カテゴリー別アーカイブ: CD試聴記

ガーディナーによる「パーシー・グレインジャー作品集」を聴く

松本さんの「音を学び楽しむ、わが生涯より」に「ガーディナーによる「パーシー・グレインジャー作品集」を聴く」を追加しました。松本さん、原稿ありがとうございました。

ガーディナーではシューマンの交響曲全集が忘れられません。古楽奏法による演奏がよほど毛嫌いされているためなのか全く話題にもならないのですが、これほど刺激的で、シューマンの交響曲の面白さを味わわせてくれる録音はさほど多くはないでしょう。モーツァルトではおそらくは正しい演奏をしようという気構えが強く出過ぎてかえって退屈さを招いてしまったのに対し、シューマンは正しさなんて追求しなかったように思えます。世間的には、そのモーツァルトの印象が強く残ったのかもしれません。

(2019年8月1日)

カペレの演奏で、ビゼー「カルメン(ドイツ語歌唱)」を聴く

 

松本さんの「音を学び楽しむ、わが生涯より」に「カペレの演奏で、ビゼー「カルメン(ドイツ語歌唱)」を聴く」を追加しました。松本さん、原稿ありがとうございました。旧東ドイツ時代の録音には愛着を感じます。というよりたまらない魅力を感じます。もっとオペラを残してくれていたら良かったのにと思わざるを得ません。

(2019年4月14日)

ベートーヴェンの歌曲「愛されない男のため息、応えてくれる愛」WoO118を聴く

松本さんの「音を学び楽しむ、わが生涯より」に「ベートーヴェンの歌曲「愛されない男のため息、応えてくれる愛」WoO118を聴く」を追加しました。松本さん、原稿ありがとうございました。

この曲は題名だけを見ると深刻そうな印象を与えますが、聴いてみるとなんだかユーモラスで私は好きです。

(2018年12月20日)

シューベルト晩年のピアノトリオを聴く

久々にAn die Musikを更新しました。といいましても自分の原稿ではないのですが。

松本さんの「音を学び楽しむ、わが生涯より」に「シューベルト晩年のピアノトリオを聴く」を追加しました。松本さん、原稿ありがとうございました。

私がこの演奏の試聴記を書いた2015年には「お前、そんなに悲壮感が漂う文章を書いて公開してはいけない」と知人からお叱りを受けたものでした。しかし、今読んでみても加筆訂正すべきところはありませんでした。それ以来全く成長していないということかと少し複雑な気分です。

(2018年6月15日)

マゼールのマーラー:交響曲第1番に思う

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マーラー
交響曲第1番
ロリン・マゼール指揮ニューヨーク・フィルハーモニック
録音:2006年5月25-27日、ニューヨーク、エイヴリー・フィッシャー・ホールでのライブ
ニューヨーク・フィル自主制作(NYPFR06)

ニューヨークフィルからマゼールのマーラー録音が出ている。CDには「非売品」と書いてある。ニューヨーク・フィルのプロモーション用であって、商業録音ではないということらしい。しかし、それでも楽団側が公式にリリースするのだから、このCDはマゼールにとっても、ニューヨーク・フィルにとっても自信作であったに違いない。

確かに面白い。ショウ・ピースとしてのマーラーを聴きたい人には最高の演奏だろう。演奏はもはや歌舞伎的だ。ここぞというところでテンポを落とす、クライマックスの直前で長いパウゼを入れてためにためる。会場の聴衆はこの大見得をさぞかし喜んでいただろう。私も会場にいたならば欣喜雀躍していたに違いない。ニューヨークフィルは技術的にも優れていて、演奏の完成度はライブとはとても思えない水準だ。

音も現代的である。良く言えばとてもすてきな美しい音がする。こうした音がこ20年ほどの流行になっているようで、有名オーケストラによる自主制作盤でよく聴かれる音作りである。

