クレンペラーのシューベルト

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CDジャケット

シューベルト
交響曲第8番ロ短調 D.759「未完成」
録音:1963年2月
交響曲第9番ハ長調 D.944「グレイト」
録音:1960年9月
クレンペラー指揮フィルハーモニア管
EMI(輸入盤 CDM 7 63854 2)

 クレンペラーの「未完成」には驚いた。テンポがかなり速い。ワルターの演奏などを長く聴きすぎたせいで、余計そう感じられる。特に第1楽章ではそうだ。どうもシューベルトの世界に浸れない。クレンペラーは構築的な立派な演奏をしているのだが、抽象的なブルックナーの5番でも聴いているような錯覚に陥る。クレンペラーは感傷など一切排除しているから、結果として一般の聴衆がこの曲に期待するロマンチックさがまるでないのだ。私はこれがあの「未完成」だろうか?と何回も考えてしまった。そういう意味ではクレンペラーらしい演奏なのだが、個人的にはどうものめり込めなくてつまらない。しかし、逆に言えば、交響曲としての骨組みだけががっちりと全面にでてきた演奏だと思う。

 ただし、第2楽章になると、さすがにクレンペラーもシューベルトの歌謡性を無視するわけにはいかなかったらしく、実にしみじみとした歌を聴かせる。特に木管群の美しい響きにはほれぼれする。フィルハーモニア管がクレンペラーのもとで栄光の頂点にいた時期だけにいい音色だ。第1楽章の演奏は好悪はっきり分かれるところだろうが、第2楽章の出来は非常によいと思う。

 「グレイト」:クレンペラーは「死角」のない指揮者だ。さすがにラヴェルの「ダフニスとクロエ」などを演奏している姿は余り想像できないが、ドイツ・オーストリア系のレパートリーでは揺るぎない貫禄を見せる。バッハからマーラーまで何を指揮させても一流であったと思う。しかもクレンペラーには長大な曲を演奏する際にも、短い曲(「フィンガルの洞窟」など)と同じ集中力、洞察力をもって演奏できるという非常に優れた資質があったようだ。

 そうしたクレンペラーの資質が最大限に活かされた録音としてこの「グレイト」があると私は考えている。全曲の構成はもちろんのこと、ひとつひとつの短いフレーズを意味のある材料として咀嚼し、見事に料理し切っている。世の中の指揮者にはワーグナーのように息の長い曲や「グレイト」のように時間的に長大な曲を苦手としている人もいるが、クレンペラーにとっては長さは問題にならなかったのではないかと思う。この「グレイト」も最後まで全く飽きさせない、見事な語り口だ。無理に交響的な側面を押し出さずに演奏したのが奏功しているのだと思う。

 特筆すべきは全曲に暖かみが感じられることだ。聴き手をまるで春の陽射しの中で佇んでいるような気持ちにさせる。凡庸な指揮者の演奏で聴くと、いくらシューベルトの旋律でも血が通っていないことがあるが、冷血人間と一般には解釈されているクレンペラーの演奏が暖かい歌に満ちているのは皮肉なことだ。いい加減にクレンペラーに対する認識を変える時ではないかと思う。

 クレンペラーは「未完成」の第1楽章ではちょっと素っ気ない演奏を意識的にしていると思われるが、「グレイト」では非凡な洞察力によって音楽の自然な流れが呆れるほどの自然さで作られているし、オケの良さもあって旋律がみずみずしく心に響く。特に第2楽章。これなら、シューベルトも草葉の陰で喜んでいるだろう。

 

 

CDジャケット

シューベルト
交響曲第4番ハ短調 D.417「悲劇的」
クレンペラー指揮ラムルー管
録音:1950年
メンデルスゾーン
交響曲第4番イ長調 作品90「イタリア」
ブルックナー
交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」
クレンペラー指揮ウィーン響
録音:1951年
ENTERPRISE(輸入盤 LV 939/40)

 全曲ともVOX原盤。このCDは2枚組で、交響曲の4番づくし。もっとも、ブルックナーの「ロマンティック」は国内盤ではPLATZからも出ているので、ここではシューベルトとメンデルスゾーンだけをご紹介する。

 シューベルトの交響曲第4番:1950年のスタジオ録音。モノラルだが、あまり音質はよくない。木管の音が乾きすぎているし、弦楽器も「ノコギリ」の一歩手前の状態である。それがマスターテープに起因するものなのか、テープをコピーする際に生じた音質劣化なのかはっきり分からない。もし後者の場合であれば、VOXはちゃんとリマスターして世に出すべきだ。なぜなら演奏が非常に面白いからだ。

 演奏は、大変ダイナミック。特に第1楽章がすごい。とてもスタジオ録音とは思えない激しさだ。情熱の固まりになったクレンペラーが一気呵成の熱演をしている。某評論家はこの時代のクレンペラーのテンポを「せかせかしている」と酷評しているが、クレンペラーをちゃんと聴いているのだろうか?

