OTTO KLEMPERER BEETHOVEN-ZYKLUS
WIENER FESTWOCHEN 1960

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CDの音質について

 ウィーン芸術週間以外のベートーヴェンは以下のとおり。

 

 

 

 1960年、クレンペラーは手兵フィルハーモニア管を率い、ウィーン芸術週間に登場する。クレンペラーは齢75。幾多の災難を乗り越え、再起不能を囁かれつつも、その度毎に甦った。そして最高の音楽を聴かせ続けた。その波瀾万丈の生涯はベートーヴェンそのもの。そのクレンペラーが人生の最終段階になって、音楽の都ウィーンに乗り込んだわけだが、その心境は推して知るべし。

 クレンペラーとともにウィーン入りをしたフィルハーモニア管はクレンペラーの薫陶を受け、イギリスのオケながら、ドイツ音楽についても比類ない演奏をしていた。ホルンの名手デニス・ブレインは既に他界していたが、オケの技術は世界的に見ても最高水準であった。ウィーン芸術週間への客演はフィルハーモニア管にとっても、その全盛時代を飾る一大事業であっただろう。

 ウィーンで演奏したのは他ならぬベートーヴェンの交響曲全曲だ。クレンペラーにとっては自信満々のプログラムであったろう。ベートーヴェンを始め、ドイツ・オーストリア音楽の演奏では大陸の後塵を拝していたイギリスから、このようなプログラムをひっさげて現れた老大家の演奏にウィーンの聴衆も歓喜したであろう。もちろん、ベートーヴェン・チクルスにおける演奏すべてが歴史的演奏と言っても過言ではない。それはその演奏の数々が未だに海賊盤となって世界中の音楽ファンを感動させていることが何よりの証拠である。

 残念ながら、今のところ(1999年)、このベートーヴェン・チクルスは海賊盤でしか聴けない。海賊盤で聴いても音質は良好であるから、マスターテープからきちんとリマスタリングすれば最高の音質になることが予想される。EMIの善処を期待する。

 なお、このシリーズは一回につき交響曲あるいは序曲を一曲ずつ取り上げていく。作者である私もこのCDをゆっくりと味わいながらコメントを書いていきたいのである。このライブが全音楽ファンが聴けるように願わずに入られない。

 

 

CDジャケット

ベートーヴェン
交響曲第2番ニ長調 作品36
クレンペラー指揮フィルハーモニア管
録音:1960年5月29日
ARKADIA(輸入盤 CDGI 756.1)

 ベートーヴェンの交響曲第1番、第2番は非常に地味な存在である。第1番はベートーヴェン最初の交響曲として演奏される機会も多いが、この2番になると、ほとんど無視されている。あまり耳にしたこともない音楽ファンも多いのではなかろうか。もしそういう人がいたらクレンペラーの演奏する第2番を聴いてみるべきだ。ベートーヴェン指揮者として名を馳せたクレンペラーだが、第2番については57年録音盤とこのライブ盤の二つしかない。しかし、そのいずれもが非常に高い水準の演奏である。ステレオ録音の57年盤に比べれば、このモノラルのライブ録音はいささか音質的には遜色がある。しかし、それを補って余りある音楽の「張り」がある。このように躍動感に富む演奏はやはりライブならではのものだ。

 クレンペラーはウィーンの指揮台に立っても特に気負った演奏はしていない。これ見よがしの表情付けがまるで見られない。テンポも最晩年の様式に比べると非常にノーマルだし、ベートーヴェンだからといって重々しくもない。どこといって変わったことのないベートーヴェンである。それでいて揺るぎない音楽の歩みが感じられる。まさに大家の芸風。初期の交響曲である第2番が貫禄十分に鳴り渡る。

