「わが生活と音楽より」
不定期連載 「わたしのカラヤン」
第4章 レトルトの中で光り輝くもの

文:ゆきのじょうさん

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■ “最上の意味において出来あがりたい” (7830) ・・・?

 

 レコードの頃から、ディスクを商品として考えるのならば「交響曲全集」というパッケージ商品は魅力的なものなのでしょうか? 作曲家が書いた有名な交響曲の1曲ないし何曲かを1枚のディスクに収める方が売れるような気がします。事実、LP時代、「一番売れていたクラシック音楽のディスクは、イ・ムジチ合奏団の『四季』を除けば、カラヤン/ベルリン・フィルの『運命』と『未完成』をカップリングしたものだ」と何かで読んだ記憶があります。何枚もまとめてパッケージにした全集ものが、これより売れるという目算はつきにくいです。 

 次に音楽芸術という観点からみたときに、交響曲全集としてまとめることは、指揮者にとってどれくらいの意義があるのでしょうか? 全ての交響曲が名曲であることは希でしょう。例外となるのはベートーヴェン、ブラームスくらいではないかと思います。モーツァルトやハイドンのように沢山の交響曲を書いた場合は後期と呼ばれる数曲が採りあげられることが多いですが、その他の作曲家の交響曲全曲の中に出来不出来があるとするのが当然でしょう。指揮者は、特定の作曲家の交響曲を全曲演奏・録音する義務はないのは当然です。その指揮者の価値観で「出来が悪い」と思う曲や、「自分には合わない」と思う曲を演奏しないのでも良いではないかと勝手に考えます。特に演奏会でツィクルスと称してシリーズ化することはあっても、録音として全集というまとめ方をするのは演奏家の芸術的観点にとっては(もちろんレコード会社のマーケッティング戦略にとっても)よほどの意味や目算がなければ出来ないと考えます。何曲かはレパートリーには出来たとして、さて、そこから「交響曲全集」として「出来上がりたい」と思うのかどうか、指揮者の知り合いもいませんし、このような観点を論じたインタビュー記事も見たことがないので、私には不明です。

 カラヤンは広範なレパートリーを誇ったと記述されることが多い指揮者ですが、再録音を繰り返したベートーヴェンとブラームスを除くと、交響曲全集・選集として世に送り出した点数はさほど多くはありません。今回はその中のいくつかを見ていくことにします。なお、録音年月日につきましては、これからの話を進める関係上、当サイトの従来の記載方法と異にする記載方法になることをお断りいたします。

 

■ “「なにを」も問題ですが「いかに」の方をさらによくお考えなさい”  (6992)

CDジャケット

メンデルスゾーン/交響曲全集

エディット・マティス ソプラノ
リゼロッテ・レープマン ソプラノ
ヴェルナー・ホルヴェーク テノール
ベルリン・ドイツ・オペラ合唱団
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー

録音:
1971年1月2日 第4番
1971年1月7日 第3番
1971年1月8日 第3番、第4番
1971年1月22日、2月17日 第4番
1972年2月14&16日 第5番
1972年9月7-8日 第2番
1972年9月9日 第1番、第2番
1972年9月10-11日 第2番
1972年11月1日 第1番
1973年2月23日 第2番合唱部分
イエス・キリスト教会
ポリグラム(国内盤 POCG-3680/2)

 このディスクが出るまで、カラヤンはメンデルスゾーンの交響曲は録音でも実演でも全く採りあげていませんでした。過去にウィーン・フィルともフィルハーモニア管とも録音も演奏もしていないのです。この事実と(1970年代になるまで)マーラーの交響曲も採りあげなかったということ、そしてカラヤンが大戦中ナチス・ドイツに関与したことに結びつけて、「ユダヤ人の作曲家を冷遇している」などという風聞も立ったと言います。そんな中で突然、堰を切ったようにメンデルスゾーンの全集を録音しました。

