クレンペラーのベートーヴェン ■交響曲以外■

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CDジャケット

ベートーヴェン
「レオノーレ」序曲第1番 作品138
「レオノーレ」序曲第2番 作品72
「レオノーレ」序曲第3番 作品72a
録音:1963年
「フィデリオ」序曲 作品72b
録音:1962年
「献堂式」序曲 作品124
「シュテファン王」序曲 作品117
録音:1959年
「コリオラン」序曲 作品62
録音:1957年
クレンペラー指揮フィルハーモニア管
EMI(輸入盤 CDM 7 63611 2)

 このCDは現在国内盤では発売されていない。ベートーヴェンの序曲は交響曲の余白に入れられている。しかも、EMIは組み合わせをどんどん変えて発売しているから、私もどのCDにどの序曲が入っているのか分からなくなってきた。

 しかし、クレンペラーにとってベートーヴェンは極めて重要なレパートリーであり、序曲といえど軽視してはいない。それは、例えば3曲の「レオノーレ」序曲の録音状況を見ただけですぐ分かる。クレンペラーはどんなに重要な作曲家でも自分の気に入らない曲は演奏しないし、ましてや録音などしない。しかるに「レオノーレ」序曲に関しては3曲ともフィルハーモニア管と1954年と63年に録音している。この「3曲」というのが重要で、有名な第3番はともかく、第1番や第2番を2度も録音したというのは、クレンペラーの並々ならぬ情熱を感じさせる。どう考えてもモノラルからステレオに移行したから、という単純な理由からだけで録音されたわけではない。実は、めったに演奏されない「献堂式」序曲さえ、56年と59年の2度にわたって録音されているのだ(「フィデリオ」序曲はオペラ全曲盤のものと同一音源である)。

 そうしたクレンペラーの熱意の程は演奏にも現れる。「レオノーレ」序曲は第1番、第2番ともじっくりとしたテンポで堂々と演奏されており、曲の認識さえ改めさせる。「献堂式」序曲や「シュテファン王」序曲も重量感があり、輝かしい。絶好調だったフィルハーモニア管の威力がみずみずしい音質で聴けるのも良い。なお、「シュテファン王」序曲は海賊盤を含め、これが唯一の録音である。

 「コリオラン」はクレンペラーの十八番。下記DISQUES REFRAIN盤のような最晩年の神話的演奏もある。このCDの頃のクレンペラーはまだそこまで壮大な演奏をしてはいない。思うに、同じ時期でもライブでなくてはクレンペラーも燃えなかったのかも知れない。が、それでも非常に立派な演奏をしている。もう「立派な」というしかない演奏なのである。EMIは交響曲の余白としてではなく、「エグモント」も含め、きちんとした序曲集として売り出したらどうだろう。

 

 

CDジャケット

ベートーヴェン
(交響曲第4番変ロ長調 作品60)
「コリオラン」序曲 作品62
クレンペラー指揮バイエルン放送響
録音:1969年
DISQUES REFRAIN(輸入盤 DR920038)

 屹立する壮大なコリオラン。

 この演奏はクレンペラーが残した数ある名演の中でも屈指のスケールを誇る。そのスケールはクレンペラー自身が演奏したベートーヴェンの全交響曲をも凌駕するかもしれない。ベートーヴェンもまさか自分の曲がここまで神々しく演奏されるとは夢にも思わなかっただろう。神話的な世界を彷彿とさせる巨大な風貌。まさに神々の音楽だ。最後の審判にふさわしい音楽があるとすれば、これ以外にないだろう。

 これを聴いていない人は「そりゃ大げさな表現だな」と思うだろう。しかし、決して誇張ではない。それどころか、どのような言葉を用いてもこの巨大なスケールを形容しきれないのだ。コリオラン序曲は元来悲劇的色彩が濃厚だから、普通に演奏しても十分劇的になるのだが、クレンペラーの演奏はそんな生やさしいものではない。いつも我々が聴いているコリオランとは違う曲だと思ってもいい。

 この神話的な壮大さ、荘厳さはどこから来るのだろうか? クレンペラーのテンポはかなり遅い。クレンペラーの振り下ろす指揮棒のひとつひとつの刻みが音楽に魔力を与えているようだ。この演奏ですごいのは音楽の流れというよりも一音一音の恐ろしい響きだ。1小節たりともゆるがせにしない。ひとつひとつの音が聴き手を圧迫する。ミュンヘンの聴衆はどのような思いでこの演奏を聴いたのだろうか?

