「わが生活と音楽より」
わたしのカラヤン 第7章:
カラヤンのマーラーについての管見

第2節 わたしのマーラー(暴)論
■ 第1項:「マーラー的」演奏に対する疑問

文:ゆきのじょうさん

ホームページ WHAT'S NEW? 「我が生活と音楽より」インデックス 「カラヤンのマーラー」インデックス


 
 

 「『わたしのカラヤン』におけるマーラー」について書くことに私が逡巡した理由は他なりません。まず「わたしのマーラー」を明確にしなくては「『わたしのカラヤン』におけるマーラー」を書くことができないからです。そして、「わたしのマーラー」が一般に受け容れがたい暴論であることが想像に難くなかったことが逡巡させていた原因です。しかし、「わたしのマーラー」については避けて通れない命題ですので、第2節では、まず「わたしのマーラー」についての暴論を披瀝させていただきます。もちろんマーラーに関する文献を参照するなどという学究的側面は皆無で、私の心象風景を書き連ねたものですので、理解不足、誤解、どこかで発表されていることと同じである可能性があります。予めご了解いただきたいと思います。

 私がマーラーを聴いたのは高校生の時ですから30年以上前になります。それも当時中学生であった弟がマーラーに熱中してクーベリックの全集LPを買い聴きまくっていたのにつき合っていたという経緯でした。おそらく当時は今のようにマーラーのディスクが次から次へと発表されることはなかったと思います。そして当時の感想としては「よく分からぬ音楽」であり、「まとまりがない上に、演奏時間がやたらに長く、音は激しく、聴き通すのがつらい音楽」でありました。

 その頃から、ブルックナーと並んでマーラーの交響曲はずいぶんと人気となってきました。詳しい統計は知りませんがリリースされたディスクの数は1年ごとに指数関数のような延びを示したように思います。当然ながら私も耳にする機会も増えましたが、依然として馴染みの出にくい音楽であり続けました。

 私がマーラーを聴く際に障害となった要因は何だったのでしょうか?これについてまず考えていきたいと思います。まず、松本さんが「クーベリックのページ」における「マーラーを聴く 第1回 ■交響曲第7番■」でこれ以上はないくらいに簡潔に記述している言明をまず引用させていただきます。

第一:西欧の伝統と中欧特有の穏やかな音楽性を、マーラーの演奏にも求める必要があること。
第二:マーラーの音楽の持つ、ドロドロと粘るような粘着気質の強い側面も無視しないこと。
第三:マーラーのユダヤ人としての、抑圧された妄想気質・分裂気質を表出すること。マーラーの精神構造は、少なくとも音楽の書法よりも数段複雑であった。二重人格に近い側面とも言えるだろう。

 上記の3つの条件にはまったく異論はありませんが、同時に疑問にも突き当たります。それは「マーラーの音楽は『個(=独りよがり)』の音楽ではないのか?」という問いです。例えばベートーヴェンを例に挙げてみましょう。個々の単語を入れ替えることで第一と第二の条件についてはベートーヴェンでも言えるだろうと思います。しかし、第三の条件に相当する考察をすることには(少なくとも私には)困難がつきまといます。そこが、ベートーヴェンの音楽が「個」の音楽に留まらなかった理由の一つになりえるのではないでしょうか? 一方においてマーラーの音楽を表現する上で「抑圧された妄想気質・分裂気質」、「複雑な精神構造」、「二重人格に近い側面」を理解しなくてはならないのだとしたら、そして聴き手もそれを理解して共有しないといけないのだとしたら、それは(とても乱暴な例えですが)ヒッチコック監督の「サイコ」を初めて観たときのような気持ち悪さや不愉快さを、「芸術」として享受することを「強要されている」と私は感じます。もちろん「芸術」のすべてが楽しく幸福感に満たされることを前提にしている、と言いたいわけではありません。古今東西のクラシック音楽を俯瞰すれば、不協和音や無調音楽のようにいくらでも「不愉快さ」を前提とした音楽はありますし、心を乱されるような波動を持つ作品にも優れたものがあることは音楽に限らず多くの芸術に存在することは事実です。マーラーの音楽もその一つではないのかと言われれば「そうかもしれない」とは思います。そこで論点を変えて考えていきます。

