バッハ《ゴルトベルク変奏曲》をひたすらピアノ演奏で聴く

文:松本武巳さん

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1742年出版の初版楽譜表紙

J.S.バッハ作曲「ゴルトベルク変奏曲」BWV988
(1742年出版の初版楽譜表紙より)

CDジャケット

【アリア】
ピアノ:クラウディオ・アラウ
録音:1942年
BMGジャパン(国内盤BVCC37312)

CDジャケット

【第1変奏】
ピアノ:グレン・グールド
録音:1954年
カナダCBC(輸入盤PSCD200)

CDジャケット

【第2変奏】
ピアノ:グレン・グールド
録音:1955年
SONY(輸入盤88697147452)

CDジャケット

【第3変奏】
ピアノ:ロザリン・トゥーレック
録音:1957年
EMI(輸入盤50964826)

CDジャケット

【第4変奏】
ピアノ:グレン・グールド
録音:1959年
SONY(輸入盤SMK53474)

CDジャケット

【第5変奏】
ピアノ:チャールズ・ローゼン
録音:1967年
SONYミュージックエンタテインメント(国内盤SRCR1649)

CDジャケット

【第6変奏】
ピアノ:ウィルヘルム・ケンプ
録音:1969年
DG(輸入盤4399782)

CDジャケット

【第7変奏】
ピアノ:タチアナ・ニコラーエワ
録音:1979年
ロシアVenezia(輸入盤CDVE04294)

CDジャケット

【第8変奏】
ピアノ:ロザリン・トゥーレック
録音:1979年
VAI(輸入盤VAIA1029)

CDジャケット

【第9変奏】
ピアノ:グレン・グールド
録音:1981年
SONY(国内盤SICC1018)

CDジャケット

【第10変奏】
ピアノ:アンドラーシュ・シフ
録音:1982年
DECCA(輸入盤4757508)

CDジャケット

【第11変奏】
ピアノ:マリア・ティーポ
録音:1986年
EMIミュージック・ジャパン(国内盤TOCE13433)

CDジャケット

【第12変奏】
ピアノ:シュ・シャオメイ
録音:1990年
Mirare(輸入盤MIR048)

CDジャケット

【第13変奏】
ピアノ:アンドレイ・ガヴリーロフ
録音:1992年
DG(国内盤UCCG5074)

CDジャケット

【第14変奏】
ピアノ:熊本マリ
録音:1993年
キングレコード(国内盤KICC110)

CDジャケット

【第15変奏】
ピアノ:イシドロ・バリオ
録音:1993年
KOCH SCHWANN(輸入盤4763133)

CDジャケット

【第16変奏】
ピアノ:コンスタンチン・リフシッツ
録音:1994年
DENON(国内盤COCO70750)

CDジャケット

【第17変奏】
ピアノ:ピーター・ゼルキン
録音:1994年
BMGジャパン(国内盤BVCC37661)

CDジャケット

【第18変奏】
ピアノ:ロザリン・トゥーレック
録音:1998年
DG(輸入盤4595992)

CDジャケット

【第19変奏】
ピアノ:ミア・チュン
録音:1998年
Channel(輸入盤CCS12798)

CDジャケット

【第20変奏】
ピアノ:ラグーナ・シルマー
録音:1999年
Berlin Classics(輸入盤BC17162)

CDジャケット

【第21変奏】
ピアノ:エフゲニー・コロリオフ
録音:1999年
Hanssler(輸入盤92112)

CDジャケット

【第22変奏】
ピアノ:アンジェラ・ヒューイット
録音:2000年
Hyperion(輸入盤CDA67305)

【第23変奏】
ピアノ:マレイ・ペライア
録音:2000年
SONY CLASSICAL(国内盤SRCR2583)

CDジャケット

【第24変奏】
ピアノ:クリスティナ・ビイェルケ
録音:2000年
デンマークCLASSICO(輸入盤CLASSCD360)

CDジャケット

【第25変奏】
ピアノ:イェネー・ヤンドー
録音:2003年
NAXOS(輸入盤8667268)

CDジャケット

【第26変奏】
ピアノ:マルティン・シュタットフェルト
録音:2003年
SONY(国内盤 SICC286)

CDジャケット

【第26変奏の即興的変奏】
ピアノ:クラウディウス・タンスキ(ブゾーニ編曲版)
録音:2004年
MD+G(輸入盤31213232)

