ヨッフムのブルックナー交響曲第8番とドレスデン絨毯爆撃と旧ドイツ民主共和国

文:松本武巳さん

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CDジャケット
(便宜的にCDのジャケットを掲載しています。伊東)

ブルックナー
交響曲第8番 ハ短調
ヨッフム指揮シュターツカペレ・ドレスデン
録音:1976年11月3-7日、ドレスデン、ルカ教会
EMI(音質的ある程度満足できるのが、エテルナ及びエレクトローラの初出LPである関係上、ディスク番号をあえて掲出しないことにする)

 

■ 録音に至る歴史的背景

 

 私はあまり国際政治に詳しくはないのだが、今年(2015年)は、第二次世界大戦終結から70年、ドレスデン絨毯爆撃からも70年、そしてドイツ民主共和国消滅から25年の節目に当たる年である。

 1970年、ドイツ連邦共和国首相ブラントが新東方外交政策を打ち出し、東西ドイツの対話を進めた。この東西緊張緩和(デタント)の背景には、東ドイツが外貨を必要とした状況があったようだ。トランジット協定により、東ドイツ通過の際の手続きが簡略化された結果、西ベルリンの生活環境が著しく改善した。引き続き72年に東西ドイツ基本条約が結ばれ、両国共存の目的を達成するため相互国家承認が行われた。73年に両国は国連に加盟した。さらに、ドイツ民主共和国では失脚したウルブリヒトに代わり、ホーネッカーが1976年には国家元首に就任した(党第一書記には71年就任)。

 さて、ドレスデンの旧市街は、1945年2月の絨毯爆撃でほぼ完璧に破壊されており、その後も長い間、ソ連の意向もあって見せしめ的な意味も含め、ほとんど瓦礫のまま放置されてきた。ようやくゼンパーオパーの再建が始まったのは1977年であり、復元されたのが85年である。ツヴィンガー宮殿の復興は1988年に始まり、92年までかかった。また、聖母教会の復興は1996年から開始され、復元されたのは2006年のことである。

 シュターツカペレドレスデンは、上記のような政治状況も相まって、1970年ごろから西側の指揮者が、定期的に指揮台に上るようになっていた。また、1973年には初来日も果たしている。

 

■ 録音年の状況

 

 交響曲第8番の録音が行われた1976年は、依然としてシュターツカペレドレスデンの本拠地であるゼンパーオパーの再建が始まっていない時期に当たる。そして、旧市街はほぼ瓦礫のままの状態であった。こんな中で、西ドイツの主要な指揮者の中でも長老格であったヨッフムとのブルックナー交響曲全集の録音が行われることになった。1975年に開始され、80年には完成した。完成時にはゼンパーオパーの再建工事こそ開始されていたものの、その他の瓦礫にまでは手が付けられていない時期であった。

 ところで、シュターツカペレドレスデンにとって、ブルックナーの交響曲第8番は、このヨッフムとの演奏が正規には初録音であったようだ。その後は、シノーポリ、ハイティンク、ティーレマンとも録音を残している。

 

■ 爆演が成立した経緯の推測

 

 ヨッフムとカペレの団員は、生活環境その他、あまりにも異なった立場ではあったが、同じドイツ人としてある種の共通認識を抱き、ブルックナー演奏を通じて、お互いの感情が余すことなく噴出したのであろう。思いの丈をぶつけ合った凄まじい演奏が繰り広げられたのである。しかし、異常な高揚感とともに突き進む感触は同じではあっても、ベンツやBMWでアウトバーンを駆け抜けることがありふれた環境であったヨッフムと、東ドイツ製トラバントしか知らないカペレの団員との、実体験上の感覚のズレは、如何ともし難かったのであろう。

 ちょうどこの録音が行われたころ、日本ではテレビアニメでルパン三世(第二期)が毎週放送されていた時期に当たるのだが、まるでアニメの中で繰り広げられる珍道中に近いものが録音から感じ取れなくもない。しかし、これは決して悪口を言いたいのではない。テレビアニメのルパン三世が今なお再放送を幾度も繰り返されているように、根底に流れる人類愛とまで言うと、さすがに言いすぎかも知れないが、両者(ヨッフムとカペレの団員)には感覚上の齟齬こそあれど、本当に暖かい心の交流が、迫真の演技として残された録音から明確に聴こえてくるのである。

 

■ トラバントって知っていますか?