しかし、このCDを聴いて私はいろいろなことを考えさせられてしまった。

まず、歌舞伎的な演奏についてだ。マゼールの演奏だから、私は何かをやるだろうとは予想していた。そして、予想通りというか、それを上回る歌舞伎的な演奏だった。私はそれを否定はしない。私自身が面白いと思って聴いたからだ。それも、笑いをこらえながら喜んで聴いたのだ。

問題は、私が笑ってしまうとか、吹き出してしまう、ということだ。なぜ笑ってしまいたくなるのだろう。私たちは今まで膨大な数のクラシック音楽の録音を聴いてきた。往年の大指揮者たちもいろいろなことをしてきている。それこそ、マゼールが採用した手法と同じものだって含まれている。しかし、その多くの場合、私はそれを歌舞伎的だと思っては聴いてこなかった。笑いもしない。真摯な音楽表現だと認識してきたのである。この差はどこから来るのだろう。

また、この現代的な音についてだ。最近の録音は、会場の空気感を重視するので、スピーカーの前にとても上品なふんわりとした優しい音が出現する。本当にすてきだし、美しい。しかし、それと引き替えに、演奏が持っていたであろう圧倒的なパワー・エネルギーは少なからず削り取られてしまっているように感じる。だから私は実際はもっと凄い音がしたのだろうと想像する。音は完全に収録できないものだとは分かってはいても、私は無い物ねだりをしてしまう習性が抜けない。困ったものである。

おっと、こんなケチをつけていては、楽しめるものも楽しめなくなってしまう。CDを聴いて考え込むのもほどほどにしておこう。

(2016年4月29日)

セルのベートーヴェン

私はセッション録音を好んで聴くし、90年代以降、安易に量産されたライブ録音盤には殆ど魅力を感じない。しかし、ライブ録音といっても指揮者とオーケストラの本気演奏は、どれほど古くても価値があると思う。

例えば、セルがシュターツカペレ・ドレスデンを指揮したCDだ。

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CD1
ベートーヴェン
「コリオラン」序曲 作品82
ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 作品73「皇帝」
ピアノ:ニキタ・マガロフ

交響曲第5番 ハ短調 作品67
録音:1961年8月6日、ザルツブルク、祝祭劇場におけるライブ
CD2
ベートーヴェン
「エグモント」序曲 作品84
ブルックナー
交響曲第3番 ニ短調
録音:1965年8月2日、ザルツブルク、祝祭劇場におけるライブ

ジョージ・セル指揮シュターツカペレ・ドレスデン
ANDANTE(輸入盤 AN2180)

セルには名盤が少なくないが、クリーブランド管弦楽団とのベートーヴェン録音についてはかねてから疑問符を付けていた。セルはオーケストラのコントロールを徹底しているから、その仕上がりは文句の付けようのないほど均整が取れている。しかし、それを聴いて身体が熱くなるような経験を私はしたことがないのである。演奏を聴いていると、楽団員が上司に睨まれながら仕事をこなしているのではないかとさえ思われることもあった。

ところが、このザルツブルクのライブ録音はどうだろう。オーケストラが喜んで演奏をした堂々のベートーヴェンである。コントロールという言葉が浮かぶ以前にベートーヴェンの音楽が私を燃え立たせる。指揮台に立っているのは本当に同じセルなのだろうか。

セルはシュターツカペレ・ドレスデンとは縁遠かった。これはザルツブルク音楽祭が産み出した特別な組み合わせなのだ。そういえば、セルは1969年にもザルツブルクでウィーン・フィルと熱狂的演奏を行っている。セルにとってウィーン・フィルはシュターツカペレ・ドレスデンよりは近い関係にあっただろうが、やはり他流試合であっただろう。そういうとき、セルはマジャールの血を燃えたぎらせてしまうらしい。こういう録音はもう出てこないのだろうか。ベートーヴェンの他の交響曲録音はないのか。