 このメンデルスゾーンの交響曲ですが、第3番からのニックネームが付いている3曲「スコットランド」「イタリア」「宗教改革」は比較的有名ですが、第1番と第2番は、カラヤンの演奏で初めて聴きました。そのカラヤンの演奏は、と言えば、意外なほど好意的な評価が多いようです。メンデルスゾーンの交響曲全集そのものの数がさほど多くない上に、その中でオーケストラが超一流であることだけでも当全集の価値は高いのでしょう。

 この年代のカラヤンの演奏で聴かれる、確固たるアンサンブルと颯爽として滑らかなテンポ、ここぞというところでの盛り上げ方の上手さがあるのでメンデルスゾーンの曲を楽しく聴くことができます。さすがカラヤンだという納得が得られます。特に第2番「讃歌」は、カラヤンの演奏で初めて最後まで聴き通すことが出来ました。何となくほの暗く、とらえどころにないような「宗教改革」も厳かにして美しく奏でられており、聴き飽きることがありません。

 ところがカラヤンはその後メンデルスゾーンは一曲も再録音をしませんでした。それどころか、演奏会でもこの全集録音と並行して第3番「スコットランド」を1972年に数回採りあげただけで、後にも先にも交響曲を指揮したのはこの時だけです。結果的に見向きもしなかったというのが事実のようです。ここから言える仮説はただ一つ。カラヤンはメンデルスゾーンの交響曲を録音はしたが、レパートリーにはしなかったということです。ここに、カラヤンがメンデルスゾーンの交響曲に「いかに」取り組んだかの答えがあります。

 この仮説は録音スケジュールから見ても想像することが出来ます。カラヤンは、資質が何となく合いそうな「イタリア」から録音をスタートさせていますが、同曲は計4日間セッションを組んでいます。「スコットランド」と「宗教改革」が2日間で録音が終わったのと対照的です。さらに知名度が低い第1番と第2番は半年以上期間を空けてから録音が始まっていますが、何度もセッションを組んでおり、最後は第2番の合唱部分を録音して完結しています。出来上がった全集で聴く限りは、何度もセッションを組んだ「イタリア」と、演奏会でも採りあげた「スコットランド」、やはり2日間で一気に録音した「宗教改革」の間で演奏の出来映えに差があるようには感じません。しかし、カラヤンにとっては「イタリア」には苦戦を強いられ、第1番、第2番に至っては相当苦労したのかもしれないと考えます。全集としての価値は高いディスクですが、そこに至る道程は平坦ではなかったようです。

 ここで一つの反論が想定されます。1975-77年にかけてのDGにおけるモーツァルトとベートーヴェンの交響曲録音のように、一度録音してから時間を空けて録音し直すという方法論をメンデルスゾーンでも採ったのではないかという考え方です。しかし、同時期に録音している全集ないし選集としては、1970年のモーツァルト/後期交響曲全集(EMI)、1971年のチャイコフスキー/後期交響曲集(EMI)、1971年のシューマン/交響曲全集(DG)と、どれも短期間で集中的に録音していますので、録音を繰り返して最上のものを作り上げるという方法論をメンデルスゾーンにのみ採っていたとは、やや考えがたいと思います。やはり、「カラヤンはメンデルスゾーンの曲に苦闘した」と言う考え方がしっくり行くように思うのです。

 もちろん、あえて繰り返させていただければ、この全集の出来映えは上質で素晴らしいと思います。素晴らしい出来であったが、そこにいかに至ったかという点では(カラヤンの録音史上)、異色の全集であると私は考えるのです。

 

■ “ここには軟い風がそよいでいますね” (8265)

CDジャケット
CDジャケット

シューベルト/交響曲全集

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー

録音:1975年1月(第8番)、1978年1月、フィルハーモニーザール
欧EMI(輸入盤 7243 5 86064 2 3、7243 5 86067 2 0)

