「わが生活と音楽より」
アンナ・ゴウラリ(ゴラーリ)を聴く文:ゆきのじょうさん
■ 略歴
アンナ・ゴウラリは公式サイトによりますと、1972年に現在のロシア連邦タタールスタン共和国の首都カザンに生まれたとあります。5歳よりピアノを始め、1979年には最初のリサイタルを開きます。そしてミハイル・プレトニョフを教えたキーラ・シャシュキナ、さらにイヴォ・ポゴレリチを教えたヴェラ・ゴルノスタエワに師事したそうです(サイトによってはプレトニョフ、ポゴレリチに直接師事したという誤記があります)。1986年にカバレフスキー・コンクールで優勝、1990年に第1回ゲッティンゲン国際ショパンコンクールで優勝。同年にミュンヘン国立音楽大学に移って1991年にドイツでコンサート・デビュー、翌92年にはパリでもデビューしました。現在も活動の拠点をドイツにおいています。
ゴウラリのディスクは、コンクールでのライブ録音を除けば、ソロ・アルバムとしてはショパンのピアノ・ソナタ第3番、マズルカ集(ARK CD 59001)が最初かと思いますが、ここでは現時点で入手可能な7枚のアルバムを採りあげたいと思います。
なお、呼び方ですが、「ゴウラリ」以外にも「ゴラーリ」という表記もあり、最近では後者がよく用いられているようですが一定していません。本稿では「ゴウラリ」で統一させていただきます。
■ 1:まず、スクリャービン
スクリャービン:前奏曲集作品2、9、11、16、22、27、31、33、35
録音:1997年12月、ミュンヘン、バイエルン放送スタジオ2
独KOCH SCHWANN (輸入盤 3-1431-2)スクリャービンは、かつて交響曲「法悦の詩」を最初に聴いてしまったため、「よく分からぬ作曲家」というレッテルを貼ってしまい、以後敬遠していた一人です。今回、ゴウラリを知ったことで漸く買い求めたスクリャービンとしては二枚目、ピアノ曲としては最初のディスクということになります。
いわゆる「スクリャービンらしさ」というべき時期より前の作品なのだそうで、解説書にもあるようにショパンやリストの影響を受けたということを感じさせる、聴きやすい小曲集です。最初にこれを聴いていれば、スクリャービンへの印象は変わっていたかもしれません。他の演奏との聴き比べはしていないので誤解があるかもしれませんが、一見単純な曲ばかりのようでいて、おそらく音符の密度はショパンより多いのではないかとすら思うものもあります。ゴウラリは音符の密度に囚われることがなく、すっきりとしながらも力強く、研ぎ澄まされた響きで聴かせてくれていると思います。
■ 2:あの、リヒャルト・シュトラウス
リヒャルト・シュトラウス:
家庭交響曲へのパレルゴン作品73
「アテネの大祭」作品74アンナ・ゴウラリ ピアノ
カール・アントン・リッケンバッハー指揮バンベルク交響楽団録音:1999年7月、9月、バンベルク、コンサートホール
欧KOCH/SCHWANN(輸入盤 3-6571-2)このディスクについては、かつて拙稿「二枚のR.シュトラウス/『アテネの大祭』を聴く」で採りあげさせていただきましたので、ここではくり返すことはいたしませんが、私にとってはゴウラリを知ることになった、大切な一枚です。
以上のスクリャービンとシュトラウスは、ECHO Klassikで2年連続受賞しています。
■ 3:更に、ショパン
ショパン:
スケルツォ全曲
幻想曲ヘ短調作品49
ポロネーズ第1番嬰ハ短調作品26の1、
華麗なる円舞曲第3番イ短調作品34の32001年1月3-5日、ミュンヘン、バイエルン放送スタジオ2
独KOCH SCHWANN (輸入盤 3-1430-2)拙稿「わたしのショパンを聴く」でも採りあげたショパン/スケルツォのディスクです。先に紹介したアルブリンク盤が突き放したような演奏と思ったのに対して、ゴウラリは対照的に曲について己が感じるままに、のめり込んだ演奏と感じます。特に第2番の中間部などは自在にテンポを動かして弾いているのですが、不思議なことに全体の設計は確かなものに聴こえます。「若い頃のアルゲリッチを思い起こさせる」という評は、たぶんこのディスクの演奏にもっともふさわしいのでしょう。しかし、一方において第3番のフィナーレなどはもっと奔放に崩して弾くこともできそうなのに、品格を保って終わっています。「雪の降るまちを」に使われたモチーフで有名な幻想曲もがっちりとした響きであり、最後のワルツはまるでアンコールのような肩の力が抜けた、爽やかな演奏で締めています。
