マーラーの交響曲第2番「復活」を聴く

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■ ヤルヴィ盤

 

 マーラーの交響曲第2番「復活」の新譜が出ました。意欲的な録音を次から次へとリリースしているパーヴォ・ヤルヴィ指揮の演奏です。

CDジャケット

マーラー
交響曲第2番 ハ短調「復活」
パーヴォ・ヤルヴィ指揮フランクフルト放送交響楽団

  • ソプラノ:ナタリー・デセイ
  • メゾ・ソプラノ:アリス・クート
  • 合唱:オルフェオン・ドノスティアラ

録音:2009年5月6-8日、フランクフルト、アルテ・オパー
VIRGIN(輸入盤 50999 694586 0 6)

 ヤルヴィは2007年から2008年にかけて、『復活」の前身となる「葬礼」を含むマーラーのCDを制作していました。「葬礼」、交響曲第10番のアダージョ、「花の章」、交響曲第3番第2楽章(ブリテン編曲版)を組み合わせるという前例のない、しかも興味深いディスクでした。ヤルヴィはマーラー全曲録音を計画していて、その前哨戦として取り組んだ録音だったのでしょう。これに続く交響曲録音が登場するのは十分予想されました。また、その録音があったため、今回の「復活」がどのようなディスクになるのか、ある程度の予想がつきました。それはおおよそ私の予想通りでした。

 まず、優秀録音でした。ヤルヴィのディスクはほぼ例外なく優秀録音です。「葬礼」のCDもかなりの名録音でした。音質の良さはマーラーを聴く際にはかなりのプラスポイントです。「復活」は丁寧なセッション録音によっているようで、これ以上をCDには望めそうにもないほどクリアな音質で収録されています。VIRGIN=EMIはSACDには無関心ですので、SACD化は期待できませんが、これならSACDは不要でしょう。オーケストラが最後の審判を描く第5楽章においてもその巨大な響きを部屋の中で満喫できます。また、各楽器のソロのみずみずしさもすばらしい。音を聞いているとそれだけでかなり満足できます。オーディオファン必聴でしょう。多分、ヤルヴィ自身も音質には相当なこだわりがあるはずです。そうでなければ複数のレーベルで録音をしている特定の指揮者のディスクがことごとく音質が良いなどということは考えられません。

 演奏は、というと、これは初夏の風のように爽やかです。初夏の爽やかな風の中を自転車に乗って遠出をするようなイメージです。磨き抜かれたオーケストラの響き、無用の重圧感のなさ。音楽の流れは軽くはありませんが、かといって何か特別な思いが込められているようには感じられません。「名盤を探る」の「マーラー 交響曲第1番」の中で私は、かつて「マーラーの交響曲は完全に特別な音楽だった」が今や必ずしもそうではなくなってきているという趣旨の文章を書きましたが、その趨勢はここにも当てはまります。「復活」は85分に及ぶ長大な作品ですが、この曲も半ばショウ・ピースになってきました。ヤルヴィ盤は磨き抜かれた音によるショウ・ピースの傑作なのです。ショウ・ピースとしては長すぎるのがやや難点ですが。

 私の世代はバーンスタイン、テンシュテットをリアル・タイムで聴いてマーラーにのめり込んだものですが、これからの若い世代はこうしたマーラーから入る場合も増えてくるのでしょう。もはや完全に時代が変わったと思わせられるCDです。

  2010年5月20日
 

■ メータ盤

   マーラーの「復活」には思い出深いディスクがあります。メータ盤です。
CDジャケット非掲載

ズービン・メータ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

  • ソプラノ:イレアナ・コトルバス
  • メゾ・ソプラノ:クリスタ・ルートヴィヒ
  • 合唱:ウィーン国立歌劇場合唱団

録音:1975年2月、ウィーン、ゾフィエンザール
DECCA(輸入盤 466 992-2)

 高校生の頃、何度も聴いた録音でした。メータはロサンゼルス・フィルと「ツァラトゥストラはかく語りき」や「惑星」、「春の祭典」など豪華絢爛な管弦楽曲を録音していましたが、「復活」はウィーン・フィルと録音しました。この当時、メータは上昇気流に乗ったヒーローでした。