ひとつ疑問が生じた。セルはクリーブランドでのコンサートではどんなベートーヴェン演奏をしていたのだろう? セッション録音と似通った雰囲気の演奏だったのだろうか。もしかしたら、セッションとは別人になっていた可能性も否定できない。・・・などと私は妄想に耽っているのだが、その検証を実際にしてみたくてたまらなくなった。こういうのを正月ボケという。

(2016年1月5日)

ラトルのハイドン:交響曲第90番を聴く

私はハイドンが大好きである。その魅力にとらわれ、手に入れられる録音は片っ端から聴いた。交響曲全集は3種聴き通した。

ハイドンという、クリエイターとしては異常なほど健全な人格から生まれた交響曲はやはり健全極まりない。通常の音楽ファンに交響曲としてカウントされるは104曲あるが、それだけの数があるのに病んでいる曲はひとつもない。わずか10曲しかないのにその殆どが病んでいる作曲家もいることを考えると、ハイドンの健全さは際立つ。

健全なだけではない。注文主や聴衆を楽しませようという創意工夫が曲中に溢れている。たった一人の作曲家がよくもここまで同じジャンルで別の曲を作り続けられたものだと感心する。

具体的に見てみよう。

往年の指揮者ではカール・ベームがあの風貌に似合わず見事なハイドン演奏を聴かせる。ベームは職人として曲の勘所が分かったのだろう。現代の指揮者ではおそらく、サイモン・ラトルが随一だと私は睨んでいる。以下のCDは中でもとびきりの出来映えだ。特に第90番は必聴だ。

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ハイドン
交響曲第88番 ト長調
交響曲第89番 ヘ長調
交響曲第90番 ハ長調
交響曲第91番 変ホ長調
交響曲第92番 ト長調「オックスフォード」
シンフォニア・コンチェルタンテ 変ロ長調
サー・サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:2007年2月8-10,14-17日、ベルリン、フィルハーモニーにおけるライブ録音
EMI(輸入盤 3 94237 2)

ラトルはハイドンが好きらしく、バーミンガム市交響楽団時代にもハイドン録音を世に問うている。このCDに収録されている第90番に至っては再録音だ。しかし、こちらの方が圧倒的に面白い。

問題は第4楽章だ。一旦景気よく終わるのである。このCDはライブ録音されているから、そこで盛大な拍手が入る。しかし、終わりではない。ラトルはしれっとコーダ(と呼んでいいのか分からないが)をリピートするのである。リピートされたコーダは盛大に終わる。今度こそ全曲が終わったと思った聴衆はまた拍手をする。噂では、このときラトルは指揮棒を降ろしていたという。しかし、実は終わっていない。あろうことか、もう一度コーダを演奏するのである。会場は笑いとざわめきで一杯だ。

このアイディアは秀逸だ。ラトルのCDには、聴衆を2度も騙したライブ版だけでなく、真面目に、そして聴衆の拍手なしで演奏したセッション録音版も収録されている。どちらが面白いかは言うまでもない。私はハイドンがスコアにどんなふうに記しているのか知りたくて調べたこともあるが、ハイドンの交響曲第90番なんて曲はマイナーすぎて、そのスコアを自分の目で確認することはできなかった。私のような素人に「スコアを見てみたい」と思わせた曲はこの曲ぐらいなものである。本当にどうなっているのか見てみたい!

不思議なのは、この2度もある騙しのアイディアを、ベームはおろか誰も使っていないことだ。ラトルも旧盤では採用していない。なぜだろう。指揮者が知らないのか? そんなはずはない。指揮者も人とは違ったことをしたくないのか。それともこれはラトルが思いついた特殊な演奏方法だからか?