 しかし、これほどの演奏なのに、この演奏はDISQUES REFRAINのCDでしか聴けない。カップリングされている交響曲第4番はEMIがリマスターし、正規盤として発売されたが、そのCDに収録する余白がなかったのか、コリオランだけが取り残されてしまった。EMIはこの曲もリマスターを済ませているに違いないのに。このコリオランを正規盤で発売しないのはもったいなさ過ぎる。音楽を愛するすべての人が聴くべき記念碑的演奏だ。冗談抜きに、シングル盤ででも出してみたらいいのではないだろうか。

 

 

CDジャケット

ベートーヴェン
ピアノ協奏曲第1番ハ長調 作品15
ピアノ協奏曲第2番変ロ長調 作品19
ピアノ協奏曲第3番ハ短調 作品37
ピアノ協奏曲第4番ト長調 作品58
ピアノ協奏曲第5番変ホ長調 作品73「皇帝」
ピアノ、合唱、オーケストラのための幻想曲 作品80
ピアノ演奏:バレンボイム
クレンペラー指揮フィルハーモニア管
録音:1967〜68年
EMI(輸入盤 CMS7 63360 2)

 このセットにはベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲と、「合唱幻想曲」として有名な「ピアノ、合唱、オーケストラのための幻想曲 作品80」が収録されている。何とも盛り沢山だ。実はこの盛り沢山であることにこのCDの不幸があると思う。1999年1月現在、国内盤は市販されていない。輸入盤が出ているが3枚組なのである。クレンペラーファンだっておいそれとは買えない。普通ベートーヴェンのピアノ協奏曲といえば5番か4番を試しに買い、それが良ければ3番も、という程度だと思うが、全集の形でしか手に入らないようになっているのはこのCDの価値にかかわらず余りにも不親切である。クレンペラーのような過去の指揮者のCDが人気がないのはよく分かるが、内容は極めて優れたものなので善処してもらいたいものだ。

 では3枚組のセットは買わない方がいいかというと、それももったいない話なのだ。私は断言する。買って損はないと。全曲非常に粒ぞろいの名演。特に第4,5番は最高の名演。25歳のバレンボイムが82歳の大指揮者を相手に一歩もひるまず堂々と演奏しているし、全曲クレンペラーの充実した指揮が楽しめる。「合唱幻想曲」のおまけ付きとなれば、付加価値はなお高い。

 クレンペラーはモーツァルトのピアノ協奏曲第25番をバレンボイムと録音し、この若き天才をたいそう気に入ったらしい。ベートーヴェンのピアノ協奏曲録音のソリストとしてバレンボイムを選んだのは他ならぬクレンペラーである。バレンボイムのピアノはややいきり立ちすぎというところも時々垣間見られるものの、実に聴き応えがある。ものすごい迫力で鳴りまくるオケをバックにこれだけの演奏をやってのけられる若手ピアニストは他にいなかったと思う。今ではシカゴとベルリン国立歌劇場の音楽監督として巨匠とまで呼ばれるようになったバレンボイムだが、当時はクレンペラーに比べればほんの小僧であったはずだ。バレンボイムの若き日の快挙と、クレンペラー最晩年の芸術を忍びたい。

