「わが生活と音楽より」
ユリア・フィッシャーの二枚のバッハ・アルバムを聴く

文:ゆきのじょうさん

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 ユリア・フィッシャーは1983年ミュンヘン生まれと言いますから、2009年ではまだ26歳ということになります。その年齢が意外に若く思えるほど、フィッシャーの盤歴は豊富です。

 フィッシャーのデビュー盤は2004年、ハチャトゥリアンとプロコフィエフ、グラズノフのヴァイオリン協奏曲でした。その後、同じレーベルである蘭 Pentatoneの専属として、8点のディスクを発表しています。私がフィッシャーを知ったのは、その一つであるブラームスのヴァイオリン協奏曲を何気なく買い求めたのが切っ掛けでした。その拙稿でも触れましたが、フィッシャーはデビュー第2作でなんとバッハの無伴奏全曲を世に送り出したのでした。

 

 

CDジャケット

J.S.バッハ:
無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ全曲

ユリア・フィッシャー ヴァイオリン

録音:2004年12月、アムステルダム、シンゲル再洗礼派教会
(輸入盤 PTC5186072)

 なんという無作為な演奏なのでしょうか。ここでの「無作為」とは何かしら小技を使ったり、途方もない速く弾ききって見せたり、逆に猛烈に遅く粘り抜いたりすることで無理矢理聴き手を振り向かせたり、唸らせたりしようという意図がまったくないということです。ブラームスではあれほどの濃厚な演奏をしていたのに、バッハでは影も形もありません。これは、作曲家や曲に寄り添った解釈をしている所作なのでしょう。

 テンポは全ての曲で穏当です。数多くある同曲集の演奏で平均値を算出したとしたら、おそらく平均そのものになるのではないかと思うくらいです。解釈も特に学術的に新たな視野を切り開いたという視点は用意されていません。感情のわき出るままにがむしゃらに弾いているわけでもありません。切羽詰まったようなぎりぎりの限界に挑戦した演奏でもないのです。ただひたむきに楽譜に書かれているものを音楽として表出したに過ぎないと感じます。

 それでは個性が乏しく凡庸な演奏なのかというと、その対極に位置していると断言できるだけの魅力があるのです。「聴き惚れる」とは、このディスクのためにあるコトバであるとすら思います。例えばソナタ第1番第二楽章のフーガ。一挺のヴァイオリンでフーガを演奏するというこの曲集の中でも白眉の一つなのですが、フィッシャーは惚れ惚れするような美しい重音を駆使して弾いています。そこには一点の曇りも濁りもありません。では、ただの機械的で正確無比な演奏、あるいはただ清涼かつ端麗な演奏なのかというと、どうもそういう範疇には当てはまらない魅力を感じるのです。

 まず特筆すべきは、ボウイングの美しさでしょう。よく知られているように、ヴァイオリン演奏は、音程を司る左手だけではなく、ボウイングを担当する右手の技量が重要になります(だから、頻度として右利きが多いので右手が弓を持つわけです)。とても乱暴に言ってしまえばボウイングは、弦にかける圧力と弓のスピードという因子を、一つの音符の長さの時間軸においてどのように組み合わせてプログラムするのかということで規定されるのだと思います。もちろん、これに左手のフィンガーリング、ヴァイオリン本体の響き、演奏者の身体の共鳴、等々、多くの要因も入ることは言うまでもありません。バッハの無伴奏におけるフィッシャーのボウイングはまったく無理がなく、しかも考え抜かれたものです。どこでどのようにボウイングを行えば良いのかについての迷いのない結論が出ています。世評の高いヴァイオリニストの演奏でも、往々にしてボウイングに無理がかかっているものがありますが(その中には、自身の限界を目指すための行為や、聴き手に一定の効果を与える目的があるのでしょうけど)、フィッシャーにはそれがありません。しかし安全運転に終始した演奏でもないのです。伴奏がない一挺の楽器でどのような音楽を構築するのかという設計図が初めから終わりまで迷いなく出来上がっており、それをひたむきに創出していると感じます。それを奇異な解釈ではなく堂々たる正攻法のテンポと音色で弾いているのです。したがって音楽は深い味わいがあり、しかも聴き手に無理難題な聴き方を強いることもありません。例えばパルティータ第1番クーラントに続くドゥーブルはもっと畳み掛けるような演奏も可能なのに、フィッシャーはさほど速くないテンポを採用しています。その一つ一つの音は実に練り上げられており、聴いていて退屈するどころか、逆にわくわくしてくるのです。ここで弾いているのは類い希な才能を持つ芸術家であると、実感できる瞬間です。