もっと多くの演奏家にハイドンを演奏してほしい。そして我々を楽しませてほしい。ハイドンの曲はそれを可能にする。私はラトルのこの演奏を聴いてラトルが好きになったし、ハイドンはもっと好きになった。もっと聴かれてもいいのに、と思う。

(2016年1月3日)

クーベリックのモーツァルトを聴く

1日から2日にかけてクーベリックのモーツァルト録音を聴いた。SONYへの録音は全6曲である。全曲を聴いても3時間はかからない。しかし、あっという間に聴き通すというわけにはいかなかった。本気で聴くには、聴く方にも相当のエネルギーが要求されるのである。1曲聴いては休み、真剣に聴いた。疲れたが、モーツァルトの音楽に浸りきることができたので満足した。

mozart_box_kubelik

Rafael Kubelik Conducts Great Symphonies  7CDから
モーツァルト
交響曲第35番 ニ長調 K.385「ハフナー」
交響曲第36番 ハ長調 K.425「リンツ」
交響曲第38番 ニ長調 K.504「プラハ」
交響曲第39番 変ホ長調 K543
交響曲第40番 ト短調 K.550
交響曲第41番 ハ長調 K.551「ジュピター」
ラファエル・クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団
録音:1980年6月、10月、ミュンヘン、ヘルクレスザール
SONY(輸入盤 88697884112)

1日に第38番「プラハ」、第39番、第35番「ハフナー」までを聴き、2日に第36番「リンツ」、第40番、第41番「ジュピター」を聴いた。モダン楽器によるひたすら美しいモーツァルトだった。豪快さや、重厚さを求める場合には他の指揮者・オーケストラとの演奏が俎上にのぼるだろうが、クーベリックのモーツァルトには光り輝くばかりの高貴さ、しなやかさ、格調高さがある。バイエルン放送交響楽団のアンサンブルは非常に精緻だ。このモーツァルト演奏は、いかにクーベリックが指揮しようとも、このオーケストラ抜きには成り立たなかっただろう。指揮とオーケストラが持てる力を発揮した総決算的な録音だ。また、モダン楽器によるモーツァルト演奏の最後の輝きを表した録音とも言える。

以下は余談である。

CDジャケットに掲載されているデータによると、録音は1980年の6月と10月に集中して行われている。

6月8日:第41番
6月9日:第35番
6月10日:第39番
10月15日:第36番
10月16日:第38番
10月17日:第40番

1日に1曲だ。私は1曲に数日かけているのではないかと思っていたのだが、これを見ると、1980年当時にはそんな時代がとうに終わっていたことが分かる。コンサートのリハーサルからの流れでセッションを組まなければセッション録音を行うことが難しかったのだろう。それでもセッション録音であることに変わりはない。

この時代の後、セッション録音は姿を消していく。大指揮者と名オーケストラのセッション録音だからこそこれだけ高品質の録音が完成したと私は考えているのだが、その後のクラシック音楽録音の歴史はライブでの録音に傾斜していく。その結果、夥しい数の録音が生産されたが、それらはクラシック音楽録音の資産となったのだろうか。演奏者や録音スタッフの労働時間短縮は実現したのかもしれないが、価値のないものが量産されるという皮肉な結果になっていないか。そして、今や、録音自体が減少している。

それともうひとつ。バイエルン放送響は、クーベリックの時代には数々の名録音を残した。名実ともに一流オーケストラであったが、その後はどうなのだろう。腕利きのオーケストラではある。技術的には数段向上したかもしれない。しかし、このオーケストラはクーベリックが去った後、これといった名盤を世に送り出していない。少なくとも、私は思いつかない。機能的な一流オーケストラには違いないのだが、このオーケストラはクーベリックあってこそのオーケストラだったのだ。クーベリックがいかに大きな音楽家であったかが窺い知れることである。

(2016年1月2日)

An die Musik D547

新年に何を聴くべきか。といっても私のCD棚には数えるほどのCDしか残っていない。その中から選ぶのは簡単だ。エリー・アメリングのシューベルトである。

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シューベルト
歌曲集
ソプラノ:エリー・アメリング
ピアノ:ダルトン・ボールドウィン
録音:1982年7月
PHILIPS(輸入盤 410 037-2)

