クロール・オペラ時代のクレンペラー
DIE KROLL-YAHRE
ベートーヴェン:「コリオラン」序曲作品62
録音:1926年7月
ワーグナー:ジークフリート牧歌
録音:1926年7月
ラヴェル:道化師の朝の歌
録音:1926年
ドビュッシー:夜想曲から「雲・祭り」
録音:1926年
オベール:歌劇「フラ・ディアヴォロ」序曲
オッフェンバック:歌劇「美しきエレーヌ」序曲
録音:1929年
クルト・ワイル:三文オペラ組曲(抜粋)
ベルリン国立歌劇場管弦楽団
録音:1930,31年
SYMPOSIUM(輸入盤 SYMPOSIUM 1042)クロールオペラ時代の貴重な正規録音。こんな時代に既に録音活動をしていたのだから驚く。「コンサートは自分のため。録音は娘のため」とクレンペラーは後に述懐している。生活には必要だったのだろう。
このCDはSP盤からの復刻であるから音質はよくない。しかし、クレンペラーのレパートリーとクロールオペラ時代の演奏様式を知るには十分である。
クロールオペラがクレンペラーの前衛的な実験工房であったことは世に名高い。その時代の演奏もきっとかなり前衛的であったに違いないと想像しがちだ。しかし、この演奏が行われた当時はともかく、今となっては全く正攻法の演奏に思える。意外に拍子抜けする。コリオラン序曲だって、「前衛的」では決してない。音が悪いからあっさりした印象を受けるが、様式的には後に録音したコリオラン序曲同様壮大・劇的なものだ。
クレンペラーの演奏はクロール時代には、「狂信的なまでに客観的」とか、さんざんな評価もあったようだ。私もクレンペラーの演奏は客観的だとは思う。少なくとも情緒纏綿でないことは確かだ。しかし、一般的に言われているほどドライな演奏をしたとは思えない。メンゲルベルクがまだ生きていて、極度にロマンティックな演奏をしていた時代だから、クレンペラーの演奏がドライに聞こえたのは如何ともしがたいが、「狂信的なまでに客観的」という悪評になるのは、現代音楽を演奏しているために評者が先入観を持って聴いたからではないだろうか?
クレンペラーは客観性を重視したとは思うが、音楽に対する愛情なしに演奏はしていない。例えばこのCDに収録されているジークフリート牧歌。クレンペラーはニューヨークフィルに客演していた頃、1楽器につき1名の奏者で演奏することを主張したそうだ。ワーグナーがコジマにこの曲を初めて聴かせたときがそうだったし、その方が室内学的な明晰さを表現できると信じているのである。しかし、クレンペラーの主張が受け入れられないとなると、客演指揮者の地位をあっさりなげうってしまう。そこまで主張するくらいだから、この曲に特別の愛情があるのは当然で、ここでの演奏も非常に優れている。限りない愛情を注いでじっくり演奏しているのである。また、クルト・ワイルの3文オペラ組曲もクレンペラーのお気に入りだ。各地でどんどん演奏したし、作曲自体がクレンペラーの助言によるものだ。そのクレンペラーが演奏するのだから悪い演奏のわけがない。クルト・ワイルらしい物寂しげで、おどけた雰囲気が良く出ている。この雰囲気はEMIに入れたステレオ正規盤よりもいいかもしれない。惜しむらくは全曲盤でないことくらいだ。
なお、このCDにはラヴェルやドビュッシーの曲が入っていて大変興味深い。それぞれにいい演奏をしているのだが、余りに古い音なので、ラヴェルやドビュッシーの精妙なオーケストレーションが十分に味わえるとは言い難い。
The Complete 78 rpm Recordings
(Berlin 1924-1932)
ベルリン国立歌劇場管
archiphon ARC-121/25DISC 1
- ベートーヴェン:交響曲第1番ハ長調 作品21(録音:1924年)アコースティック
- ベートーヴェン:交響曲第8番ヘ長調 作品93(録音:1924年)アコースティック
- ワーグナー:ジークフリート牧歌(録音:1927年)
DISC 2
- シューベルト:交響曲第7番 ロ短調 D.759「未完成」(録音:1924年)アコースティック
