「わが生活と音楽より」
不定期連載 「わたしのカラヤン」
第5章 夢の轍 実演されなかった二つのオペラ

文:ゆきのじょうさん

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■ 帰去来:オペラ指揮者カラヤン

 

 カラヤンと言えば、天下のベルリン・フィルを睥睨し自在に操って、颯爽と指揮しているコンサートの写真や映像ばかりが思い出されます。しかし、カラヤンはよく知られているようにウルム市立歌劇場の指揮者からキャリアを開始しており、元々はオペラ指揮者でした。カペルマイスターからの系譜を歩んでいる点では、伝統的なドイツ・オーストリア系指揮者であると言えます。したがって、カラヤンの指揮生活にとってオペラは、コンサートと両輪を成しており、大切なレパートリーだったと言えます。

 ところで、オペラの上演や録音は商品としてみると、コンサート曲目と比べて採算が悪いことは容易に想像できます。一流の歌手を多数参加させれば高額なギャラが必要になります。上演となれば舞台装置や裏方の人件費も合わせて制作費が膨大になるでしょう。そこでカラヤンは、ザルツブルク音楽祭や(自身が創設した)ザルツブルク復活祭音楽祭でオペラを上演し、その前後で同じキャストで録音を行って商品にするという、とても効率的な方法を採りました。さらにコンサート・オーケストラであったベルリン・フィルをオペラのピットに入れることまでしています。逆に言えばカラヤンは、そうまでして自分のキャリアの原点であるオペラを指揮し、録音し続けたかったということになります。

 ところが、カラヤンのオペラ録音の中には上記の方法論に乗らなかった、わずかな例外も存在します。今回はそれらの中から二つのオペラを採りあげたいと思います。

 

■ 私花集:カラヤンのこだわり

 

 カラヤンは1960年代後半に、ベルリン・フィルを登用してワーグナーの「ニーベルングの指輪」四部作を録音し、1970年代になって、膨大なオペラ録音を世に送り出しました。以下、表にまとめます(BPO:ベルリン・フィル、VPO:ウィーン・フィル、SKD:シュターツカペレ・ドレスデン)。

 

曲目

オケ

録音年

演奏年

ベートーヴェン

「フィデリオ」

BPO

1970年

1971年

ムソルグスキー

「ボリス・ゴドゥノフ」

VPO

1970年

1967年

ワーグナー

「ニュルンベルグのマイスタージンガー」

SKD

1970年

1974年(BPO)

ワーグナー

「トリスタンとイゾルデ」

BPO

1971年

1972年

レハール

「メリー・ウィドウ」

BPO

1972年

なし

プッチーニ

「ボエーム」

BPO

1972/73年

1975年(77-78年はVPO)

ヴェルディ

「オテロ」

BPO

1973年

1969-72年(全てVPO)

プッチーニ

「蝶々夫人」

VPO

1974年

なし

ワーグナー

「ローエングリン」

BPO

1975/76/81年

1976年

R.シュトラウス

「サロメ」

VPO

1977/78年

1977/78年

ヴェルディ

「イル・トロヴァトーレ」

BPO

1977年

1977年(VPOともあり)

モーツァルト

「フィガロの結婚」

VPO

1978年

1972-80年

ヴェルディ

「ドン・カルロ」

BPO

1978年

1975-80年(1979年以外VPO)

ドビュッシー

「ペレアスとメリザンド」

BPO

1978年

なし

ヴェルディ

「アイーダ」

VPO

1979年

1979-80年

プッチーニ

「トスカ」

BPO

1979年

1982年(演奏会形式)

 

 この表から感じたのは、当初、オペラ録音の経験がなかったベルリン・フィルで様々な演目を録音と実演を行ったものの、その後、作品によってはウィーン・フィルを次第に担当させるようになっているなぁ、ということです。

 さて、上記リストのカラヤンのオペラ録音史において、異彩を放っていると個人的に考えるのが以下のディスクです。

CDジャケット

ドビュッシー:歌劇「ペレアスとメリザンド」

  • メリザンド:フレデリカ・フォン・シュターデ メゾソプラノ 
  • ペレアス:リチャード・スティルウェル テノール
  • ゴロー:ヨセ・ファン・ダム バス
  • アルケル王:ルッジェーロ・ライモンディ バス
  • ジュヌヴィエーヴ:ナディーヌ・ドゥニーズ アルト
  • イニョルド:クリスティーヌ・バルボー ソプラノ
  • 医師、羊飼い:パスカル・トーマ バス

