ARCHIVE OF WHAT'S NEW ?
99年7月前半
7月15日:はじめて聴くオペラ−Part 2
一昨日のWhat's New?で、はじめてのオペラとしていきなり「ワルキューレ」に遭遇してしまった哀れな女房さんについて書きました。「ワルキューレ」のためにすっかりオペラ嫌いになった女房さんは一転してバレエ鑑賞に転じた模様です。確かに、バレエなら、女房さんにも理解できるのでしょう。とてもエロチックな「春の祭典」なども見たようです。バレエについてはちゃんと覚えているのですから、まあ立派なものでしょう。
さて、今度は私が最初に見たオペラの話です。91年、ドイツにトレーニーとして赴任した私は、念願のドイツビールをぐいっと飲みほすと、その足でオペラハウスに向かいました。運良く当日券があったので、さっそく生まれてはじめてのオペラ体験です。場所はフランクフルト歌劇場。出し物はヴェルディの「マクベス」でした。今では建物も新しくなり、目立たないオペラハウスですが、私にしてみればフランクフルトでも十分オペラの雰囲気を楽しめました。いやー、楽しいものです。うまいアリアの後ではブラボーが飛んだり、ひどい歌の時にはちゃんとブーイングで応えるというあちらの様式もはじめて目の当たりにできました。
フランクフルトの次はミュンヘンに走りました。もちろんビールをでっかいジョッキで大量に飲みほした後、国立歌劇場に飛び込びます。そして、サヴァリッシュの指揮する「さまよえるオランダ人」を聴き、大いに興奮。予想はつくかと思いますが、その晩は深夜に至るまでビールを飲み続けてしまいました。考えてみると、もともとクラシック音楽が好きだったということもありますが、幸せなオペラとの出会いをしたと言えるでしょう。すっかりオペラが気に入った私はその後日本に帰ったらまず聴けなくなるであろう、いや、見られなくなるであろうオペラのためにドイツ各地で劇場通いをするようになりました。
ところで、フランクフルトで見た「マクベス」ですが、実は現在の女房さんと一緒だったのです。もう時効でしょう(^^ゞ。女房さんにすれば、悪夢の「ワルキューレ」からまる2年後のオペラです。この記事を書く前にちょっと聞いてみたところ、「全く覚えていない」とのことでした。これには唖然です。やはり....(以下、無言)。
7月14日:クレンペラーのベートーヴェン・チクルスに「交響曲第4番」を追加しました。
7月13日:初めてのオペラ
大掃除をしていたら、女房さんが昔見たオペラのパンフレットが出てきました。ロンドンにいたときに、どうもワーグナーの「ワルキューレ」を見たそうな。時に1989年。10年も前のことです。
女房さんはオペラというものをそれまで全く見たことがありませんでした。クラシック音楽も聴いたことがありません。そんな人がどうしていきなり「ワルキューレ」になってしまったのか、見当も付きません。よほど暇だったのでしょう。
案の定、長くて長くて、すごく退屈したそうです。無理もありません。初めて見聴きするオペラとしてはおそらく最悪の出し物でしょう。女房さんはその後、私というすばらしい案内役に出会うまでクラシック音楽はおろか、オペラに対する興味を失ってしまったそうです。
パンフレットをよく見ると、当日の「ワルキューレ」は、ゲッツ・フリードリッヒのプロデュース、ハイティンクの指揮ロイヤル・オペラの演奏で、ソリストにはなかなか豪華な顔ぶれを並べています。主だったところを挙げてみますと、次のとおりです。
- Siegmund:Rene Kollo
- Sieglinde:Gabriele Schnaut
- Hunding:John Tomlinson
- Wotan:James Morris
- Bruennhilde:Gwyneth Jones
- Fricka:Helga Dernesch
これは面白そうですね\(^o^)/ パンフに載っている写真(左:WotanとBruennhilde)を見ると、19世紀的演出による舞台らしく、初心者でも違和感がないように工夫されていたのではないかと思われます(そうかな?)。でも、演奏時間は休憩時間を入れると、5時間20分だったといいますから、女房さんが嫌気をさしてしまうのも、もっともです。
こういう話を聞くにつけ、いつも思うのは「知らないということはもったいない」ということです。ある程度ワーグナーや「ワルキューレ」について知っていて、ロイヤル・オペラが総力を挙げたであろう舞台に接していたならば、女房さんでも少しは「ワルキューレ」を理解できたのではないでしょうか。うーむ。もったいない。やはりオペラばかりはガイドが必要かもしれません。
7月12日:CD試聴記に「ブルックナーの交響曲第7番」を追加しました。