■ 4:ベートーヴェン
ゴウラリの名前が一躍知られることになったのは、ヴェルナー・ヘルツォーク監督の映画「神に選ばれし無敵の男」への出演でしょう。
神に選ばれし無敵の男
出演 ティム・ロス、ヨウコ・アホラ、アンナ・ゴウラリ 他
監督・脚本 ヴェルナー・ヘルツォーク2001年、ドイツ/イギリス映画
東北新社(国内盤 TBD1092)ゴウラリはもちろん演技経験はなかったと思います。ドイツの鬼才監督であるヘルツォークがゴウラリに宛てた手紙の文面によりますと、最初はゴウラリのドキュメンタリー番組が企画されたことで出会ったようです。その企画自体は頓挫しましたが、その4年後に映画の企画が持ち上がるとヘルツォーク自らがゴウラリを抜擢したいと手紙を書きます。そこには「貴方がピアニストとして持っている聴衆を惹きつける魅力は、貴方が俳優として映画で発揮することと同じものです。(中略)貴方を女優にするのは私のプロとしての仕事であり、私はそれができるので、貴方は(女優が)できる。私は貴方にノーという答えを望んでいない。」と書くほど熱烈にスカウトして実現しました。
映画に関する論評は他に多くのサイトで展開されております。従って本サイトでは詳しい言及を避けますが、ゴウラリも含めて主役級3人のうち2人に演技未経験者を登用したヘルツォークの試みの賛否両論についてだけ触れますと、演技の経験不足からくる硬さや恐れ、辿々しさ、木訥さを逆手にとって、ゴウラリの本領である演奏シーンでの鮮烈さを際立たせることに成功していると思いました。これを観ると「映画というのは、よい役者がいるのではなく、よい監督がいるかどうかだ」とすら思ってしまいます。
さて、この映画に関連してゴウラリは一枚のアルバムを発表します。上述のヘルツォークの手紙もこのディスクの解説書に掲載してあったものです。
ベートーヴェン:
ピアノ協奏曲第3番ハ短調作品37
サー・コリン・デイヴィス指揮シュターツカペレ・ドレスデンベートーヴェンの創作主題による32の変奏曲ハ短調WoO.80
ピアノ・ソナタ第8番ハ短調作品13「悲愴」録音:2001年2月、ミュンヘン、バイエルン・スタジオ(変奏曲、ソナタ)、2001年6月、ドレスデン、ルカ教会(協奏曲、ライブ録音)
独KOCH SCHWANN (輸入盤 3-1499-2)上述の手紙によれば、映画の中でベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番を盛り込んだのは、ヘルツォークの提案だったそうです。第一楽章からゴウラリのピアノは打鍵が鋭く、勢いのある演奏です。特に大きくテンポを動かしたり、フレーズの最後で粘ったりするわけではないのですが、音楽はうねり、奔流となって迫ってきます。デイヴィス/カペレの伴奏は、競演というより協演に徹したもので柔軟にゴウラリに合わせているのはさすがです。第二楽章は映画でゴウラリが圧倒的な感情移入で演奏するシーンがありエンドロールでも流れました(紹介文の中にはピアノ・ソナタ第3番第二楽章と誤記されています)。このディスクでも、曲の持つ揺らめきや静謐、立体感を極限まで広げてみせてくれるのを感じます。第三楽章は畳み掛けるようなことはなく、むしろゆったりとしたテンポの中ではっとするような硬質な響きを盛り込んでいます。これだけじっくりと聴かせることが出来るのは、やはり並大抵なピアニストではないと思います。いわゆるベートーヴェンらしい堅牢さを求めているのではなく、ショパンのような響きを目指すかのような演奏なので、かなり抵抗感がある人も多いだろうということも否定しません。
これも映画の中で少し聴かせてくれた「熱情」ソナタで、ピアノ協奏曲と同様にじっくりと聴かせてくれるのも嬉しかったのですが、その間に収録された「32の変奏曲」が響きに美しい透明感がありながらも、重厚さも欠くことがないのがとても惹かれました。
さて、ゴウラリの以後のディスクは今までのKOCH SCHWANNではなく、DECCAからのものとなりました。これはその当時にユニヴァーサルがKOCH SCHWANNを傘下におさめたからなのでしょう。
■ 5:小曲集
ミッドナイト (ノクターン集)
録音:2003年5月25-27日、ベルリン、テルデック・スタジオ
