「わが生活と音楽より」
ユリア・フィッシャーの二枚の新譜を聴く(観る)文:ゆきのじょうさん
パガニーニ:24のカプリス作品1
ユリア・フィッシャー ヴァイオリン
録音:2008年9月1-5、2009年4月8-9日、ミュンヘン、アウグスト・エヴァーディング・ザール
英DECCA(輸入盤 478 2274)
本稿は書きかけにしていたところで、松本さんから試聴記が上梓されました。拙稿からも引用をいただくという栄誉もいただき、本来なら本稿は破棄してもよいところでしたが、たまには同じディスクで複数の試聴記があるのも、よろしいのではないかと思い直して、投稿した次第です。
ユリア・フィッシャーには、ブラームスの協奏曲で巡り会って非常に興味を持つところとなりました。そして彼女のバッハ演奏にも深く心打たれるところがありました。以前の試聴記に書かせていただいた通り、フィッシャーは元々Pentatone Classicsレーベルでグラズノフ/ハチャトゥリアンの協奏曲でデビュー、その後モーツァルトの協奏曲全集で3枚、ブラームス、チャイコフスキーの協奏曲と、バッハの無伴奏、メンデルスゾーンのピアノ・トリオ、そしてシューベルトのヴァイオリン独奏曲集2枚発表してきました。さらにDeccaに移籍後はバッハの協奏曲、そして、今回のパガニーニという盤歴になります。
このようにみてくると、フィッシャーは自分がそのときに録音したいものを選んで録音してきているように感じます。なぜこの曲を録音するのかという、聴き手が抱く疑問に対して確固たる答えを用意していると感じることができる演奏ばかりでした。そして今回はバッハに続く無伴奏曲、パガニーニのカプリスです。
カプリスは超絶技巧の展覧会のような曲集です。ヴァイオリン演奏としての一つの頂点のような位置付けでもあります。現役盤を眺めてみても、蒼々たる名うての演奏家たちが並んでいます。さて、フィッシャーのディスクについて言及する前に、私がそれまでに好んで聴いていた演奏を紹介する必要があります。それがシュロモ・ミンツ盤です。
パガニーニ:24のカプリス作品1
シュロモ・ミンツ ヴァイオリン
録音:1981年8月、9月、ハンブルク
日DG(国内盤 UCCG-5141)ミンツの演奏は、ブルッフのヴァイオリン協奏曲で初めて聴いてその伸びやかな美音に圧倒されたものでした。そのミンツがパガニーニを録音したというので早速(当時はLPを)買い求めたものです。この難曲を扇情的にならずに、どんな難所も正確に弾きこなしている以上に、楽しんで弾いているという余裕すら感じられる演奏です。パガニーニにつきものの代名詞である「悪魔的」というコトバが全く似つかわしくない、どこまでも屈託のない、明るい演奏です。有名な第5番での疾走感は無類のもので、しかも一つ一つの音はないがしろにせず、あちこちに意識的に効果を狙っているような処理も行われているのが信じがたいくらいです。
この信じがたいミンツ盤に対して、フィッシャーはさらに別次元での信じがたい演奏をしていると感じました。
「24のカプリス」は正式名称は「ニコロ・パガニーニにより作曲され、芸術家たちに献呈されたヴァイオリン独奏のための24のカプリス」だそうです。そしてパガニーニはこの曲を練習曲としていたと考えられています。それが盛り込まれている高度な技巧の展覧会のような作りが、演奏家や聴衆を魅了して、果てはシューマン、リスト、ラフマニノフといった多くの作曲家が編曲や、主題を使った曲をつくっているという位置付けです。
したがって、ある意味において「24のカプリス」は戦って組み伏せる対象の曲であるとも言えるのかもしれません。そこには単なる記号としてのスコアがあるのではなく、それを作曲したパガニーニという存在が切り離せません。パガニーニに関する数多くの逸話は、パガニーニ自身がこの曲を完璧に弾きこなしていたであろうという予想をほとんど事実に変えてしまうに十分なものです。もちろん、音源は残っていませんから、演奏家たちはパガニーニという幻影あるいは悪魔とも言える存在を越える演奏を目指しているのだと思います。そこには狂気に似た波動も感じます。聴き手の中には、それを期待してこの曲の演奏を聴いている人もいるのだと思います。