 以下、各曲毎に簡単に紹介する。

 第1番:第1楽章の前奏からスケール雄大。アレグロ・コン・ブリオそのもので、これぞベートーヴェンという感じがする。第1番がこんなに立派で良いのだろうかとちょっと気になるほどだ。とてもベートーヴェン初期の第1番とは思えないスケールで、後期の大協奏曲を聴いているような錯覚にとらわれる。バレンボイムのピアノも清冽。第1楽章のカデンツァはバレンボイム作曲。めくるめくようなピアノの技巧だ。第2楽章もピアノによってしみじみとした味わいが出ていてすばらしい。バレンボイムのピアノの叙情性に感嘆する。

 第2番:5曲中最も目立たず、人気もない曲だ。ベートーヴェンでさえ、「自分の最良のものとは考えない」と述べたくらいだから致し方ないが、こうした演奏で聴くと、名曲に思える。ピアノ協奏曲の中で最も早く作られ、モーツァルトの影響がまだ強い曲だけに、さすがのクレンペラーも軽妙な演奏に仕上げているのが微笑ましい。注目すべきは第3楽章で、オケとピアノの見事な掛け合いを楽しめる。時たまクレンペラーらしい重厚な響きが顔を出して面白い。

 第3番:暗く、情熱的な曲風の人気曲だが、個人的には余り好きではない。しかしクレンペラー独特の語り口にはほとほと感心する。第1楽章の出だしなど、訥々としているのに、それが曲調と全く違和感がなく、神秘的なほどの調和を見せている。しかも音楽はどんどん壮大になり、バレンボイムのピアノが入る前に威風堂々のクレンペラーの音楽が出来上がってしまっている。これではバレンボイムも気合いが入らざるを得ない。結果的にものすごく力の入ったピアノが聴ける。スタジオ録音なのにバレンボイムはすごい気迫だ。これだからこそ協奏曲は面白い。全曲クレンペラー率いるオケとバレンボイムのピアノが張り合っているのだ。それにしてもバレンボイムのピアノはすごい。第2楽章もピアノの独壇場と化しているし、第3楽章でもオケと丁々発止の掛け合いをしつつ、何とクレンペラーを圧倒している。さすがのクレンペラーもこれには苦笑いをしたであろう。

 第4番:この麗しい名曲の最高の名演奏。ピアノとオケの高度の融合が見られる。これだけの演奏をされると、言葉による説明が要らない。胸が高鳴るようなすばらしい音楽の贈り物である。どこをとっても美しい。オケの音色に厚みがあり、それが目の前にどんどん広がってくる。それはすべてを包み込むように暖かい。バレンボイムのピアノも非常に際だった美しい響きでベートーヴェンの情熱を伝えてやまない。これ以上一体何をこの曲に望めようか。3枚組の全集の中でも5番と並ぶ最高の逸品。

 5番:皇帝の中の皇帝。冒頭のバレンボイムの華々しいカデンツァもすごいが、続くオケによる序奏部分が実に堂々としている。クレンペラーは落ち着き払ったテンポで演奏しているようだが、熱烈な感情の高まりを感じる。最初の数分だけで圧倒されてしまう。この「皇帝」は全曲を通して、ピアノ、オケとも息の合った重量級の演奏で大変な存在感がある。ピアノは豪華絢爛、オケは重厚壮大。本当に「皇帝」らしい「皇帝」だと思う。クレンペラーが残した録音の中でも第1級のものだろう。なんとか第5番だけでも単売してくれないものか。全く不合理な世の中である。

合唱幻想曲:私はこの風変わりな曲の良い聴き手ではないので、コメントは控えたい。ただ、クレンペラーは楽しんでこの曲を演奏しているようだ。バレンボイムのピアノも上出来だと思う。


・第4番はレオン・フライシャーとのライブ録音(1956年)もある。

 

 

CDジャケット

ベートーヴェン
ヴァイオリン協奏曲ニ長調 作品61
ヴァイオリン演奏:メニューイン
クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管
録音:1966年1月
リスト
ピアノ協奏曲第1番変ホ長調 S.124
ピアノ演奏アニー・フィッシャー
クレンペラー指揮フィルハーモニア管
録音:1960年5月、1962年5月
EMI(国内盤 CLC-1125-30)

 威風堂々のベートーヴェンである。ソリストにメニューインを迎えているが、メニューインの存在など目もくれていないようだ。いきなり重厚壮大、あたりを払うような威風を伴った演奏が始まる。この大指揮者の威風に触発されたのか、フィルハーモニア管の音もいつもより充実した響きに聞こえてくる。ヴァイオリンが登場する前に壮大な音楽ができてしまっているから、ソリストはこれについていけばいいのだ。さすがクレンペラー!