- ブルックナー:交響曲第8番からアダージョ(録音:1924年)アコースティック
- ドビュッシー:夜想曲から「雲」「祭り」(録音:1926年)
- ラヴェル:道化師の朝の歌(1926年)
DISC 3
- ベートーヴェン:交響曲第8番ヘ長調 作品93(1926年)
- ブラームス:交響曲第1番ハ短調 作品68(1928年)
DISC 4
- ベートーヴェン:「レオノーレ」序曲第3番 作品72a(1927年)
- ベートーヴェン:「コリオラン」序曲 作品62(1927年)
- ベートーヴェン:「エグモント」序曲 作品84(1927年)
- ブラームス:大学祝典序曲 作品80(1927年)
- メンデルスゾーン:劇音楽「真夏の夜の夢」より序曲 作品21(1927年)
- ウェーバー:歌劇「オイリアンテ」序曲(1927年)
- ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」から前奏曲(1927年)
DISC 5
- オベール:歌劇「フラ・ディアヴォロ」序曲(1929年)
- オッフェンバック:歌劇「美しきエレーヌ」序曲(1929年)
- R.シュトラウス:楽劇「サロメ」から「7つのヴェールの踊り」(1928年)
- R.シュトラウス:交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」作品28(1929年)
- R.シュトラウス:交響詩「ドンファン」作品20(1929年)
- クルト・ワイル:三文オペラ組曲(抜粋)(1931年)
- ヒンデミット:オラトリオ「絶え間ないもの」(?)(1932年)
archiphonはクレンペラーなど、過去の大指揮者の録音を丁寧に復刻しているレーベル。海賊盤ではない。この5枚組大作CDにもクレンペラーのご息女であるLotte Klempererの協力があった旨明記されている。
クレンペラーがクロールオペラに在任したのは1927年から1931年であるから、正確に言えばこのCDに収められている録音すべてがクロールオペラ時代のものとはいいきれない。例えば、DISC 1のベートーヴェンはクレンペラーがおそらくはケルン歌劇場在任期間中の録音であり、DISC 2からDISC 3のベートーヴェンまではヴィースバーデン歌劇場在任期間中の録音のはずである。それにしても大曲ばかり、よく録音できたものだ。
このあたりの時代には、SP録音をさせてもらえる演奏家はかなりの大家だけだったと聞いたことがある。功成り名を遂げた指揮者だけが録音の栄誉に預かれたらしい。すると、クレンペラーはこの時期に我々が予想している以上に高い評価をドイツで得ていたと考えられる。ウォルター・レッグはクレンペラーのヴィースバーデン時代に早くもクレンペラーに接し、その並々ならぬ手腕に感嘆している。例の「レコードうら・おもて」によると、以下のような記述がある。
私が最初のドイツ旅行で初めてクレンペラーを聴いたところがヴィースバーデンである。私にとって、ドイツの歌劇場そのものが初めてであった。...略...クレンペラーの指揮はまさに啓示的だった。当時ドルトムントと契約していたヨーゼフ・クリップスに、20年後にこのヴィースバーデンでの演奏会のことを話す機会があったが、クリップスは私の印象は間違っていないといった。ヴィースバーデンでのクレンペラーの仕事ぶりがあまりに啓示的なので、クリップスは時間の許す限り、120マイルの旅路を厭わずクレンペラーの演奏を聴きに出かけては勉強した、というのだ。
うるさがりやのレッグがこういうわけだから、かなり良い演奏をしていたことは確かだろう。ただ、「啓示的」な演奏とはどんなものかはこの本ではよく分からない。
さて、1927年からのクロールオペラ時代になるとクレンペラーは自己の強い信条のもと、徹底的な芸術活動を繰り広げる。どんな演奏をしていたのだろう。斬新な演出ばかりが伝えられているが、音楽的な点について述べている文章もある。例えば、ノーマン・レブレヒト著の「巨匠神話」(文藝春秋)には次のようなくだりがある。
