「わが生活と音楽より」
わたしのカラヤン 第7章:
カラヤンのマーラーについての管見

第3節 カラヤンのマーラーに関する妄想
■ 第2項:大地の歌

文:ゆきのじょうさん

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 今回の「カラヤンのマーラー」において、「大地の歌」がもっとも私が不得手としていることをまずは申し上げなくてはなりません。元々、マーラーの声楽付き交響曲を敬遠していたこともあって、「大地の歌」は、カラヤン盤を聴いても馴染むことが困難を極めましたし、現在も好んで聴く曲目とはなっていません。したがって、この項での私の書くことは、いつもにも増してかなり誤解や偏見が混じっていることを、予めおわび申し上げたいと思います。

 まず事実関係からみていきましょう。カラヤンは第1節第3項の実演歴で見たように、1960年にこの曲を採りあげています。その後合計13回演奏したのですが、ソリストの内訳で細分してみると以下のようになります。オーケストラは全てベルリン・フィルです。

 
  アルト テノール  
1960年 ヒルデ・レースル・マイダン サンドール・コンヤ 3回
1960年 ヒルデ・レースル・マイダン フリッツ・ヴンダーリヒ 2回
1960年 ヒルデ・レースル・マイダン アントン・デルモータ 1回
1970年 クリスタ・ルートヴィヒ ルドウィック・シュピース
ホルスト・ラウベンタール
2回
1972年 クリスタ・ルートヴィヒ ルネ・コロ 2回
1978年 アグネス・バルツァ ヘルマン・ヴィンクラー 3回
 

 上記のリストで感じたことは、1960年ではレースル・マイダン、1970年ではルートヴィヒと女声を不動として、男声を変えているということです。レースル・マイダンの時は3人、ルートヴィヒの時は2人・・と言いたいのですが何と最初はテノールを2人担当させていたのです。この、実演で二人のテノールに割り振らせているという事実が、カラヤンがこの曲をどう考えていたのかという重要な手がかりになります。

 このサイトをご覧になっている方々には釈迦に説法とは思いますが、「大地の歌」の全6楽章のうち、奇数楽章はテノール、偶数楽章はアルトが担当しています。カラヤンが「2人テノール制」を採った時の担当は調べた限り二通りの記載があります。すなわち、第一楽章をシュピース、第三と第五楽章がラウベンタールとする記載と、第一と第五楽章をシュピース、第三楽章をラウベンタールが担当、とする記載です。どちらが正しいのかはさておくとして、共通して言えることは第一楽章と第三楽章を一人のテノールで歌いきることは困難であるとカラヤンは考えていた、という推測が成り立つことです。実際にルネ・コロで録音したディスクでこの点を聴いてみることにします。

LPジャケット

マーラー:交響曲「大地の歌」
ルネ・コロ テノール
クリスタ・ルートヴィヒ アルト

録音:1973年12月7、10日、ベルリン、フィルハーモニー
DG (輸入盤 419 058-2)
(ジャケット画像はLP 西独DG 輸入盤2707 082)

 確かに第一楽章は劇的であり、カラヤン/ベルリン・フィルはうねりを上げています。もちろん粗野にならず響きはどこまでも濁らないように音色には注意が払われているのは第5番と同様です。中程でのピチカートや弱音での弦楽合奏は、確かにこのコンビでなくては為し得ない澄み切ったものです。第三楽章は長閑で愉悦さが際立つ音楽であり、ここでもカラヤンは一つ間違えれば粗暴な音色の組み合わせになりそうなところでも、特に管楽器の音量を立体的に林立させることで聴き所を作っています。このようにカラヤンがベルリン・フィルで求めた第一楽章での劇的な大音量と、第三楽章での繊細でかつ優美な音楽に一人のテノール歌手が対抗するのは確かに大変そうです。

 遡ってカラヤンは1960年での実演でもコンヤ、ヴンダーリヒ、デルモータといずれもが実力者のテノールを入れ替えていることを逆に考えると、レースル・マイダンとバランスが取れるテノールはいなかったということでもあります。おそらく当時のヴンダーリヒでも満足できなかったのでしょう。

 この経験から、それならばそれぞれの楽章の特性に合った歌手を複数当てはめればよいではないか、という着想に至るのは一見突飛のようでして、実は相当に理にかなっていると私は思います。そして、そういう結論を導き出すカラヤンの考え方は、合理的な思考であると同時に「マーラー的」なものとはかけ離れた思想であることも当然なことだと思います。

 その後、ルートヴィヒとコロを起用した実演は、録音より遡って1972年8月から9月に渡って2回行われています。これは第5番の録音よりも前に当たります。おそらく、1972年にコロを起用することで漸く録音するだけの質が揃ったと考えて、1973年12月にスケジュールを組んで「大地の歌」を録音することになったのでしょう。実際、録音ではコロはカラヤンが作る振幅の大きく、かつ完璧に制御した音色にぴたりとはまっています。

 以上のように紆余曲折があったテノール・パートに対して、アルト・パートは、カラヤンがその時にお気に入りの歌手を起用するというとても単純な仮説を立てることが出来ます。1960年でのレースル・マイダンや、1978年のバルツァはこれで説明可能でした。しかし、実際に録音したルートヴィヒはどうなのでしょうか?