 このシューベルトの全集も発売当時、結構な驚きをもって迎えられたと記憶しています。カラヤンはそれまで、「未完成」「グレート」を各々2回録音していましたが、他の曲はリリースがありませんでした。(第5番は1958年にベルリン・フィルと録音していましたが75歳記念アルバムに収載するまでお蔵入りでした)。この全集はメンデルスゾーンに比べて否定的な評価が多いように思います。曰く「初めて初期の交響曲を聴くには勧められない」「ゴージャスすぎる」「肥大化している」等々、何となくモーツァルトの交響曲に与えられていた批判と似ています。

 EMIの全集での録音年譜を見てみますと、「未完成」のみ1975年におそらく独立して録音し、後から全集化に発展したために「グレート」を含む残りの交響曲を1978年に録音したようです。ただし、EMIの録音データは詳細がわからず他に信用できるリファレンスも見つからなかったため、現時点では「未完成」以外の7曲を1978年1月にまとめて集中的に録音したかのようなデータの信憑性は不明です。もし、この1978年1月というデータが本当ではなく(メンデルスゾーンのように)期間を空けながら録音し直しを繰り返したとしても、カラヤンはシューベルトの交響曲全集を作るに当たって特別な意味を抱いていた、と私は考えます。穿った見方をすれば、これをメッセージとして伝えたいがために、単に1978年1月とだけ表記するようにしたのかもしれない、とすら考えます。

 以下は、私はシューベルトの初期交響曲をカラヤンの演奏で初めて聴いたことをお断りさせていただいた上での感想です。まず、カラヤンの初期交響曲の演奏を続けて何曲も聴いて行っても何ら違和感はありませんでした。そもそもシューベルトが16歳から19歳の時に書いた第1番から第4番は、同時期の第5番に比べれば知名度ははるかに劣るでしょう。これは25歳での「未完成」、そして31歳で死ぬ年に書かれたとされる「グレート」と比べて楽曲としての完成度が異なることを明確に示していると思います。カラヤンのディスクで第1番から聴き続けると、極論すればどこまでが第1番でどこからが第2番なのか、うっかりしていると分からなくなってしまいそうな感覚に襲われます。それほど各曲各楽章の繋がりは流麗で、淀みがありません。どの部分でも旋律美に満ちた音楽が其処にあります。

 ふと、もしかしたらカラヤンは初期の交響曲を、まとめて一つの大きな音楽として演奏しているのかもしれないと感じるようになりました。これが言い過ぎであるのなら、少なくても同じ色合いで統一感を持たせて演奏していると言ったら良いでしょうか? それを「カラヤン色」と批判的に記述しても良いのですが、私はこの優美な音楽をもってすれば、例えば第1番第四楽章から第2番第一楽章にトラック番号が移り変わっても、「曲の終わりと始まりではなく、ある楽章から次の楽章になっただけ」という気分で聴いても良いのではないかと思えるのです。勿論、こういう聴き方が正統的とは言えないことは十分認めます。

 この曲を越えた流れは、第5番の優美で浮き立つような音楽で一度終わったように感じますが、続く第6番で回顧されます。そして「未完成」に至ると今までの流れの上に伽藍を築いたかのような印象を持つことができます。「グレート」は全8曲の総決算です。旋律ではなく流れとしての壮大さが強調されています。

 カラヤンがシューベルトの交響曲全集で目論んだことは、シューベルトが編んだ歌心を全交響曲に渡って透徹させること、そしてそこに晴れやかな一陣の風を感じさせることであったとしたら、この全集の持つ価値は高いと考えています。

 

■ “おそろしい衝突の響きを感じました” (7938)

CDジャケット
EMI盤
DVDジャケット
UNITEL DVD
CDジャケット
DG盤(1-3)
CDジャケット
DG盤(4-6)

チャイコフスキー/交響曲全集

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー

録音:
1975年10月22日 第5番
1976年5月5 & 7日 第6番
1976年12月9-10日 第4番
1977年12月9-10日 第1番
1977年12月12日 第2番
1978年2月17日 第3番
1979年1月25日 第2番
1979年1月26日 第1番、第2番
1979年1月29日 第1番、第2番、第3番
1979年2月20日 第1番、第3番
1979年2月21日 第3番
1979年2月29日 第2番
フィルハーモニーザール
独DG(輸入盤 459 518-2、453 088-2)