 でも待てよ。協奏曲って、そういうジャンルだっけ? そもそも協奏曲というのは華麗な音色・技巧を聴かせるソリストにオケが合わせるのであって、オケにソリストが合わせるのではない。だからこそ指揮者はソリストを盛り立てるためにそれ相応の努力をしなくてはならない。さらに一歩進んで、協奏曲の醍醐味といえばオケとソリストの丁々発止の掛け合いにあるわけだが、ここではそうした雰囲気が希薄だ。ソリストを盛り上げようなんて考えはクレンペラーにはなかったのではないだろうか。一方的に押しまくっている「伴奏」になっている。

 クレンペラーは協奏曲というジャンルをどう捉えていたのだろうか。まさか協奏曲のソリストさえ自分が指揮する楽器奏者のひとつだと考えていたなどということはないとは思うが。そう思わせるところもあるから恐い。このCDでもメニューインほどの大家を相手にしているのに、聞こえてくるのはクレンペラーの巨大な音楽である。メニューインが自分のペースで演奏できたのは第2楽章くらいなものであろう。さすがにこの静謐の楽章ではクレンペラーは大ヴァイオリニストのつむぎだす音楽にじっと耳を傾けていたようだ。しかしそれもつかの間、第3楽章が始まるとまたぞろクレンペラーの音楽に変わる。メニューインも「おいおい」と苦虫を噛みつぶしたような顔になったのではなかろうか。

 リストのピアノ協奏曲でもクレンペラーは唯我独尊我が道を行くという演奏をしている。このリストは極めて重量級の演奏で、実にユニークだ。ソリストもクレンペラーに呼応してかなり骨太・豪快な演奏を繰り広げている。これではまるでブラームスのピアノ協奏曲ではないか。

 アニー・フィッシャーという人は私は恥ずかしながらこのCDでしか知らないのだが、記録を見ると、このリストと同時にシューマンのピアノ協奏曲も録音しているし、クレンペラーとはたびたび協演してベートーヴェンのピアノ協奏曲やブラームスのピアノ協奏曲を演奏している。リストでならした人らしいから腕は達者だったのだろうが、協演のつどクレンペラーがこんな圧倒的な「伴奏」をしていたのだとしたら、フィッシャーは全身全霊を打ち込んで演奏しなければオケに押しつぶされていただろう。生を聴けない我々はそのコンサートを想像するだけでも楽しい。

 ただし、CDで聴くフィッシャーのピアノはやや危なっかしい。ミスタッチもなきにしもあらず。こうした演奏をそのまま残してしまったところがクレンペラーらしい。私は音楽をあら探しのために聴いているわけではないから、少々のきずは平気だ。むしろ音楽が生まれる「その場」の雰囲気を伝えるこうした録音を残してくれたことに感謝したい。

 

 

CDジャケット

ベートーヴェン
荘厳ミサ曲 作品123
クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管
録音:1965年9,10月
EMI(国内盤 TOCE-3128-29)

 クラシックの本を読むと、この曲がベートーヴェンの最高傑作のひとつであるとよく書いてある。作品123という番号を見ても後期の深遠な世界に足を踏み入れたベートーヴェンがこの曲を作るに当たり作曲家としての持てるすべてを投入したであろうことは容易に想像がつく。