ベルリン・ドイツ・オペラ合唱団
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー

録音:1978年12月、フィルハーモニーザール、ベルリン
欧EMI(輸入盤 67057 2、ジャケット写真はCE30-5027/29)

 私見として、レコードセールスという損得勘定を抜きにして、カラヤン自身が最も録音したかったオペラの一つではないか、と考えています。というのは、このディスクが到底売り物になるとは思えないからです。

 まず、作品自体、ヴェルディ、プッチーニ、ワーグナーなどに比べて知名度に劣ることは否めません。メーテルランクの戯曲が元になっていますが、筋書きはさほど盛り上がる話ではありません。舞台は中世の架空の王国、王子ゴローが森でメリザンドを見つけ后にし、すぐ身重となるが、弟ペレアスもメリザンドに恋をする。その仲を嫉妬したゴローがペレアスを刺し殺す。悲嘆に暮れたメリザンドも出産後、死んでしまう・・・と、これだけでは劇的でも何でもなく、何が魅力的なのか理解できません。テキストとして今は絶版となっている杉本秀太郎訳の岩波文庫版(1988/92年)を読んでみましたが、やはり何が良いのか分かりかねました。しかし、この戯曲はシンボリズム(象徴主義)の傑作とされているようです。「象徴」というからには「象徴しているモノ」を感覚として理解できないと真の意味で味わうことができないことは明らかです。「象徴しているモノ」は(おそらくキリスト教を一つの柱とした)ヨーロッパで脈々と育まれ、無批判に受け容れられ、人々の精神の一部となっているモノなのでしょう。従って、生まれも育ちも日本人である私が理解するのは、とても難しいことだけは分かります。ところが幸いなことにドビュッシーの他に、この戯曲を題材としてフォーレ、シベリウス、シェーンベルクが作曲しています。それだけ本作が作曲家の創作意欲をかき立てるのでしょう。そのおかげで私は真の理解は出来ずとも、作曲家たちが音楽として転写したものを享受することはできています。

 さて、このオペラを「商品」として見たときの第二の問題点は、この音楽自体にさほど聴き応えがないことです。その証拠としては、例えば「メリザンドのアリア○○○」などと名付けられる、単体で取り出して商品として成立するようなものを、ほとんど目にしないことを挙げることができます。勿論ドビュッシー畢生の大作であり、オペラ史上、名作の一つであると位置づけられていることは否定しません。ただ単に音楽として楽しもうとしても、全編茫洋とした響きが続くだけです。最初聴いたときは、「牧神の午後への前奏曲」が途方もなく長く続いているだけと感じました。モーツァルトのような愉悦さもなく、ワーグナーのような重厚さもなく、ヴェルディのような格好良いフレーズが乱立する音楽でもありません。拙稿「フランス6人組を聴く」で書かせていただいたフランス音楽についての感想である「見通しのつきにくさ」の最たる曲ではないかと考えています。

 勿論、このようなドビュッシー、さらにはフランス音楽に対する印象には偏見があることは、松本さんの論説「サンソン・フランソワのドビュッシーを聴く 第1回 前奏曲集第1巻を聴く(総論)」を読むことで、私たちは共通理解に立つことが出来ています。ドビュッシーの音楽作りは、それまでの不文律を良い意味で破っているばかりではなく、大昔のグレゴリア聖歌に回帰しているというのですから、この茫洋としか私には聴こえない音楽は、ヨーロッパの人からみれば多くの驚き(と懐かしさ?)を与えてくれ、唸らせてくれるのでしょう。

 さて、カラヤンに立ち戻りましょう。カラヤンは「ペレアスとメリザンド」の上述の曲について、フォーレ以外を全て録音しています。そもそもカラヤンはフォーレを一曲も録音も演奏もせず意識的に避けていたのでしょうから、「ペレアスとメリザンド」そのものには愛着があったと考えます。ドビュッシーのオペラ「ペレアスとメリザンド」にしても1954年にローマで、1962年から63年にかけてウィーン国立歌劇場で実演しています。決して78年EMI盤で初めて指揮したわけではありません。しかし、カラヤンはEMI盤まで、このオペラを録音しませんでした(ローマ盤は放送録音音源として現在入手可能ですが、おそらくカラヤンの生前には正規リリースはなかったと思います)。

 このディスクが世に出たときの評論は、同じ頃にDGから出たモーツァルトやベートーヴェンに向けられたものと同様でした。曰く「人工美の極致」、曰く「空虚な音楽(薄っぺら、という言い方もありました)」、曰く「実演では絶対に不可能な演奏」・・・そう、最後の「実演では不可能」という物言いについては、言葉だけなら私も同意します。批評家は「人工美」という観点からの批判的表現だったと記憶していますが、私は肯定的な意味で使うことが異なりますが。

