シュターツカペレ・ドレスデン来日公演2004
ハイティンクの『ブラームス第1交響曲』考5月22日(金) サントリーホール
文:松本武巳さん
■ 演目
ハイティンク指揮シュターツカペレ・ドレスデン
コンサートマスター:マティアス・ヴォロング
- ウェーベルン:「パッサカリア」作品1
- ハイドン:交響曲第86番 ニ長調 Hob.1-86
- ブラームス:交響曲第1番 ハ短調 作品68
- アンコール ブラームス ハンガリア舞曲第1番ト短調
比較のための正規録音一覧
T.コンセルトヘボウ管弦楽団
U.ボストン交響楽団
V.ロンドン交響楽団
W.ドレスデン国立管弦楽団■ なぜ今頃になって、昨年の来日公演などを…
昨年(2004年)のドレスデン来日公演のうち5月22日の公演の試聴記のみ書かなかったのには訳がある。それは、ハイティンクのブラームス交響曲第1番について、もう少し考察した上で文章に残したかったからに他ならない。伊東さん、青木さんをはじめとして、いろいろな試聴記を拝読したが、ブラームスの第1交響曲の演奏に対する評価が、良く言えばしっかりとした堂々たる演奏であったが、悪く言うと生演奏にもかかわらず意外性が何一つ起こらず、大きな感動を呼ぶことができなかった、そのような理解においてある種の共通項があったように見受けられる。実はハイティンクなりに、生演奏としてそれぞれの楽章の後半部分に、彼としてはやや珍しいアッチェレランドも見られたし、それなりの興奮を呼んだようにも私は感じたものの、確かに今なお、手に取るように脳裏に焼きついた素晴らしい名演奏であったかと言えば、そうとは到底言えないのも事実である。今回の執筆の発端はそのようなハイティンクのブラームスの第1交響曲について若干の考察をして見たいと考えたことに尽きる。
■ 録音を重ねるたびに希薄になっていく演奏内容
ハイティンクの持ち味は、持ち前の謹厳実直な演奏であることはほとんどの愛好家が一致して認める持ち味であろう。悪く言えば、何の変哲も無い演奏に過ぎないのだが、良く言うと、淡々と進むように見える楽曲の進行の裏側に、深い音楽性が潜み、長い時間をかけて熟成した味わいを、聴後感として後日に至るまで実感できる点であろう。その最たる例が、マーラーやブルックナーで、発売当時無視に等しかった旧録音に至るまで、近年は復権しているように感じられる。録音された60年代にはほとんど誰も気づかなかった、ハイティンクの二つの全集の価値が今初めて認められてきているのである。しかし、私には同じハイティンクのブラームス全集(特に第1番)は、そのような経過を辿っていないように見受けられてならない。70年代前半のコンセルトヘボウとの全集が、最も活気に満ちた、音楽性も充分な名演であった反面、ボストンとの全集は発売当時の世評を現在は維持しえていないと考えるし、近時のロンドンでのライヴの全集も、確かに部分部分を捉えて見ると、とても魅力的な演奏であることは事実であるものの、全体を見通した鳥瞰不足であるように思えてならない。最初の全集に見られた堅固な構成力が、再録音を重ねるたびに、叙情性に傾斜した演奏に推移し、結果的に初めて聴いた時点で受ける印象は大層綺麗な、美しい名演と感じるものの、時とともに一旦受容したはずの印象が、段々と散漫になってきてしまう欠点を露呈しているように思える。これは、ハイティンクのブラームスに対する解釈自体がそうなのか、あるいはブラームスの交響曲との相性そのものがあまり良くないのか、いずれにしても世評とは違った印象を私は感じ、持っているのである。
■ 果たして、ハイティンクは堅固な構成力を持ち味とする指揮者なのか?