ミンツは、個人的にはパールマンを越えると思うテクニックを持って、この曲をねじ伏せようとして成功しています。パガニーニに向かって「貴方が考えていた以上のレベルで、私はこの曲を表現できるのだ」と宣言しているのではないかとすら感じます。ミンツは近年、「24のカプリス」全曲演奏会を来日して催していますので、この曲へのこだわりはライフワークのように位置づけているのかもしれません。
一方でフィッシャーの演奏では乱暴に言ってしまえば、私たちが何となく抱いているイメージのパガニーニという存在は、まったくもって霧散しています。
フィッシャーのテクニックはミンツと同等か、あるいはそれ以上かもしれません。アルペジオや重音、ダブルトリルや左手ピチカート、そのすべては文字通り完璧と言ってよいものです。そしてフィッシャーはこの曲を組み伏せようとは思っておらず、寄り添うように演奏しています。ヴァイオリンが一番ヴァイオリンらしく鳴り響くような音響設計を考え、スコアを分析して、テンポや音色を論理的破綻がないように取り決めて、それを圧倒的なテクニックで具現化しているのです。ヴァイオリンが日本語の「提琴」らしく鳴っている希有の「カプリス」だと思います。
したがって、ここには聴き手の身をよじらせるような悪魔的な香りはありません。パガニーニのアナロジーとしての「カプリス」ではないのです。それ故、物足りないという批評が咲き乱れるのは必然だと思います。フィッシャーは「24のカプリス」にスペクタクルを求めてないからです。
確かにパガニーニは興行師としての才覚もあったのでしょう。だからといって演奏家としてのパガニーニが、現代の私たちが考えるような荒技を繰り出す曲芸師であったかどうかは誰もわかりません。パガニーニが生きた時代においては、「24のカプリス」を弾きこなしたというだけで、唖然としてしまうような時代だったのかもしれません。パガニーニの演奏がフィッシャーのようであった可能性も排除できないと思います。
フィッシャーのディスクは、「24のカプリス」が(パガニーニ自身がほんとうはどう思っていたのかはわかりませんが)芸術家のための練習曲となった貴重な一枚だと思います。
サン=サーンス:ヴァイオリン協奏曲第3番ロ短調作品61
グリーグ:ピアノ協奏曲イ短調作品16
ユリア・フィッシャー ヴァイオリン、ピアノ
マティアス・ ピンチャー指揮ユンゲ・ドイチェ・フィルハーモニー
録音:2008年1月1日、フランクフルト、アルテ・オパー
欧DECCA(輸入盤DVD 074 3344)フィッシャーは過去8回のコンクール優勝経験をもっていますが、そのうち3回はなんとヴァイオリンではなく、ピアノのコンクールでの優勝であったそうです。これはもともとがピアノから音楽を始めたことがあったからのようです。もちろんデビューしてからはヴァイオリンでの録音しかありませんでした。しかし、事もあろうに一晩でヴァイオリンとピアノでの協奏曲を演奏するという演奏会を開いたそうです。そして、その記録が本DVDというわけです。
当然ながらピアニストとしてのフィッシャーの演奏に注目が集まるわけですが、前半のサン=サーンスのヴァイオリン協奏曲も注目すべき演奏だと思います。
既存の録音と同じ姿勢で音楽に対峙しており、スコアをきちんと読み込んで、あるべきように音が位置づけられるように設計し、それを安定した技巧で表現するというスタイルです。運弓のすばらしさは、やはり映像でも十分確認できます。弦へかける圧力、駒との距離感、弓のどの部分で弾くのかがすべて明快なのです。しかも身体を特に大きく動かすのですが、ただ感情にまかせたりとか、効果を狙っているわけではなく、次に演奏する音のスピード感を出すという目的があるようなので、いつでもふらふらと身体を揺すっているわけではありません。