 しかし、この曲を好きで聴いているという人はあまりいないのではないだろ うか? あまり大きな声では言えないが、よほどのクラシックファンでも退屈してしまうことが多いはずだ。学生の頃、私はバーンスタインの指揮した荘厳ミサ曲をよく聴いていた。当時入手できる荘厳ミサ曲のCDがそれしかなかったからなのだが、ご存じのとおり、あの演奏はたいそう熱狂的で、バーンスタインの面目躍如たるものである。それでも私は時々うつらうつらしてしまった。なぜだろう。仮にもベートーヴェンの最高傑作に数えられるこの大曲がなぜそのように眠りを誘うのだろうか。この曲の宗教的な一面がそうさせるのだろうか? あるいはベートーヴェンが聴き手を意識するよりも、自分の高邁な芸術をあまりにも深く、そして大量に詰め込みすぎたからなのだろうか? 結局聴き手の水準がベートーヴェンに遙かに及ばないからなのだとは思うが、いかがだろう。

 長々と書いてしまったが、もし私が学生の時からこの演奏に親しんでいれば このようなことはおそらくなかったであろう。眠りを誘うのはどうも演奏家の方に問題があるようだ。クレンペラーの演奏を聴いてみて、やはり演奏家がベートーヴェンの高みにまるで達していないと思った。クレンペラー最大の遺産とも言えるこの荘厳ミサ曲は他の演奏を完全に凌駕しているからである。

 クレンペラーは長い間ヨーロッパの歌劇場で指揮者をしてきたから声楽の扱いは巧みであったろう。さらにベートーヴェンのような精神性の高い曲においてはクレンペラーの独壇場となるから、この荘厳ミサ曲がとてつもない高いレベルで演奏されるのは当然とも言える。しかし、それにしても、この演奏は半端ではない。音楽が巨大な津波のように目の前に立ちはだかってくる。おそらく、この演奏を実演で聴けば陶然となってしまい、自分の体が遠い別の次元まで洗い流されていることに気付く間もないと思う。すさまじいことだ。 ここには楽器や人間の声による美音があるわけでもなく、旋律が美しいところが強調されているわけでもない。にもかかわらず、音楽の流れはぐんぐんと厚みを増していき、しまいには津波のように高く高く目の前に迫ってくるのだ。聴き手はそれをどうすることもできない。圧倒的な演奏とはまさにこのような演奏のことをいうのだろう。荘厳ミサ曲を聴いてつまらないと思ったらこのCDを聴くべし。ベートーヴェンの音楽に打ちのめされるのは間違いないだろう。

 なお、声楽陣は以下のとおり。

  • ソプラノ:エリーザベト・ゼーダーシュトレーム
  • アルト:マルガ・ヘフゲン
  • テノール:ヴァルデマール・クメント
  • バス:マルッティ・タルヴェラ
  • ニュー・フィルハーモニア合唱団
 

 

CDジャケット

ベートーヴェン
荘厳ミサ曲 作品123
ソプラノ:イローナ・シュタイングルーバー
アルト:エルゼ・シュルホフ
テノール:エーリヒ・マイクート
バス:オットー・ヴィーナー
ウィーン・アカデミー合唱団
交響曲第5番ハ短調 作品67「運命」
交響曲第6番ヘ長調 作品68「田園」
クレンペラー指揮ウィーン響
録音:1950年
VOX(輸入盤 CDX2 5527)

 2枚組CD。1枚目には「荘厳ミサ曲」、2枚目には「運命」と「田園」が入っている。録音は3曲とも1950年。これだけ盛り沢山で、しかも同じ時期の録音であるため、実にいろいろなことを考えさせられる。残念なことにCDにはプロデューサーやバランス・エンジニアの名前が表記されていないが、もしその情報があればもっといろいろなことが分かるであろう。

 「荘厳ミサ曲」:まず、録音が妙だ。疑似ステレオのような感じに聞こえる。私の装置だけかもしれないが、モノラルであるにもかかわらず、左右に音場が広がり、真ん中に定位しない。