 カラヤンの「ペレアスとメリザンド」は青く凍り付いた音楽です。どんな強奏部になっても、同時期の他のディスクにあるような重戦車がスポーツカーのように突っ走る音圧はありません。むしろ弱音において、息が詰まるぎりぎりの限界点で音楽が漂います。しかも、同じ音量レベルであっても、一つに括れない、様々な弱音の響きを次から次へと表現していくのです。確かに実演では不可能で、録音芸術だから為し得た世界です。何度も録音し直して、切り貼りするように作ったのかもしれません。だからと言って、同じ手法を用いて、現在どこかのオケと指揮者が演奏すれば、これと同じか、これ以上の「ペレアスとメリザンド」が出来上がるとは、私には到底思いません。

 私は、このディスクにはカラヤンが(過去のローマやウィーンでの)実演では出来なかった至高を目指したいという強烈な意思を感じます。執念と言ってもよいでしょう。聴いていると、フォン・シュターデの美声も含めて、音楽に圧倒されながらも、だんだん暗黒面、虚無を見せられているような不安感が出てくる演奏です。再現芸術として一番やってはいけない禁じ手のようなものを聴かされている気持ちになります。私の耳では区別できず、従って記述することもできませんが、おそらくは「正統的な」ドビュッシーの音楽づくりではないでしょう(実際そのような評論も目にしたことがあります)。

 カラヤンが「ペレアスとメリザンド」を録音だけで終わらせた、本当の理由はもちろん分かりません。実演不可能と聴き手が感じることを十分知っていて、カラヤンはこのディスクを創ったことは確かです。ここには確かにカラヤンからのメッセージがあります。もしかすると、レコード会社も、録音技師たちも、さらには歌手たちやベルリン・フィルも、カラヤンがこのオペラを録音として遺したいという我が儘に、唖然としながらつき合っていたのかもしれません。絶頂期のカラヤンだから為し得た奇跡の録音だと思います。カラヤンが「ペレアスとメリザンド」で聴き手に伝えたかったことは何だったのか、暗黒面と感じることは何なのか、私はこれからも、このディスクに何度も向かい合って、聴いていかねばらないと考えています。

 なお、蛇足ですが、このサイトにおいて私は多くの駄文を投稿させていただいておりますが、オペラについての感想を載せたことはありませんでした。いつかは、と思っていましたが、今回、カラヤン指揮の「ペレアスとメリザンド」を最初のオペラ試聴記となったことを、実はとても嬉しく思っています。

 

■ 夢供養:カラヤンの悟り

 

 1980年になると、カラヤンはワーグナー:「パルジファル」を世に出します。カラヤンは「パルジファル」を70歳になったら録音したい、と言っていたと伝えられています。それが奇しくもカラヤン初のデジタル録音となったわけですが、その後の録音史を見ると、よく指摘されるように、これらには一つの特徴があります。すなわち各々の作曲家の遺作を立て続けに録音していることです。さらに宗教曲の大曲も録音していきました。以下、それらを表にまとめます。

ワーグナー

「パルジファル」

BPO

1979/80年

モーツァルト

「魔笛」K.620

BPO

1980年

ヴェルディ

「ファルスタッフ」

VPO

1980年

プッチーニ

「トゥーランドット」

VPO

1981年

ブラームス

ドイツ・レクイエム 作品45

VPO

1983年

ヴェルディ

レクイエム

VPO

1984年

ブルックナー

テ・デウム

VPO

1984年

モーツァルト

ミサ曲 ハ長調 K.317「戴冠式ミサ」

VPO

1985年

ベートーヴェン

ミサ・ソレムニス ニ長調 作品123

BPO

1985年

モーツァルト

レクイエム ニ短調 K.626

VPO

1986年

 

 もちろん、カラヤンはその後もオペラ録音は続けていました。ワーグナー:「さまよえるオランダ人」(1983年 BPO)、ビゼー:「カルメン」(1983年 BPO)、R.シュトラウス:「ばらの騎士」(1984年 VPO)、モーツァルト:「ドン・ジョバンニ」(1985年 BPO)、そして最後のオペラ録音となったヴェルディ:「仮面舞踏会」(1989年 VPO)です。これら5作品の価値はとても高いことを認めた上で、私個人は上の表にある「遺作オペラ」4作品の録音の意味を考えざるをえなくなっています。その後に続くレクイエム録音を合わせれば、答えは簡単です。これらはオペラ指揮者カラヤン最後の夢であるとともに遺言なのだということです。