独DECCA/ユニヴァーサル (輸入盤 447 114-6)収録順にフィールズ、バーバー、キルマイヤー、グリンカ、プーランク、ショパン、ヴィラ=ロボス、タンスマン、ドビュッシー、スクリャービン、レスピーギ、ヒンデミット、チャイコフスキー、クララ・ヴィーク=シューマン、そしてピアソラ、と文字通り古今東西の作曲家たちによるノクターンを集めたアルバムです。
このアルバムの解説書に、再びヘルツォークのことが触れられており、ヘルツォークは「貴方は音楽をつくってはいけない、貴方”が”音楽なのだ。」と言ったとされています。だから、というわけではないのですが、このアルバムにおいてゴウラリの演奏は、以前と比べて一頭地抜き出たように感じられます。ほとんどが5分前後の小曲集であるのに、例えばキルマイヤーの「抜け穴で」と題されたノクターンの聴き応えは大曲を聴いたかのような充実感があります。続くグリンカのノクターン「別れ」は有名な曲だそうですが、単なる甘く切ない雰囲気に止まることなく、響きの奥深さを感じさせてくれます。その後も曲のつながりがとても自然で、かつゴウラリが語りたいことが素直に伝わっている演奏ばかりです。基本的な演奏スタイルは以前と変わっていないと思うのですが、やはり映画で得られた経験が、何らかの形で表現に反映されたのは間違いがないようです。良い意味での「変容」があります。各々の曲の描き分けはもちろんあるのですが、その根底にゴウラリとしての確固たる音楽が存在していると感じます。
■ 6:再び、スクリャービン
デザイアー
(スクリャービンとグバイドリーナ)スクリャービン:
ピアノ・ソナタ第3番嬰へ短調作品23
カノンニ短調遺作
ノクターン変イ長調遺作
「アルバムの綴り」変イ長調遺作
4つの小品から「皮肉」作品56の2
3つの小品作品2
2つの小品から「欲望」作品57の1
4つの前奏曲作品37
3つの小品から「夢想」作品49の3
3つの小品作品45
幻想曲ロ短調作品28グバイドゥーリナ:
シャコンヌ(1963)録音:2005年、ミュンヘン、バイエルン・スタジオ
独DECCA/ユニヴァーサル (輸入盤 447 114-6)ゴウラリとして2枚目のスクリャービンです。選曲の違いもあるのかもしれませんが、1枚目と比較すると研ぎ澄まされた硬質な輝きはそのままでありながら、音はさらに豊かで多彩になり、表現の厚みも深まっています。今までのディスクでも左手が創り出す低音部の響きのバランスがよいと感じていましたが本ディスクではそれが一層印象深くなります。最初のピアノ・ソナタ第3番は何となくつかみどころのない構成に聴こえるのですが、ゴウラリのどこまでも拡がる音色の重なりを聴くと、茫洋とした音楽にも日差しが加わり陰影も濃くなります。小品集から副題のある1曲ずつを採りあげて他の小品集の間に散りばめ、さらに全体でみるとアルバム・タイトルになっている「欲望」はほぼ中央に位置しているというプログラミングも秀逸と思いましたし、柔らかさが際立つ幻想曲からグバイドゥーリナの鮮烈なシャコンヌへの対比も息をのむほどの美しさです。グバイドゥーリナではゴウラリの没入は一層強くなっているようで、何かをえぐり出そうとするかのような熱演を繰り広げています。これは実演で聴いてみたい曲の一つです。そういえば、グバイドゥーリナはゴウラリと同じタタールスタン共和国の出身であり現在はドイツで活動しています。
最後に採りあげるアルバムは、それまでのKOCH SCHWANN、DECCA/ユニヴァーサルの系譜とは異なり、BERLIN CLASSICSレーベルからです。これを機に移籍したのかどうかは分かりません。
■ 7:そして、ブラームス
ブラームス:後期ピアノ作品集
幻想曲集 作品116
3つの間奏曲 作品117
6つの小品 作品118
4つの小品 作品119録音:2008年9月29日-10月2日、ケルン、ドイツ放送室内楽ホール
