交響曲第9番でマーラーに目覚める

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 ここ4、5年ほど私はブルックナーやマーラーの音楽をほとんど受け付けませんでした。たまに聴いてみようと挑戦しても5分ともちません。しかるに先頃、ふと「もしかしたら聴けるかも」という思いを抱き、早速CDを手にしました。それはカラヤン指揮のマーラー交響曲第9番でした。予想通り、今回は一挙に全曲を聴き通すことができました。「だからどうした」という声が聞こえてきそうですが、私にとっては大変な事件ですので、ここに記念のメモをしたためておきます。

CDジャケット

マーラー
交響曲第9番 ニ長調
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1982年9月、ベルリン、フィルハーモニー、ベルリン芸術週間におけるライブ録音
DG(輸入盤 410 726-2)

 これはカラヤンにとっては極めて珍しいライブ録音で、しかも様々な曰くつきの有名録音です(詳しくはゆきのじょうさんの文章をご参照ください。「大作曲家の交響曲第9番を聴く マーラー篇」「カラヤンのマーラーに関する妄想 ■ 第5項:第9番」)。カラヤンの代表盤のひとつと言えるでしょう。当然のことながら、マーラーファンからも、カラヤンファンからも数限りない賞賛を寄せられてきました。ところが、私はこの1982年盤を苦手としてきたのです。何度も聴いてきたのにもかかわらずです。このホームページに私は大量の文章を書いてきましたが、この録音についてだけは今まで一度たりとも好意的な言葉を書いたことがありません。どのような賛辞がこの録音に寄せられていても、自分が得た感覚と違うので、それに同意できませんでした。それが、今年になって目の前の霧が晴れ渡るようにこの曲と演奏が自分のものとなった気がします。カラヤンの1982年盤が登場してから30年ほど経ちます。今頃になってやっと理解できたというのは、あまり人に向かって口にしない方が良さそうですが、自分にとっては嬉しい出来事でありますのでご容赦ください。

 この演奏を聴いての最大の収穫は、第2楽章を理解できたことです。あくまでも、現時点における私なりの理解ですが、それでも理解できたと思います。皆さんは、あのレントラーをどうとらえていますか? 私は学生の頃から実に奇妙な音楽だと思っていました。曲はいかにものどかで楽しそうに始まりますね。その雰囲気は長続きしません。次第に変化してきますが、その変化には狂気が伴っています。曲調は大きく歪み、狂気をはらみ、暴力的にもなってきます。まともな感覚では聴いていられません。それが15分以上も続くのです。私にとっては意味不明の異常な音楽でした。意味が分からなければ聴いていて楽しくもありません。

 では、この第2楽章は何だったのでしょうか。これは、マーラーの『幻想交響曲』なんですね。『幻想交響曲』の中で女性に恋い焦がれた男が、つかの間の幻想を見るのと同じように、マーラーの第9番においても主人公が幻想を見るのです。

 その主人公は第1楽章で、死の恐怖におびえ、苦しめられ、打ち倒されます。死の世界の入り口に立った主人公は、自分のささやかな人生を回顧するのです。まずは楽しかった思いです。それが冒頭ののどかで楽しそうな雰囲気に現れています。しかし、人生は平坦ではありません。山あれば谷あり、歓喜に浮かれることもあれば、悲しみに暮れることもあります。それどころではありません。「これは何かの間違いだ」と天を仰がなければならないほど理不尽な思い、自分ではどうしようもないような狂気の中に投げ込まれることだってあります。いくらでも卑近な例を挙げることだってできます。人間関係の瓦解、財産の喪失、自分から他者への、他者から自分への愛憎・・・・。まさに何でも、いくらでもあります。マーラーの交響曲第9番の主人公は、それを垣間見たのです。私は第2楽章を聴いていて、「ああ、そういうことか」と完全に腑に落ちました。

 マーラーの音楽には、何となく物語性が感じられます。私は交響曲第9番にあまりそれを感じたことがなかったのですが、私の中では物語はできあがりました。そんな解釈が正しいのか分かりません。きちんとこの交響曲に向かい合って聴いてきた人からは妄想だと嘲笑されそうです。しかし、それでも構いません。私はそのように聴いたのですから。それでこの曲が自分のものになったのですから。

 ちなみに、私はカラヤンの1982年盤を聴き終わった後、いわゆるスタジオ録音である1979年、80年録音盤を続けざまに聴きました。マーラーは今まで5分ともたなかったはずなのに。 2014年は私にとってマーラー元年なのかもしれません。

2014年1月18日

 

■ 余録 その1

 