 また、両端楽章、特に第4楽章ではライブならではの激しい音楽の高揚感が聴き手を興奮させるだろう。オケの音色はモノラル録音であるにもかかわらず輝かしく、艶があり、最高の状態である。このような高水準の演奏が、ライブで行われたことは驚嘆に値する。ライブにつきものの技術的破綻がほとんど問題にならない。両端楽章のアレグロにおいてオケの美質は最高度に発揮されている。揃いに揃った弦楽器の腕前が聴きものである。ドイツのオケ以上にベートーヴェンをベートーヴェンらしく演奏した好例であろう。

 

 

CDジャケット

ベートーヴェン
交響曲第3番変ホ長調 作品55「英雄」
クレンペラー指揮フィルハーモニア管
録音:1960年5月29日
MUSIC & ARTS(輸入盤 CD-886/890)

 ベートーヴェン・チクルス初日のメインは「英雄(エロイカ)」である。クレンペラーの「エロイカ」は55年スタジオ録音盤を始め、名演奏揃い。このライブでも、クレンペラーの充実した演奏が聴ける。

 クレンペラーの「エロイカ」、しかもウィーンにおけるライブであることから、我々聴き手は勝手な想像をし、猛烈な爆演を期待する。が、そういう聴き手は完全に肩すかしを食らう。困ったことにクレンペラーにはそのような演奏をする気はまるでなかったらしい。他の「エロイカ」でもそうだったが、どこにも極端な加速や強調がない。おそらくクレンペラーはこう言いたかったのではなかろうか。『「エロイカ」を演奏する際にはそんな虚勢やはったりなど必要ない。楽譜に忠実に演奏すればよい』と。いかにもクレンペラーらしいアプローチの仕方だと思う。

 演奏を聴いていると、楽器間のバランスに細心の配慮がされている。クレンペラーが木管楽器による旋律線が浮き出るように工夫をしていたことは良く知られているが、このライブでは特に木管楽器を目立たせているわけではない。金管楽器も、木管楽器も、弦楽器も、そして打楽器も最良のバランスで響き渡っている。「最良のバランスで」というのは私の勝手な理解だが、ある部分では瞬間的に低弦楽器群の重厚な響きが支配し、ある場所では打楽器がどろろーんと鳴り響く。この流れ、響かせ方が不自然な印象を与えることなく、全く自然なのである。楽器のバランスが良いとはそうした意味である。

 聴きものは両端楽章。インテンポで展開されるベートーヴェンの音楽が非常に重みを持っている。惜しむらくは私の手許には疑似ステレオによるMUSIC & ARTS盤しかないことだ。純正のモノラル録音で聴けば、さらにこの演奏を深く楽しめただろう。惜しい! 悔しい! 純正モノラルで聴いた読者の投稿を熱烈に望む!

 ...ということを上で書いていたら親切な読者がCETRAのCD(エロイカだけが入っているもの)を廉価で譲ってくれた。そのCETRA盤を聴いて私は本当に驚いた。MUSIC & ARTSのCDとは音が全く違っている。ちょっと違うのではなく、全く違う。MUSIC & ARTSとARKADIA、VIRTUOSOの音質が違うことは「CDの音質について」で述べたが、MUSIC & ARTSとCETRA盤の差は驚異的である。

 私は音質にはこだわらない方で、演奏さえ良ければどんなに古いモノラル録音でも聴いてきた。恥ずかしながら、音質に関わらず、良い演奏を聴き分けられると自信を持っていた。しかし、その自信もCETRA盤を聴くに及んですっかり消し飛んでしまった。一体私が聴いていたものは何だったのだろうか。

 確かに、MUSIC & ARTSの疑似ステレオはひどい。輪郭がぼやけているし、ふやけた演奏にしか聞こえない。しかし、それでも演奏のエッセンスは知ることができるだろうと考えていた。それ故、このベートーヴェン・チクルスを敢行したのである。しかし、やや早まった様な気がする。CETRA盤を何とか入手してから始めるべきであった。かりにもクレンペラーのページを作る人間として、このような失態は恥ずかしい。できればベートーヴェン・チクルスは一旦休載して、CETRA盤を集めてから再開したいところだ。が、今のところCETRA盤の入手は難しい。すぐ集めることは無理だ。