 演奏は高校生の私をたちまち魅了するスペクタキュラスさでした。管弦楽というのはここまで豊かで強力な表現力を持っているのかと感心しながら聴いていたものです。私はメータとウィーン・フィルが作り出す巨大な音響の虜になって、この録音を何度も聴き、ほとんどのフレーズを覚えてしまいました。そして、どうなったかというと、「復活」という曲に不感症になったのです。私はさんざん喜んでこの曲を聴いたくせに、「復活」というのは皮相的で内容空疎、音響だけの曲であると結論づけてしまいました。

 この録音をCDで購入したのは最近です。あまりに懐かしくなってつい手にしてしまいました。30数年ぶりに聴けばもしかしたら全く違った印象を受けるかもしれないと期待もしました。しかし、メータの演奏に81分つき合った挙げ句、猛烈な音響の中にいたにもかかわらず、「だから何なのか」という思いにとらわれることになりました。

 DECCAが本領を発揮したこの録音は、マーラーの巨大な音響を見事に収録しています。録音芸術の最たるものです。冒頭、低弦の音が右スピーカーからものすごい音圧で聞こえてくるのをはじめとして、音がひたすらすごい。第3楽章冒頭のティンパニの音も何度も聴き返したくなるほどリアルです。大管弦楽の音も、声楽陣の声も。それなら、相当リアルな音楽体験ができそうなものですが、何かが違うのです。高校生の頃は訳が分からなかったのですが、今なら何故そう感じるかはっきり分かります。メータは、マーラーの交響曲第2番 ハ短調「復活」を、「惑星」あるいは「スター・ウォーズ」組曲と同じスペクタクルの一種と見なし、完全にスペクタクルとして演奏しているためです。音質の良さがメータの意図を完璧に実現しました。「復活」にはスペクタクルとしての一面が確かにあります。それがこの曲の魅力のひとつではあると思います。それを目指して実現したという意味ではメータは立派な業績を残したと言えるでしょう。DECCAの録音史の中でも特筆すべき名録音ですから、これこそ LEGEND の名にふさわしい。ただし、クラシック音楽というよりスペクタクルなのであれば、内容空疎と私が感じたのも無理はありません。

 もしかしたら、私と同じような体験をしてマーラーを嫌いになったり、馬鹿馬鹿しくて聴いていられないと思った方はいませんか? メータ盤には損な役回りをさせてしまいましたが、こうしたアプローチによるマーラー演奏は他にも十分あり得ます。あくまでもサンプルとして挙げましたが、メータ盤のファンがいらっしゃいましたら、誠に申し訳ありません。

 さて、続きます。「復活」不感症に陥ったはずの私を驚かせたのは、バーンスタインでもテンシュテットでもありません。クーベリックでした。

 

■ クーベリック盤

CDジャケット

ラファエル・クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団

  • ソプラノ:エディット・マティス
  • アルト:ノーマ・プロクター
  • 合唱:バイエルン放送交響合唱団

録音:1969年2月27日-3月2日、ミュンヘン
DG(国内盤 UCCG-3947)

 いかにも地味そうな録音です。今もそう思っている人が多いでしょうし、そう思われても仕方がないと私も思います。しかし、マーラーの重要録音です。

 クーベリックはこの当時としては一風変わった演奏をしています。この曲にはもともとスペクタクルの要素がありますからクーベリックはそれを否定しません。十分スペクタキュラスです。ただし、それで終わりません。

 また、指揮者が思いの丈を込めて演奏したり、近代人の苦悩を読み取ってそれを演奏に反映させようとしているわけでもありません。かといえば、この曲をわかりやすく伝え、啓蒙していこうという気配もありません。このうちのどれかを突き詰めて演奏していれば、クーベリックのマーラーはもっと売れたはずですが、クーベリックはこのどれもやりませんでした。いかにも地味そうに見えたのは当然と言えば当然です。

 クーベリックにとってこの曲は、おそらく普通の古典なのです。古典と言ったら言い過ぎなのであれば、ロマン派の曲のひとつであり、それに特別な愛着があるに過ぎないのです。私見ではクーベリックはベートーヴェンやモーツァルト、あるいはブラームスやドヴォルザークと同じ並びにいる作曲家としてマーラーをとらえています。従って、大言壮語は不要で、自分の血肉と化しているこの曲を丁寧に演奏していきます。だからこそ、至極音楽的な「復活」となっています。クーベリックの演奏で聴くと、優れたクラシック音楽に出会ったように感じられるのです。