 先に「パルジファル」を70歳になったら録音するとカラヤンは言い、それを実行したという引用をしました。しかし、何故「70歳」だったのでしょう? カラヤンにとっての「70歳」とは何だったのでしょう? どこかに正解が書いてあるのかも知れませんが、これを書いている時点では私は見つけていませんので、二つの想像に頼ります。一つの仮説はフルトヴェングラーが68歳で亡くなっていることとの関連です。カラヤンが、フルトヴェングラーが経験できなかった人生に至ったときに見えたものを刻印したいと考えたのかもしれません。もう一つの仮説は、これも全くの憶測ですが、カラヤンは70歳までは生きられないと思っていたのではないかということです。見た目と異なり、カラヤンは脊椎の持病があり健康面に相当の問題を抱えていたようです。実際、拙稿「第4章 レトルトの中で光り輝くもの」で採りあげたチャイコフスキー:後期交響曲集の1973年ユニテルのビデオ映像盤(0734384)などで顕著ですが、カラヤンの腰にはがっちりとしたコルセットが装着されているようです。それだけ腰の状態の悪さを物語っています。カラヤンの持病については腰以外にも諸説あるようですが、少なくとも、70歳まで生きられる(あるいは指揮できる)ことに確証がなかったという仮説に矛盾は少ないように思います。そして、自分にとって「ここまで(指揮者として)生きられれば」という人生の目標であった70歳に到達できたときにカラヤンは、その到達点で見えたこと、考えたこと、そして其処から振り返った時の自分が抱いてきた夢を、「遺作」オペラや「レクイエム」に刻み込んだのではないでしょうか。そうであれば「総決算」などという安直な表現では済まない、強烈な念を感じます。

 その「遺作」オペラの最後の最後に、実に異彩を放つ録音を遺します。それが、「トゥーランドット」です。

 

■ 鳥辺山の煙、化野の露

CDジャケット

プッチーニ:歌劇「トゥーランドット」

  • トゥーランドット カーティア・リッチャレルリ ソプラノ
  • 皇帝アルトゥム ピエロ・デ・パルマ テノール
  • ティムール ルッジェーロ・ライモンディ バス
  • カラフ プラシド・ドミンゴ テノール
  • リュー バーバラ・ヘンドリックス ソプラノ
  • ピン ゴッドフリート・ホーニク バリトン
  • パン ハインツ・ツェドニク テノール
  • ポン フランシスコ・アライサ テノール
  • 役人 ジークムント・ニムスゲルン バス 

ウィーン国立歌劇場合唱団、ウィーン少年合唱団

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ウィーン・フィルハーモニー
録音年月日:1981年5月11-18日、ムジークフェラインザール
西独DG(輸入盤 423 855-2)

 そもそも、カラヤンはプッチーニのオペラについては、録音は残したものの、実演ではヴェルディのようなレパートリーではなかったと考えます。最初の1970年代のオペラ一覧表のように、「蝶々夫人」は録音と映像作品のみ、「トスカ」に至ってはかろうじて演奏会形式で演奏しているだけです(その後1988年にキャストを変えて実演してはいます)。そしてこの「トゥーランドット」は何と、過去にも後にも一度も実演では採りあげませんでした。

 この初めて取り組んだオペラに対するカラヤンの演奏は、その冒頭から異形さが引き立っています。これが70歳を過ぎた指揮者の音楽なのだろうかと思うほどの荒れ狂う指揮です。ウィーン・フィルは嵐のように咆哮し、合唱も大音響でありながら悲哀に満ちて迫ってきます。最初、LPで聴いたときにボリューム設定を間違えたため、スピーカーが唸りを挙げて振動したのを今でも覚えています。冬季五輪で有名になった、あの「誰も寝てはならぬ」での歌唱と管弦楽の盛り上がりは、これが実演だったら一体どれほど長く拍手が続くのだろうかと思います。弱音での美しさには言葉もなく、最初に聴いた時には、あまりに圧倒されて、どっと疲れたのも忘れられません。脇役まで名だたる名歌手を揃えた豪華さも特筆すべきことだと思います。

 このディスクが世に出たときは、評価はやはり(?)散々でした。特に批判の対象となったのは、トゥーランドットにリッチャレルリを充てたことです。私はオペラや声楽についてはまったく無知なのですが、同じソプラノであっても声質によって合う、合わない役柄という不文律があるようで、「トゥーランドット」の主役は過去、カバリエ、カラス、ニルソンなどの力強い声の出せるソプラノが務めてきたようです。それなのにカラヤンは、むしろリューにふさわしいとされる繊細な声質のリッチャレッリを主役としたのです。これが発売当時の日本の音楽雑誌では「配役ミス」「リッチャレッリは健闘しているが力不足」などと集中砲火を受けていました。