 そこで私は考えた。このような妙な例はめったにない。とりあえず、MUSIC & ARTSやARKADIAのCDでこのページを作っておき、CETRA盤が入手でき次第、その試聴記を追加し、読者が比較できるようにするというのはどうだろうか。どれほど違って聞こえるか、きっと読者も知りたいことだろう。

 というわけで、以下にCETRA盤のコメントを書いてみる。まことに申し訳ないが、両方のコメントを読んでいただくと、その落差に唖然とされるであろう。やはり音質に左右される出来の悪いホームページ作者であることをお許しいただきたい。

 

 

CDジャケット

ベートーヴェン
交響曲第3番変ホ長調 作品55「英雄」
クレンペラー指揮フィルハーモニア管
録音:1960年5月29日
FONIT CETRA(輸入盤 CDE 1007)

 クレンペラー渾身のエロイカ。クレンペラーのエロイカの中でもトップにランクされうる。最初の和音から猛烈で、ただならぬ音楽進行を予感させる。エロイカはクレンペラーの十八番であるだけに、かなりの意気込みをもって演奏を始めたのだろう。指揮者の意気込みがそのままオケに伝わり、神々しいまでの演奏になった。

 強奏部分ではまさに雷鳴が轟くような響きがする。重厚であるなどという陳腐な表現を超えたすさまじいまでの迫力で聴き手を圧倒する。第2楽章のフガートでは指揮者とオケが渾然一体となって作り出すめくるめく異次元の世界を垣間見ることもできる。

 オケの団員は気が高ぶったのか、必ずしも正確な演奏をしているわけではない。ホルンなど各地ではずしたり、指揮とずれたりしている。それでも全体としての演奏は立派だ。ミスなど気にならない。かなりの技術的破綻も一笑に付してしまえるほど激しく熱い怒濤のような演奏である。クレンペラーはライブだからといって特に聴衆の気を引くような加速は行っていない。あくまでもインテンポを守っているのだが、それでいて、奔流のごとき演奏が出来上がるのはどうしたわけだろう。

 聴き所はエロイカ全曲と言っても過言ではない。すべてのフレーズが聴き手に迫る。CDで聴いてもドキドキするほどの迫力だから、おそらく会場ではものすごい音響が鳴り響いたであろう。クレンペラーが手塩にかけたフィルハーモニア管が最高のベートーヴェン演奏を行っている。これがイギリスのオケとはとても信じられなかったウィーンの聴衆もいただろう。終演後に激しいブラボーが聞かれるのも無理はない。このような演奏をさせたのでは興奮のあまり夜も眠れなくなるのではないだろうか。エロイカがこれほど聴き手を熱くする巨大な音楽だとは、私も知らなかった。このCETRA盤、どうして量産してくれないのだろうか。

 

 

CDジャケット

ベートーヴェン
「エグモント」序曲 作品84
クレンペラー指揮フィルハーモニア管
録音:1960年5月31日
ARKADIA(輸入盤 CDGI 757.1)

 ベートーヴェン・チクルス2日目。冒頭を飾るのは「エグモント」序曲。この「エグモント」序曲はウィーンの聴衆の度肝を抜くのに十分だったのではないだろうか。序曲は今も昔もコンサートの導入として演奏される「前菜」である。だから通常は軽い曲が選ばれる。「エグモント」序曲は軽量級とは決していえないが、あまり重い曲ではない。にもかかわらずクレンペラーは渾身の力を込めて演奏してしまうから、序曲がいきなり交響曲並みのスケールになる。クレンペラーによって「エグモント」序曲の持つ劇性は最大限に高められるわけだから、聴衆は圧倒的な迫力にただ息をのむばかりであったろう。

