クレンペラーのシューマン
シューマン
交響曲第1番変ロ長調 作品38「春」
録音:1966年1月
交響曲第2番ハ長調 作品61
録音:1966年10月
クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管
EMI(国内盤 TOCE-3061)交響曲第1番「春」:はじめに断っておくと、私はこの曲はあまり好きではない。学生の時から何回も聴いてきたが、いまだに好きにはなっていない。シューマンは交響曲の作曲にあたっては無理矢理壮大な音楽を作ろうと妙に身構えていて、ピアノ曲、室内楽曲、声楽曲で見せる天才的な幻想性や音楽の自然な流れ、有機的な統一感が欠如しているように思える。「春」においてはそうした傾向が特に著しく、深刻癖と脳天気さが一緒くたになっているから聴いている間ずっと違和感を感じる。
ところがクレンペラーの演奏で聴くと、私が従来持っていたシューマンの交響曲に対する不満は減殺されるから驚く。クレンペラーはあの晦渋なマーラーの7番に名盤を残したほどの人だから、シューマンの交響曲を咀嚼し、演奏することなど簡単だったのかもしれない。おそらくクレンペラーは、作品を無理に再構築しようとはせずに、ありのままに演奏することが最も作品をよく聴かせる方法だと考えていたのだろう。壮大なところは極めて壮大で、軽妙なところはそれらしく流している。クレンペラーは最晩年に近いがテンポは遅くなく、躍動感溢れる演奏でもある。結果的には実に面白い演奏だ。クレンペラーの指揮で聴くとこの曲が大交響曲に思えてくる。この曲をこれほど面白く演奏してくれる指揮者はそういないだろう。
特筆すべきはフィルハーモニア管の合奏力だ。録音時には全盛期を過ぎていたといわれるが、とんでもない。大変優れた演奏をしている。クレンペラーの指揮に触発されたのか、どの楽器にも生命が宿っている。特に第3楽章、地鳴りがするような弦楽器の音。重心が低く、どっしりした金管楽器群の音。指揮者のリハーサルの賜だろう。第1楽章から若々しい生気が漲っているが、終楽章に向かっていく高揚感がたまらない。特に第4楽章。本当にスタジオ録音なのだろうか?
交響曲第2番:クレンペラーらしい実に立派な演奏だと思う。テンポは第1番の時よりずっと遅く感じられる。その遅いテンポが荘重なこの曲の出だしにぴったりマッチしているので、思わず引き込まれる。第2楽章スケルツォでも第3楽章アダージョでもクレンペラーの指揮は冴えていて、聴き応えがある。特にアダージョでは波打つ弦楽器の音色が暗い情熱を余すところなく表現していると思う。
しかし、この曲は部分的には面白いところが沢山あるのだが、いつも集中して聴いていられないし、満ち足りた気分になれない。クレンペラーの指揮で聴いてさえそうだ。やはりどうにもならない曲なのかと思ってしまう。オケが非常に力演しているだけに残念である。名演はやはり名曲があって初めて生まれるものなのだろう。
なお、国内盤CDにはプロデューサー、バランス・エンジニアの名前が載っていない。録音に関する情報は意外と貴重であるから残しておいてもらいたいものだ。ちなみに両曲ともバランス・エンジニアはRobert Goochで、プロデューサーは交響曲第1番「春」が Peter Andry、交響曲第2番がSuvi Raj Grubbとなっている。
シューマン
交響曲第3番変ホ長調 作品97「ライン」
録音:1969年2月
クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管
交響曲第4番ニ短調 作品120
録音:1960年5月
クレンペラー指揮フィルハーモニア管
EMI(国内盤 TOCE-3062)交響曲第3番「ライン」:評価が分かれそうな録音だ。問題はクレンペラー最晩年にほぼ共通する遅いテンポにある。クレンペラーは別に老化によって遅いテンポをとっているわけではなく、細部を綿密に表現するためにあえてそうしているのだが、この「ライン」ではそれがちょっと問題だ。