EMI盤(0946 3 81798 2 5)

 カラヤンはチャイコフスキーの後期交響曲と呼ばれる第4番、第5番、第6番を得意にしていました。録音(映像作品、没後リリースされたライブ録音は除く)についても各々6回、5回、7回にも及びます。この全集は1975-76年に後期交響曲を録音した後、少々期間(録音日時からみて少なくとも3年以上)が空いてからいきなり全集ボックスとして初期3曲が世に出てきたと記憶しています。それまで演奏会ですら採りあげたことがなかった第1番から第3番を録音したということで、当時はやはり驚きをもって迎えられたと思います。そして評価としては見事なまでに否定的なものがほとんどでした。全集化という商品のための「やっつけ仕事」という捉え方が大半で、「商魂たくましい」という揶揄に近いものもあったと思います。少なくとも初期3曲の全てを高評価とした批評は読んだことはなく、これと相前後して出て好評であった、ロストロポーヴィチ/ロンドン・フィル盤の「当て馬」のような扱いを受けていたと記憶しています。でも本当に「やっつけ仕事」だったのでしょうか?

 データを見ると、第4番の録音が終わってから約1年が経った1977年の12月に第1番と第2番を集中的に録音し、翌78年2月に第3番を録音しています。やっつけ仕事ならこの段階でさっさと編集して後期と合わせて商品にしてしまえば良かったと思います。しかし、その後1年近く放置して、1979年1月からセッションを組んで3曲とも録音しています。1977/78年が部分録音だったとは思えないので、一度全部録音したものの出来に満足できず録音し直したと考えるのが自然です。全集にするに当たって、カラヤンが何かに拘ったか、悪戦苦闘したのがこの録音スケジュールから伺えます。それが何だったのかを考えながら聴き続けてみると、初期の3曲と、後期の3曲のアプローチ方法が異なることに手がかりがあるのではないかと考えました。

 一後期の3曲は前述のように以前からカラヤンが得意にしていた演目です。しかし「得意にしていた」ことと、解釈が「出来上がった」ということとは別のようです。この全集の前にカラヤンは1971年にEMI盤(3817982)と、1973年にユニテルのビデオ映像盤(0734384)を制作しています。これら2種の録音がライブ感に溢れるもので、アンサンブルが崩壊するぎりぎりのところで煽る白熱した演奏であるのに対して、75/76年DG盤はもっと精緻さに富んでいると思います。この違いは拙稿「モーツァルトはお好き?」で見たEMIとDGの録音の違いと似ています。すなわち、EMI盤とユニテル盤でのアプローチはあくまでも「演奏会」という視点からの至高を目指したディスクであり、他方、DG盤は録音芸術としての粋を集めた結晶を求めたのではないかと感じます。

 これに対して、何回も録り直しをした第1番から第3番の聴いた印象は後期のような仕上がりを目指したようには思えません。むしろEMI盤やユニテル盤で見られたライブ感に富んだ印象があると考えます。例えば第2番第一楽章後半での畳み込むようなテンポ、第二楽章における管楽器のソロのバックで奏でられる弦楽器のピチカートの勢いの良さなどは、同じ全集にまとめられた後期交響曲での整わせ方とは違う、もっと粗野で生々しい印象があります。第1番第一楽章もまるでライブ演奏を聴いているようです。何度も録音し直しをしたとは思えない激情が存在しています。第四楽章の主部に入ったところでの弦楽器の掛け合いなどは、あまりに突っ走るためにあわやアンサンブルが崩壊しそうになっています。何回も録音し直ししているのですから、もっと整ったテイクを使えば良いのに実際はこのテイクを選んでいるのです。それ故、カラヤンが初期の3曲に求めたのは磨き上げられた完璧さではなく、EMI盤とユニテル盤のようなライブ感溢れるものだったと思わずにはいられません。