CDジャケット

【第27変奏】
ピアノ:イルマ・イサカーゼ
録音:2004年
Oehms(輸入盤OC628)

CDジャケット

【第28変奏】
ピアノ:高橋悠治
録音:2004年
Avex(国内盤AVCL25026)

CDジャケット

【第29変奏】
ピアノ:シモーネ・ディナースタイン
録音:2005年
アメリカTELARC(輸入盤CD80692)

CDジャケット

【第30変奏】
ピアノ:横山幸雄
録音:2007年
SONYミュージックエンタテインメント(国内盤SICC10071)

CDジャケット

【アリア】
ピアノ:イム・ドンヒョク
録音:2008年
EMI(輸入盤2159782)

 

■ 正気の沙汰では無い企画!?

 

 バッハのゴルトベルク変奏曲は、少なくとも私にとってはピアノで聴く楽曲であり、ピアノで弾く楽曲でもある。普段、バッハをピアノで弾くことの是非を論じておられる方の大半が、なぜかこの変奏曲だけはピアノでの演奏を許容されているように思われる。さらに、先日引退したばかりのアルフレッド・ブレンデルが変奏曲ばかりでCDを作成しようとした際にも、本人の談話によれば、ゴルトベルク変奏曲を録音するか否かで、最後まで相当悩んだらしい。

 これらは、実は、すべてグレン・グールドのお陰なのである。彼が開拓した世界はとてつもなく広く、この限りない楽曲をピアノで演奏する楽しみ、ピアノで聴く喜びを、後世に残してくれたのである。このことを証明するかのように、グールドの事実上の遺作となった1981年のゴルトベルク変奏曲は、当企画では33枚のディスクのうち、古いほうから10番目の録音になるのである。彼の没後に、大きくこの曲の演奏形態が広がりを見せた証拠であろう。我々は、グールドが好きか嫌いかの議論をする前に、この点に関して心からグールドに感謝を捧げたいと思う。

 今回の企画は、33のディスクを聴き比べる企画であり、この33と言う数字は、ベートーヴェンの巨大な変奏曲の変奏の数とも意図的に一致させている。私なりのささやかな数の遊びであることを事前に告白しておきたい。また、チェンバロでの名演も数多いが、あえてここではピアノによる演奏に限らせていただくことにしたい。

 

■ アリア−第1変奏〜第4変奏

日本語版「バッハ演奏の手引き」
かつて日本語版も「バッハ演奏の手引き」として刊行された。

 まず、最初の5枚のディスクについて記したい。いきなり、重大発言をすることになるのだが、1942年録音のアラウ(アリア)と、1954年カナダでの放送録音のグールド(第1変奏)は、前者が完全繰り返し実行、後者が繰り返しなしと言う違いこそあるものの、両者の解釈はともに非常に普遍的でかつ近似した解釈であるのだ。アラウは若き気負いからであろうか、晩年の演奏に良くある重厚さよりも、はるかに勢いを感じさせる推進力のある演奏をしている。そして、グールドは1955年版(第2変奏)と同様に、繰り返しを一切省略して演奏したにも関わらず、1955年録音よりも4分以上多くの時間がかかっている上、グールド特有の跳ねるような感じの演奏でもない、まっとうなピアノ演奏に終始しているのだ。この、グールドの1954年録音と、1955年の録音との違いは、1955年と1981年(第9変奏)の違いよりも明らかに大きな違いとなっており、一方で、1955年録音と、1959年のザルツブルクでの実況録音(第4変奏)の違いは、録音上の問題を除いて、ほとんど見られない。また、SP録音の時代に、繰り返しを完全実行して全曲を録音したアラウは、この曲の演奏に対して、ある種の先鞭をつけた功績があると思われる。また、演奏内容も、現在でも十分に耐えられるだけのレベルに到達しており、ゴルトベルク変奏曲のピアノによる録音史は、非常に恵まれたスタートとなったのである。