 交響曲第9番をカラヤンの指揮で聴いてマーラーの音楽に目覚めたので、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団が演奏した録音を中心に聴き比べをしてみました。過去に何度も聴いたCDばかりですが、新たな気持ちで聴くことができた上、新たな発見もすることができました。マーラーを苦手としていた割には結構な数のCDがラックにしっかり並んでいたのには、我がことながら苦笑させられました。

 まずは今回の覚醒の発端となったカラヤンの演奏からです。

CDジャケット

マーラー
交響曲第9番 ニ長調
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1982年9月、ベルリン、フィルハーモニー、ベルリン芸術週間におけるライブ録音
DG(輸入盤 410 726-2)

 これがライブ録音だとはとても信じられない出来映えです。ベルリン・フィルの力量には驚くばかりです。機能的に優れている上、ひとつひとつの音にカラヤンの意思が徹底しています。カラヤンは曲を突き放すように指揮しながら、楽曲の隅々まで自分の意思を浸透させているのですから驚きです。指揮者もオーケストラにとっても最初からこの演奏が特別なものであるという共通認識があったのでしょう、両者は激しく燃焼しています。

 この演奏を美しいと賛美する声が多数あります。確かにカラヤンの手によって磨き抜かれた演奏です。しかし、それだけの演奏ではありませんね。この曲が内包する異常な世界が屹立し、聴き手に迫ってくる恐るべき演奏です。

 カラヤンはこの曲に感情移入するまいとしていて、その点に猛烈なエネルギーを注いでいます。その結果、主情を排した客観的な演奏が完成したのだ、と言いたいところですが、それ故逆に、カラヤンという人が演奏に色濃く反映されていると私は考えます。面白いところですね。

 発売当時は演奏のみならず録音された音も高い評価を得ていましたが、今聴くと、やや潤いに欠けるドライな音です。優れた最新録音と比べると、音と音の間の空気感が何となく希薄で、オーケストラ全体から立ち上ってくる、その場を押し包むような重量感にやや不足します。ところが、このドライな雰囲気がカラヤンの突き放したような指揮、ベルリン・フィルの強力かつ正確なアンサンブルと相まって叙事詩的な演奏の実現に貢献しているように思えます。

CDジャケット

マーラー
交響曲第9番 ニ長調
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1979年11月、1980年2月、ベルリン、フィルハーモニー
DG(輸入盤 453 040-2)

《カップリング》
「亡き児を偲ぶ歌」(録音:1974年)
「リュッケルトの詩による5つの歌曲」(録音:1974年)
メゾ・ソプラノ:クリスタ・ルートヴィヒ

 こちらはいわゆるスタジオ録音盤と呼ばれるものです。1982年のライブ録音が登場してからすっかり影が薄くなっています。しかし、もし1982年ライブ盤が作られなかったとすれば、この録音はかなりの評価を受けていたはずです。

 整った条件下で録音されているために、音もこちらの方が優れています。1982年盤のようなドライな感じは全くしません。理想的な録音とさえ言えるかもしれません。これによりいっそうのことカラヤンとベルリン・フィルの圧倒的な演奏を満喫できます。しかし、ふたつの録音を並べてみると、どうしても演奏家たちの燃焼度の違いが分かるのです。これが1982年ライブ盤の価値を決定的にしているのですね。

 

 ちなみに、私が聴いた1982年ライブ盤はOIBPによるリマスタリング盤が出ています。スタジオ録音盤がOIBPリマスタリング盤だったので、1982年盤もリマスタリング盤の方を改めて聴いてみました。

CDジャケット

マーラー
交響曲第9番 ニ長調
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1982年9月、ベルリン、フィルハーモニー、ベルリン芸術週間におけるライブ録音
DG(国内盤 UCCG-4762/3)

 ドライな感じと、音と音の間の空気感はかなり改善されています。目の前に大きな重量感を持った空間が現れてきます。演奏に対する私の印象はリマスタリング盤を聴いても変わりませんでした。やはり叙事詩的な演奏です。音作りによって受ける印象が変わるのではないかと思いましたが、この録音の場合、本当に重要だったのはカラヤンの指揮とオーケストラの燃焼だったのですね。カラヤンの気迫がオーラとなって現れてきそうなCDです。

2014年1月19日

 

■ 余録 その2

CDジャケット

マーラー
交響曲第9番
クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1999年9月、ベルリン、フィルハーモニーにおけるライブ録音
DG(輸入盤 471 624-2)

 アバドは1987年にウィーン・フィルを指揮して交響曲第9番を録音しています。それはマーラーの苦悩や狂気といったものからは少し距離を置いた演奏でした。アバドは体質的にそうしたものに没入できないのかもしれません。しかし、それから12年後のベルリン・フィルとの演奏はウィーン・フィル盤とは打って変わって指揮者もオーケストラも燃焼します。高い集中度による毅然としたマーラーが聴けますが、第4楽章は意外にロマンチックでもあります。