 そもそも、1975年からの後期交響曲の録音を始めた時点で全集にする計画があったかどうかも、私は疑問に思っています。後期から初期までの時間が空きすぎていること、初期は上述のように何度も録音を繰り返したこと、その結果の初期の演奏が後期と違った方向性を持った演奏に思えること、が理由です。極論すれば、後期の3曲と初期の3曲は別々の「選集」として録音されたと考える方がすっきりします(もっと言ってしまえば、初期の3曲は1984年にウィーン・フィルと録音した後期3曲の最後の録音と繋げるべき「選集」ではなかったかと考えているのですが、それはさておきます)。

 カラヤン唯一のチャイコフスキー/交響曲全集は、私にとっては初期と後期で呈示してきたアプローチの違い故に、全集としての居心地については引っかかりができています。各々の「選集」がぶつかり合っているような印象です。もちろん1曲1曲の出来が悪いわけではなく、今も愛聴しているのですけど。

 

■ “たいした光景だ” (6904)

CDジャケット

ブルックナー/交響曲全集

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー

録音:
1975年1月20-23日、4月22日 第8番
1975年4月14-15日 第7番
1975年4月21日 第4番
1975年9月13-16日 第9番
1976年12月6-11日 第5番
1979年9月25-26日 第6番
1980年9月20-21日 第3番
1980年12月4日 第2番
1981年1月22-23日 第2番
1981年1月26日 第1番.
1981年1月27日 第1番、第2番
フィルハーモニーザール

西独DG(輸入盤 429 648-2)

 この全集もチャイコフスキーと同様に初めから全集を意図して録音されたとする評論を目にしますが、演奏経験のある第5番までと録音のみで終わった第6番からの一連の4曲との間に3年近くの間隔があります。やはり、後から全集化の企画が出たのだと思います。そしてチャイコフスキーと同様に、初期の交響曲については「深みがない」「サービス過剰」「厚化粧」「やっつけ仕事」などの否定的な評価が多く見られます。

 しかし、私は初期と呼ばれる第1番から第3番、どちらかというと聴く機会が少ない第6番については、私はカラヤンの演奏で初めてどういう曲か分かったと感じています。さらにチャイコフスキーのような「初期」と「後期」(あるいは「録音のみで実演なし」と「実演もしていた」の衝突の構造はなく、どの曲もブルックナーの交響曲演奏として素晴らしい出来映えであると思っています。

 ここで「ブルックナーの交響曲演奏」の、(私なりの)理想像は何かを明示する必要があるわけですが、これについては既に伊東さんがカラヤン/ベルリン・フィルの演奏について明解に記述していますので、それを引用させていただきます。  

ブルックナーの交響曲第7番を聴く
「イメージ上、最もアルプス的でなさそうな指揮者なのだが、アルプス的スケールを感じてしまうのである。」

大作曲家の交響曲第9番を聴く」ブルックナー篇
「次には、指揮者が自分の『存在』をはっきりと演奏に刻印するものの、その演奏に自分の「言葉」までは決して盛り込まないタイプ。これにはカラヤンが分類されるでしょう。」

 この通りであると私も同意します。そして付け加えるのならば、上記のような特性をカラヤンの演奏(少なくともブルックナー演奏においては、以下同じ)から受ける理由の一つは、カラヤンは演奏の呼吸がうまいのだと思います。ブルックナーの名盤として知られている中には、仮借なしにインテンポで突き進む演奏や、豪快な響きを誇る演奏、深遠さを強調する演奏としてカラヤン盤を凌ぐディスクは沢山あります。しかし、これら名盤の中でも、私はこの呼吸という点で息苦しいと感じるものが少なくありません。カラヤンもテンポをあれこれ変化させて演奏するタイプではありませんが、ブルックナーの演奏においては、息継ぎのタイミングや深く呼吸する場所への移り変わりなどがとても自然です。あの空気をかき回しているようなカラヤンの指揮も、基本的なテンポの中での呼吸法を奏者に伝えていると考えると、とても分かりやすい指揮だと思っています。勿論、そこに至るまでにアンサンブルを徹底的に整えている(あるいはベルリン・フィルのように、指揮者なしでも演奏できそうなくらいに完成している)ことが不可欠です。しかし、ただそれだけでは機械的な演奏でしかありません。カラヤンはそのアンサンブルに呼吸法を明示し、その結果、類い希な立体感が出てくるのだと思います。