 

 旧東ドイツ製の自動車と言えば聞こえは良いのだが、なんとこの自動車、ボディがプラスティック製で、噂では段ボールが交じっていたそうだ。そして、恐ろしい排気ガスを撒き散らしながら轟音とともに走る、4人乗りの自動車であった。ところが、この自動車の性能はアウトバーンを駆け抜けることなど到底できない代物で、そもそも身体が大きいドイツ人が4人乗れるかどうかが問題であった上に、公称最高速度105kmと言いつつ、せいぜい70-80kmしか出せないポンコツ車だったのである。当時の東ドイツはこの車さえ入手するのに、順番待ちを約10年間強いられていたそうだ。

 

■ ヨッフムの疾走とカペレの疾走

 

 ヨッフムは、ベンツでアウトバーンを駆け抜けるかのように指揮台で煽り、カペレの団員も気持ちは同じであったものの、そこは悲しきトラバント、車がガタピシ音を立てつつ、加えて恐ろしい排気ガスも撒き散らしつつ、カペレの団員が懸命に指揮棒に付いて行くさまは、社会背景を無視すると、単なる滑稽あるいは漫画の世界に堕するであろう。しかし、私にはそこにルパン三世と同じものを感じるのである。つまり、両者間の愛情がこの録音からは聴こえてくるのだ。

 本来はあり得ないことなのだろうが、聴き手である私には、トラバントがアウトバーンを轟音と排ガスを撒き散らしつつ、ガタガタ大揺れしながら猛スピードで疾走しているように感じるのである。そこには単にユーモアを超えた心の底からの人間の生命力と迫力が、痛いほど感じ取れるのである。

 

■ 具体的な例をあげると・・・ 

 

 なにか、いつもとあまりに違う論調で、執筆者が発狂したように思われるかも知れない。そこで、具体的な部分をいくつか挙げておこう。

 まず、第一楽章の最後から2分あたりの部分で見られる、トランペットの驚くべき咆哮である。これは本当に心底驚かされる。ある方は、この部分をアイーダの大行進曲になぞらえておられるが、正にそんな強烈な演奏である。

 つぎに、第4楽章冒頭のティンパニの強烈な打鍵である。録音後にティンパニが壊れたのではないかと心配するくらいの、猛烈な打鍵である。

 また、最後のコーダの部分に至っては、冷静に分析すると崩壊している演奏なのだが、あまりの勢いに押されて、聴き手は崩壊しているような感覚を持つことなく、終結に向けて猪突猛進していくのである。

 最後の3音(ミレド)が鳴り終わった時、聴き手は呪縛から解放され、ようやく我に返ることができるのだ。恐るべき演奏である。

 

■ 蛇足

 

 2014年12月末、私は念願叶ってドレスデンを訪問した。プラハから国際列車で中央駅まで移動した。すでに、ドレスデンは観光地としての体裁を整えつつあり、旧東側であったことや、瓦礫からの復旧が遅かったことがかえって幸いしたかのような、とても美しい町であった。歴史的経緯を知らなければ、まさに小綺麗な観光都市であると思ったであろう。

 私は、旧国防軍司令部のあったタッシェンベルク宮殿を復興したホテルに滞在した。このホテルから、ゼンパーオパーまでわずか徒歩2分であった。しかし、爆撃目的にされた中心的施設からわずか徒歩2分であることが、この町全体やゼンパーオパーやシュターツカペレの命運を、同時に左右したことを痛感し、深く考えこまざるを得なかったのである。

 この交通至便な場所が、瓦礫から復興しホテルになってから、すでに20年が経過する。しかし、私は到着日の夜間にゼンパーオパーで行われたジルベスターコンサートを聴きながら、ある種の感慨に耽っていたのである。その私の脳裏には、間違いなくヨッフムとカペレによるブルックナーの交響曲第8番が鳴っていた。

 ところで、ドレスデンから移動したブダペストで、2015年1月1日に国会議事堂と聖イシュトヴァーン教会の間で、このトラバントが駐車しているのを発見し、驚きとともにカメラに収めた。現在では見かけることが少なくなった、旧東側の遺産の一つなのかも知れない。

 実は今年も年末にドレスデンを訪れることを予定しているが、今回はライプツィヒから列車で移動し、別の場所から移動してくる妻と、ドレスデン中央駅で出会う予定にしている。今回は、もう落ち着いて観光できるものと信じているが、昨年末はペギータ(外国人排斥運動主宰者)による月曜デモが行われており、デモは時に先鋭化することがあるようで、大局的な意味で、過去の負の遺産を払拭するのは、見かけはともかく、精神的な側面では大変なのであろうと想像する。

(2015年8月26日記す)

※著者は自動車免許を持っていないので、この点で疑義がある場合は、何卒ご容赦ください。

 

参考 伊東による試聴記 その1 その2 その3(ブログ)

2015年8月26日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記