「わが生活と音楽より」
わたしのカラヤン 第7章:
カラヤンのマーラーについての管見

第3節 カラヤンのマーラーに関する妄想
■ 第3項:第6番

文:ゆきのじょうさん

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CDジャケット

マーラー:交響曲第6番イ短調「悲劇的」

録音:1975年1月20日、2月17-20日、1977年2月18-19日、3月9日、ベルリン、フィルハーモニー
西独DG (輸入盤 415 099-2)

 まずお断りしなくてはならないのは、私がこの曲を初めて聴いたのがカラヤン盤であることです。LPで最初聴いた時、まったくこの曲のことが分からず、とりあえず何度も聴き返していくことで、漸く分かってきたという経緯があります。したがって、カラヤンの演奏が私にとっての「標準」となってしまっていることをご了承いただきたいと思います。

 さて、私が訳も分からず聴き続けていたときに、最初に心奪われたのは本来の曲そのものではなく、第四楽章に入っていた「音」でした。それは楽章のほぼ真ん中で、私のCDでは15分50秒くらいの所です。一度盛り上がった音響が静けさを取り戻し、リズムが刻まれている最中に下手側のヴァイオリン・パートを中心に「パラパラ」という音が聞こえてきました。その30秒後、同じような刻みで今度は上手の低弦側から「パラパラ」と聞こえました。最初は分からなかったのですが、くり返して聴いてみるとどうやら譜めくりの音なのではないかと思い至りました。

 実際にこの曲のパート譜を見たわけではありませんので、実際に当該箇所で譜面をめくらなくてはならないのかの確認は出来ていません。従って、もしかすると椅子のきしみとか、別の音かもしれません。音の由来が何であるにしても私が引っかかったのは、何故カラヤンはこのようなスコアにない「音」が入っているテイクを採用したのだろうかという点でした。

 私はもちろんカラヤンの全録音を子細に聴いたわけではありませんし、もちろんスコアを見ながら調べたこともありません。その限られた機会と限られた知識・記憶の限りでは、カラヤンの録音でこの「譜めくりのような音」が入っている録音はないと思います。よく知られているようにカラヤンは編集にも口を出したとは言うものの、実際に世に出た録音に瑕疵が指摘されています。この中で比較的有名なのはブラームス/交響曲第3番の編集ミスであり、これはレコード芸術誌で当時コンサートマスターであった安永徹氏に確認した記事(第41巻5号725頁、1992年)があります。他にもいろいろあるようです。私自身はそのような細かい瑕疵を気にするよりは、圧倒的な合奏力や聴かせ上手なカラヤンの音楽運びに注意が向かってしまうので、ほとんど気にもしないのですが、気にされる方はとても気になるようです。もっとも、これはカラヤンだけの事象ではなく、数多くの事例報告があるようですし、昨今の「何とかライブ」シリーズでは聴衆のいないゲネプロと実際のコンサートで継ぎ接ぎしているために、私のような素人でも分かるような音響の違いが臆面もなく売られている代物もあります。好悪の別はともかくとしても、このような問題は古今東西に共通した録音芸術としての宿命のようなものと捉えるべきだろうと考えています。

 閑話休題、なぜ、このような「音」が入っているテイクが出たのかについてなのですが、いくつかの仮説は立てられるでしょう。第一は他のテイクがないという仮説です。すなわちこれは録り直しなしの一発録音である、ということです。少なくともカラヤンの指揮の下では初めての演奏となったベルリン・フィルの奏者たちが「まず一通り演奏しよう」とカラヤンに言われて必死に演奏したので、譜めくりの音も入ってしまった。しかし全体の出来はとてもよかったのでカラヤンは録り直しの必要がないと考えてそのまま採用になった、という仮説です。第二の仮説は何度かテイクを録音したが、あえてこのテイクを採用したというものです。しかし、その場合わざわざ雑音が入っているものを選ぶ理由が分かりません。そこで出てくる第三の仮説は、あの「雑音」は意図して入れられたものだというもっとも大胆なものになります。その理由が私には推測できませんから、あくまでも可能性の一つということなのですが。

 さて、私が聴き始めた頃は第一の仮説を考えていて、それほど必死にカラヤンとベルリン・フィルはこの曲に立ち向かったのか、と思ってさらに聴き込んでいくことになりました。そして、カラヤンのマーラー演奏でもっとも成功したものの一つという結論を、今は持っています。