 伊東さんも採りあげているカラヤンがウィーン・フィルと晩年に録音した第7番と第8番も忘れがたい名演であることには異論はありませんが、ウィーン・フィル盤がいわば、呼吸していることを忘れてしまうような、解脱した透明感があるとしたら、ベルリン・フィル盤はブルックナーを聴く上での呼吸法を教えてくれたディスクだと考えます。

 

■ “ではさあ、新しい不思議を見に出かけましょう” (7069)

CDジャケット
第1番・第6番
CDジャケット
第2番
CDジャケット
第4番・第5番

シベリウス/交響曲集

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー

録音:
1976年9月、10月 第5番
1976年12月27&29日 第4番
1980年11月16-17日 第2番、第6番
1980年11月18-20日 第6番
1981年1月2日 第1番
フィルハーモニーザール
欧EMI(輸入盤 3414412、3724782、5090272)

 全集を世に送り出してきたカラヤンが唯一完結できなかったのがシベリウスです。マーラーもあるではないかと言う意見もあるでしょうが、何かのインタビュー記事で「自分の年齢を考えるとマーラーは全集にはできないだろう」と言っていたのを読んだことがありますので、カラヤンは全集にする意図はなかったと解釈しています。シベリウスも全集にする意図はなかったのでしょうか? 意図はなかったどころか、全集化は既定路線だったと私は思います。その理由は三つあります。第一に、70年代初めのメンデルスゾーンを除いて、チャイコフスキー、ブルックナーをDGに、シューベルトをEMIで録音してきましたので、DGとEMIとの契約のバランスから考えてもEMIで録音していたシベリウスも全集完結を目指していたと仮定するのは自然でしょう。第二に、同時期の1976年頃からシベリウスの管弦楽曲も次々とEMIに録音していました。シベリウスのオーケストラ曲をまとめている方向性があったと思います。第三に、録音しなかったのは第3番と第7番でしたがLP時代でも演奏時間を考えれば両曲をカップリングしたレコードを出せば良かったと考えます。ところがこの全集は完結しませんでした。この点でカラヤンの交響曲全集録音史としては極めて希有な例だと考えます。

 ところで、興味深いことに、カラヤンのシベリウスの演奏について当サイトでは頻繁に採りあげられています。以下列挙してみますと次の通りです:

伊東さん:シベリウスの名曲・名盤 (注:2008年4月21日閉鎖)

ワタルさん:シベリウスを聴く

松本さん:シベリウスの7番を聴く−私のディスク遍歴

 他にも比較視聴で採りあげられたものも複数存在します。そしてわずかな例外を除けば、皆さんは最後のEMI盤ではなくDG盤を好んでいらっしゃいます。私自身は以下に書きますように、EMI盤にとても興味を持っています。

 さて、演奏はと言えば、ともかく格好良いという一言に尽きます。最弱音から最強音まで淀みなく音楽は流れます。もちろんシベリウスらしさ(というのがあるとすれば、ですが)を求めるには、問題があるのでしょう。例えば、第2番での第3楽章から第4楽章への移り変わり。金管のファンファーレが前面に咆哮するのではなく逆に唖然とするような奥行きで鳴り響き、続く弦楽パートでのたっぷりとしていながら粘ることがない壮大な音響が続くところは、「これはシベリウスではなくカラヤンの音楽だ」という声があっても不思議ではありませんが、この語り口の上手さ、つぼを押さえた音楽の運び、そして圧倒的なアンサンブルを聴いてしまうと、抗うことは到底できません。再現部になるとただただ聴き惚れるしかなくなります。シベリウスの音楽に拘る向きには到底受け容れることができない演奏だろうな、と理解できますが、魅力的であることは動かしようもありません。得意にしていた第4番や第5番が堂に入っているのは勿論ですが、比較的聴く機会が少ない第1番や第6番も、有無を言わせぬ壮大な演奏です。