 一番有名なパルティータ第2番のシャコンヌにおいても、フィッシャーは無闇に劇的に盛り上げようという意図がありません。しかし、一見さり気ないように見えて、ボウイングには手練手管が込められています。ある音は生々しく、ある音はふんわりとした軽さで弾き分けており、それらがまったく自然な語法の中で配列されているので、聴いていて余計な緊張感を持たせることがありません。あるがままに始まり、あるがままに演奏は終わります。しかしとても満ち足りた思いにさせてくれる演奏でもあります。

 このようなフィッシャーの演奏を、精神性が乏しいとか、芸の幅が小さいとか、キャリアと年齢の先入観からの評価をしてしまうのは簡単です。ソナタ第3番第一楽章を聴いていると、そんなあら探しに何の意味があるのかと私は思います。ここにはその刹那でしか聴けないフィッシャーの音楽があります。そして、パルティータ第3番の最終曲ジーグまで、迷い無く音楽が導かれてくると、どこかこの演奏は私が愛聴しているラウテンバッハーの旧盤と繋がる魅力を感じてしまうのです。

 さて、最近になってフィッシャーはメジャーレーベルであるDeccaに移籍し、その第1弾として再びバッハを採りあげました。

 

 

CDジャケット

J.S.バッハ:
・2つのヴァイオリンのための協奏曲ニ短調BWV1043
・ヴァイオリン協奏曲第1番イ短調BWV1041
・ヴァイオリン協奏曲第2番ホ長調BWV1042
・ヴァイオリンとオーボエのための協奏曲ハ短調BWV1060

ユリア・フィッシャー、アレクサンダー・シトコヴェツキー ヴァイオリン
アンドレイ・ルブツォフ オーボエ
アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ

録音:2008年6月2-4日、ロンドン、デットフォード、聖ポール教会
欧Decca(輸入盤 4780650)

 多少はピリオド奏法の影響は感じられるものの、基本的にはモダン楽器によるモダン奏法での演奏です。無伴奏で感じたのと同様の、小手先の新奇をてらった部分など皆無な、堂々たる正攻法の演奏です。無伴奏で感じられたボウイングの美しさは微塵も変わっていません。そして妙に大家ぶったところもなく、現在自分が感じ、信じているバッハの音楽をただひたすら演奏しているに過ぎないのがよく分かります。

 なんという確信なのでしょうか。もちろん目新しいところは少ないので、ちょっと耳にした程度ではこれと言った魅力を感じることが難しいと思います。おそらくDeccaとしては、何らかの商業上の付加価値をつけて売り出したいのでしょうから、解説書には「可憐な美少女演奏家」とでも言いたげの、ありがちなポートレート写真を満載していますが、そんな編集方針を行った人が逆に気恥ずかしくなるであろう、真摯で率直な演奏がディスクには収められているのです。

 このようなフィッシャーの姿勢は、共演者にも十分に意思統一がなされていると感じます。BWV1043でのシトコヴェツキーは、ドミトリー・シトコヴェツキーの息子ですけど、ここではフィッシャーの音楽を十分理解して同質の音楽を作ることに専念しています。バックのアカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ(ASMF)もフィッシャーと同質のボウイングをしています。例えばBWV1042において、トゥッティでのボウイングの揃え方は勿論のこと、ソロと通奏低音での絡み合いにおいても呼吸がとても自然に合っています。息詰まるような個性のぶつかり合いこそありませんが、何の心配もなくただただバッハの音楽を楽しむことができるのです。