 第2楽章ではチャルメラ状態になったオーボエの音がややいたいところだが、それでもシューベルトの名旋律が結構味わえる。乾いた音質がかえって鄙びた感じを出していて面白い。

 意外とのどかな雰囲気の第3楽章を経て問題の第4楽章。クレンペラーが荒れ狂う。第1楽章同様クレンペラーが激情の固まりになったように聞こえる。この楽章もスタジオ録音とは思えないノリが随所に見られる。クレンペラーは録音の際、パッチワークを認めず、ひとつの楽章を通しで演奏したという。VOX時代もおそらくそうだったと思うが、それだからこそこんな演奏が残ったのである。オケが非力でも指揮者がよければ名演が生まれるという典型例でもあり、VOXにはぜひリマスターをお願いしたいところだ。

 メンデルスゾーンの交響曲第4番:音質はこちらの方がずっといい。もちろんオーボエがチャルメラになったりはしない。高音がすっきり伸びていて、モノラルながら聴きやすく、私には特に不満は感じられない。

 クレンペラーは10年後にフィルハーモニア管とこの「イタリア」をステレオ録音している。そちらも名演奏なのだが、この演奏だって十分な存在価値がある。部分的にはこの旧盤の方が優れてさえいる。

 この時期のクレンペラーは快速運転だけの指揮者だと思われているかもしれないが、とんでもない。楽器間のバランスも実によく整っていて、どんなところでも各楽器の動きがよく分かって面白い。また好みが分かれるかもしれないが、木管楽器の美しい旋律がくっきり浮かび上がるのもいい。快速運転だけではできない、丁寧な指揮ぶりなのである。

 ただ、この演奏で本当に面白いのは、何よりも両端楽章における熱狂的な雰囲気だ。特に第4楽章の「サルタレロ」。この楽章はさすがに60年の新盤はかなわない。この楽章の演奏時間を見ると、51年盤(ウィーン響)では4.29分。60年盤(フィルハーモニア管)では6.06分となっている。オケも非常な力演だ。弦楽器群はクレンペラーの猛烈な指揮について演奏するにはかなりの集中力を要しただろう。

 なお、第3楽章にはホルンのちょっとしたミスがあるが、無修正のままである。やはりパッチワークはしていないようだ。

 

 

CDジャケット

シューベルト
交響曲第8番ロ短調 D.759「未完成」
ベートーヴェン
交響曲第5番ハ短調 作品67「運命」
クレンペラー指揮ウィーンフィル
録音:1968年
DG(国内盤 POCG-2626)

 クレンペラーの演奏の中で、最も有名な「運命」を含む記念碑的なCD。発売元のグラモフォンもその価値は十分理解しているらしい。EMIの専属アーティストであったクレンペラーのCDを特に歴史的意義の大きい「ウィーンフィル150周年記念CD」の一つとして発売している。ただし、限定盤であったため、現在単体では極めて入手が困難である。ところが、驚いたことにクレンペラーファンはほとんどの人がこのCDを持っているらしい。そうしたCDの感想文を書くのは恐怖以外の何者でもない。が、とても無視するわけにはいかないCDなので、以下に簡単にご紹介したい。