 さて第3変奏のトゥーレックは、かつて伊東さんが試聴記で書かれている録音でもあるのだが、かのグレン・グールドに影響を与えた演奏家として知られている、アメリカの女流ピアニストである。私は、この企画で、彼女の1957年録音、1979年録音(第8変奏)、1998年録音(第18変奏)を採り上げているが、ここで彼女の演奏の是非を問うつもりは、実はあまり無いのである。彼女の演奏評は、ほぼ真っ二つに分かれていると思われる。余りにも遅いテンポから論じる方や、余りにも明晰な演奏スタイルから論じる方など、様々ではあるが、ここでは下記の書籍(画像参照)を是非紹介しておきたいと思う。彼女の演奏に対して、私は正直なところ余り好みの演奏では無いのだが、彼女の著した演奏法に従って、様々な試みを録音においても意外なほど忠実に実行しており、その実行の有り様が、1957年、1979年、1998年の録音からは、それぞれきちんと聴き取ることが可能であることだけは、少なくともお伝えしておこうと思う。彼女には多くの異演が他にも存在するが、仮に彼女の著した書物との比較対照をしながら聴こうと思うならば、上記の3種類の録音は手元に置いたほうが書物の理解も含めて進むことを、ここで明らかにしておきたい。よって、彼女の第8変奏、第18変奏の項目では、これ以上彼女の演奏に関して論じることは避けようと思う。

 

■ 第5変奏〜第9変奏

 

 第5変奏のチャールズ・ローゼンは、学級肌の演奏家で、近年ではむしろ演奏論に関する、多くの論文で知られた存在である。第6変奏のケンプは、非常に著名なドイツのピアニストであったが、今となってはあまりにも普通の演奏に終始しており、一時代前の演奏であるように思えてならない。第7変奏のニコラーエワはこのロシア盤が、もっとも優れた録音であるように思えるが、これは日本ビクターから既発の音源の可能性もある。第8変奏は先ほどのトゥーレックの再録音である。

 そして第9変奏が、かのグレン・グールドの1981年録音である。この81年録音は、ジャケット写真の鮮烈さと、ちょうど訃報が飛び込んだころの新譜でもあったため、余りにも多くのリスナーの脳裏に焼き付いてしまった写真でもある。その呪縛から、きちんと切り離して演奏自体を評論することの困難さは、グールドとともにバッハを聴くようになった好事家には、到底できることではないほどの困難さを伴うのであろう。理屈を超えた凄演である。1955年録音との比較を試みる専門家もリスナーも、ともに想像を絶するほど多く見られるが、ここではあえて、その比較の無意味さを問いたいと思う。私の評価は実に単純明快である。両方ともに決して手放せない音源であるので、それ以上の批評にそぐわないと考える。

 ただし、あえて蛇足を付け加える。スコアを見ながら聴く場合は1955年録音を、目を瞑り、瞑想しながら聴く場合は1981年録音を、トレイに載せていることが多い事実だけを・・・

 

■ 第10変奏〜第18変奏

 

 グールドの死後、しばらくは新録音が減少する。あまりにも鮮烈なグールドの呪縛から、録音を控える傾向があったものと思われる。そんな中で、1982年のシフ(第10変奏)と1986年のティーポ(第11変奏)は、ともに第6変奏のケンプ同様、非常に穏健な演奏に終始している。

 1990年代に入り、新しい潮流が見られ始める。グールドを超える方向性を模索するものや、グールドを全面的に許容することから解釈を開始する新しい世代の演奏家等である。1990年録音のシャオメイ(第12変奏)は、知る人ぞ知る存在に留まっていたが、今年の5月、東京での熱狂の日のバッハ特集で、彼女のゴルトベルクを聴く幸運を得た。彼女にとっては、もはやグールドは歴史的大ピアニストとして、様式論等の入り口議論を経ることなく許容した演奏であったことが、私にも何となく理解できたが、このことは彼女がグールドの模倣であることを決して意味しないのだ。その前の世代が、グールドを巡って口角泡を飛ばした、そんなグールドとは異なるグールド像を、彼女以後の録音を残したピアニストの大半が抱いていることが理解でき、感慨深かったのである。

 第13変奏のガブリーロフは旧ソ連型の演奏を見せ、ある意味1990年代としてはやや異質な側面を感じさせたが、第14変奏の熊本マリに至っては、バッハはゲンダイオンガクであるのだとの理解を示し、第15変奏のバリオは、ゲンダイオンガク専門レーベルから登場し、第16変奏のリフシッツなどは、私には宇宙人に思える面白さが全編に渡って充満していた。ところが、第17変奏のピーター・ゼルキンは、これが3度目の録音となるが、彼はついに伝統に立脚したバッハ像を、新しく再構築する方向でのバッハ−旧来のバッハを好む層にも、新しいバッハ像を描く層にも受け入れられる普遍的バッハ−のゴルトベルク変奏曲となったのである。第18変奏は、トゥーレックであるので、ここでは繰り返さないことにしたい。