 なお、クーベリック盤は1969年の録音ですが、未だに古さを全く感じさせない音質です。よほどのオーディオ・マニアでもなければこの音質に満足するはずです。弦楽器を対抗配置としているため、他の録音にありがちな冒頭の、右スピーカーからの強烈な低弦の音はありません。しかし、理想的なバランスでこの曲の魅力を伝えてくれています。オーケストラも、声楽陣も優れています。クーベリックは一頃「ライブの人」と喧伝され、auditeからライブ盤も発売されています。そのaudite盤も大きな感銘を与える録音でしたが、現在ではセッション録音の優位性のため、私はこれがクーベリックの「復活」代表盤だと考えています。もう少し脚光を浴びても良さそうな録音だと思います。

  2010年5月21日
 

■ アバド盤

 

 マーラーの「復活」ならアバドです。アバドは、1976年にシカゴ交響楽団とセッション録音をしました。私としては1970年代のアバドらしい丁寧なセッション録音には未だに大変な愛着があります。付き合いの長さ故だと思いますが、演奏内容を深化・徹底させたという意味では残念ながら1992年におけるウィーン・フィルとのライブ録音が優れています。

CDジャケット

クラウディオ・アバド指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

  • ソプラノ:シェリル・スチューダー
  • アルト:ワルトラウト・マイヤー
  • 合唱:アルノルト・シェーンベルク合唱団

録音:1992年11月、ウィーン、ムジークフェラインザールにおけるライブ
DG(輸入盤 439 953-2)

 1990年代のアバドの評価はさんざんでしたが、この「復活」は立派です。アバドはこの曲を強い緊張感を持って劇的に構成しています。劇的といっても、開放的・脳天気なスペクタクルとしてではなく、深さや陰影のある表情を伴っており、強弱にしても極限を追求しています。静寂の効果、最強音の迫力。アバドの指揮の下でこれだけ徹底した演奏を実現したウィーン・フィルの表現力には驚くばかりです。DGの録音スタッフは会場ノイズも随分拾っていますが、ウィーンフィルや合唱団の爆発的な音響をすっぽり収録しています。セッション録音をしてくれていれば、とてつもない録音になったと思うのですが、アバドはライブであることにこだわったのでしょう。

 このウィーン・フィル盤だけでもアバドの名は「復活」の録音史上に残ったはずですが、その後、アバドは再度ライブ録音をします。

CDジャケット

クラウディオ・アバド指揮ルツェルン祝祭管弦楽団

  • ソプラノ:エテリ・グヴァザヴァ
  • アルト:アンナ・ラーション
  • 合唱: オルフェオン・ドノスティアラ

録音:2003年8月19-20日、ルツェルン音楽祭コンツェルトザールにおけるライブ
DG(輸入盤 00289 477 5082)

ドビュッシー:「海」をカップリング

 アバドが2002年にベルリンフィルの音楽監督を退任した後の演奏です。アバドは病気から回復したこともあるのでしょうが、ベルリン・フィルのシェフとしての重責から解放された後は人が変わったような演奏をしています。音楽をする喜びがディスクからも読み取れる、そんな指揮者になってきました。

 ルツェルンでは自らがオーケストラを組織し、演奏に臨みました。そのオーケストラというのがまるでドリーム・チームです。HMVのホームページから引用しますと、以下のようなものです。

コンサートマスターは元ベルリン・フィルのコーリャ・ブラッハー。弦の各パートにハーゲン四重奏団が参加。第1ヴァイオリンにはルノー・カプソン、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管コンマスのセバスティアン・ブロイニンゲ、フィレンツェ五月祭管コンマスのドメニコ・ピエリーニ、北ドイツ放響コンマスのブリジット・ラングらが参加。第2ヴァイオリンのトップは元ベルリン・フィルのハンス=ヨアヒム・ヴェストファル。ヴィオラのトップは元ベルリン・フィル首席のヴォルフラム・クリスト。チェロにはベルリン・フィル首席のゲオルク・ファウストをはじめ、注目のナターリャ・グートマン、ゴーティエ・カプソンも参加。コントラバスにはウィーン・フィルのアロイス・ポッシュが加わっています。