遅いテンポによる細部彫琢型のスタイルで演奏すると、この「ライン」のように一音たりともゆるがせにしない堂々たるシューマンになる。もちろん貫禄溢れるすばらしい演奏ではある。いい点も多い。遅いテンポのため、例えば第2楽章のスケルツォでは民謡風の旋律が別の曲のように聞こえてくる。慣れてくると、普段気が付かなかった音が聞こえてくるようになるし、音楽の構造まで見えてくる。第3楽章ではテンポはやや失速寸前になっていて、危なっかしい気もするが、これはこれで面白い効果を生んでいる。もともとはNicht schnell(速くなく)と指定されている楽章であるにもかかわらずクレンペラーはEtwas langsam(少しゆっくり)とでも思わずにはいられないテンポで演奏している。不思議なものだが、その結果生まれた音楽は哲学的で、ためらいがちに進む人間の歩みを思わせる。さらに第4楽章は遅いテンポにより重厚さや壮麗さが倍増することになる。
しかし、一方では作曲者が意図したはずの軽さ、躍動感が失われてしまったとも言える。少なくとも両端楽章はlebhaft(いきいきと)という指定があるわけだから、もう少しいきいきと演奏して欲しいと思うこともなくはない。難しいところだ。
交響曲第4番:名曲の名演。クレンペラーのシューマンの最高傑作。1960年録音で、ステレオだが、強奏時に音がザラつくことがある。それがこの録音の唯一のきずだ。逆に言えばその程度の欠点しか探せない名演奏なのである。
クレンペラーのテンポはここでは決して遅くない。冒頭からクレンペラーの非常な気迫が感じられる。そのためか、音楽にすさまじい緊張感が漲っているし、音楽のダイナミズムが強烈である。オケも指揮者の気迫に触発され、白熱の演奏を展開している。しかも音楽が自然に流れているという芸当をクレンペラーはやってのけている。こうなると聴き手は息をつく暇もない。疾風怒濤の音楽に飲み込まれるばかりだ。クレンペラーとしても満足する出来だったのではなかろうか。これは後世に必ず残さなければならない必聴の名演奏だ。繰り返し繰り返し聴きたい。
なお、このCDも国内盤にはプロデューサー、エンジニアの名前がない。念のため記載しておく。
- 第3番:プロデューサーはSuvi Raj Grubb、バランス・エンジニアはAllen Stagg。
- 第4番:プロデューサーはWalter Legge、バランス・エンジニアはDouglas Larter。
シューマン
交響曲第4番ニ短調 作品120
バッハ
ブランデンブルク協奏曲第1番 BWV1046
クレンペラー指揮フィラデルフィア管
録音:1962年
バッハ
カンタータ「いまぞ去れ、悲しみの影よ(結婚カンタータ)」BWV202
ソプラノ:シュヴァルツコップフ
クレンペラー指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管
録音:1957年
AS disc(輸入盤NAS 2504)クレンペラーがフィラデルフィア管を指揮した珍しい録音と、コンセルトヘボウを指揮した録音を混ぜた変わり種CD。フィラデルフィア管になぜクレンペラーが客演していたのか私もよく分からないのだが、珍しい故にこうしてCD化されたのであろう。しかも一応ステレオ録音らしい。
シューマンの交響曲第4番:クレンペラーには悪魔的な迫力を持つ上記スタジオ録音があるので、聴き比べると実に面白い。演奏時期は2年違うだけ。基本的な解釈は変わっていないようだ。しかし、オケの音色はいかにフィラデルフィア管が優れたオケだといってもこの曲に必要な「暗さ」に欠ける。さすがのクレンペラーも手兵と客演先のオケではやや勝手が違うのかもしれない。演奏自体もクレンペラーは不思議なほどインテンポを守っており、ライブであるにもかかわらず熱狂的な盛り上がりがほとんどない。終楽章の最後で畳み掛けるようなリズムを採るだけで、味気ないといえば味気ない。クレンペラーがあまり気が乗らなかったのか、あるいはもともとそういう演奏を心がけていたのかよく分からない。しかし、終演後熱烈な拍手があるわけだから、私の印象も録音状態の貧弱さによるところが大きいのかもしれない。