 チクルス初日の「エロイカ」では劇的効果など全く狙わずに、「楽譜に忠実に演奏しました」という演奏をしたクレンペラーは何を思ったのか、この序曲では最高にドラマチックになってしまった。こういう変わり身がライブの面白いところだろう。オケはクレンペラーの気迫に十分応え、凄みのある壮絶な音色を聴かせる。弦楽器の暗く鋭い響きは会場を包み込み、トランペットの割れんばかりの勝利の凱歌は聴衆を熱狂させたであろう。すごい気迫だ。オケの面々も自分たちの奏でるサウンドの拡がりに驚くばかりだったに違いない。たった10分の曲で小宇宙を表現したクレンペラー。聴衆は10分聴いただけでもこのコンサートに来た甲斐があるというものだ。これこそ演奏芸術の極みである。

 

 

 

ベートーヴェン
交響曲第4番変ロ長調 作品60
クレンペラー指揮フィルハーモニア管
録音:1960年5月31日
ARKADIA(輸入盤 CDGI 757.1)

 「エグモント」序曲で、聴衆を圧倒させた後、続くのは交響曲第4番。どんな演奏かと気になる人も多いだろう。実は、演奏直後の拍手から判断すると、あまり聴衆の受けはよくはなかったようだ。特に熱狂的な拍手でもないし、かといって儀礼的なわけでもない。我々は既にクレンペラーがバイエルン放送響と行った宇宙的スケールの演奏を知っているので、「そんな馬鹿な」と思うだろう。しかし、私もこの演奏なら受けは良くないと思う。

 ここでのクレンペラーの指揮ぶりは非常に丁寧で、聴衆を「喜ばせるような」異常なテンポもなければ、加速もなく、強弱の付け方もどこといって変わり映えがしない。では演奏が良くないかと言えば、そうではない。4番には両端楽章など、聴かせどころや、大見得を切ろうと思えば思いっきりできる箇所がたくさんあるのに、クレンペラーはあえてそんなことをしなかったように思える。それはそれでよいのではないか。例えば、この演奏で最も傾聴に値する第2楽章Adagioについて考えてみよう。ここはクレンペラーの丁寧な指揮ぶりが遺憾なく発揮された楽章で、静かに静かに音楽を奏でさせる。抒情的といえばこれほど抒情的な演奏はない。クラリネットの旋律が静寂の中でそっと流れてくるあたりは音楽を聴く醍醐味に浸れる。こんな一面がクレンペラーにもあったのだ。

 交響曲だからといって、居丈高になる必要はないし、大見得を切るような演奏ばかりが名演奏だとも私は思わない。ベートーヴェンが書いた音楽をそのまま聴かせてくれれば我々リスナーは嬉しいのである。美しい音楽を聴かせてくれるこの演奏はそうした意味ですばらしい。Adagio楽章でいつになく叙情性を発揮したクレンペラーであったが、全体としてオーソドックスを追求したためか、聴衆はさほど喜ばなかった。いつの時代でもそういうものなのだろうか。

 

 

CDジャケット

ベートーヴェン
交響曲第5番ハ短調 作品67「運命」
クレンペラー指揮フィルハーモニア管
録音:1960年5月31日
VIRTUOSO(輸入盤 2697042)

 5月31日の演奏はいよいよ佳境に入る。「エグモント」、交響曲第4番と続いた後は「運命」。

 現在8種類あるクレンペラーの「運命」は少しずつ演奏の特色があるが、基本は同じである。どれも音楽から猛烈なエネルギーが発散している。テンポの差こそ著しいが、1934年にロスフィルを指揮したものを聴いてもそうだし、最晩年の69年にバイエルン放送響を指揮した演奏でもそうだ。このウィーンにおけるライブ盤もすごい熱量が感じられる演奏となっている。余分な贅肉がない、すばらしく筋肉質の演奏で、音楽が逞しい。この演奏を聴いていると、世に出回っている多くの「運命」では、線が細く聞こえてきてたまらない。クレンペラーの指揮で聴くと、太く逞しい音楽の流れが目の前に現れてくるような錯覚を覚える。上記第4番と同じようにクレンペラーの指揮は非常に丁寧なもので、急がず焦らずマイペース、しかもイン・テンポなのに、オケから出てくる音は強力で、聴く者を圧倒している。

