「わが生活と音楽より」
ストコフスキーの二枚のチャイコフスキー/第5を聴く文:ゆきのじょうさん
拙稿「近衛秀麿を聴く」でも書きましたが、小学校低学年で「世界のオーケストラ名曲集」というレコードセットから、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」を知るところになりました。渡邊暁雄指揮読売日本交響楽団の演奏で、最後に弦楽セレナーデからワルツがカップリングされていたと記憶しています。第6番なのですから、当然あと5曲交響曲があるはずなのですが、そのころの私はそんなことを考えることもなく聴いていました。
中学生くらいになった一時期、テレビでふと観たことをきっかけに古いモノクロ洋画に夢中になったことがありました。まだレンタルビデオはおろか、ビデオそのものが家庭になかった時代です。キネマ旬報などの往年の名画特集などを読みあさり、毎日の新聞のテレビ欄を見て、お目当ての映画があると食事も風呂も、もちろん宿題もそそくさと済ませてテレビにかじりついて観ていました。クラシック音楽に多少関係するものとして、“わが恋の終わらざるが如く,この曲もまた終わらざるべし”という言葉で有名な「未完成交響楽」、「會議は踊る」、「運命の饗宴」などに夢中になり、「大いなる幻影」「舞踏会の手帖」などもお気に入りでした。その中で私はチャイコフスキーの第5を初めて聴くことになります。それがこの映画です。
オーケストラの少女
1937年アメリカ
ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン(国内DVD UNPD-29083)可憐な少女が、失業した父親を含めた100人の音楽家を集めてオーケストラをつくり、パトロンを得て世界的指揮者に指揮してもらうという、まあ、ご都合主義と言ってしまえばそれまでの映画ですが、主演の子役ディアナ・ダービンの魅力も相まって評判になった映画です。この映画は、チャイコフスキー/第5の第4楽章の演奏シーンから始まります。それを指揮しているのが「世界的指揮者」役のレオポルド・ストコフスキーでした。本論から逸れますがこの映画の主役はディアナ・ダービンのはずですが、実際のところはストコフスキーが美味しいところを全部持っていっている、と言って過言ではありません。今ではカラヤンが録音や映像などのメディアに注目して活用したクラシック指揮者と位置づけられていますが、それよりずっと前にストコフスキーはそれを利用しており、しかもカラヤンにも出来なかった「演技する」ということまでやってのけていることは注目されていいように思います。
それはさておき、この映画でのチャイコフスキー/第5の第4楽章は今聴いてみれば、チャイコフスキーが書いたフレーズの繰り返しの大半はカットされています。これを(音は前もって録音して、それを流しながら撮影しているのだとしても)暗譜で指揮しているのですから凄いものです。原曲を知っていれば違和感満載なのですが、巧みに原曲の魅力を残しながらダイジェスト版にしているためか、知らずに聴いた当時の私は自然に聴いていました。
自分の出演する映画のタイトルバックに採りあげるほど、ストコフスキーはこの曲を自家薬籠中のものにしていたようです。モノラル時代にも録音があるようですが、現在入手しやすいのは次にご紹介するステレオ録音です。
チャイコフスキー
交響曲第5番ホ短調作品64レオポルド・ストコフスキー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
録音:1965年9月13日、ロンドン、キングスウェイホール
ユニヴァーサル/DECCA(国内盤 UCCD-7008)第一楽章冒頭から連綿として一時も同じところにとどまらないテンポと音色は、まさに「ストコ節」と言ってよく、冗長と感じるフレーズの繰り返しは大胆にカットしています。しかし、すべての繰り返しをカットしているわけではないので、効果を考えたときに選択しているのでしょう。それにしても、この目まぐるしく動くテンポに、フィルハーモニア管弦楽団はアンサンブルの乱れもなく、よくついて言っているものだと感心してしまいます。退屈せず飽きさせずに聴き通してしまいます。第二楽章はわざわざクレジットまでされているアラン・シヴィルの素晴らしいホルン・ソロが、ピンスポットライトを当てた独演会のように強調して録音されています。このソロ演奏を受けた後の弦楽を中心とした朗々たる分厚く美しい響きには、唖然として声も出なくなります。これでもかと甘く切なく、驚異的な粘りで聴かせるのに、迷いはまったくありません。