ブランデンブルク協奏曲:この曲が始まった時、私はまさかバッハの音楽が始まったとは信じられなかった。やたらとネアカな響きで、スタジオ録音で聴く神秘的なバッハとは全く違う。アメリカのオケではこのようなバッハしか演奏できないのだろうか。フィラデルフィア管ではストコフスキーが頻繁にバッハを取り上げていたわけだから、バッハ演奏の歴史は十分にある。にもかかわらず、どうしてこんな脳天気な軽音楽じみた演奏ができてしまうのだろう? 全く理解に苦しむ。残念であるが、クレンペラーの数少ない駄作と言い切ってしまいたい。
結婚カンタータ:さて、ここまで読んだ読者はもうこのCDに興味を失ってしまったと思う。ところがどっこい、このCDはここから先、「結婚カンタータ」がすばらしい。オケはクレンペラーが50年代に数多く客演したコンセルトヘボウ。ソリストにシュヴァルツコップフ。これで悪い演奏になる方がおかしい。録音はモノラルだが、3曲の中では最も良い。非常にクリアにオケの音色とソリストの美声を捉えており、ため息がでるほど美しい。モノラルだからといって、馬鹿にはできない。
演奏は清冽そのもの。バッハの音楽をそのまま音にしていると思う。何度聴いても美しく、わずかなフレーズも実に生き生きとしている。これぞ本当のバッハだ。オケが完全にバッハ表現を体得しているようだ。やはりアメリカとヨーロッパではオケの格が違うのだろうか。コンセルトヘボウ管はメンゲルベルク以来優れたバッハ演奏を続けてきたがわけだから、オケにバッハ演奏の伝統がしみついているし、さらに頻繁に客演したクレンペラーが指揮をしているのだから、名演となったのは自明でもある。
しかもシュヴァルツコップフは当時42歳。全盛期の頃である。モノラルで聴いてもすばらしい美声で、あのコンセルトヘボウ内にこの声が響き渡ったわけだから、アムステルダムの聴衆はうっとりしてしまったに違いない。私の筆力ではこの演奏のすばらしさを表現しきれないのが残念である。クレンペラーがコンセルトヘボウに客演した演奏で、CD化されているものは例外なく名演であることが証明された。これ1曲を聴くためにこのCDを買っても良いだろう。
シューマン
「ファウスト」序曲
録音:1969年2月
クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管
EMI(国内盤 CLC-1019-26)「ファウスト」序曲という呼び方は本来正しくない。”ゲーテの「ファウスト」からの情景”序曲と呼ぶべきだろう。
演奏はクレンペラー最晩年のスローテンポで進められる。音楽自体がもともと明るい感じがあまりしないのだが、その遅いテンポのせいで演奏はものすごく陰鬱な感じに覆われてしまった。クレンペラーのことだから、そうした効果を狙っているのであろう。が、このテンポは好悪分かれるところだと思う。もっとも、陰鬱なほどの暗さは、ある意味ではシューマン特有のロマンチシズムの発露ともいえる。
なお、私自身はこの序曲だけを聴く気にはなれない。”ゲーテの「ファウスト」からの情景”は大作だが、やはり全曲を通して聴きたいものだ。クレンペラーは声楽曲に卓越した演奏を残しているから、もう少し長命であれば、面白い演奏が聴けただろう。全く残念だ。なお、この曲は国内盤CDではなぜか収録されなかった。収録時間に余裕があり、実際、輸入盤には入っているのに。
シューマン
「マンフレッド」序曲 作品115
録音:1966年2月
「ゲノヴェーヴァ」序曲 作品81
録音:1968年10月
クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管