 第1楽章から徹底して骨太。第2楽章では曲が曲だけに繊細な音色が聴けるが、それでも骨太。ましてや第4楽章では鋼鉄のような骨組みになってくる。終演後割れるような拍手が入っているのは当然だろう。私はこれを聴くと、「ベートーヴェンはやっぱりクレンペラーに限るかな」などと真剣に思ってしまう。

 私の手許にあるCDはVIRTUOSO盤。これで聴くと、音が生々しく、音楽が前に前に出てくるのが分かる。音楽の持つ生命力がスピーカーという再生装置の枠を超えて迫ってくるのである。モノラル録音であるにもかかわらず、クレンペラーの気迫、音楽のダイナミズムは十分に感じられる。VIRTUOSOは得体の知れないイタリアのレーベルだが、この演奏を聴く限り、重宝している。

 

 

 

ベートーヴェン
バレエ音楽「プロメテウスの創造物」序曲 作品43
クレンペラー指揮フィルハーモニア管
録音:1960年6月2日
VIRTUOSO(輸入盤 2697042)

 ベートーヴェン・チクルス3日目、6月2日の演奏会は嵐を呼ぶ。当日のプログラムの曲目から察するに、おそらくこの「プロメテウスの創造物」序曲が最初に演奏されたはずである。「プロメテウス」はあまりぱっとしない曲のように思えるが、クレンペラーはこのベートーヴェン・チクルスでわざわざ取り上げている。私が知らないだけかもしれないが、クレンペラーは「フィデリオ」序曲や、3つの「レオノーレ」序曲をこのチクルスでは取り上げていない。隠れたベートーヴェンの傑作を自らの演奏によって聴衆に知らしめたかったのだろうか。

 演奏は「嵐を呼ぶ演奏会」にふさわしい剛毅さである。わずか5分ちょっとの序曲であるのに、スケール雄大。クレンペラーは一つの交響曲を相手にしている時と同じ集中力をもって指揮しているようだ。オケの強奏はまるで雷鳴のように響き渡り、大変な重厚感だ。鋼のような堅牢さをもった演奏である。それだけではない。フルートのわずかな経過句には軽やかで透明な響きが宿り、天馬空を行くようなスケールを思わせる。この目立たない序曲はクレンペラーの演奏によって最高の姿を現している。この序曲を聴くだけでもこのチクルスの充実ぶりが分かるというものだ。

 しかし、演奏終了後の拍手はあまり芳しくはない。拍手の大きさが演奏の内容とは必ずしも関連しない代表例になってしまった。

 

 

 

ベートーヴェン
交響曲第6番ヘ長調 作品68「田園」
クレンペラー指揮フィルハーモニア管
録音:1960年6月2日
MUSIC & ARTS(輸入盤 CD-886/890)

 心ある聴衆を唸らせたであろう「プロメテウスの創造物」序曲の次は、「田園」が演奏されたと思われる。「田園」は激しい気性であったクレンペラーには似つかわしくない曲なのだが、EMIのスタジオ録音コンセルトヘボウとの共演も実に素晴らしい演奏をしている。

 このMUSIC & ARTS盤で聴く「田園」もオケの揺るぎない力量を感じさせる力演だろう。ライブでありながら、美しい音色を聴かせ続ける木管奏者達の腕前は賞賛されてしかるべきだ。

 クレンペラーはゆったりとしたテンポでこののどかな音楽を開始する。その音楽進行は大変丁寧なもので、作為をことごとく排除しながら進む。そのため、第2楽章が終わる頃にはまるで「縁側でお茶を飲みながらいい気持ちになっている」感じにさせてしまう。

 が、クレンペラーは第3楽章に入ると、俄然燃え始める。一部弦楽器の主旋律を際立たせるような強調をしたりする。田園的なのどかな気持ちはすっかり払拭され、地響きを伴うような嵐を演出。この第4楽章はさすがにクレンペラーらしい激しさだ。会場では箱鳴りするほどすさまじい演奏だったのではないか。