独BERLIN CLASSICS(輸入盤 0016472BC)どちらかといえば、一ひねりのあるアルバムを多く送り出してきたゴウラリが意外にもブラームスを手がけました。しかし、これこそが私が本稿を書こうと思った理由となったディスクなのです。このブラームスの作品116から119については、私はレーゼルの重厚で静謐、ブラームスらしい晦渋さも事欠かない演奏を好んで聴いていました。ところがゴウラリはこれらの小曲たちに艶っぽさと、熱い吐息を吹き込んでいます。聴いていてこんなにドキドキする思いをさせられるブラームスというのは私にとっては初めての経験でした。幻想曲集での間奏曲たちもうっとりと聴き惚れてしまうような流れをもたらしているのですが、なんといっても私にとっての圧巻は作品117です。第1曲は、元々は子守歌であったそうで名盤が数多くあります。ゴウラリの演奏はまるで深々と降り積もる雪の夜に流れるクリスマス・ソングです。そして言うに言われぬ静かな暖かさと、それでいて隠しようのない熱い律動が同居している不思議な響きがあります。それが第2曲に受け継がれて一つ一つの音は熱を帯びて立ち並ぶようになり、立ち止まり、揺らめき、また燃え上がって突き進むようになります。これをあざといとか底の浅い過剰な解釈とかの批判をすることも簡単でしょうけど、第3曲になって重く沈殿した響きが込められてから次々に曲想が変わるごとに様々な色彩が繰り広げられていくところなどを聴くと、まったく長さを感じさせず、明らかにこの3曲目に全体の頂点を設定している至芸はやはり並はずれていると思います。ただの諦念ではない熱い余韻が終わった後に、10秒以上の無音状態が続きます。この3曲だけで満足感は途方もないものです。
続く作品118でもゴウラリの熱っぽさは不変です。有名な第2番間奏曲や、第5番ロマンツェがこんなに熱く聴き手に迫ってくる演奏も私にとっては驚きでしかありませんでした。作品119はブラームス最後のピアノ曲だそうですが、晩年の作品という先入観を振り払うような輝かしい演奏です。ここには枯山水のような悟りを開く世界はありません。侘び寂びを求める人には到底受け容れられないブラームスだとは思います。音楽はどこまでも熱く突き進みます。一番短い第3番間奏曲でも躍動する喜びに満ちあふれており、明るさは眩しいくらいです。こうなれば最終曲の狂詩曲が大伽藍を形づくるのは当然のなりゆきでしょう。しかし同じような和音の強打でも、その響きは細かく描き分けられており、ただの力任せの演奏にはなっていません。まるでハイドン変奏曲を聴いているかのような興奮を与えながらスケール大きく華やかに締めています。何度聴き返しても、最後は深い充実感で身じろぎもできないほどになります。
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CDデビューして12年という歳月をみると、ゴウラリが出しているアルバムは決して多くはなく、かつ「○○弾き」というようなレッテル(あえて言えばスクリャービンでしょうけど)の貼りにくい、傍流とも言えるような個性的なアルバムがほとんどです。容貌は一度みたら忘れられないような力のある眼光をもっていて、表情は写真によって多彩です。日本の宣伝にあるような「希代の美女」などという括り方はいかがなものかと思いますが、少なくともゴウラリは、映画出現を境にして自分を如何に見せ、そして聴かせるか、という点で確たる考え方ができたのでないかと邪推します。ジャケットの作りはよくあるアイドル的なポートレート満載のものですし、動画サイトでみますと凝った証明でポピュラーコンサートのような演出もあります。最後のブラームスではディスクのプロモーションビデオとして、ジャケット写真の撮影模様を流していたりもしているのです。このようなやり方というのは普段の私なら到底容認できない振る舞いであり、ジャケットを見ただけで嫌悪して買おうとは思わないのですが、ゴウラリは数少ない例外となりそうです。それも、「ゴウラリの音楽」が確かに聞こえてくるからに他在りません。
■
2009年6月現在、前述の公式サイトによりますと、2009年11月2日から22日まで日本でピアノ・ソロ・ツアーを行うようで、プログラムは以下が予告されています。
ショパン:ノクターン作品9の1
クララ・ヴィーク=シューマン:「音楽の夜会」よりノクターン作品6の2
グリンカ:ノクターン「別れ」
タンスマン:ノクターン第1番
ヒンデミット:組曲「1922年」ショパン:
ノクターン作品9の3
ポロネーズ作品26の2
4つのマズルカ作品30
スケルツォ第2番作品31個人的にはグバイドゥーリナは無理としても、スクリャービンとブラームス作品117を入れて欲しかったと無い物ねだりをしたくなりました。せめてスクリャービンだけでもアンコールで出てくることを期待しましょう。
2009年6月15日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記