シュターツカペレ・ドレスデン来日公演2009 備忘録
文:松本武巳さん
ファビオ・ルイジ指揮シュターツカペレ・ドレスデン
4月29日(祝)、サントリーホール
- R.シュトラウス:交響詩「ドン・ファン」
- R.シュトラウス:交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」
- R.シュトラウス:交響詩「英雄の生涯」(原典版)
アンコール
- ウェーバー:「オベロン」序曲
5月1日(金)、サントリーホール
- R.シュトラウス:交響詩「ツァラトゥストラはこう語った」
- R.シュトラウス:アルプス交響曲
コンサートマスター:ローラント・シュトラウマー
■ 2日間の記録を残したい気持ちに
今年のカペレは、わが本拠地での公演(ミューザ川崎シンフォニーホール)に参加できないという悲劇的事態であったのですが、ひょんなことからサントリーホールでの2公演を聴くことが叶いました。そこで、ほんの備忘録として、いくつかのことを次回以後の来日公演に備えて残しておきたいと思った次第です。
座席は、29日が1階16列16番、1日が1階15列15番で、どういうわけなのか、いわゆる関係者席付近の席が与えられておりました。たとえば29日は前に指揮者の家族、隣に招聘元の社長が座っておられました(彼らの挨拶から推認しました)し、1日はリサイタルのために来日したばかりのマウリツィオ・ポリーニ夫妻から、関係者と間違えられて挨拶される始末(実は舞い上がるほど嬉しい誤解でした)でした。あげくには、友人から「招待されると特等席で良いね」と冷やかされる有様でしたが、念のために申し添えますと、通常の方法でチケットを購入しただけでして、2日間ともにこのような座席になったのは偶然以外の何物でもありませんことを、お断りしておきます。とはいえ、良い座席で聴けて良かったとは思います。
■ 2日間を通じての感想
良くも、悪くも、ファビオ・ルイジの意思がオーケストラの団員に浸透しつつあると感じました。指揮棒に忠実に反応し、かつ技術的には最近の来日公演よりも格段に向上しており、音楽を聴く意味での安定感が感じ取れました。一方で、カペレにカペレだけの特別な思い入れを求めて聴きに行くという、巡礼に近い思いを抱いて聴いた場合は、ある種の失望感を抱いたと思います。
「個人的な妄想としては、ルイジはリヒャルト・シュトラウスの曲はあまり馴染みがないのだろうなと考えました。と、同時にカペレはカペレなりのリヒャルト・シュトラウスに対する語法を持っているのだろうとも感じました。そして、これも個人的な勝手なる想像ですが、ルイジが目指そうとしている音楽の呼吸と、カペレが本来受け継がれてきた呼吸とには微妙なずれがあるようです。」
この文章は、4月25日の川崎公演に対するゆきのじょうさんのレビューですが、私もほぼ同様の感想を抱いたことになる訳ですね。
■ もう一つの視点から
「SONYから順次発売されているルイジのCD、(中略)あの音作りは、他ならぬルイジが目指すところと合致しているのではないかと思っています。そうでなければ、録音に承認が下りるわけはありません。あの音作りを指揮者が望んでいると考えれば、一連の録音の音作りがなぜああなったのか簡単に説明がつきます。
今日のコンサートで驚いたのは、R.シュトラウスの時の音とアンコールで聴いた「オベロン」序曲の音、特に弦楽器がまるで違って聞こえたことです。もしかしたらアンコールは指揮者もオーケストラに自由を与えているのかもしれません。伸びやかに、しなうように歌う弦楽器の音はもしかしたら指揮者にがんじがらめにされていたR.シュトラウスとは違ったものであった可能性があります。」
長文の引用になりましたが、ここまでは4月29日の伊東さんのレビューからの引用です。そして、以下は青木さんのレビューからの引用です。
「そして、「英雄の生涯」。(中略)つい数ヶ月前に圧倒されたばかりのシカゴ響と較べてしまうと、合奏の精緻さと音量の大きさはかなわないということになりますが、そんな比較は意味ないですね。ア・ヒーローズ・ライフなどではなくアイン・ヘルデンレーベンを原語で読むかのごときシックリ感、と言葉にするとワケわかりませんけど、とにかく深く満足。CDでは物足りなかった原典版のラストも実演ではふさわしく思え、ノー・フライングブラボーのおかげもあって最後の余韻もじゅうぶんに味わえました。」
なにぶん、他の執筆者の方々よりも後から書いている訳でして、いわゆる後出しジャンケンなものですから、言わば他人の褌で土俵を勤めているわけです。申し訳ないとは思いますが、後から書くものの特権を最大限利用させていただいております。
■ まとめ
私の言いたいことのほとんどを、お三方がすでに述べられているようですが、私なりの経験から最後に、蛇足を付け加えておきたいと思います。それは、私が求めるリヒャルト・シュトラウスの世界、そしてシュターツカペレ・ドレスデンの世界とは、《独逸訛り》の世界に浸ることを意味するのであろうと、信じていることに尽きます。そのような演奏を、少なくともリヒャルト・シュトラウスを演奏するカペレからは、常に求めたいと念願しています。
世界は、急速に良くも悪くもインターナショナル化していると言えるでしょう。しかし、少なくとも私は、たとえば初めて「ツァラトゥストラ」の小説を読んだのは、ドイツ語ででした。後に英語版や日本語版でも読む機会がありましたが、あえて言えば「ツゥァラトゥストォゥラはかく語りき」と初出時に訳された、ある翻訳家の日本語訳を唯一の例外として、私にはドイツ語以外の言語にそぐわない世界が存在するのだと考えております。そして、そのドイツ本流から導き出されるような音楽を、そして響きを、私はカペレに対して求めていることになるのです。このような音楽を常に創造してきたカペレがかつて間違い無く存在したと思います。そして、今後も彼らには創造し続けて欲しいと念願しています。
最後に、私は、今回のカペレに失望したわけでは決してありません。カペレとルイジは、これから両者が歩むであろう長い将来のための、まず最初の段階として、オーケストラの技術面を基本から鍛えなおし、一方で、ルイジにとってはこれまで苦手または縁の無かったR.シュトラウスの全集からカペレとの録音を開始すると言う、オーケストラにとっても指揮者にとっても互いに譲り合った部分から、両者の関係を開始させたのだとすると、合点が行くだけではなく、彼らの今後には前途洋洋たる道が開けていると信じます。
それだけの度量が、オーケストラにも指揮者にもあると信じます。今後の彼らの来日公演で、どのような変化をもたらしてくれるかを期待したいと思います。この期待は、2004年、2006年、2007年(歌劇場管弦楽団)の来日公演での、演奏内容の変化から想像すると、そんなに間違った期待ではないと考えます。
歴史と伝統とは、このようにして培われるものだと言う、そんな途中報告として「2009年の来日公演」が存在したのだと、将来語り継がれるようになることを、心から祈ります。
(2009年5月18日記す)
(2009年5月20日、An die MusikクラシックCD試聴記)