「ニーベルングの指輪」管弦楽曲抜粋盤を聴く
その3:クリーブランド管編
その1:ウィーンフィル編 その2 ベルリンフィル編 その4:シカゴ響、デトロイト響編
その5:コンセルトヘボウ管編 その6:シュターツカペレ・ドレスデン編
前編
ワーグナー
「ニーベルングの指輪」ハイライト
セル指揮クリーブランド管
録音:1968年10月7日
SONY(国内盤 SRCR 9863)収録曲
- ワルハラ城への神々の入場
- ワルキューレの騎行
- 魔の炎の音楽
- 森のささやき
- 夜明けとジークフリートのラインへの旅
- ジークフリートの葬送行進曲と終曲
セルという指揮者は知れば知るほど深みがある指揮者だ。何気なく演奏されているように思われる演奏でも、指揮者の細心の注意がオケに浸透している。ただし、カラヤンとは違って、大衆受けがするようなサービスは、少なくともスタジオ録音ではほとんどしていないようだ。その意味ではおよそセルほど唯我独尊我が道を行く、といった風情の指揮者はいなかったと思う。
ところで、私は単細胞だから、ワーグナーを聴くとたちまちドイツを思い出す。クラシック音楽をいくら聴いても、ワーグナーほどドイツそのものを連想させる作曲家は他にいないと考えている。中でも、楽劇「ワルキューレ」は私にとって最もドイツ的な音楽である。「ワルキューレ」を聴き始めると、居ても立ってもいられなくなり、全てをなげうってドイツに飛びたくなる(本当)。ところが、「ドイツ的」なるものが一体何なのか、これが説明に困る。もしかしたら私の中では「ワーグナー 即ち ドイツ的」という図式が勝手に成り立っているのかもしれない。
だから、私はいかにもそれっぽいカラヤンの演奏は大好きである。カラヤンのワーグナーを好きだと声を大にして言うとちょっと恥ずかしいのだが、理屈ではなく本能的に受け入れてしまうからたちが悪い。では、セルがクリーブランド管と演奏したワーグナーはどうかと言えば、これはもうカラヤン盤とはまるで対照的に、ドイツ的でないのである(注:あくまでも私にとってドイツ的でないだけだが)。「指輪」の管弦楽曲抜粋盤のどこを聴いてもドイツは彷彿としてこない。セルはヨーロッパの歌劇場で活躍した人だから、ドイツ的なワーグナーを知らないわけではないだろう。このCDを聴いて、ワーグナーの重厚さ、壮大さ、神々しさを体験することはまずできない。少なくとも私はそうしたものを感じ取ることはできなかった。セルは、ワーグナー特有の大仰なイメージをわざわざ捨て去ることに専念してきたとしか思えない。セルはおそらく私のような聴衆に背を向けていたのではないだろうか。
イメージというものは勝手に作られる。大仰なワーグナーのイメージも個人の中で勝手に作られる。いわゆる名演奏というのは、その個人が勝手に創り出したイメージ(幻想)に最も近しい演奏のことなのかもしれない。が、セルはそうした一般的な聴衆をあざ笑うかのように客観的な演奏を繰り広げる。ワーグナーだからといって高ぶった雰囲気はどこにもなく、まさに淡々と演奏する。14時間に及ぶ「指輪」のクライマックスであり、最もドラマティックな曲である「ジークフリートの葬送行進曲」も、全然壮大でない。
しかし、やはりセル指揮のクリーブランド管は尋常なコンビではない。オケの透明感は類例がない。「ワルハラ城への神々の入場」における大音響の中でも、各声部の動きがくっきりと鮮やかに聴き取れるし、「夜明けとジークフリートのラインへの旅」の「夜明け」部分の精妙さもすばらしい。そして圧巻は「森のささやき」である。これは「ニーベルングの指輪 管弦楽曲集」にほとんど常連のように収録されながら、最も地味な曲であるが、セル盤はおそらく緻密さ、精妙さで群を抜いている。木管楽器の掛け合いは、名手揃いであったクリーブランド管だけに実に美しく、きらめくようなオケの響きを楽しめる。わずか数分の楽器の掛け合いなのに、忘れがたい印象を残す。「森のささやき」だけ聴くためにこのCDを買っても損はしないだろう。フォルテで派手に鳴る場所もさることながら、ピアノの部分で、聴衆が耳をそばだてて聴くような場所でこれ以上は考えられないと言うレベルで緻密な演奏を行うところにこのコンビの最良の成果を見ることができると私は考えている。
セルのワーグナーをもうひとつ。
ワーグナー
管弦楽名演集
セル指揮クリーブランド管
SONY(国内盤 SRCR 9862)収録曲:
- 楽劇「ニュールンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲
- 楽劇「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死
- 楽劇「タンホイザー」序曲
- 録音:1962年1月26日
- 楽劇「さまよえるオランダ人」序曲
- 録音:1965年12月10日
セルの「リング管弦楽曲抜粋盤」は「オケの機能を楽しむ」という意味では名演なのだが、やや素っ気ない印象を受ける。確かに、「感情移入」という言葉は、セルにはほど遠い。それゆえ、多くの指揮者が大向こうを唸らせるような演奏を目指す「ジークフリートの葬送行進曲」も淡々と演奏されている。
では、セルはいつもそんなに素っ気ない演奏ばかりをしていたのか、といえば、そうではないと思う。セルは決して朴念仁ではないのである。ライブ録音で聴くセルは激烈な爆演をガンガンやっているし、スタジオ録音でも時折楽しそうに演奏していたような気がする。例えば、同じワーグナーでも楽劇の序曲、前奏曲を集めたこのCDでは、セルが別人のように音楽を楽しんでいる。オケに対する厳しい統制がとれているのは「リング」の場合と同じだが、こちらでは「自分が好きな曲を演奏しています」という雰囲気が如実に伝わってくる。こうしたところがCD鑑賞の面白いところで、「リング抜粋盤」しか知らなければ、「セルは素っ気ない」と思い込むことほぼ間違いないのである。いくつかの録音を聴いて見ないと、危ない。
オペラは本当に楽しい。どんなに深刻なオペラであっても、劇場で序曲や前奏曲が流れはじめると、ウキウキワクワクするものだ(例外はもちろんある)。セルの演奏は、そんな気持を、録音を通して音楽を聴く人にも味わわせたいとでも考えたのか、一曲一曲が燃え立つような情感に満ち満ちている。「マイスタージンガー」は堂々として、しかも、どこまでも明るく、重厚である。「マイスタージンガー」というオペラの持つ印象そのものをセルは前奏曲で完全に表現している。「トリスタンとイゾルデ」はカラッとした仕上がりではあるが、セルはかなり燃えていて、燃焼度が高くなっている。暗い情念を表すのではなく、集中力で音楽を昇華させているようにさえ思える。「タンホイザー」ではオケの楽器が幾重に重なっても濁りを見せない完璧な技を見せつけている。そして最高の名演奏が「オランダ人」だ。これは指揮者の気迫とオケの洗練が最高のマッチングを見せた例で、どこからどう聴いても1級品。どこといって他の演奏とは変わり映えのしないテンポ設定であるのに、雄大かつドラマティックに盛り上がる。指揮者もオケもよほど調子がよかったのだろう、オケの各セクションがこのCDの中で最も元気よく鳴り響いている。特にホルンセクションはバリバリとかっこよく吹いていてサービス度満点。実に気持の良い演奏だ。技術的に完璧でしかもサービス度満点なのだから、この「オランダ人」に痺れてしまう人は私だけではないだろう。
2000年5月2日、An die MusikクラシックCD試聴記