 

■ 第19変奏〜第23変奏

 

 第19変奏、第20変奏、第21変奏は、それぞれ旧来のヨーロッパ伝統解釈に立脚した優れた演奏ばかりであるが、依って立つ伝統が、ヨーロッパでも国によって微妙に異なることを理解するための、聴き比べに適していると言えるだろう。個人的には、チュンとシルマーの2人の女流に惹かれる部分がある。

 第22変奏のヒューイットと第23変奏のペライアは、私が聴く前に想像した演奏とは、二人がちょうど正反対に入れ替わった演奏であった。ヒューイットの前衛性とペライアの伝統に立脚した穏健性を、聴く前には予想していたのだが、全く予想に反してヒューイットの演奏からはバッハの普遍的解釈を聴き取り、ペライアからはバッハの音楽が元来持っている前衛性を聴き取ることになった。いずれの録音からも予想外の収穫があったことをご報告したい。ただ、ヒューイットの録音からは、細部の若干の甘さが感じ取れたのは多少意外であった。

 なお、ペライアの録音は、伊東さんがかつて試聴記で書かれているので、参照されることをお奨めします。

 

■ 第24変奏〜第29変奏

 

 さて、第24変奏と第29変奏は、かつてゆきのじょうさんが書かれた評論が存在する。さらに、第26変奏は伊東さんが書かれた試聴記が存在する。どうやら、この変奏部分は、今回の天王山としての部分であろうと思われる。

 そこで、まず第25変奏のイェネー・ヤンドーについて特記しておきたい。ナクソスに膨大な録音を残しているヤンドーは、リスト音楽院の教授であり、一時期は日本の武蔵野音楽大学の客員教授も務めた経歴を持っているが、いかにも教育者でありながら、きわめてしっかりしたテクニックと普遍性を有する演奏家であり、かつ廉価盤でもあるので、仮に1枚だけ購入するならば、2003年録音という新しさも手伝って、このディスクが最もお薦めのディスクであると断言できる。

 つぎに、第28変奏の高橋悠治であるが、3回目の録音であり、ある種のぶっ飛び演奏であった過去の2回とは異なり、高橋を聴くなら私はこの最新盤をお薦めしたいと思う。なお、参考までに、高橋の第1回録音は、グールドの1955年録音を破る最短演奏時間記録を、かつて持っていた録音であった。

 また、第27変奏のイサカーゼに付言したい。彼女の演奏は、グールドの再来であるとの売り込みで発売された経緯があるが、過剰気味の装飾音や、必要以上のアゴーギクなど、グールドを意識する余り、結果的にバッハの持っている、本当にピュアな美しさが損なわれてしまっているように思える。グールドを意識し過ぎると嵌る罠なのであろう。そんな落とし穴に、もっとも完璧に嵌っているディスクであろうと思うのである。この演奏から、バッハも、ゴルトベルクも不在になってしまっていることに、果たして演奏者自身は気づいているのであろうか。

 さて、第24変奏のビイェルケであるが、私は、こちらもイサカーゼと同様の落とし穴に嵌っているように考えることも可能だとは思う。実際、そのように評価される方もおられるであろう。しかし、彼女がイサカーゼと異なる点は、彼女には演奏前に意識するような相手は、一切存在していないことに尽きるであろう。さらに彼女には、彼女を束縛するような音楽の歴史や伝統を有していない地域出身で、かつヨーロッパの出身でもある彼女には、一見好き放題に振舞っていながら、それにも関わらず、他の地域から見ると、亜流かも知れないが、ヨーロッパが築いた音楽観からは乖離していない演奏に思えるのである。これは、彼女だけではなく、北欧から多くの指揮者や演奏家が誕生している昨今の全体的特徴でもあろう。ようするに、かなり好き勝手なことをしているにも関わらず、その結果として聴き手は、不快感を持つことが無いのである。私は、彼女の演奏から学ぶべきヨーロッパ域外の演奏家は多いと信じる。