 管楽器には、フルートのエマニュエル・パユ、オーボエのアルブレヒト・マイヤー、ホルンのシュテファン・ドールとベルリン・フィル首席が並び、クラリネットのザビーネ・マイヤー、トランペットのラインホルト・フリードリヒが名を連ねています。

 有名プレーヤーを集めたオーケストラを作っても、常設団体ではないわけですから、必ずしも良い演奏が可能であるわけではありません。HMVに寄せられているリスナーによるコメントを見ても、賛否相半ばしています。

 しかし、アバドはこの録音を認めてリリースしているわけです。仮にDGサイドからの要請があったとしてもアバドの「復活」としてリリースしています。彼はこれが現時点における最高の記録だと考えているはずです。

 この演奏を聴いて、肩すかしを食らっているリスナーがいることは私もよく理解できます。とくに苦悩する深刻なマーラー像を持っている場合、この演奏は堪えられないかもしれません。アバドはこのスーパー・オーケストラを使って、ウィーン・フィル盤以上に突き抜けた演奏をしています。オーケストラを機能的に鳴らし、響かせ、聴かせるという点では迷いがなく、徹底的にやってしまったという感があります。少なくとも私は、アバドの他の演奏で時折感じていた「このオーケストラとならもっとできたはずだ」という不満をここでは感じませんでした。

 それと、指揮者も、オーケストラも、声楽陣も、この「復活」の演奏に際し、深刻な演奏をしようという意図はなかったのではないかと私は勝手に想像しています。何と言っても、臨時の特別編成オーケストラが舞台に立つのは真夏のフェスティバルです。曲も曲ですし、演奏する側も、聴く側も、祝典的な気分でコンサートに臨んでもおかしくはありません。音楽祭であれば必ずそうなるなどという気は毛頭ありませんが、少なくともこの演奏の場合否定できないと私は思っています。アバドのルツェルン盤は、今までの「復活」録音史上にはあまり感じられなかった祝典的な気分に充ち満ちているのです。

 「復活」はその厳めしいタイトルと極端に暴力的・破壊的な顔があるために殊更深刻そうな音楽に思えます。しかし、その音楽が描き出すドラマは十分に祝典的です。アバドはウィーン・フィル盤に足りなかった唯一のもの=祝典性をこの演奏で盛り込んでいます。私はこうした演奏もまたマーラーだと思うのですが、この演奏がマーラー・ファンすべてに受け入れられないのも理解できます。しかし、録音を聴いている我々はともかく、ルツェルンでこの演奏に直接立ち会った聴衆は完全に満足できたのではないでしょうか。そういう演奏をアバドは目指したに違いありません。アバドは自分も、聴衆も心から楽しませたのだと思います。

  2010年5月24日
 

■ ノイマン盤

 

 マーラーでは、ノイマンにも言及しておきます。

CDジャケット

ヴァーツラフ・ノイマン指揮チェコ・フィルハーモニー管弦楽団

  • ソプラノ:ガブリエラ・ベニャチコヴァー
  • アルト:エヴァ・ランドヴァー
  • 合唱: チェコ・フィルハーモニー合唱団

録音:1980年、プラハ、芸術家の家
SUPRAPHON(国内盤 COCQ 84024-37)

マーラー:交響曲全集より

 ノイマンのマーラーは聴き逃せません。録音が旧西側のメジャーレーベルではなく、スプラフォンからのリリースであったために、1980年代に繰り広げられた派手なコマーシャリズムには乗らなかったものの、内容的には今も第1級だと私は確信しています。

 この1980年の「復活」も傑作です。第1楽章が開始されるや、最後まで一気に聴き通すことになります。やや速めのテンポで開始されることもありますが、あっという間です。ノイマンはマーラーを完全に自分の音楽として咀嚼していて、この長大な曲を、大げさにではなく、実に親しみやすく「読み聞かせ」してくれています。「読み聞かせ」ですから、演奏がスペクタクルになどなるわけはありません。自分の声で、拡声器を使ったりしないで語っています。

 指揮者にとってよほどマーラーに親近感を持っていなければこのような語り口にはなりません。ノイマンにとってマーラーは遠い世界の特別な作曲家ではなく、ごく近しい存在だったに違いありません。おそらく、ノイマンにとってはドヴォルザークの延長線上にいる作曲家だったのでしょう。そういえば、クーベリックの演奏にも相通じるところがありますね。