 しかし、第5楽章になると一転、抒情的なクレンペラーが現れる。しみじみと第5楽章を歌い上げるクレンペラー。この楽章にクレンペラーの圭角は感じられない。ワルターと比較しても全く遜色のない、暖かく人間のぬくもりを感じさせる音楽を聴かせる。

 

 

 

ベートーヴェン
交響曲第7番イ長調 作品92
クレンペラー指揮フィルハーモニア管
録音:1960年6月2日
ARKADIA(輸入盤 CDGI 756.1)

 6月2日の演奏会で嵐を呼んだのはこの演奏。クレンペラーが残した第7の中でも出色の出来映え。いやいや、そのような表現では足りない。「ベト7」の理想的演奏の一つと断言してしまいたくなるような名演である。おそらく、クレンペラーにしてもこの演奏は会心の出来だったはず。これ以上の「ベートーヴェン7」は今の私では他に思いつかないほどだ。演奏が嵐を呼んでいるのだから、終演後今度はブラボーの嵐が飛び交ったのももっともだ。

 クレンペラーの演奏、第1楽章冒頭から聴き手はつまらぬ雑念も寄せ付けられなくなる。音楽の高揚は第1楽章から相当なものだが、これは楽章をおっていくに従って加速度的に高まる。演奏の特徴は重厚感と躍動感。ものすごい重厚感がありながら、音楽をぐいぐい引っ張るクレンペラーの指揮が、重厚感とは両立するはずがない躍動感を引き出している。

 小細工はない。どう考えても直球勝負だ。それでいながら並はずれた巨大さを感じさせる。オケも指揮者も何かに取り憑かれてしまったのかもしれない。いつもは少し単調に感じることが多い第3楽章も壮麗な響きに満たされていて、目を見張るばかり。ましてや第4楽章になると、平常心では聴いていられない。巨大な音楽のうねりの中に引きずり込まれ、聴き手までが音楽と一体化させられる。聴いているとじわじわ汗ばんできて、呼吸まで苦しくなってくる。音楽の高まりは圧倒的であるから、目を丸くして聴き続けなくてはならない。また、モノラルで聴いているのに、音響も激しい。まるでオケの饗宴だ。めくるめく大音響に聴き手は酔いしれるだろう。これは猛烈だ。クレンペラーの最高の演奏の一つだろう。これほどの「ベト7」が海賊盤でなければ聴けないとはどういうことか? もっと多くの人がこの演奏を聴くべきだ。一刻も早い正規盤化を望む! 

 

 

 

ベートーヴェン
「コリオラン」序曲 作品62
クレンペラー指揮フィルハーモニア管
録音:1960年6月4日
VIRTUOSO(輸入盤 2697042)

 雷鳴が轟かんとするクレンペラー入魂の「コリオラン」。重厚差さたまらない。

 5種類あるクレンペラーの「コリオラン」はどれも甲乙つけがたい。しかも、基本的な解釈は一貫している。クレンペラーは早くからこの曲を得意にしていたようで、ベルリン国立歌劇場管弦楽団を演奏した1927年の録音でも怒濤の演奏をしている。クレンペラーはよほどの愛着がこの曲にあったのではないだろうか。「コリオラン」にまつわるストーリーもいかにもクレンペラー好み(?)の悲劇性を持っている。曲に対する愛着なくしてこれほど高い次元の演奏はできないだろう。

 それにしても演奏会の序曲からこんな激しい演奏を聴かされるとはウィーンの聴衆も思っていなかったのではないだろうか。当日のプログラムはややソフトな曲が並ぶので、聴衆はそのつもりで聴きに来ていただろうし、いきなり第1曲から凄みのある演奏を聴かされて面食らったかもしれない。そもそも序曲の演奏は耳慣らしの前座だと思っている聴衆だっていただろう。ところがクレンペラーの演奏では「ただ前座のために演奏しています」などという気配は全く感じられない。ライブでもあるし、当日最初の演目でもあるし、クレンペラーも相当燃えてしまったようだ。