 続いて、第29変奏のディナースタインである。このアメリカ人女性の演奏は、正直なところ何の変哲も無い演奏である。しかし、何と聴き手に落ち着きを与えてくれる演奏なのであろう。男性は母親には絶対になれない。それゆえ、男性は母性本能に強くくすぐられるものである。ここから感じられる世界は、アメリカのセサミストリートの世界では無く、なぜか北欧のムーミンの世界である。ほのぼのとした世界が、眼前に広がる様は、なんとも例えようもない世界である。この点で、結果的に第24変奏のビイェルケと共通する世界が広がってくるのである。まさに、ゆきのじょうさんの慧眼だと言うしか無い。

 

■ シュタットフェルトの演奏について

 

 ここで、第26変奏のシュタットフェルトについて、独立した項目を立てたい。伊東さんが、試聴記を書かれたピアニストである。このシュタットフェルトと第26変奏の即興的変奏として、同年に録音されたタンスキを比較しながら書きたいと思う。なお、タンスキはブゾーニ版で当曲を弾いている。

 さて、私は現時点ではシュタットフェルトについて、前評判ほどの感動を持てないことを予め告白しておきたい。3年前のすみだトリフォニーホールでの、彼のゴルトベルク変奏曲を聴いたのだが、私が考える彼の最大の武器は、美音であろう。しかし、様式論などを持ち出すまでも無く、彼のバッハ演奏は、リストが編曲したバッハを聴いているような気分に陥ってくるのだ。バッハ自身が作曲している音楽であるにもかかわらず、バッハ自体が聴こえてこない、見えてこない。なぜだろう。

 こんなとき、タンスキのブゾーニ版での演奏を聴いて、一転して気分が爽快になった。タンスキは、ブゾーニがいじくったバッハの音楽を音にしているのだが、そこには聴き手もブゾーニ版を聴くぞという、ある種の覚悟が備わっているのだ。タンスキの繰り出す演奏は、現代には極めてレアなものかも知れないが、なんともいえない爽快感がもたらされた。

 ふたたび、シュタットフェルトに戻ろう。実は、彼が多用する楽譜よりオクターブ上の音型を鳴らす部分などは、ブゾーニ版を参考にしたものであって、コンサートでの即興ではないと思われる。これはこれで面白い。しかし、バッハ当時の様式を破る場合の破り方があり、これ自体まで反する場合は、コンサートでの即興としては許されると考えられる。ところが、彼は、コンサートとCDで同じ装飾や変更を加えていると考えられる。とすると、彼の演奏は、バッハの楽譜を予め彼自身が編曲したか、あるいは過去の様々な編曲や録音から学習した成果であろうと思うのである。

 実際のところ、シュタットフェルトの技術面の安定感は図抜けている。また、装飾や一見即興風の演奏も、部分部分は一理ある上、全体を通しての美音は、なんとも心地よい。それでも、私は彼が真に若いこともあるので、あえて言いたい。今後、作曲学と即興演奏を学習して欲しいと・・・

 

■ 第30変奏−アリア

 

 最後は、日本人と韓国人である。横山とイムの共通点は、ショパンコンクールの入賞者であることであろう。ところが、二人とも、ショパン演奏そのものに最大の適性があるかどうかは微妙であることも共通していると思われる。そんな、東洋人が、ショパンコンクールに入賞したことは、東洋人の西洋音楽のレヴェルが一段高いところに昇りつつあることを明らかにしていると思う。

 二人は、それぞれがそれぞれの方法論で、バッハを解釈し、ゴルトベルクを演奏している。これが、バッハやその他の様式に合致しているかどうかは、分からない。しかし、彼らの共通する美点は、様式に合致させようとしない代わりに、自分から破りに行くことも絶対にしないことに尽きるであろう。

 なお、最後に、私が単に感じることであるのだが、横山の演奏を含めたスタンスは、ある意味で一般的な日本人とは異なる大陸的な思考で貫かれているように見受けられる。一方のイムは、なぜか日本人受けのする演奏スタイルであるように思えてならないのだ。彼のゴルトベルクも、シャオメイ同様、この5月の熱狂の日の公演で、全曲演奏がなされた。私は、この演奏を非常に高く評価したいと思う。なぜなら、東洋人特有の勉強熱心さと、バッハの様式への敬意が、ともにイム自身の個性として開花していた、そんな演奏であったからであり、この演奏からは、グールドの影響をなんら感じさせなかったにも関わらず、グールド以前のヨーロッパ本流の演奏とも、はっきりと異なった世界を表出しえていたからである。素晴らしい演奏であったゆえ、この長大な文章の最後を飾らせていただいた次第である。

(2009年5月20日記す)

 

2009年5月23日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記