 このような素晴らしい演奏なのに、なぜ全集にならなかったのでしょうか? この点についての記事を見つけることができませんでしたので、真実は分かりません。従って想像が許されます。

 カラヤンはシベリウスの交響曲を、メンデルスゾーンやシューベルトの大部分の曲のようにただ一回だけ録音したわけではありません。フィルハーモニア管(PO)とEMIに、また前述のようにベルリン・フィル(BPO)とDGに録音しています。その録音・演奏史を表にしてみると以下のようになります。

 
PO/EMI
BPO/DG
BPO/EMI
最後の実演
第1番
 
 
1981年
1942年
第2番
1960年
 
1980年
 
第3番
 
 
 
 
第4番
1953年
1965年
1977年
1978年
第5番
1951年、60年
1965年
1979年
1979年
第6番
1955年
1967年
1980年
1938年
第7番
1955年
1967年
 
1967年

 これ見ると歴然としているのは、演奏会・録音を通じて第3番をカラヤンは一度も演奏したことがないという事実です。第1番もフィルハーモニア管時代に録音がない曲でしたが、大昔にかろうじて演奏をしたことがあるから、何とか録音したというところでしょうか? 以上から、単純に結論を言ってしまえばカラヤンは第3番を大嫌いだったか、価値を認めていなかったということになります。では、録音も二回、演奏会でも採りあげたことがある第7番は何故録音しなかったのでしょうか? やはり、第3番とカップリングする企画だったのに、その第3番を頑として録音拒否したため、全集の企画自体が没になったので煽りを食って第7番も録音しなかったという仮説になるのでしょうか?

 第3番を私はコリンズ/ロンドン響盤(DECCA ELOQUENCE 4429490)とセーゲルスタム/ヘルシンキ・フィル盤(ONDINE ODE10352)で聴きましたが、フレーズの積み重ねで次第に構築していくような曲に感じました。反面、やや単調のようでもあります。この特徴が、カラヤンが録音を嫌がった理由なのかどうかは分かりません。なお、今回採りあげた交響曲以外の曲に対するカラヤンの姿勢が、もしかしたらヒントになるのではないかと考えることもありますが、それはまた別の機会に改めます。

 閑話休題、チャイコフスキーやブルックナーでは全集に「出来上がる」ことに戸惑いがなかったことと比較すれば、このシベリウスにおけるカラヤンの「逆の」意味での全集への拘りは、半端なものではなかったのでしょう。それ故、残されたシベリウスのEMI録音の価値は高いのではないかと思います。

 

 

 

 「カラヤンは広範なレパートリーを誇り、沢山の録音を世に送り出した」という言い様は、反面ディスクを「粗製濫造した」「促成栽培した」という皮肉も込められていると思います。特に交響曲全集では、それまで手を染めなかった曲を録音しているという点で、格好の批判の的になっています。

 私自身は、今まで書いたように同じ全集として「出来上がった」ものであっても、その成り立ち様や、取り組み方、そして出来上がり具合は決して一様ではないと考えます。カラヤンはそれを録音年月日という手がかりで私たちに教えてくれているのではないかと勝手に考えています。各々の全集というパッケージは色や強さこそ違えども、私にとっては光り輝くものが内包されているのです。

 

 

 

  本稿の小見出しの文章は、すべてゲーテ作「ファウスト」第二部(相良守峯訳 岩波文庫 1958/1976年)からの引用で、( )内が行数を表しています。

 

(2008年4月19日、An die MusikクラシックCD試聴記)