しかも、フィッシャーは指揮者がいながら、自分の独奏からオーケストラへの受け渡しの際には、コンサートマスターの方に完全に身体を向けてアイコンタクトをとっているのです。逆にオーケストラから音をもらうときにも同じです。まれにある管楽器への受け渡しのときには必ずそのパートの方向をみています。その律儀とも言うべき姿勢は、フィッシャーが現在フランクフルト音楽大学で後進の指導(最年少)にあたっているということと関係があるのかどうかは分かりません。自身も弾き振りもしますし、室内楽も演奏していますから、基本的な姿勢なのかもしれません。
演奏中、フィッシャーはほとんど表情をかえません。特に口は真一文字にぎゅっと閉じられたままです。笑みもほとんど浮かべませんんが、ごくまれに、わずかに楽しそうな表情を見せるのが、なおさら印象を深くしています。堂々たる大家の風格です。私はこのサン=サーンスを聴いただけで十分満足してしまいました。
さて、注目の後半のピアノ協奏曲です。曲目がグリーグというのも意表をつかれたような思いがありましたが、聞いてみると納得できるような気がいたしました。
さすがにコンクール優勝歴があるだけに技巧にはまった問題は感じません。何も知らない人に見せたら、もともとピアニストなんだろうと思って当然だと思います。グリーグのこの曲は一つ間違うと、ただ外面がきらびやかな、甘くせつない演奏になりかねないのですが、フィッシャーは堅牢に、そしてヴァイオリン演奏と同じ視点で演奏していると思います。音楽全体からみて一つ一つの音はどのようにあるべきなのか、そのためにはどのように弾くべきなのかが、完全に優先されています。したがってヴィルトゥオーソという色合いではなく、じっくり音楽と向き合っている演奏です。したがって特にみられるミスタッチも音楽自体は破綻していないので、さほど大きな問題には感じられません。逆にこれを修正なしにそのままリリースしてくるという、フィッシャーの姿勢こそが評価されていいと思います。第一楽章のカデンツァは、もっと弾き飛ばして大見得を切ってしまっても良いのに、テンポを速めることなくきちんとすべての音を表現することに腐心しています。
第二楽章も、もっとダイナミックの幅を大きくするとか、旋律の横の動きを強調してもよいと思うのに、「だって、スコアにはこう書いてあるでしょう?」と言っているかのような確信をもって弾き続けます。そこから出てくる芳香は他のピアニストの演奏と一歩も引けをとらないどころか、まったくもって確かな存在感を持っていると断言できます。
第三楽章の後半、大きく決めるところがあるのですが、そこでフィッシャーは会心の笑みを浮かべます。その後も音楽自体は格調高さをまったく崩さないのですが、何かが一瞬にして点火したことがよくわかります。グリーグのこの曲がここまで果てしなく壮大な高みへと昇ってしまったのを聴くことはまれだったと思います。
最後に付録としておさめられているインタビューは、このディスクに解説を入れることを不要なものとしています。この演奏会のプロダクションノートが、フィッシャー自身によってきわめて論理的、簡潔明瞭に語られているからです。国内盤も出るようですが、余計な解説は入れずに「このインタビューを見てください」と書いてあればそれで十分ではないかとすら思います。
フィッシャーは天才とか大家とかという形容詞はまったく似つかわしくない「音楽家」です。その演奏からもたらされる圧倒的な説得力、まったくもってあざとさがなく、静かに淡々としていながら、次第に聴き手の心を引きつけていく包容力は、まさに「家」という言葉がふさわしいからです。
2010年8月26日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記