしており好ましい。「デッカ・レジェンド」シリーズで復刻されていることからして、デッカもこの録音の特別な価値を認めているのではないだろうか。

 ちなみに録音場所のキングスウェイ・ホールについて、『クラシックの名録音』(田中成和・船木文宏編,立風書房,1998)では「デッカが録音会場の性能チェックのための基本データをここで採取した、いわばデッカ録音の”メートル原器”」「英国の録音関係者の間では伝説化している理想のアコースティックを持つ」と書かれている。カルショーも本書で『ロンドンでいちばん録音に適した音響を持つという事実にはかけがえがなかった』と記している。元来はメソジスト派の教会で、外観や設備はひどかったらしい。ロイヤル・フェスティヴァル・ホールは設備は最高だが響きが痩せており、ロイヤル・アルバート・ホールは大きすぎ、郊外のタウン・ホール(ウォルサムストウやウェンブリー)も音響がキングスウェイ・ホールに及ばない上に距離が遠かった、とのことだ。ヘンリーウッド・ホールはカルショーの時代にはまだなかった。ショルティ指揮の「カルメン」がそこでの初録音だったという。

 

・・・・続く

4.カラヤンとカルショー」はこちらです。

 

(2005年8月22日、An die MusikクラシックCD試聴記)