 ルートヴィヒが「大地の歌」を録音したのは、カラヤンが初めてではありません。従って、カラヤンが過去のディスクを聴いたり、実際の演奏会での評判を聞いたりしてルートヴィヒを選んだという可能性があります。ここでカラヤンが意識したディスクがあったとすれば、それはバーンスタイン/イスラエル・フィルが1972年5月に同じソリスト(ルートヴィヒ、コロ)で録音したディスクであると一般的には考えられています。しかし、私が比較ディスクとしたいのは、クレンペラー盤です。

比較ディスク:

LPジャケット

マーラー
交響曲「大地の歌」
クリスタ・ルートヴィッヒ メゾ・ソプラノ
フリッツ・ヴンダーリッヒ テノール

オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管、ニュー・フィルハーモニア管

録音:1964年2月19-22日、キングスウェイ・ホール、1964年9月7-8日及び1966年7月6-9日、アビー・ロード・スタジオ
米EMI (輸入盤 7243 5 66944 2 2)
(ジャケット写真はLP 英angel 輸入盤SAN179)

 当サイト主宰の伊東さんもクレンペラーのページで絶賛しておられ、世評でも名盤の誉れ高いディスクです。しかもいわく付きの録音でもあります。まず1964年2月にルートヴィヒとセッション録音を行い、同年9月にヴンダーリヒと録音します。この直後の9月16日にヴンダーリヒは「不慮の事故」による頭部外傷で17日に急死してしまいます。その後フィルハーモニア管もレッグにより解散させられ、ニュー・フィルハーモニア管として自主運営を開始。再びルートヴィヒを呼び1966年に追加録音をして完成したと、CD解説書には記載がありました。まさに波瀾万丈の経緯で生まれ、希代の名演となったわけです。ディスク評としては伊東さんの批評が必要十分な内容ですので、改めて私が申し上げることもありません。クレンペラーがマーラーの愛弟子の一人であるという歴史的事実も、このディスクの価値をさらに高めていることも否定できないでしょう。ルートヴィヒはクレンペラーとの録音当時30歳代後半だったと思われます。カラヤンとはその約10年後ですから40歳代後半での録音でした。

 さて、クレンペラーの演奏は即物的と表現されることが多いように思います。晩年のクレンペラーの録音を私はさほど多くは聴いていませんが、遅いテンポで一つ一つの音を克明に演奏しようとするという印象があります。この点では一見して、晩年のベームやチェリビダッケと同じような範疇に含まれそうです。「大地の歌」でのクレンペラーはさほどテンポが遅い訳ではありません。全体の演奏時間で比較するとむしろカラヤンの方が遅く、特に第六楽章でカラヤンは2分遅いのです。

 この演奏時間という観点からみると、やはりクレンペラーの方が即物的に演奏しているということになりますが、私個人の感想からすれば、クレンペラーはちっとも即物的ではなく、第2節でみてきた、「楽譜に書かれた音符に更に恣意性を加える」という点では引けを取らない主観、主情に満ちた演奏であると感じます。確かにクレンペラーは基本的にインテンポであり、フレーズの最後に粘るような「どぎつさ」はありません。しかし、各管楽器群の音色の重ね合わせにおいては一つにまとめようとはしておらず、裸になったような剥き出しのぶつかり合いをしており、弦楽パートの弾き始めもコブシを利かせるかのような、粗野なアタックを駆使しています。それでいて全体の構成には乱れがなく、響きもどっしりしているのですから、なるほど名盤となるのは当然でしょう。

 ではカラヤンはどうでしょうか? 上述の第一楽章や第三楽章でみたように、響きは整えられて澄んでいます。第2節第2項で採りあげたピアノ編曲版ほどではないにしても、それに極限まで近づいたかのような情景があります。どんなに強奏しても管楽器は原色のような鮮やかさはなく、統一された音色で混濁せずに演奏しています。

 ルートヴィヒの歌唱も(もちろん年齢の違いもあるのでしょうけど)、クレンペラー盤とカラヤン盤では異なっています。例えば第二楽章。クレンペラー盤でのルートヴィヒは子音をはっきりと刻んで、声色も自在に変化させて彩りに事欠きません。さり気ないようでいて、一つ一つの音に込められた情熱は比類がないと思います。一方、カラヤン盤では荒々しさは出来る限り除かれていて深い響きを残しており、まるで一つの楽器のようにベルリン・フィルの合奏と合わさっています。クレンペラー盤と比較すれば彩度は小さいのですが、これだけ統一された音色になっているのは、カラヤンの耳の良さと高度な要求、それに応えるオーケストラとルートヴィヒの技量があってこそ、でしょう。