イッセルシュテット指揮北ドイツ放送響の演奏です。
7月11日:大掃除
プライベートな話題で申し訳ありません。我が家は先週から大掃除に入っております。もうすぐ女房さんも臨月に突入しますので、狭い部屋をもう少し広くしておかないと、赤ちゃんの居場所がないのです。
一番の問題は大量の本であります。私はよほどのことがない限り本を捨てません。そのため、家の中は本だらけ。一部は私の実家に送ってあるのですが、それでも本の山が狭い部屋の中に築かれ、女房さんから毎日苦情を言われています。しかし、これをそのままにしておくわけにもいきません。まず昨日は本のカバーを全部取り外し、少しでも本を薄くしました。また、本棚は一列を前後に使い、さらに少しでも空いているスペースに本を突っ込んでいます。しかし、こうなると、床が抜けてしまうのではないかと不安です。もはや赤ちゃんを書斎に連れてくるのは危険です。
CDの整理にも頭を悩めています。私は本棚をCD棚として活用していますが、もう限界です。何とかしなければなりません。効率的にCDを整理しておかないと、困るのは足の踏み場がないと怒り続ける女房さんではなく、私であります。情けないことに、最近では1枚のCDを取り出すのに20分以上かかることがよくあります。CD棚の奥の、さらに一番下に置いてあるCDを取り出すために、その前に堆く積んであるCDの山をどかさないといけないのです。これではどうしようもありません。
そこでいつも気になるのは石丸電気のカウンターの奥に見えるCD棚です。あれはいいですね。おそらくは石丸電気が仕様書を作って特注した棚だと思われますが、販売してくれないものでしょうか?この前石丸電気に行ったときにはよほど店員さんに聞いてみようと思ったのですが、若葉マークの方だったので止めておきました。今度は真剣に問い合わせてみることにしましょう。
さて、皆さんはどのように本やCDを整理されていらっしゃるでしょうか。
7月9日:クレンペラーのベートーヴェン・チクルス1960に「エグモント序曲」を追加しました。
今週はエグモントばかりでした。申し訳ありませんm(__)m。
7月8日:クレンペラーのページ、ベートーヴェン・チクルスに「交響曲第3番<英雄>」を追加しました。
7月7日:クレンペラーのページに「ベートーベン・チクルス1960の音質について」を追加しました。
7月6日:「繁栄と衰退と」
岡崎久彦さん。1930年生まれの外交官で、歴史、軍事に精通。著書は「隣の国で考えたこと」など多数。私は何年か前に絶版分を除くほとんどの著書を読みあさりました。長い著作活動の中でも岡崎さんの論旨は首尾一貫しており、かなり前の本でも、現代に通用する普遍的な文章ばかりです。さすがに日本の外交を真剣に考えている人だけあって、言葉に重みが感じられます。著書で「ハズレ」には出会いませんでした。
何故唐突にこのようなことを書くかと言えば、岡崎さんの名著「繁栄と衰退と」(文藝春秋)を紹介したかったからです。この本は副題が「オランダ史に日本が見える」とあるようにオランダ史を取り扱っています。しかも、オランダ独立戦争が中心であります。
岡崎氏によれば、オランダの歴史の一部はアングロサクソンによって抹殺されています。この理由については「繁栄と衰退と」をお読みいただくと面白いでしょう。世界史的な知識では、16世紀のオランダはスペインの過酷な支配下にありました。それは言語を絶する圧政だったそうです。ここにオランダ独立戦争の原因があるのですが、ここに登場するのが「エグモント」であります(ただし、「エグモント」が登場するのは独立戦争の最初期です)。
ベートーヴェンの「エグモント」序曲を聴いておりますと、非常に勇壮ですが、間奏曲などは悲痛な気分に満ちています。それもそのはず、オランダ独立戦争は当時世界最強であったスペイン軍を相手にしていたために苦戦の連続で、破れた都市は徹底的な虐殺にあっています。まさに血を血で洗う凄惨な戦争であったようです。戦争とはいえ、人間が人間を相手に何故あんなに残虐なことができるのか。ぞっとするような話が延々と続きます。
ベートーヴェンの劇音楽「エグモント」はゲーテの戯曲を原作にしていますが、「エグモント」のモノローグを読んでもオランダの歴史はよく分かりません。劇ですから、必ずしも歴史を語っていないのです。私は中学3年の頃から「エグモント」を聴いておりましたが、独立戦争のすさまじさは岡崎久彦さんの「繁栄と衰退と」を読むまで知りませんでした(もっとも、「繁栄と衰退と」は決して軍記物ではありません)。確か去年文庫化されていますので入手もしやすいでしょう。岡崎久彦さんの著作の中で最も迫力のある本ですので、興味がありましたらぜひお読み下さい。あまりのすさまじさに驚き、あっという間に読破することでしょう。