 これは、よく考えればとても困難なことを実現していると思います。まずフィッシャー自身がどんなバッハの演奏をしたいかということが明らかになっており、それを共演者やバックのオケに紛れなく理解させなくては実現できないことなのです。したがって、ちょっとリハーサルをやって2回ほど催した演奏会と、前後のゲネプロの良い所を継ぎ接ぎした「ライブ録音」では到底聴けないことは明らかです。想像ですが、フィッシャーはこのアルバムでセッション録音を強く望んだに違いありません。それだけの強い必然性が感じられるのです。

 このアルバムの最後はBWV1060になっています。第一楽章でのフィッシャーの演奏は、完全にアンサンブルの一員としての姿勢になっています。むしろ主役はオーボエであり、フィッシャーは一聴するとオーボエに寄り添うように演奏しているだけのように感じます。しかしよく聴けばちょっとした何気ない刻みの演奏でもオケを牽引して、音楽を構築していくのが分かります。この意味ではディスクには明示されてはいませんが、指揮はフィッシャーと言ってよいと考えます。この音楽作りは第二楽章になっても同様です。決して出しゃばらず、己の信じるままに、ただ演奏しているだけ、それはバッハの音楽のためであり、自分に脚光を浴びさせるためではない。そういう思いであろうと感じます。第三楽章も他の曲と同様に、果たし合いのような息詰まるテンポでは決してなく、誠に自然な聴き疲れないテンポで締めくくられています。

 ちなみにフィッシャーはASMFとはDVDでのヴィヴァルディ/四季でも共演しており、ここでも強引にアンサンブルを引っ張っていくことはないものの、盛んにコンマスに目くばせしながら演奏を進めており、極めて上質な「四季」を演奏していました。

 

 

 

 フィッシャーのバッハ演奏は、4年の時が経ち、メジャーレーベルに移籍してもほとんど変わっていませんでした。それ故に数多あるディスクの中で訴えが強い演奏とは言えません。同じようにバッハの無伴奏でデビューして、SONYからDGに移籍したときにバッハの協奏曲(それもフィッシャー盤とまったく同じ曲目)をリリースしたヒラリー・ハーンを否が応でも想起してしまいますし、Deccaもおそらくハーンを意識しているのでしょう。私はハーン盤のいずれも未聴ですが、世評を読む限り個性という点ではハーンの演奏はかなり魅力的であろうと容易に想像できます。ハーンと比較すればフィッシャーは目新しい点は少なく、ピリオド楽器(奏法)が登場する以前の古めかしいバッハ演奏と何処が違うのかと誹られる可能性は高いと思います。セールスも、おそらくはハーン盤には及ばないでしょう。

 しかし、私はそれでも良いのではないかとすら思います。フィッシャーが感じ、信じる音楽は真(まこと)だと思います。だから、まったくぶれることがありません。思わず身を乗り出すような華々しさや新機軸がなくても、フィッシャーの音楽には安心して身を委ねることが出来ます。他の人の演奏がどうだとかを考える必要がなく、純粋に音楽を楽しめるのであれば、それはかけがえのないものだと考えます。それを巧まずして体現しているのであれば、フィッシャーは偉大な芸術家の一人だと言えると思うのです。

 最後に付け加えさせていただければ、私は個性が強くて、果たし合いのような緊張感が強いバッハが嫌いなわけではありません。そのような演奏を聴いてドキドキするような体験も好ましいと考えています。ただ単にどちらも楽しめればそれが一番であると思っていて、「どちらかでなくてはいけない」という考え方ができないだけなのです。

 

2009年3月1日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記