 「第1節第1項:カラヤン、マーラーを語る」で引用した、ベートーヴェン/交響曲全集を世に送り出す時のインタビュー記事で、カラヤンは第5番と「大地の歌」を録音済みであったことが分かります。このインタビューがいつ行われたのか日付は不明ですが、付表で見ますと、ベートーヴェンの全集とマーラーの第6番の録音はほぼ同時に進行していて1977年3月8日と9日にベートーヴェン/交響曲全集の最後のセッション録音を行い、その同日の9日にマーラー/第6番の最後の録音が行われています。インタビュー記事では「一年半ぐらいのうちには第六もできる」と語っていますので、まだベートーヴェン/交響曲全集の録音が完了していない頃かと推測できます。ともかく、カラヤンはマーラーの交響曲の録音を開始したとき、第6番は構想に入っていた曲であることは言えるでしょう。

 第一楽章からカラヤンの演奏は迷いがありません。この曲は打楽器と金管楽器が良く言えば華々しく、悪く言うと節操もなく突出するはずなのですが、きちんと全体の響きに合わせてあります。剥き出しで生々しい裸の音は一つもありません。弱音ではカラヤンならではのレガートがかかったふわりとした柔らかい響きとなります。第二楽章でもまるでワルツのような上品さを醸し出している部分もあり、わずかにポルタメントも掛けています。しかし突き刺すような粗野なアクセントはことごとくカラヤンが創り出した音響によって和らいでいます。まさに「卑しさ」がある響きに「衣をかけたような音」です。さらに、スコアを見ていないので全くの憶測なのですが、ここではスコアに書かれている通りに音符を現実の音にしているだけで、恣意的な「マーラー的」演奏はしていないだろうと感じます。まさにカラヤンがマーラーはどう演奏すべきか?という方法論を確立したことを端的に示しています。そして、これが「洗練されすぎている」「ただ美しいだけで深刻さが足りない」「ちっとも『悲劇的』じゃない」演奏という批判を受ける根拠にもなりますが、そうした批判に対して「それで良いではないか、そう感じるのだったらそもそもマーラーの音楽というのはそういうもの、ということだ。」とカラヤンは嘯いたかもしれません(「悲劇的」という副題もマーラーが付けたものかどうか議論があるようですし)。

 第三楽章は、まさにカラヤンの独壇場となっています。録音技術を駆使してまで、カラヤンはこの楽章を圧倒的な美意識で演奏しきっています。ちょっと聴くと苦みも何もなくただ茫洋としているだけと感じるかもしれません。しかし、旋律に合わせて論理的に響きを構築しており、全体の流れも滞ることなく深い呼吸で進めていきます。それでいて、ここぞという聴かせどころではわずかにテンポを緩めてじっくりと歌ってくれます。前半の弦楽パート間、後半の弦楽とホルンの間での美しい旋律の掛け合いや、その間で密やかに弾かれる独奏ヴァイオリンにおけるそこはかとない侘びしさなど、次々に繰り出されるカラヤンとベルリン・フィルの至芸に聴き浸ってみると、これだけの美しい響きがあれば、これはこれで十分ではないかと私は単純に思ってしまいます。

 さて、カラヤンによって創り出された、この連綿とした甘美な曲調を聴いていると、これはラフマニノフの交響曲第2番の第三楽章と似ていると私は思いました。このことを大学時代に友人に言ったところ、「マーラーは、ラフマニノフのような通俗的な音楽ではない」と一笑に付されました。確かにそんな位置づけをされがちなラフマニノフでありますが調べてみますと、マーラーの第6番は1905年に完成して1906年に初演。これに対してラフマニノフの第2番は1907年に完成して1908年に初演していますから、ほぼ同時期の音楽と言うことができます。もちろん作曲された背景(国、その作曲家の置かれた立場など)は違います。しかし1909年にラフマニノフが自身の独奏でピアノ協奏曲第3番をアメリカで初演した後の再演で、伴奏を受け持ったのはマーラーが指揮するニューヨーク・フィルであったと伝えられていますから、互いに音楽家として共感する部分もあったのだろうと思っています。

 余談ですがカラヤンはラフマニノフを、ピアノ協奏曲第2番のみ演奏と録音していました。ラフマニノフの交響曲第2番はもちろん録音も演奏もしていませんし、一度でも採りあげるつもりがあったのかどうかは分かりません。歴史に「もしも」は禁句でしょうけど、もしもザビーネ・マイヤーが円満に入団できていたら、第三楽章のソロを担当させて・・・と考えたりもします。その時、カラヤンはこの曲をマーラーのように演奏したのでしょうか?