 

 

CDジャケット

ベートーヴェン
交響曲第8番ヘ長調 作品93
クレンペラー指揮フィルハーモニア管
録音:1960年6月4日
CETRA(輸入盤 CDE 1033)

 6月4日のコンサートは「コリオラン」序曲がプログラム冒頭に置かれ、次にベートーヴェンのバイオリン協奏曲が演奏された。そして休憩の後、この交響曲第8番が演奏されている。交響曲第8番はオケの編成も演奏時間も曲調も小振りな曲だ。暴論かもしれないが、コンサートにおけるウケだけを考えるなら、バイオリン協奏曲をプログラムの最後にもってくることだってできたはずだ。事実、交響曲第8番をプログラムの前半に置いているコンサートは今も多いだろう。

 しかし、クレンペラーはそうしなかった。それだけでクレンペラーのこの交響曲に対する認識がはっきり分かる。演奏を聴けば、クレンペラーがあくまでも交響曲としての貫禄をこの曲に認め、それを具体的に音にしていることが如実に聴き取れるのである。だから、第1楽章などは実に立派である。重厚な貫禄があるのに、決してもたつかない歯切れの良いリズム。規模的には本当に小振りなはずの第8番が目の覚めるような立派な交響曲となって聞こえてくる。第2、第3楽章になると、軽妙さ・洒脱さが際立つ。クレンペラーもさすがに威圧的な音楽を作ろうとしたわけではなく、ベートーヴェンが意図したであろうウィットをきちんと表現している。第4楽章は、これまた均整のとれた演奏だ。厚みのある立派な音を聴かせるのは第1楽章と同様だが、ここでは室内楽的な慎ましやかさまで感じる。

 おそらく、このような演奏は聴衆を熱狂させるものではない。しかし、聴衆を熱狂させる第8番の演奏が、もしあれば、かなりキワモノだと私は思う。クレンペラーはベートーヴェンの機知あふれるこの曲のリズム処理を的確に行い、重厚さも見せながら、基本的には正攻法で攻めている。「これが正しい第8番ですよ」といわんばかりの演奏ではないか。

 

 

CDジャケット

ベートーヴェン
交響曲第1番ハ長調 作品21
クレンペラー指揮フィルハーモニア管
録音:1960年6月7日
CETRA(輸入盤 CDE 1067)

 クレンペラーによるベートーヴェン・チクルスも最終日を迎える。演目は交響曲第1番と第9番。最初の交響曲と最後の交響曲の組み合わせである。

 こうした組み合わせになると、交響曲第1番が前座のようになってしまい、気の抜けた聴き方をしがちなのだが、クレンペラーの演奏を聴いていると、しっかり聴かざるを得なくなる。この曲は「作品21」だから、ベートーヴェンがまだ若い頃の作品である。とはいえ、交響曲として作曲された曲なのだし、ベートーヴェンの野心的作品でもあったわけだから、それなりの風格がある。クレンペラーはその風格をまざまざと表現した。私はクレンペラーの演奏を聴いていて、「これがあの交響曲第1番か?」と驚いてしまった。演奏の重厚さだけを取ると57年のスタジオ録音盤の方に分があるが、こちらはライブだけにいっそう引き締まった緊張感があり、それがこの曲のきりりとした構築感を作っている。クレンペラーはベートーヴェン初期の交響曲だからといって、軽やかには演奏しない。第3楽章では雷鳴のようなティンパニを聴かせるなど、実に面白い。全曲を通して、重量感、迫力、推進力それぞれが満たされている。ベートーヴェンの大家としてのクレンペラーを如実に表している演奏だと思う。

 なお、CETRA盤で聴くと、マスターの音を聴いているような生々しさを感じる。あまりに鮮明なために、とてもモノラルだとも思えない音質だ。MUSIC & ARTS盤も聴いてみたが、比較にならない。クレンペラーの見事な演奏がピンぼけになり果てている。どうにかならないものか。