 ノイマンの演奏は今風ではありません。悪く言えばやや田舎くさい演奏です。が、指揮者が楽譜から音楽を自分のものとして再現した場合の説得力は比類がありません。「読み聞かせ」と言っても、棒読みで、スコアを正確に再現しました、といった類の演奏ではないのです。音質的には最新盤には及びませんが、やや乾いたような音で収録されたために、ノイマンがやろうとしていたことがくっきりと浮かび上がっています。最新録音でスペクタキュラスな演奏を楽しむのもマーラーの受容のあり方だと私は思いますが、70分を超える大曲を、棒読みであったり、ただスペクタクル面を強調されてばかりいてはとても聴いていられません。ノイマンの演奏はその意味で指揮者が指揮者としてその本領を発揮した最良の成果と言えます。

 ノイマンは、1993年に再録音しています。江崎友淑さんによる優秀録音盤です。

CDジャケット

ヴァーツラフ・ノイマン指揮チェコ・フィルハーモニー管弦楽団

  • ソプラノ:リヴィア・アゴヴァ
  • アルト:マルタ・ヴェニャチコヴァ
  • 合唱: プラハ・フィルハーモニック合唱団

録音:1993年2月11-17,19,20日、プラハ、芸術家の家
CANYON(国内盤 PCCL-00265)

 1980年盤の音を徹底的に洗練させているのがこの盤の特徴です。いつものことですが、江崎さんの録音を聴くと、あまりに生々しい音に耳が張り付いてしまい、演奏に集中できません。この新盤でもどうしても音を聴いてしまうのが難点です。

 演奏は、旧盤を一層洗練させたものです。旧録音から13年経過してノイマンもマーラー演奏の経験をさらに深め、到達したのがこの演奏と言えるでしょう。数ある「復活」の中では間違いなく優れた録音です。音質も極めて良好なので、ノイマンの旧盤に比べても断然この録音が優れていると言いたいところですが、残念ながらそうはいきません。旧盤にあったローカル色は少し希薄になり、それがもの足りなく感じられます。旧盤には田舎臭ささえあったのですが、それを知っていると、洗練されたマーラーに違和感を持ってしまいます。何とも贅沢なことですね。それと、新盤では合唱部分がどういう訳かやや散漫です。これだけの大曲を、すべての面で完璧にまとめ上げるのがいかに困難か分かります。もっとも、それらも聴き手の感覚の問題でしょうけれども。

 なお、2008年にはEXTONからマーツァル指揮チェコ・フィルによる「復活」が、やはり江崎友淑さんの手で収録されました。現在のチェコ・フィルを知る材料でもあるわけですが、音質は抜群であるのに、演奏は1980年のノイマン盤に遠く及ばないのは皮肉としかいいようがありません。

 繰り返しますが、ノイマンの旧盤は傑作です。もう少しだけ音に潤いがあればと無い物ねだりをしていたのですが、SACD化されているようです。未聴ですので、是非聴いてみたいものです。

  2010年6月2日
 

■ テンシュテット盤

 

 この稿の最後を飾るのはテンシュテットです。もともと今回の試聴記は、トップにあるパーヴォ・ヤルヴィ盤との比較を私の備忘録として残すために始めました。パーヴォ・ヤルヴィは現代風の爽やかなマーラー演奏を行っており、今や指揮者から見てもマーラーが特別な作曲家ではなくなっていることをうかがわせます。それはそれでひとつの演奏のあり方だと思いますし、非難することではありません。また、ヤルヴィ盤の他にも様々な演奏のスタイルがあることを示してみたいというのも執筆動機にありました。

 最後のテンシュテット盤は過去を回顧する意味で掲載します。

CDジャケット

テンシュテット指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

  • ソプラノ:エディット・マティス
  • アルト:ドリス・ゾッフェル
  • 合唱:ロンドン・フィルハーモニー合唱団

録音:1981年5月、ロンドン、キングズ・ウェイ・ホール
EMI(輸入盤 CMS 7 64471 2)

 1980年代、マーラーは我々リスナーには非常に特別な存在でしたし、テンシュテットやバーンスタインのように尋常ならざる意欲をもって演奏する指揮者にも恵まれました。今から20年ほど前のことです。これが特殊な演奏スタイルになるとは当時の一般的な音楽ファンは誰も考えていなかったのではないかと思います。