ハイティンクの風貌と、謹厳実直な指揮ぶり、等から信じられている指揮者ハイティンクは、ピアニストのブレンデルとも相通じる、愛好家からある種の誤解を結構受けている演奏家なのではなかろうか? もちろん、彼に爆演はありえない。しかし、それが同時に叙情的な浪漫的な演奏に決して傾斜しないと言う、ハイティンクに対する一般的な評価まで正しいと言えるのであろうか? 私の疑問の根源はここにある。もしもハイティンクが高く評価される点が、そのような実直な演奏でしかないとするならば、何故彼は交通整理と揶揄される指揮者群とあれほどにまで違った高い評価を受け、ましてやDVD等の映像まで発売されるのであろうか? 仮に、謹厳実直で、かつ深い音楽性のみを売り物にするならば、玄人受けはするであろうが、彼のファン層は大変に狭い層しか形成し得ないであろう。しかし、デビュー当時はともかくとして、現在の彼は結構広いファンを抱えており、コンサートが華やぐ場合も実際に結構あるようだ。私はその理由として、彼が彼独自のオーラを、指揮棒や彼の姿態から発散しているからに他ならないと信じている。では、そのオーラとは? 私は、彼の音楽におけるオーラは、相撲取りが発散するオーラに似ているように思われてならない。強い力士は何故か美人と結ばれることが多いそうだ。また女性の相撲ファンは、実は意外なほど多く存在する。ハイティンクのオーラは、正にオーケストラが押し出してくる、怒涛の寄り身の音楽であると思う。この押し出しは、それ自体が重い、重厚なものでは決してないが、とても強烈な印象を聴き手に与え、かつ鈍重ではない何とも言えぬ精神的な安定感をもたらしてくれる。聴き手は安心しきってハイティンクの指揮に身をゆだね、彼の指揮する船上で酔いしれるし、またその船の乗り心地は、大変心地よい揺り籠であるとも言えるだろう。こんな魅力を、私はハイティンクの音楽と指揮から感じるのである。
■ ではブラームスにおける演奏はどうか?
ハイティンクの上記の良さは、作曲家の作曲動機に深く関わっていると考える。彼の良さは、作曲家の作曲時の楽譜における些細な欠陥を、聴き手に気づかせずに補完する能力に長けている、とも言い換えられるであろう。そのために、作曲技法上の不安定な部分がある楽曲が、ハイティンクの指揮にかかれば、非常に安定感が出て、心地よい響きへと変容される。もう私が言いたい根幹は、お分かりくださると思う。ブラームスが交響曲=特に第1交響曲の作曲に、常軌を逸した時間をかけて綿密に緻密に構成したために、ハイティンクの補完機能がこの交響曲には全く不要であるのだ。ハイティンクはしかし有能な指揮者であるから、彼の独自性をこの曲の演奏にも求めなめれば、彼の演奏が高く評価されえないことは熟知しているだろう。そこで彼は、ブラームスの第1交響曲に叙情性を持ち込もうと試みた。テンポを揺らしたり、若干アッチェレランドしたり、あの手この手の策を弄して見た。結果的に、最初の録音が最も自然な名演となり、再録音をすればするほど、ハイティンクの工夫と苦労が報われない方向へと収斂してしまったのだろう。誰にでも苦手な楽曲は存在するものである。ただ、最も人気曲であり、またハイティンク自身もこの交響曲が実際に結構好きでもあるのだろう。そして結果的に、彼の演奏はこの交響曲の本質からは徐々に乖離せざるを得なかったのだと思われる。ハイティンク自身がこの事実に気づいているのかいないのかは分からない。しかし、この曲を演奏する機会が多い上に、有名な人気曲であり、かつハイティンク本人もこの曲が決して嫌いではなかったために、結果的に彼のブラームスの第1交響曲は凡演になってしまうことが多いのだと考える。逆に、コンセルトヘボウとの70年代前半の最初の録音が、結果として最も優れた彼のこの楽曲の演奏録音となってしまったのであろう。演奏行為は、考えすぎると逆に意外に良くない場合が増える一例と言えるのではないだろうか。私は、5月22日にこの交響曲を聴いて以来、彼の音楽自体に対する取り組みその他を、あれこれ考えた結果として、以上の結論にとりあえず達した。そこで、今頃になって、この試聴記を認めようと考えた次第である。何卒寛大にご容赦を願いたいと思いつつ、この駄文を締めることとしたい。
(2005年2月18日記す)
(2005年2月21日、An die MusikクラシックCD試聴記)