 

 

CDジャケット

ベートーヴェン
交響曲第9番ニ短調 作品125
クレンペラー指揮フィルハーモニア管
録音:1960年6月7日
ARKADIA(輸入盤 CDGI759.1)

 クレンペラーのベートーヴェン・チクルスはいよいよ最後の交響曲第9番「合唱」。チクルスの最後を飾るにふさわしい、堂々たる演奏である。

 第1楽章が始まると、周囲に冷気が入り込んできたような、ひんやりとした感じがする。ARKADIA盤の音は、聴きやすいけれども生々しくはない。それにも関わらず、寒気をもよおすほどの森厳さを与える。オケは巨大に膨らむ宇宙の響きを奏でているようだ。その壮絶な響きは「一体何がこのオケに起きたのか?」と私に考え込ませる。同じ日に交響曲第1番を演奏したオケとはとても考えられない、強力な一体感、猛烈な気分の高揚を感じるからだ。

 ヨーロッパの戦記物を読んでいると、大会戦の直前に総司令官が全軍を前に訓辞を行う場面によく遭遇する。歴史に名をとどめた戦歴を残した総司令官になると、その訓示が終わると、全軍が歓呼し、奮い立ち、意気軒昂となって勝利を得ている。クレンペラーが第1交響曲の直後に楽員全部を集めて訓示を垂れたなどという情報は全くないが、私はそんなことでもなければこの第9番の猛烈な一体感を理解できない。指揮者というものは目の前に立つだけで楽員に暗示をかけるそうだが、よほどすさまじい暗示があったのだろう。

 楽員が奮い立ったオケの演奏がどうなるかといえば、結果は分かり切っている。その自発性だけでも大変な名演を生む。それを率いる指揮者がクレンペラーであればなおのこと。冷気をもって開始した第9番は、森羅万象宇宙の響きの中で第1楽章を終結し、これまた宇宙の心臓音を彷彿とさせる巨大な第2楽章を迎える。さらに天上の幸福を覗き込んだ後、沸騰せんばかりの熱気に包まれる第4楽章に突入している。

 この第4楽章を聴いて、感涙にむせぶのは私だけではないだろう。ご存知のとおり、この第4楽章の旋律は覚えやすいこともあり、いろいろな演奏を聴いた後では陳腐な印象さえ受ける。しかし、クレンペラーの演奏を聴くと、その熱い表現に大きく心を揺り動かされる。極端なテンポの揺れや強弱の付け方が見られないのに、どうしてこのように充実した演奏が可能になるのか、私には分からない。聴き慣れたはずの音楽に新しい息吹を感じてしまう。これがクラシック音楽を聴く喜びでもあるわけだが、何度聴いても新しい感動を与え続けるベートーヴェンの音楽の偉大さとともに、クレンペラーの偉大さを感じざるを得ない。

 クレンペラーが残したベートーヴェンの第9交響曲はコンセルトヘボウ管を指揮した56年盤(ライブ)、フィルハーモニア管を指揮した57年盤(スタジオ録音)、そしてこの60年盤(ライブ)しか今のところCD化されていない。そのどれもが、それぞれに特長を持つ名演である。中でもこの60年盤は非常な名演奏だろう。なのに、海賊盤でしか聴けないとはどういうわけだろうか。ARKADIA盤を聴くと、モノラルながら音質は決して悪くないから、マスター・テープはよほどいい状態であるに違いない。EMIには一刻も早くマスター・テープを入手し、正規盤として世に出してもらいたいものだ。

 なお、感動の第4楽章を作り上げた声楽陣は以下のとおり。

  • ソプラノ:ヴィルマ・リップ
  • アルト:ウルズラ・ベーゼ
  • テノール:フリッツ・ヴンダリッヒ
  • バス:フランツ・クラス
  • ウィーン楽友協会合唱団

 

An die MusikクラシックCD試聴記、1999年掲載