冒頭の「音楽に寄せて An die Musik D547」は必聴である。今までこの曲を何回聴いたのか想像もつかないが、聴き直す度に感銘を受ける。

シューベルトは二十歳そこそこの年齢でこの曲を作った。信じられないことだ。それはまさに音楽史上の奇跡としかいいようがない。なぜなら、3分にも満たない曲の中に、人生の悲喜こもごもが凝縮されているからだ。どうして年端も行かぬ若者にそのような離れ業ができたのだろうか。シューベルトにしてみればショーバーの詩に軽く曲を付けただけだったのかもしれないが、後世の音楽ファンはこの曲を聴いて音楽を聴けるありがたさをしみじみと噛みしめているのである。

私はこの曲名をこのホームページのタイトルに使っている。ホームページ立ち上げ時には様々な名前が候補にのぼった。しかし、ひとたびこの曲を思い出すや、他のタイトルは考慮の対象にすらならなくなった。この曲は私の音楽に対する思いと完全に合致するからである。私は音楽を聴く時には、音そのものを楽しんだり、興奮したり、気分を落ち着けたりする。そして何より、音楽そのものが慰めだ。音楽がなければ、私の人生はどれだけ寂しいものになっただろうか。音楽はどんなときでも私の側にいてくれるのだ。その音楽に対する感謝がなくてどうして音楽を聴き続けることができるだろうか。「音楽に寄せて An die Musik」こそ音楽を聴く私のための音楽である。

(2016年1月1日)

2015年を振り返る

2015年を振り返ってみた。

2月には離婚が決定した。その後は、さいたま(浦和)の家を売るのと新居を探すのに奔走し、5月に東京都葛飾区の新小岩に引っ越してきた。心機一転のために新小岩に引っ越してきたのは正解だった。人生をやり直すのにこれ以上の場所はなかったと思う。

以下、思いつくままに今年を総括してみる。

1.読書について

私は読書を趣味のひとつにしているが、さすがにこれだけ環境の激変があると読書に集中できない。今年読んだ本の数はわずか326冊だった。こればかりは致し方ない。来年は読書の質を高めることを最優先にしよう。

2.CDについて

オーディオルームのある一軒家から普通のマンションに引っ越してきたためにオーディオ環境はかなり悪化した・・・はずなのだが、いろいろ手を入れていって快適に音楽を聴ける環境ができてきた。階下の住人のことを考えると大音量は出せないが、まずまずの音にはなったと思う。また、転居によって精神的重圧から解放されたことも大きくて、音楽の楽しみ方がちょうどこのホームページAn die Musikを立ち上げた頃のような喜びに満ちたものになった。

今年最後に聴いたクラシックはALTUSのCDだ。まずはクナッパーツブッシュのアルペン交響曲。

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R.シュトラウス
交響詩「死と変容」作品24
アルプス交響曲 作品64
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1958年11月9日、1952年4月20日、ウィーン、ムジークフェラインザールにおけるライブ録音
ALTUS(国内盤 ALT074)

この「アルペン」ではクナッパーツブッシュらしい雄大な演奏が聴ける。日の出とともに豪快に山登りを始めたクナは山頂から下山する際にも自然の猛威と徹底抗戦して帰る。さすがクナだねえ。古いモノラル録音の割に臨場感のある音で聴けるのが嬉しい。

もうひとつ。こちらはシューリヒトのブラームスだ。

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シューベルト
交響曲第5番 変ロ長調 D485
ブラームス
交響曲第4番 ホ短調 作品98
カール・シューリヒト指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1965年4月24日、ウィーン、ムジークフェラインザールにおけるライブ録音
ALTUS(国内盤 ALT070)

こんな演奏が残っていたとは。ライブ録音なのでモノラルだが、それでもウィーン・フィルの音を堪能できる。弦の音がとにかくすごい。最初の音で引き込まれる。1965年だから、そんなに古い時代でもないのだが、こんなとてつもない音が出せるオーケストラだったのだと認識を新たにした。シューリヒト引退間際の大名演である。