 それはさておき、1枚に「荘厳ミサ曲」がすっぽり入ることに驚く読者もいるかもしれない。演奏時間は72分。でも、よく調べてみると、上記EMI録音だって2枚になってはいるが、収録時間を計算すると79分だから、1枚にしようと思えばできたはずである。なぜ2枚組なのか。あえてここではその問題には触れないでおこう。

 1枚に入るとはいえ、長い曲なので、全体の印象から申しあげる。この「荘厳ミサ曲」は信じがたいほど熱狂的である。ウォルター・レッグはこの演奏を「力強く荘重」と表現しているが、それはEMI盤にも言えることであって、あえてVOX盤について特別に述べようとすればその熱狂感に触れないわけにはいかない。特にグロリア以降がすごい。当時のクレンペラーらしく、EMI盤より速いテンポでわき目もふらずに突き進む。猛烈な気迫だ。余りにもはっきりとアクセントをつけるクレンペラーのリズムの取り方には抵抗する人がいるかもしれないが(Gloriaのフーガ直前など)、熱狂感に包まれた壮麗な音楽が出来あがってくると、聴いていて敬服せずにはおれない。もしこれをブラインド・テストに使えば、ライブ録音であると勘違いする人が多いだろう。今ではこんな激しい演奏はライブ盤でも出てこなくなった。そういう意味ではクレンペラーの爆演のひとつと言ってしまいたくなる。これで録音がもう少し良く、オケの音が鮮明であれば最高であった。熱狂感はGloriaCredoに続く曲すべてに通じる。Credoもそうだし、Sanctusもそうだ。Agnus Deiも唖然とするばかりだ。テンポをぐっと落とし、落ち着いた演奏をしているのはBenedictusくらいか。しかしそのBenedictusもOsanna..のフガートからとてつもない盛り上がりをする。Benedictusは叙情性の強い音楽といわれるが、ゆったりとしたテンポで悠然と沸き上がってくる音楽に聴き手は思わず圧倒されるだろう。

 ところで、このCDにはひとつ大きな問題がある。音質の問題ではない。編集箇所についてである。実はCredoのフーガ直前に編集による大きな断絶がある。いくら何でもひどい。完全に音楽の流れが中断されている。私は最初家の中で停電でもあったのかと思った。クレンペラーが精魂傾けて演奏したであろうフーガはそれで大分損をしてしまった。演奏自体はクレンペラーがソロとコーラスの双方を煽り立てている雰囲気さえ感じられるすさまじいもので、最後まで揃って終わったのが不思議なほどだ。それだけにこの断絶は惜しい。さて、こんなことがなぜ起きたのだろうか。おそらく理由はLPの収録時間にあったのではなかろうか。Credoのフーガが始まるところは、ちょうど全曲の真ん中にあたる。全体で72分だから、36分経ったあたりでLPの面を変えなければならない。Credoのフーガはまさにその時間と一致するのである。しかし、技術的にはその部分をつなぎ合わせ、リスナーに分からないようにもできるはず。どうしてそんな適当な編集をしたのか全く分からない。VOXには善処を期待したい。

後編

 同じレーベルによる同時期の録音とは思えない2曲である。

 「運命」:「荘厳ミサ」とは違い、オケだけの録音のため、音質はぐっと鮮明。ただ、オーボエの音がややチャルメラ状態なのと、弦楽器の音が少しかすれ気味なのが惜しい。当時のモノラル録音の宿命であろうか。ただし、演奏はおそらく誰からも好感をもって迎えられるもの。音質に拘らず、演奏を聴くべし。

 第1楽章:速いテンポによる熱いベートーヴェン。最晩年の超重量級、宇宙的スケールの演奏と比べてしまうと「速すぎる」という人もいるかもしれない。しかし、誤解のないように書いておくと、テンポが速くても、軽い演奏ではない。クレンペラーは筋肉質の響きを作りつつ、畳み掛けるようなリズムで前進する。その音楽の高揚は筆舌に尽くしがたい。もしこれがライブであれば、この第1楽章が終わったところで盛大な拍手とブラヴォーがあったであろう。