ナチスは、クロールが、プロレタリアとユダヤの邪教を広めていると非難した。共産主義者たちは、彼らの新しいリアリズム教義と矛盾する抽象的な舞台美術を嘆いた。オペラとオペラの間に、クレンペラーは、新たに危険な、オール・バッハ・コンサートを計画したり、バッハをヒンデミットやワイルとミックスしはじめた。彼は、四面楚歌のなかで荘重なブラームスを指揮した。クロール時代を回顧して、クレンペラーは自分の人生で芸術的に最も重要な時期だったと語った。
「荘重なブラームス」。これを聴いてみたいという人も多いだろう。
どうもこうした文章を読んでいると、我々が思い描くクレンペラー若かりし頃のイメージとは違うように思える。そのイメージの多くはVOX社の録音から得られたものだ。私は上記二つの証言と、VOX社の録音で非常にアップテンポの演奏をするクレンペラーの演奏との間にやや乖離があるような気がしてならない。ここで疑問を掲げたいが、VOX社に録音したクレンペラーは本当のクレンペラーだったのだろうか?(代表例は「大地の歌」)
それはさておき、具体的にこの5枚組CDを聴いてみると、その演奏の充実度に驚かされる。さすがにアコースティック録音ではベルリン国立歌劇場管の音色、技術を聴き取るのは苦しいが、それでも内容の充実はよく分かる。なお、上記SYMPOSIUM盤とダブっている曲は原則的にコメントをしない。
DISC1はベートーヴェンの交響曲が二つとワーグナーの「ジークフリート牧歌」が収録されている。交響曲では意外にもノーマルなテンポを採っており、その筋肉質な演奏ともども聴き手が抱いていた従来のイメージを覆す。ただし、音質の悪さは何ともいえない。「ジークフリート牧歌」は全く清浄な雰囲気だ。クレンペラーの傑作録音ともいえる。
DISC2で聴く、シューベルトの「未完成」。音質の悪さを補って余りある緊迫感溢れる演奏だ。また、次のブルックナー交響曲第8番のアダージョなど、開始部分は「外で雨が降ってきたのではないか」と思わせるほどノイズに埋もれているにもかかわらず、清澄で感動的な演奏を聴かせている。魅惑的な演奏とはこのことだ。
DISC3ではレブレヒト言うところの荘重なブラームスを聴けるのも嬉しい。このブラームスはこの5枚組CDの白眉ともいえる演奏で、冒頭からクレンペラーの気迫のこもった演奏に圧倒される。SP時代の録音風景がどのようなものであったのか、私は詳しく知らないのだが、現在のライブ録音と称する諸演奏は臨場感、熱気、気迫、集中力などあらゆる点でこのブラームスの足元にも及んでいない。録音が古くとも、クレンペラー自身のステレオ録音盤を凌駕しているとさえ思える。ここに収められている二つ目のベートーヴェンの交響曲第8番もよい。DISC1のベートーヴェンでもそうであったが、ベートーヴェン演奏では既に熟達の域に達しているようだ。
DISC4では、クレンペラーが得意にしていたベートーヴェンの序曲やワーグナーの前奏曲が聴ける。これはどれも迫真の演奏で、おそらくこのCDを手にした人はそのベートーヴェン演奏の迫力、重厚さ、ブラームスやウェーバー演奏における音楽の愉悦感、メンデルスゾーン演奏における精妙さ、ワーグナー演奏における陶酔感など、いずれの点においても傑出した演奏であることに驚かされるはずだ。特に「コリオラン」序曲を聴くと、最晩年にバイエルン放送響と演奏したライブ盤にも匹敵する神秘的世界に圧倒されるだろう。この頃には既にクレンペラーは巨匠的風格を完全に身につけていたといえる。
DISC5ではR.シュトラウス演奏が聴きもの。クレンペラーにはステレオによる再録音があるが、それと比べても録音状態以外の遜色は全くない。むしろ迫力や、オケの技量・色気の点ではフィルハーモニア管の上を行っているような気がする。
以上、なかなか大変なCDだ。私はいくら何でもこのCDはマニア向けだと思っていたが、演奏の充実度を考えると、そうとも言っていられないような気がする。すばらしく聴き応えのある5枚組CDである。
An die MusikクラシックCD試聴記、1999年掲載