 「未完成」:私はクレンペラーの指揮する「未完成」は特に好きなわけではない。フィルハーモニア管とのスタジオ録音(63年)もバイエルン放送響とのライブ録音(66年)も手放しで喜べるような出来ではなかった。しかし、このウィーンフィルとのライブだけはほぼ理想的な録音であると断言できる。「ほぼ」と書いたのはテープの経年劣化によりオーボエの音が少し干からびているためである。それとて、クレンペラーの作るこの世のものとは思えない音楽を鑑賞するには何の妨げにもならない。第1楽章からえもいわれぬ耽美的なシューベルトの世界だ。クレンペラーの解釈がウィーンフィルを前にして突然変わったとも思えないが、鋭角的な表現はウィーンフィルの手にかかると独自のまろやかさで包み込まれ、ロマンの香りを帯びる。クレンペラーはバイエルン放送響との演奏時よりさらに遅いテンポを取り、音楽を進めていくのだが、そのゆったりとしたテンポがこのウィーンフィルのまろやかな響きを引き出すのに成功したのではないだろうか。ここまで読むと、遅いテンポによる甘ったるい演奏だと思われるかもしれない。が、そうではない。交響曲としての迫力も十分で、息をのむような強奏も聴かれる。しかし、メカニカルな感じが全くしない。これこそウィーンフィルの至芸であろう。

 第2楽章は第1楽章の上を行く。美しく、典雅でありながら激しい情熱を内包している。残念ながらこの美しさ、ロマンチシズムは私の筆力では表現できない。これは聴いていただくほかないものだ。終演直後、何者かが「Schoen !(美しい!)」と言っている声が聴き取れるのだが、こんな言葉が出るのもなるほどもっともだ。コンサート会場を埋め尽くしたウィーンの聴衆は誰もがそう思ったに違いない。

 ところで、このCDにはクレメンス・ヘルスベルクによる解説が付いている。ここでヘルスベルクは、この声は他ならぬクレンペラーのものだと書いている。ヘルスベルクがそう書くからには誰もが信じてしまうのだが、シュトンポア著「クレンペラー 指揮者の本懐」巻末ディスコグラフィーによれば、「これはロッテ・クレンペラーも述べているとおり、クレンペラーのものではない」らしい。本当だろうか? あのタイミングで、しかもマイクにはっきり入るように「Schoen !」などという言葉を発することのできる人は指揮者しかいないのではないか? 読者のお考えを伺いたいところだ。

 

 「運命」:この「運命」はCD発売のはるか以前から有名であった。それは吉田秀和氏の次の文章によっている。出典は吉田秀和著「世界の指揮者」(ラジオ技術社)。

...これは大変な人なのだと改めて感じたのは、先年ヨーロッパに一年ほど滞在していたおり、クレンペラーがヴィーン・フィルハーモニーを指揮してベートーヴェンの第五交響曲を演奏するのを、ラジオの中継できいた時である。

これはすごかった。あとにもさきにも、あんなに大きな拡がりをもった<第五>をきいたことはないといってよい。あとで園田高弘がベルリンに来ていっしょに食事した時、クレンペラーの<第五>がヴィーンの音楽祭でセンセーショナルな成功を納め、批評家の中には、「私は彼の前に膝まづいて感謝する」とかあったのを知っているか?ときかれ、即座にああ、あの中継できいた<第五>のことか、と思ったものである。

 「世界の指揮者」の初版は昭和48年(1973年)に出ている。それ以来、吉田秀和氏の多大な影響力で、クレンペラーとウィーンフィルのこの「運命」は誰もが知るところとなった。したがって、グラモフォンからこのCDが1992年に発売されるや、クレンペラーの最も価値あるCDとしてクレンペラーのディスコグラフィーを飾ることになったのである。

 演奏については吉田秀和氏の文章が本質を突いてしまっているので、これ以上の駄文を書く必要を私は認めない。今でこそEMIからバイエルン放送響とのライブ録音が発売されて、クレンペラー最晩年の「運命」を手軽に聴けるようになったものの、依然としてこの演奏の価値は減じていない。ウィーンフィルとの演奏であるという点もこのCDの価値をいっそう高めていると思う。良質のステレオ録音であることも特筆したい。願わくは、より多くの音楽ファンがこのCDを聴けるように再発されんことを。

 なお、このCDは最初に述べたように単体では入手できそうもないが、「未完成」については海賊盤で入手できるかもしれない。以下のジャケットのものである。

CDジャケット

ベートーヴェン
交響曲第6番ヘ長調作品 68「田園」
アムステルダム・コンセルトヘボウ管

こちらと同じ演奏)
シューベルト
交響曲第8番ロ短調 D.759「未完成」
ウィーンフィル
PALLADIO(輸入盤PD 1208)

 

 

 
 

An die MusikクラシックCD試聴記、1999年掲載