このまま一度頂点に登りつめてピチカートに移る時のおどろおどろしさは正統的な演奏ではないことを十分知っていても、鳥肌が立ってしまいます。これが本当に84歳の演奏なのでしょうか。第3楽章のワルツも「楽譜にワルツって書いてあるんだから、こうでなくっちゃいかんだろう」と言われているような演奏です。最終楽章は「オーケストラの少女」のような大胆なカットはありませんが、曲想に合わせてテンポは目まぐるしく変わり、その尽くが堂に入っています。それにしても何と気持ちよくオーケストラが鳴っていることでしょうか。音の魔術師と言われたそうですが、ストコフスキーはおそらく、どのようにテンポとバランスを設定したらオケがもっとも良く鳴るかという視点で指揮しているのだな、と思う演奏です。最後はライヴかと思うばかりの盛り上がりで、実に格好良く見栄を切って終わります。
なお、今回紹介したディスクは、ストコフスキー編曲の「展覧会の絵」とカップリングされている廉価盤ですから一度聴いてみるのには良いと思います。
ストコフスキーは1925年に電気式録音での最初のオーケストラ録音を行い、1931年には実験的にステレオ録音も行っているそうです。ステレオでのレコードが世に出るのは1956年頃まで待たなくてはなりませんが、それより前の1952年にストコフスキーは、デトロイト交響楽団に初めて客演した際に、録音エンジニアを招いてライヴでステレオ録音を行ったそうです。それが次のディスクです。
チャイコフスキー
交響曲第5番ホ短調作品64レオポルド・ストコフスキー指揮デトロイト交響楽団
録音:1952年11月20日(ライヴ)、メソニック・テンプル・シアター、デトロイト
米MUSIC & ARTS (輸入盤 CD1190)いくら十八番にしていた曲だからとは言え、初めて客演するオーケストラとの演奏会を、技師を呼んで録音してしまうという発想自体が、この指揮者の非凡なところだと思います。その音質は年代と、実験的であるということを考慮すればこれ以上望むことは難しいと思いますが、問題は演奏そのものです。先のフィルハーモニア盤ほどではありませんが、このデトロイト盤でもストコフスキーの解釈は基本的には第一楽章から全く変わっていません。それどころか、ライヴということもあり、勢いが増しており、粘り方もそのスピード感の中でやるのですから、いくらリハーサルで徹底したのだとしても、デトロイト交響楽団の団員は良くアンサンブルが崩壊せずにストコフスキーの指揮(棒ではなく指)に付いていくものだと思います。第一楽章が終わるといきなり盛大な拍手が入ります。確かに初めて聴いた人が多かっただろうデトロイトの聴衆は、さぞ心躍ったに違いありません。面白いのは伊東さんが紹介されたストコフスキーの告別コンサートでのブラームスでも第一楽章が終わると拍手が出ているところで、この指揮者の「つかみ」の上手さ故のことなのだろうと思います。さて、第二楽章以降も勢いの良さは変わりません。オケが必死になってストコフスキーの指揮に食らいついて演奏しているのが良く伝わります。完成度はもちろんフィルハーモニア盤ほどではないですが、これはこれで一級品の演奏だと思います。
なお、このディスクには同じ演奏会のプログラムとして、ジェイコブ・アヴシャロモフという作曲家のTHE TAKING OF T'UNG KUANが収録されているのと、ラファエル・クーべリック指揮マーキュリー交響楽団(実体はシカゴ交響楽団)によるスメタナ/「我が祖国」から「ターボル」をステレオ実験録音したものがカップリングされています。これが伊東さんが「クーベリックの「わが祖国」」で採りあげた1952年シカゴ響盤と同一音源なのかどうかは、同ディスクを持たない私には分かりませんが、実に痛快な演奏です。
最近のディスクの中にも、自己主張の強い演奏をたびたび耳にすることがあります。しかし、その多くは残念ながら目新しさのみを目的にしていることが多く、それも演奏している自分という存在がまず中心のように思います(それが独りよがりだと断じているわけではありません)。ストコフスキーも確かに主張が強い演奏に聴こえますが、この人の基本は、どうやったら聴き手が退屈せず喜んでくれるかという、相手方の視点に立っているように感じるのです。これは自分を中心においた「はったり「とか「ショーマンシップ」というのとは違う、聴き手を見据えた良い意味でのサービス精神であり、これが映画にまで出演してしまうことの原動力ではなかったかと考えるのです。ストコフスキーについてはまだ書きたいこともあるのですが、それはまた別に機会を作りたいと思います。
(2008年3月5日、An die MusikクラシックCD試聴記)