 であればこそ、テンシュテット指揮によるマーラーの交響曲が「大地の歌」を含めて全曲録音されたことは極めて意義があります。

 テンシュテットもバーンスタインと同様、ほどほどという言葉を知りません。この「復活」にしても思い入れとその表現が徹底しています。テンシュテットは音符のひとつひとつを噛みしめるようにして鳴らしていきます。第1楽章冒頭からの極限的なスケール感は第5楽章に突入するに及んで限界まで達し、強烈なカタストロフィを作っていきます。テンシュテットはその後、合唱による「復活」を壮大に盛り上げて全曲を集結させています。山場を第5楽章の最後に持ってきているわけですが、第1楽章から既に壮絶な音楽が展開されているので、第5楽章がいかに破天荒かということになります。セッション録音とはいえ、オーケストラはよくテンシュテットの指揮についていったものです。アンサンブルが若干怪しいところもありますが、それが迫真度を高めてさえいます。

 最初にこの録音を聴いたときの衝撃は忘れられません。第3楽章の後半で異常なほどのアッチェランドがかかってから全曲が終了するまでの一気呵成の勢い、壮大さに打ちのめされただけでなく、音楽がダイレクトに迫ってくるため、かなり激しく感動したのを覚えています。感動とは、クラシック音楽の世界では軽く使われそうな言葉ですが、テンシュテットの演奏はかなり重い衝撃をもたらしたものです。この演奏を聴いて「復活」がショウ・ピースだと言い切れる人はまれでしょう。少なくとも私は特別な音楽だと思います。

 この演奏だけでもテンシュテットの名は不滅だったはずですが、2010年になって登場した1989年のライブ盤は、1981年のスタジオ録音盤を完全に凌駕するとてつもない演奏です。

CDジャケット

クラウス・テンシュテット指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

  • ソプラノ:イヴォンヌ・ケリー
  • アルト:ヤルド・ファン・ネス
  • 合唱:ロンドン・フィルハーモニー合唱団

録音:1989年2月20日、ロンドン、ロイヤル・フェスティバル・ホールにおけるライブ
LONDON PHILHARMONIC ORCHESTRA(輸入盤 LPO-004)

 旧盤でもテンシュテットの演奏時間は長めで、88分45秒もあります。音符をひとつひとつ噛みしめ、ときに大きなパウゼを入れて音楽を極大化させているのですから長くならざるを得ません。第4楽章は、通常5分程度なのに7分を超えています。

 このライブ盤はさらに長大で、全曲の演奏に92分ほどもかけています。第1楽章だけで実に25分。スタジオ録音盤での表現をさらに徹底させています。スタジオ録音盤だって極限を追求し、それを実現したと私は思っていたのですが、テンシュテットとロンドン・フィルはそれを乗り越えています。

 全曲の設計で、山場が終楽章の最後に置かれているのは旧盤と同様ですが、そこに至るまでの道のりはそれこそ異常とも言えるほどの燃焼ぶりです。テンポは大きく動き、最強音は崩壊の寸前まで追求されています。オーケストラや合唱団によるピアニッシモも神秘的でさえあります。テンシュテットの指揮ぶりは長大なパウゼを含め、確信に満ちています。

 合唱が「復活」のテーマを高らかに歌い上げるところがこの演奏のクライマックスです。これを聴くと、平常心ではいられなくなります。最近私はCDを聴いてこのような経験をしたことがありません。

 テンシュテットは、癌を宣告され、自分に迫る死と戦いながら演奏活動をしていました。ここでも文字通り、命を削りながらマーラーに没頭し、演奏をしています。何かを犠牲にしなければ達成できないものが芸術の世界にはあるのだと痛感させられます。

 なお、このライブ盤は、オーケストラの神がかったようなアンサンブルはもちろん、音質まで旧盤より優れています。旧盤はEMIとしては可もなく不可もなく、ややマイクが遠く感じられる録音でしたが、ライブ盤はこの稀代の名演奏を過不足なく見事に収録しています(バランス・エンジニアにトニー・フォークナーの名前がクレジットされています)。オーケストラによる自主制作盤には幻滅させられることが多かったのですが、これは貴重な遺産と言えます。テンシュテットの「復活」の決定盤として揺るぎない地位を保ち続けることは間違いないでしょう。

  2010年6月3日
 

2010年5月20日〜6月3日、An die MusikクラシックCD試聴記