 この曲でのもっとも聴き所である第六楽章でのクレンペラー盤とカラヤン盤では、オーケストラの響きはもちろんのことルートヴィヒの歌唱も大きく異なります。クレンペラー盤に劣らず、カラヤン盤でも(おそらくローター・コッホの)オーボエ、(おそらくゴールウェイの)フルートともども素晴らしい名技を披露していますが、突出することのないように最新の音色と音量でコントロールされていて、これに合わせるようにルートヴィヒの声も深く静かに響き渡ります。生々しさがまったくないカラヤンの演奏は、確かにクレンペラー盤と比較すると「深刻さの欠如」とか、「深みのない薄っぺらな音楽」とか「マーラーならではの苦悩さが表現できていない」という批判を用意しやすいものです。

 しかし、そうした「マーラー的」という視点を用意せずに、例えば第六楽章のほぼ半ば:「Ich sehne mich, o Freund,an deiner Seite」あたりを聴くと、カラヤン盤はそこはかとない色気すらあって、心奪われずにはいられません。後半の「Er stieg vom Pferd und reichte」に至る前の雄弁にして美しさを失わない音楽の進め方は、いくら深刻さがないと言われても凡庸な指揮者と生半可なオーケストラには出来ない至芸です。それに続くルートヴィヒの歌唱も、クレンペラー盤に比べればなるほど面白味に欠けた単色系かもしれませんが、それでも移り変わる音楽の色合いを楽しむことができます。フィナーレの「Die liebe Erde alluberall Bluht auf im Lenz」からは、カラヤンはオーケストラを煽り立てていますが、決して上品さは放棄しません。したがって、ルートヴィヒの「Ewig... ewig...」も寂寥感も何もない味気ない幕切れではないかという批判ももっともだと同意します。同意はしますが、ここには余人が到達できない余韻があるとも思います。

 私は「大地の歌」においてカラヤンが為し得た(と私が勝手に思っている)ことを評価したいと考えています。第5番ではマーラーを意識して背を向けたような部分がありましたが、「大地の歌」ではマーラーの書いたスコアに踏み込んで、さらにその先に突き抜けたような演奏になっていると思います。マーラーの音楽を理解した、とは言わないまでも、スコアから紡ぎ出される響きの綾をどのように処理すれば、聴き手の心に突き刺さるような棘を和らげ、カラヤンが望む、カラヤンならではの響きにすることが出来るのかという公式を手に入れたように私は妄想します。例え(カラヤンが排除した)棘が、世に言う「マーラー的」な記号であったとしても、そんなことはどうでもよいとカラヤンは考えたでしょう。以前も指揮したことがあって手の内に入っているということや楽曲の性格にもよるのかもしれませんが、「大地の歌」でのカラヤンは「自分が納得いく衣をかけたような音を手にすること」という点において、かなり前進したと感じます。

 「大地の歌」は、これを初演したという絶対的な事実を持つブルーノ・ワルター、今回採りあげたクレンペラーという二人のマーラーの弟子(?)たち、そしてアルトではなく、バリトンのフィッシャー=ディースカウを登用したバーンスタインのディスクが「マーラー的」演奏の決定盤として評価が高いものです。カラヤンのディスクはやはり(?)黙殺されており、これについて論評することすら許されないような状況です。そして、今後もそうであり続けることでしょう。

 さて、「大地の歌」を録音した翌1974年5月にカラヤンはやはりルートヴィヒを起用して、実演では演奏しなかった2曲の歌曲を録音しました。

 

マーラー:亡き児をしのぶ歌
クリスタ・ルートヴィヒ アルト

録音:1974年5月8、9日、ベルリン、フィルハーモニー
西独DG (輸入盤 415 096-2、第5番とのカップリング)


マーラー:リュッケルトの詩による5つの歌曲
クリスタ・ルートヴィヒ アルト

録音:1974年5月8、9日、10月14日、ベルリン、フィルハーモニー
西独DG (輸入盤 415 099-2、第6番とのカップリング)

 上記のように「リュッケルト」のみが1974年10月に再度録音されていますが、これはおそらくオーケストラ部分のみを再録したのではないかと思います。さて、ここで考えることができるのは、マーラーの声楽付き作品において、カラヤンはルートヴィヒの声が必要不可欠だと考えていただろうということです。一方、ルートヴィヒにおいては、「亡き児」は1958年にボールトと録音しており、「リュッケルト」はクレンペラー盤「大地の歌」で伊東さんが解説しておられるように、「少年の魔法の角笛」と「リュッケルト」から抜粋して録音したものがありますが、「リュッケルト」5曲全部としては初録音だと思います。いずれもがルートヴィヒの深い響きの歌を聴くことができます。カラヤン/ベルリン・フィルの色彩感は「亡き児」は、やや華やかさを帯びており、「リュッケルト」では「大地の歌」と同様にほの暗く、そして澄み切った音色です。

 

2009年9月6日、An die MusikクラシックCD試聴記