 特筆すべきは録音状態です。グラモフォンとしても会心の出来だったのではないでしょうか。特に低音方向への伸びがすさまじく、部屋を振動させるような重低音が収録されています。演奏者や会場のノイズも相当聞こえますが、それを消すとこの音のリアルさが半減するのでしょうね。さしものカラヤンもこの音質ばかりはアバドを羨ましがるでしょう。私はこのアバド盤と同じ水準でカラヤンのマーラーが録音されていたら、と、ついつい思ってしまいます。

 なお、このCDについては2002年7月3日の「What's New?」で簡単なメモをしたためていました。基本的には今とほぼ同じ感想を抱いていたようです。

CDジャケット

マーラー
交響曲第9番
サー・ジョン・バルビローリ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1964年1月10、11,14,18日、ベルリン-ダーレム、イエス・キリスト教会
EMI(輸入盤 5 67926 2)

 マーラーの交響曲録音史の中でも異彩を放つ著名な演奏ですね。演奏時間は78分ほどとやや短めです。しかし、決して軽い演奏ではありません。見事に引き締まった演奏で、内容は極めて充実しています。私は久しぶりに聴きましたが、最初の数小節だけでため息が出ました。バルビローリは引き締まったフォルムを作りつつ、その中に自分の感情を刻印しました。全くの豪腕です。今後様々なマーラーが登場するでしょうが、この録音の価値が減ずることはないでしょう。傑作録音です。このCDで私はバルビローリを再評価しました。

 なお、1964年にこれだけ優れた演奏と録音が生まれたというのは奇跡に近いです。同じEMIでもラトルのウィーン・フィル盤が録音されたのは1993年ですが、バルビローリ盤の方がはるかに真っ当な音を聞かせます。

CDジャケット

マーラー
交響曲第9番
サー・サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:2007年10月24-27日、ベルリン、フィルハーモニーにおけるライブ録音
EMI(輸入盤 5 01228 2)

 ラトルの本領が発揮された名演奏です。演奏・録音ともに見事です。細部に対する指揮者のこだわりが徹底している点ではオタク的でもあります。しかし、全体としては毅然としたアプローチをしていると思います。こうした点はカラヤンの演奏と似ていますね。ベルリン・フィルの演奏は熱を帯びています。それ故、知的に構築されたマーラーでありながら冷たさは感じられません。なお、残念ながら、これだけの演奏がCD化されると、ラトルのウィーン・フィル盤は分が悪いと言わざるを得ません。

CDジャケット

マーラー
交響曲第9番
レナード・バーンスタイン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1979年10月、ベルリン、フィルハーモニーにおけるライブ録音
DG(国内盤 POCG-1509/10)

 これは、もはや多くを語る必要がないCDですね。聴き比べをした際、この録音はできるだけ後回しにしました。あまりの強烈さに、演奏が頭から離れなくなってしまうことが分かっていたからです。これは中毒になりかねない危険な演奏なのです。感情移入型の演奏はこれで頂点を極めました。これ以上を想像することも目指すこともできないと、私は思います。全く、バーンスタインはマーラーその人です。また、このとてつもない指揮者の音楽への没入ぶりを目の当たりにして、多くの指揮者が別路線を取らざるを得なくなったのではないかと私は勘ぐっています(「大作曲家の交響曲第9番を聴く マーラー篇」ご参照)。

  この演奏は様々な要因が重なって、アンサンブルが乱れるなど傷が多い演奏とも言われます。しかし、それでも聴き手に与える感銘の大きさは圧倒的です。どれだけ傷だらけの演奏であってもベルリン・フィルは圧倒的な音を聞かせています。まさに衝撃的演奏です。というより、一方の極限を示した演奏です。

 カラヤン盤とバーンスタイン盤はマーラー演奏の両極端です。カラヤンはこのバーンスタインとは逆の極限を目指し、成功したのですね。いずれも歴史的名盤です。

CDジャケット

 最後に。

 バーンスタインがイスラエル・フィルを指揮したライブ録音が登場していますね(helicon、1985年録音)。オーケストラの技量はベルリン・フィルとは比較になりませんが、驚くほど生々しい音でバーンスタインの没入演奏を聴くことができます。これまたとてつもないです。第4楽章などトロトロの弦楽器が人間ひとりどころか、全世界の浄化を描いています。まるで「人類補完計画」が遂行されていそうな気配です。

2014年1月20日

 

(2014年1月18、19、20日、An die MusikクラシックCD試聴記)