3.LPについて

ここからは笑い話だ。今年私はLPを買った。セルのワーグナーである。

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ワーグナー
楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲
歌劇「タンホイザー」序曲
歌劇「さまよえるオランダ人」序曲
「ファウスト」序曲
歌劇「ローエングリン」第1幕への前奏曲
歌劇「リエンツィ」序曲
楽劇「ニーベルングの指輪」ハイライト
楽劇「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死
ジョージ・セル指揮クリーブランド管弦楽団
録音:1962年~68年、クリ-ブランド、セヴェランス・ホール
COLUMBIA(輸入盤 D3M 32317)

衝動的に買ってしまった。私が最後に買ったLPはビリー・ジョエルの「イノセント・マン」だった。1983年のことである。つまり、32年ぶりにLPを買ったことになる。私はLPさえ買えば、後はヤフオクか何かで廉価なLPプレーヤーを買ってどこかにしつらえれば聴けると踏んでいた。

ところが、私が現在使っているアンプにはフォノ端子がないのである。フォノ端子が付いているラックスのアンプL-509sは転居時に処分してきたのだ。何ということだろう。フォノ端子がないアンプにはフォノイコライザーを買って付けなければならないらしい。私がLPを買ったことを知った友人たちは、「伊東は一体何を考えとるのだ?」と笑っている。それはそうだ。自分でも笑ってしまうんだから。無知とは恐ろしい。

このLPをどうするか。ジャケットを飾るだけにして後のことは諦めるのも選択肢にはある。別の展開もあり得る。LPを聴く環境を整えることもできるのだ。もしかしたら、来年末にはLPを我が家でじゃんじゃん聴いているなんて夢のようなこともあり得るかもしれない。1年後のことなんてどうなるか分からないが、楽しく音楽が聴ければそれでいいだろう。

それでは皆さん、良いお年をお迎えください。

(2015年12月31日)

ブルックナー演奏に思うこと

前回、レーグナー指揮のブルックナー/交響曲第5番のCDを借りた際、もう1枚同じ曲のCDを借りていた。クナ盤である。世に名高いシャルク改訂版による録音である。

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ブルックナー
交響曲第5番 変ロ長調(改訂版)
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1956年6月
DECCA(国内盤 KICC 8424)

レーグナーの真面目な演奏を聴いた後だと、クナ盤にはたじろぐ。というより、真面目に聴いていられない。私は25年ぶりくらいにこのCDを聴いたが、久々に耳にするシャルク改訂版は途方もない編曲だった。これはブルックナーの曲なのか?

交響曲第5番はブルックナーとしても会心の作品だった。この作曲家につきものの迷いがない。紛う方なき名曲であり、傑作である。そうした曲には名演奏も現れる。例えば、ヨッフム指揮コンセルトヘボウ管によるライブ録音(1964年3月、オットーボイレン修道院、PHILIPS)だ。神々しい演奏である。ヨッフム盤を聴くと、何か現実を超越したものを感じる。しかし、クナの演奏には神々しさはない。これは断言しよう。シャルク改訂版では金管楽器による旋律線を弦楽器で浮き立たせたり、派手にシンバルを投入したりと驚きを禁じ得ない。神々しさがない代わりに庶民の日常生活感が伝わってくるような音楽になっている。それも一興ではある。

この演奏を、2015年に生きるクラシックマニアが聴くから驚くのである。クナがウィーン・フィルを従えて堂々と演奏している1956年当時はどうだったのだろう。シャルク改訂版のアイディアに聴衆は大喜びしたのではないだろうか。クナも、自分が使っている版がどのようなものかを知った上で演奏し、録音したはずである。つまり、クナにとっては原典版よりシャルク改訂版が現実的な選択肢だったのである。