 さて、最終楽章ですがスコアはとても複雑なのでしょうけど、そこからここまで澄んだ響きを生み出すバランス感覚は、「マーラー的」という視点を度外視して特筆すべきことではないかと思います。次々に巡ってくる見せ場も勿体ぶらず、まるで一つ一つの峯を登りつめて下界を見下ろすような拡がりを作っていき、25分くらいからは「此処こそが聴かせどころ」と言わんばかりの盛り上げ方はまるで長大な映画音楽を聴いているようでもあります。最後の一撃も、おそらくは意識的にアインザッツをずらして聴き手の心をかき乱すことを最小限にしようとしていると感じました。当時、一つの絶頂期にあったこのコンビが遺した不滅の遺産だと私は信じて疑いません。おそらくカラヤン自身もこの曲を演奏することは嫌いではなかったと思います。演奏回数は1960年に何度か採りあげていた「大地の歌」を除けば最多であり、おそらくレコードプロモーションも兼ねていた1979年の来日公演での演奏に加えて、1982年にもベルリンで演奏しています。

 カラヤンの録音から30年以上が過ぎた今、マーラーの一連の交響曲は頻繁に演奏されるようになりました。ワルター、クレンペラーは過去の巨匠としても(そういえば、この2人は第6番を録音していませんね)、バーンスタインやテンシュテットといった個性豊かな大指揮者たちも他界しました。現在は熱狂的な賞賛を受けるような個性的な指揮者も少なくなっているため、以前よりは「醒めた」演奏や録音がマーラーでも多くなっているように思います。その中で異彩を放っていると思うのが以下のディスクです。

比較ディスク:

CDジャケット

マーラー:交響曲第6番イ短調「悲劇的」

ガブリエル・フェルツ指揮シュトゥットガルト・フィルハーモニー

録音:2008年2月15日、シュトゥットガルト、リーダーハレ(ベートーヴェン-ザール)
独DREYER GAIDO (輸入盤 CD21045)

 ガブリエル・フェルツは拙稿「二人の若手ドイツ人指揮者によるアルプス交響曲を聴く」でも採りあげた、1971年生まれのドイツの指揮者です。フェルツの演奏は確かにテンポを大きく動かし、これでもかというくらいにやりたい放題で主張の強い演奏をしているように聴こえます。しかし、私にはフェルツの解釈というものがカラヤンのそれと大きく違うようには聴こえないのです。音楽はうごめきますが、響きはとても柔らかく、生々しさはありません。これだけの主張の強そうな演奏なのに「抑圧された妄想気質・分裂気質」や「複雑な精神構造」は、驚くほど希薄であり、販売元の謳い文句の「ねちっこい」「あざとい」という形容詞は似つかわしくないとすら考えます。私の想像では、カラヤンがほぼインテンポの中で行った様々な解釈をフェルツは大きく伸縮させているだけであり、換言すればフェルツはマーラーのスコアに書いてあることから必然的に導き出されることに限って演奏しているのです。基本的なテンポ設定は速めにしていることもあって、ゆっくり聴かせるところが多いのに楽章毎の演奏時間は、カラヤン盤とさほど大きな違いはないことも、私はこの想像を強めてしまいます。

 シュトゥットガルト・フィルは機能的にベルリン・フィルよりは劣ることは否めないでしょう。しかし、そのオケを統率して解釈を徹底させていることや、ちょっと聴けば、アクの強い演奏をしているようでいて実際には音楽として(私が感じるに)真っ当なことしかやっていないという点で、フェルツという指揮者は恐るべき力量を持っていると思います。フェルツという指揮者は他のディスクで聴いていても、一見、カラヤンとは両極端のことを目指しているようでして、カラヤンと同じ匂いがする、と私は考えています。そして、フェルツがいつか欧州楽壇に旋風を巻き起こす存在になるのではないかと期待もしてしまうほど、このディスクは私にとってカラヤンの「後継」盤としての魅力に満ちたものなのです。

 

2009年9月7日、An die MusikクラシックCD試聴記