 この、オペラとしての常識を覆すような行いを、カラヤンが何故行ったかについては、一つの確立した見解が出ています。すなわち、「そもそもカラヤンは『トゥーランドット』を実演ではなくビデオ映像作品にするつもりだった。それも舞台となる中国で撮影をするつもりだった。この計画から視覚的要素を考慮してリッチャレルリが主役となった、しかし当時の中国が撮影を許可しなかったので映像作品は出来なかった。」という見解です。

 なるほど、このディスクを商品として考えた場合、実演にはしなかったという点で唯一の理由としてはもっともな見解だと思います。同じプッチーニの「蝶々夫人」も、ビデオ映像作品のみで実演がなかったことも、指示材料となります。この見解が真実なのだろうと十分認めた上で、なお、私は違うことを考えてしまいます。

 ワーグナー、モーツァルト、ヴェルディの「遺作」たちは、どれも完成しています。しかし「トゥーランドット」は、プッチーニが喉頭癌のため作曲中途で死去し、同じイタリアのオペラ作曲家アルファーノが補筆完成した、文字通りの「遺作」です。しかも偶然にもプッチーニの筆はリューの死の場面で終わっているのです。オペラ自体はハッピーエンドで終わりますが、この拭うことのできない事実から「死」というものが一番満ちている「遺作」とも言えます。この「トゥーランドット」をカラヤンは、一度も実演で指揮したことがなかったのに、「遺作」オペラの最後に録音しているのです(なお、興味深いことに、その後のレクイエム、宗教曲のシリーズでも、カラヤンは未完に終わったモーツァルトのレクイエムを最後に録音しています)。

 「トゥーランドット」におけるカラヤンの、我が身を削って全ての力を使い果たしてしまうかような指揮ぶりは、どうしても異形と感じてしまいます。この異形さは、私にはカラヤンの「死」に対する最後の答えではないかと考えています。それ故、今までにカラヤンに対して向けられた最大級の揶揄の言葉が、ここでは本当の意味で用いられるべきです。「トゥーランドット」における主役はカラヤンなのです。そこでは、力強く主張が強い声質のソプラノ歌手は無用です。そこでリッチャレッリが選ばれていると、私は勝手に考えています。

 今でこそ、カラヤンの「トゥーランドット」は、この有無を言わせぬ音響と音楽作りから、賞賛の声も聞かれるようになりました。私も、LPで聴いた当初は単純に酔いしれましたし、今でも聴く度に身体が熱くなります。しかし、本稿で見てきたような「死」をキーワードとした切り口で見ると、別に迫ってくるものがあります。

 初演で指揮したトスカニーニは、プッチーニの絶筆となった第三幕第一場、リューの死の場面で演奏を止め、プッチーニを弔いました。トスカニーニを信奉していたカラヤンが、この有名なエピソードを知らぬはずはありません。では、カラヤンは何をここで葬ったのでしょうか? 聴いていても、特にリューの死の場面でクライマックスを築くことはなく、淡々と流しているような印象です。でも、やはり、カラヤンの心中には去来するものがあったのではないかと勝手に想像しています。

 「トゥーランドット」は、死を何とも思わない王女と、死を恐れず立ち向かう王子との間に、死をもって愛を貫いた女性が介在して、最後に愛が成就します。死を乗り越えて生み出されるというメッセージを持つ「トゥーランドット」をカラヤンが初めて録音したことには、やはり理由があったと思わざるを得ません。それ故、このオペラも、「わたしのカラヤン」にあって大きな存在となっているのです。

 

 

 

 カラヤンにとって、オペラは尽き果てぬ夢であったと思います。最高のオーケストラと最高の歌手で、最高の音楽を録音し、最高の舞台を上演する。オペラ指揮者として、これ以上望むべくもない最高の夢でしょう。カラヤンだから求め続けられた夢であり、今後、同じ夢を目指して実現させる指揮者は二度と出てこないと思います。カラヤンのオペラに対する夢は、しかし、上記の幸福な夢だけではなかったと思います。「ペレアスとメリザンド」での暗黒面と虚無、「トゥーランドット」での死・・・カラヤンが刻み込んだ夢の轍は深く、しかも美しいから、これからも聴いていくことになりそうです。

 

(2008年5月10日、An die MusikクラシックCD試聴記)