EMI(国内盤 CLC-1019-26)最近artによるリマスタリング盤が出たので、ようやくこの2曲の録音が容易に聴けるようになった。以前はEMIの Classic 21 のメンバーしか買えない"The art of Otto Klemperer"に収録されているだけであった。artによるリマスタリングによる音質の差をまだ確かめていないが、大変気になるところである。
「マンフレッド」序曲:私はこの曲をあまり好きではない。陰鬱で、もやもやした気分にされてしまうからだ。これほど聴いて後味が悪い曲も珍しい。クレンペラーの演奏はそんな私をさらに苦しめるほど徹底的に暗い。ものすごく暗い。クレンペラーのことだから、意図的にそんな演奏をしていると思われる。まるで墨絵。それも地味な感じはしない。陰影の濃さは超一流。金管楽器の響きをかなり抑制したのが墨絵のような印象を与えているのであろう。シューマンは金管楽器を効果的に使っているはずなのに、ほとんど金管楽器が前面に出てこない。暗く恐ろしい谷間の底で人間がもがき苦しんでいるような気配を感じさせる。こんな暗い演奏はあのシノーポリでさえしなかった。気が滅入っている人には決してこの演奏はお勧めできない。脳天気な気分の時だけ聴くべし。
「ゲノヴェーヴァ」序曲:こちらもやや暗め。クレンペラーは既に最晩年であるがテンポは決して遅くはない(マンフレッド序曲もそうだった)。時々現れるホルンの音色がまさにドイツ的な響きで、独特の明るさを持つのだが、全体を覆う暗さはいったい何なのだろうか? シューマンの書いた音楽自体が危ない性格だったのではないかと思うのだが、そうであるとすればクレンペラーはこの曲でもシューマンを見事に表現し得たということになる。なんだか恐くなってくる2曲である。
シューマン
ピアノ協奏曲イ短調作品54
ピアノ:アニー・フィッシャー
録音:1960年5月、1962年5,8月
クレンペラー指揮フィルハーモニア管
EMI(国内盤 CLC-1019-26)このページをEMIの関係者が見ていないことを祈ってこの文章を書くが、実はどうもこの演奏には何かが欠けているように思えてならない。録音セッションはリストのピアノ協奏曲と同時に行われているが、リストの方はなかなか聴かせる演奏をしているのに、どうもシューマンはそうではない。
指揮者クレンペラーはここでは完全に伴奏指揮者に徹しており、ソロを引き立たせようと、自己主張を自粛してしまったようだ。指揮者もオケも絶頂期と言っていい時期の演奏なのに、もったいないことだ。そうなると、演奏の出来・不出来はひとえにピアニストの腕にかかってくる。
アニー・フィッシャー(1914-1995)という人は日本にはほとんど紹介されなかった人だが、決して力のないピアニストではない。でなければ最大級の技巧を要求されるリストやシューマンのピアノ協奏曲を録音はできない。実際、この巨匠的な貫禄溢れる協奏曲を実に堂々と弾いてのけている。しかし、しかしである。シューマンのピアノ協奏曲はガンガン弾けばいいと言うわけではない。そういう部分もあるだろうが、全体としてみれば、ロマンティックな叙情性がなければだめだ。少なくとも私はそういう面を期待してこの曲を聴いているし、現在市場に出回っている大量のシューマンのCDで名盤と呼ばれているものは、オケ、ピアノともにえもいわれぬ叙情性を秘めているはずだ。その意味ではこの録音はちょっと物足りない。ピアニストにとってシューマンのピアノ協奏曲は必須の演目だろうが、アニー・フィッシャーの調子があまりよくなかったのか、あるいはあまり共感を感じていなかったのか、いずれかだと思う。もっとも指揮者クレンペラーも責めを追う必要があるだろう。
(EMIの関係者の方、万が一このページを見ていても怒らないで下さいね! たくさんEMIのCD買ってますから!)
An die MusikクラシックCD試聴記、1998-99年掲載