7月5日:CD試聴記に「ベートーヴェンのエグモント」を追加しました。ボンガルツ指揮シュターツカペレ・ベルリンの演奏です。マイナーな組み合わせですが、是非お読み下さい。
7月4日:CDの潮流
昨日の土曜日は久しぶりに出社日でなかったので、女房さんにせがんでCD代をもらい、秋葉原詣でをして参りました。不況といいながらも、さすがに秋葉原はすごい人です。雨も降っていたのに、人がうようよしていますね。さすが都心は違います。
石丸電気に入るのはこれまた久しぶりだったのですが、随分CDの顔ぶれが変わっていますね。最も驚いたのは大量のCD-R。陳列棚に所狭しと並んでいました。CD-RについてはSyuzo's Homepageでよく取り上げられていますので、存在は知っていましたし、クーベリックの演奏をCD-Rで持っていたりします。が、まさかあんなに大量のCD-Rが出回っていたとは夢にも思いませんでした。山野楽器本店あたりではちょっと前から目につくようになっていましたが、石丸電気で大量に扱うようになるのであれば、今後すごいスピードで流通しそうです。
しかし、あの粗悪な作りと馬鹿に高い値段は何とかならないのでしょうか?CD-Rで登場する演奏家はマニアの中で評判の指揮者などですから、お金に糸目を付けずに買っていく人が多いのでしょう。でも、4/10のWhat's New?でも書きましたように、人の足元を見たような粗悪な海賊盤はどうしても好きになれません。あまり抵抗のない人もいるとは思いますが、心情的には好意を示せないのです。海賊盤でも良心的なレーベルはあります。良い演奏を世に出したいという趣旨があるのでしょう。値段もそれほど高くはありません。CD-Rは確かに新しいメディアであるかもしれません。でもあの粗悪な作りと値段は不愉快です。
実は、ちょっと前に話題になっていたヨッフム&バンベルク響のブル8など、のどから手が出るほど欲しい演奏もあったのですが、今回は見送ってしまいました。「もしかしたらもう手に入らなくなるかな?」などと心配になりましたが、それこそ敵の思うつぼ。苦しい選択でありました。皆さんはどうお考えでしょう。
7月2日:クレンペラーのページに「Beethoven-Zyklus Wiener Festwochen 1960」を追加しました。今回は第1回目です。
7月1日:巨万の富
昨日CD試聴記で取り上げたプーランクは私の記憶によれば、フランスの大企業「ローヌ・プーラン」創業者(複数います)の子供です。創業者は一人ではありませんが、巨万の富を築いた企業ですから、プーランクが経済的には大変恵まれた人であったことは想像に難くありません。自由な作曲活動ができたのは、才能もさることながら、恵まれた環境で好き勝手な音楽を作っていられたことが大きいでしょう。
他に企業家の関係者として有名なのは、イギリスのトマス・ビーチャムですね。「ビーチャム」はイギリスを代表する製薬会社で、とあるヒット商品(それが何かは秘密です)があったためにこちらも巨万の富を得ています。ビーチャムといえば、イギリス音楽界の快男児です。素人とはいえ、ユニークな音楽性を持ち、ロイヤルフィル、ロンドンフィルなど自分が意のままにできるオケを創設し、好きなように指揮をしました。オケの団員からは恐れられたとは思いますが、聴衆から愛された音楽家でした。今もビーチャムの音楽を愛好する人は多いでしょう。
音楽家の中にはかつてのモーツァルトやベートーヴェンのように貧しくて仕方がなかった人が多かったわけですが、溢れるほどの財力を持ったパトロンがいたお陰で、才能ある音楽家が育成されました。パトロネージュというものは重要です。
現代日本は、不況といわれておりますが、米国などでは空前の好景気に沸いています。ハイテク企業では信じられないほどの富を築き、どうやってお金を使ったらよいか分からないような成金がゴロゴロしています。しかし、そうした方々の中から、プーランクやビーチャムのような人材やルドルフ大公のようなパトロンが出てくるかどうか少し疑問です。
音楽が商業ベースに乗って消費されるだけの存在になり、街を歩けばけたたましく音楽らしきものが鳴り響く世界では、愛情を持って音楽を作り上げる人材は育ってこないのではないかと思われます。音楽は消費されるものではなく、本来人を楽しませるものです。聴き手の欲求とは別に音楽ならぬ「信号」が垂れ流しにされる現代は、音楽が最も不毛な時代かもしれません。一般大衆が誰でも気軽に「消費」できるようになった途端に大作曲家や大演奏家が現れなくなったのは皮肉と言うほかありません。
(An die MusikクラシックCD試聴記)