 第2楽章:木管楽器の音がやや大きく収録され、不自然な感じがする。が、音楽自体は美しくすっきりまとまっていて好感が持てる。

 第3楽章:軽快なリズムとメリハリの強さはこの時期のクレンペラーに共通する特徴であるが、まさに第3楽章冒頭のホルンなどはその典型。大変小気味いい音楽が作り出されていく。第4楽章への経過部は「運命」の聴き所でもあるが、クレンペラーはコントラバスの刻みを際立たせ、いやでも緊張感を高めている。

 第4楽章:畳み掛ける速いリズム。メリハリの強さ。爆発的なエネルギー。仕掛けは全く単純なのだが、クレンペラーの指揮で聴くと、聴き手は手に汗を握らざるを得ない。興奮の大熱演。

 「田園」:この曲は録音で大損している。「荘厳ミサ曲」や「運命」と同時期に、同レーベルが同一指揮者、同一オケで録音したのに何でこの「田園」だけがこんなひどい録音になってしまったのだろうか。これではどうしようもなくへたくそなオケに聞こえてしまう。例えば、宇野功芳氏はクレンペラー指揮のフランク「交響曲ニ短調」の国内盤ライナー・ノーツにこのように書いている。

 「...ウィーン交響楽団を指揮して何枚かのレコーディングもしたが、それらは筆者が耳にし得た彼のもっとも古い録音である。
曲目はベートーヴェンの「田園」とマーラーの「大地の歌」だったが、興味深いことに60代前半のクレンペラーの指揮は速いテンポとせかせかしたリズムに特徴があり、まるで現代音楽のようなスタイルだった。大病のあとだというのにまだ若き日の演奏法を残しており、円熟のかけらもなかった。「田園」はよくもまあ、こんなにも素っ気なく、無味乾燥に、冷たく指揮できるものだ、と感心するほどで、わざとよそよそしく表現しているとしか思えなかった。オーケストラのアンサンブルやバランスのひどさも無類で、何という下手な団体だろうと思った。」

 なんともひどい書きっぷりである。これではさすがのクレンペラーも形無しだ。しかし、我々はこのCDで「荘厳ミサ曲」を聴き、「運命」を耳にすることができるので、宇野功芳氏の「田園」に対する印象がほぼVOXによる乾ききった迷録音に起因することを予想してしまう。宇野功芳氏はいつだったか、レコ芸誌上で、サイモン・ラトル指揮ウィーンフィルのマーラー第9交響曲を録音が悪いと言って演奏評をまともに書かなかったことがある。宇野氏は一体どうしてしまったのだろうか。いつから録音評論家になったのだろうか。我々が聴きたいのは音楽そのものであり、音質ではない。クレンペラーの「田園」にしても録音の悪さだけでケチョンケチョンにけなしているのではなかろうか。それが「音楽」評論家のすることだろうか。仮にも歴史的録音を聴く際には聴き手はある程度「音」を補完して聴かねばならない。宇野氏はそれをせずに録音だけで切って捨ててしまった。私もかつては宇野氏の一ファンだっただけにとても悲しいことだ。確かにウィーン響は一流とは言えないオケではあるし、クレンペラーの指揮も最晩年のものと比べると、せかせかしていると言えなくもない。しかし私は宇野氏のように切って捨てる気にはならない。

 演奏そのものをもっと聴くと、全楽章にきびきびとしたリズムがあるし、迫力も十分。主旋律以外の声部がやたらはっきり聞こえるのも面白い。もっともこれが宇野氏にぎすぎすとした鋭角的印象を与えているのかもしれない。問題はそのような録音がクレンペラーによって指示されたものかどうかだ。少なくとも上記「荘厳ミサ曲」でも「運命」でもそのようなことはなかった。バランスエンジニアがこうした音にしてしまったのではないかと思われる。私が冒頭に、バランス・エンジニアの名前があれば...と書いたのはそのためである。