 世にそのような不愉快さを併せ持った優れた芸術が存在すること以上に、淘汰されていった芸術作品が沢山存在するのも、また事実でしょう。クラシック音楽においても、そのような「忘れられた音楽」を発掘する試みはLP時代から続いており、CDになって更に拡大しているように感じます。しかし、その中で「メンデルスゾーンによるバッハ再発見」に匹敵するくらいのパラダイムシフトを起こした発掘はあったのかというと、どうなのでしょうか? 一時の物珍しさはあっても、また忘れられていくのが大半ではないかと考えます。すなわち「忘れられた音楽」は忘れられるに足る理由が存在したのだと思うのです。忘れられた理由はいくつかの複合でありましょう。でも、その中には聴き手に聴き続けさせるだけの力がなく、ただ聴き続けることを強要する「個」が強すぎたという要素もあると思います。

 そして、これは全くもって根拠のない個人的な感想でしかないのですが、マーラーの音楽にも「忘れられた音楽」になりえる危うさを感じます。マーラーの音楽が現代において注目されているという現実はもちろん認めます。しかし一方で危うさがあるが、力のある芸術であるマーラーの音楽とは何ぞや、と考え続けることは必要です。しかし、そのようなマーラーの音楽について私が考える上において直面した困難さは松本さんが記載されている通り、「マーラーのユダヤ人としての」という部分です。

 マーラーの演奏を語る際に、よく見聞きするコトバに「ユダヤ的な」という表現があります。しかし、「ユダヤ的」とはどのようなものなのか、という点を理解できるような記載を伴った論述を、少なくとも邦文において私は見たことがありません。これもよく言われる「ユダヤ人指揮者だからマーラーの音楽を正しく理解している」云々という記載においても、マーラーの音楽におけるユダヤ的な部分という事柄は、あたかもア・プリオリのようになっています。ひねくれ者である私としては、どうにも受け容れ難い表現です。記述者が理解している「ユダヤ的」という定義を明確にしてくれなくては、ただの修辞技法的表現なのではないかと反論したくもなります。この議論は、「ドイツ人指揮者だからドイツ音楽をよりよく表現できる」ということと同じではないかと思います。「ドイツ人指揮者だから・・」というような表現は流石に最近見なくなりましたが、何故マーラーだけに「ユダヤ人指揮者だから・・」という記載が未だ目に付くのか、私にはよくわかりません(他方において、マーラーはユダヤ的というより、ボヘミア的な要素を重視すべきというこれまたア・プリオリな論述もありますが、議論はくり返しになるのでこれ以上の言及は避けます)。

 さらに「ユダヤ的」について考えていきます。ユダヤ人指揮者においてマーラーの名盤が多いとする記述があります。確かに世の中ではユダヤ人指揮者で評価が高いディスクが多いということは私も理解できますが、それが「ユダヤ人指揮者がマーラーをよりよく演奏できる」という言明に結びつけるのは論理の飛躍と考えます。マーラーの弟子として、ほぼ同じ時代を共有したクレンペラーやワルターはさておくとしても、その他のユダヤ人指揮者が「ユダヤ人だったから」マーラーの名演奏を遺せたのでしょうか? クラシック音楽界においてユダヤ系音楽家がどれくらいの割合を占めるのかは分かりませんので、母集団が多いから偶々多いだけなのか、それともア・プリオリな「ユダヤ的」という存在が優位性をもたらしているか、「マーラーをうまく指揮できないユダヤ人指揮者」だっているのではないのか、という疑問が湧いてきます。これらは検証が必要です。しかし、本稿ではそれらを論じることが主眼ではなく、これ以上の考察を行うだけの素養が私にはありませんので、ここまでにしたいと思います。

 以上のような思いを巡らせた結果、本稿を書く上において私はまず「ユダヤ的」ということを考えないことにしました。もっとも「ユダヤ的」が理解できていないですから語る資格もありません。次には参考とするディスクにおいて「ユダヤ的なので優れている」というラベルを伴うような録音はごくわずかな例外を除いて採りあげていません。いわば、世に言う「マーラー的」ではない視点から書くことになります。さて、ここからが問題です。「ユダヤ系でない」指揮者の演奏を採りあげるという所作は、同時に「ユダヤ的」とは何なのかということが分かっていることと同義ですから、このような視点は用意されません。従って、まず私が考える「マーラー的」「マーラー的ではない」ということを明確にする必要があります。そこで、第2項において、マーラーの交響曲の編曲版を中心にマーラーの音楽を考えることとしました。

 

2009年9月2日、An die MusikクラシックCD試聴記