こうした演奏を聴くと、ブルックナーは往年の指揮者たちに大作曲家として認められていなかったのではないかと思わざるを得ない。今回はたまたまクナの交響曲第5番を聴いたからこの演奏が俎上にのぼったわけだが、往年の大指揮者たちが必ずしもブルックナーに大作曲家としての敬意を払っているようには感じられないことがある。ブルックナーの交響曲には霊感に満ちた部分が少なくないが、時として、霊感を感じられない演奏を耳にする。あえて例を挙げるが、ワルターのブルックナーがそうだ。モーツァルトではどのオーケストラを指揮しても比類のない演奏をしてきたワルターも、ブルックナーはそうではなかった。アメリカのオーケストラだからブルックナーを表現しきれなかったのではないかと私は常々考えていたのだが、どうもそうではないのだ。ウィーン・フィルを指揮した演奏を聴いてもなお作曲家への特別な愛情は感じられなかった。ワルターと並ぶマーラー門下のクレンペラーに至っては、交響曲第8番の録音に際し、第4楽章の一部を大胆にもカットしている。これ以上作曲家に対する冷淡さを例証する事例はない。

往年の大指揮者たちに、ブルックナーは身近すぎたのだろうか。オーストリアの作曲家だから親近感はあったろう。しかし、親近感はあっても、心からの尊敬があったのかどうかは疑わしい。「面白い作曲家なんだ。でもね、ちょっと手を入れてあげた方が良くないかね」程度の認識だったかもしれない。

過去の大指揮者たちの後の世代のブルックナーはどうだろう。これは名盤が目白押しだ。名演奏かどうかとは至極主観的な印象で決まるのだから、あまり決めつけるわけにはいかないが、それでもブルックナー演奏ばかりは、1960年代以降からが本当に良い演奏と録音が生まれた時代だ。ちょうどその頃から、指揮者たちがブルックナーという作曲家とある程度時間を置いて接し、真に尊敬の念を持つようになったからではないかと私は考えている。

(2015年11月3日)

レーグナーのブルックナー

図書館のデータベースを検索していると、昔懐かしハインツ・レーグナーのブルックナーが登録されていたので思わずクリック。

ブルックナー
交響曲第5番 変ロ長調
ハインツ・レーグナー指揮ベルリン放送管弦楽団
録音:1983年9月~1984年1月、ベルリン放送局
Deutsche Schallplatten(国内盤 32TC-98)

CDジャケットを掲載できないのが残念だが、最初の国内盤CDである。

以前私はレーグナーのCDをかなり所有していた。徳間からリマスタリング盤が発売された際には、その殆どを購入した。しかし、上記CDを聴いていると、私は最初に発売されたこのCDをスピーカーを通しては一度も聴いていないことに気がついた。

購入当時、私は会社の寮に入っていた。独房のような狭い部屋であった。そこにオーディオセットを持ち込んだので部屋はますます狭くなり、居住性は最悪であった。しかも、事実上音を出せない。仕方なくヘッドフォンを使ってCDを聴いていたのである。これもそうした時期に集中して何度も聴いたCDのひとつであった。

懐かしいCDではあるのだが、今聴き返してみても、演奏に圧倒的な説得力があるわけではなく、オーケストラに際立った魅力があるわけでもない。それでも、今回はスピーカーから音を出しているだけに、この録音に対しては30年近く前とはかなり違った印象を受ける。音が清冽なのである。演奏者たちが丁寧に演奏して、それを録音スタッフが丁寧に収録したということがいとも容易に想像できる。ああ、これは旧東ドイツの職人たちの仕事なのだと認識させられるのである。

演奏時間を見ると、全曲で69分だから、ブルックナーの交響曲第5番としては短い部類に入るだろう。しかし、この清冽な音を楽しむには十分な時間だ。かつて私が使っていたヘッドフォンではこのCDの演奏は分かっても、音は良く分からなかったのだ。こんな素敵な音が入っていたとはね。意外にも音そのものを楽しめたので私は大満足だった。レーグナーの他の演奏も是非聴き直してみたいと思ったが、彼が残したブルックナーもマーラーも図書館には架蔵されていなかった。ブルックナーの交響曲第5番は偶然架蔵されたものだったのだろう。これが聴けただけでも御の字としよう。

(2015年11月1日)