 なお、宇野氏のいうバランスの悪さとはおそらく、乾ききった弦楽器の音の上に奇妙なほど大きな音の木管楽器の音が浮かび上がっていることを言うのだろう。確かに、そのバランスがいい訳がない。ご存知のとおり、木管重視はクレンペラーの特徴であるが、それが極端な形で収録されてしまったのではないだろうか。

 なお、最後に念を押しておきたい。この演奏を聴いて退屈することはまずないだろう。私は実演を含め、退屈な「田園」でよく眠りこける。が、この「田園」で眠ることはとてもできない。やはりある意味ではモダンな演奏なのである。

 

 

CDジャケット

ベートーヴェン
歌劇「フィデリオ」 作品72
クレンペラー指揮フィルハーモニア管
録音:1962年2、3月
EMI(輸入盤 7243 5 55170 2 9)

 指揮者クレンペラーの強い意志を感じさせる希有の演奏。

 フィデリオというオペラは意外とつまらないと思ったことはないだろうか? 有名なオペラだけど、物語が水戸黄門の出来損ないみたいで、いかにも堅苦しい。ベートーヴェンらしい女性観が反映されたという意味では意義があるのだろうが、私もオペラとしては面白味に欠けると思っていた。ベルリンで見た時もいい印象は持たなかった。総じて緩んだ演奏が多いからではないだろうか?この曲は他のオペラ作曲家の曲みたいな絢爛豪華な見せ場に乏しいから飽きてしまうということもある。最後に登場する大合唱団も、どうも何の脈絡もないように思えてくるのだ。

 きっと私以外にもそう思っている人がいるに違いない。そういう人はクレンペラーの演奏を聴くべきだ。これを聴くと、クレンペラー自信がこのオペラをしっかり演奏し、ベートーヴェンの傑作であることを示したがっているような気がしてくる。ベートーヴェンがこのオペラにかけた意気込みがそのままクレンペラーから感じられてくる。ベートーヴェンが演奏したら、こんなフィデリオになるのではないだろうか。本当に真摯で力強い演奏だ。作曲家の僕としてこの曲を演奏するクレンペラーの意志を感じずにはおれない。私はこのCDを聴いてフィデリオ観を一変させてしまった。

 真摯であること、力強いことはもう述べたが、緊張感の高まりもすばらしい。クレンペラーの演奏では、第1幕開始から最後の大合唱まで緊張が次第に高まって行く。オペラを音だけで聴かせるのに、全く弛緩しないところがすごい。それ故、いつもは唐突に感じられる合唱が不思議なほど必然的に感じられる。まるで「歓喜に寄す」みたいな曲だということがはっきり分かるのだ。全曲の構成を完全に把握し、音にすることができたクレンペラーならではの演奏だ。レッグはこの演奏がクレンペラーのオペラ録音の中で最高と述べているが、宜なるかな、と思う。録音も秀逸。

 配役について。

 ルートヴィッヒがいい歌を聴かせるのはもちろんだが、第2幕に入ると、ジョン・ヴィッカースのすばらしいフロレスタンが聴ける。ヴィッカースはややいきり立ちすぎたかなと思わせるところがあるにせよ、この役柄に大変ふさわしい。彼が語るドイツ語の深々とした響きもたまらない。

 クレンペラーは61年に75歳でフィデリオを振ってコヴェントガーデンにデビュー、この録音がすぐ決定された。その際、ウォルター・レッグはヴィッカース以外は配役を変えたという。逆に言えばヴィッカースはかなりいい調子であったのだろう。ベートーヴェンさえ感激しそうな心のこもったフロレスタンだ。

  • レオノーレ:クリスタ・ルートヴッヒ
  • フロレスタン:ジョン・ヴィッカース
  • ロッコ:ゴットロプ・フリック
  • ピツァロ:ワルター・ベリー
  • ドン・フェルナンド:フランツ・クラス
  • マルツェリーネ:インゲボルク・ハルシュタイン
  • ヤキーノ:ゲアハルト・ウンガー
 

An die MusikクラシックCD試聴記、1998年掲載