カテゴリー別アーカイブ: CD試聴記

マゼールのマーラー:交響曲第1番に思う

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マーラー
交響曲第1番
ロリン・マゼール指揮ニューヨーク・フィルハーモニック
録音:2006年5月25-27日、ニューヨーク、エイヴリー・フィッシャー・ホールでのライブ
ニューヨーク・フィル自主制作(NYPFR06)

ニューヨークフィルからマゼールのマーラー録音が出ている。CDには「非売品」と書いてある。ニューヨーク・フィルのプロモーション用であって、商業録音ではないということらしい。しかし、それでも楽団側が公式にリリースするのだから、このCDはマゼールにとっても、ニューヨーク・フィルにとっても自信作であったに違いない。

確かに面白い。ショウ・ピースとしてのマーラーを聴きたい人には最高の演奏だろう。演奏はもはや歌舞伎的だ。ここぞというところでテンポを落とす、クライマックスの直前で長いパウゼを入れてためにためる。会場の聴衆はこの大見得をさぞかし喜んでいただろう。私も会場にいたならば欣喜雀躍していたに違いない。ニューヨークフィルは技術的にも優れていて、演奏の完成度はライブとはとても思えない水準だ。

音も現代的である。良く言えばとてもすてきな美しい音がする。こうした音がこ20年ほどの流行になっているようで、有名オーケストラによる自主制作盤でよく聴かれる音作りである。

しかし、このCDを聴いて私はいろいろなことを考えさせられてしまった。

まず、歌舞伎的な演奏についてだ。マゼールの演奏だから、私は何かをやるだろうとは予想していた。そして、予想通りというか、それを上回る歌舞伎的な演奏だった。私はそれを否定はしない。私自身が面白いと思って聴いたからだ。それも、笑いをこらえながら喜んで聴いたのだ。

問題は、私が笑ってしまうとか、吹き出してしまう、ということだ。なぜ笑ってしまいたくなるのだろう。私たちは今まで膨大な数のクラシック音楽の録音を聴いてきた。往年の大指揮者たちもいろいろなことをしてきている。それこそ、マゼールが採用した手法と同じものだって含まれている。しかし、その多くの場合、私はそれを歌舞伎的だと思っては聴いてこなかった。笑いもしない。真摯な音楽表現だと認識してきたのである。この差はどこから来るのだろう。

また、この現代的な音についてだ。最近の録音は、会場の空気感を重視するので、スピーカーの前にとても上品なふんわりとした優しい音が出現する。本当にすてきだし、美しい。しかし、それと引き替えに、演奏が持っていたであろう圧倒的なパワー・エネルギーは少なからず削り取られてしまっているように感じる。だから私は実際はもっと凄い音がしたのだろうと想像する。音は完全に収録できないものだとは分かってはいても、私は無い物ねだりをしてしまう習性が抜けない。困ったものである。

おっと、こんなケチをつけていては、楽しめるものも楽しめなくなってしまう。CDを聴いて考え込むのもほどほどにしておこう。

(2016年4月29日)

セルのベートーヴェン

私はセッション録音を好んで聴くし、90年代以降、安易に量産されたライブ録音盤には殆ど魅力を感じない。しかし、ライブ録音といっても指揮者とオーケストラの本気演奏は、どれほど古くても価値があると思う。

例えば、セルがシュターツカペレ・ドレスデンを指揮したCDだ。

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CD1
ベートーヴェン
「コリオラン」序曲 作品82
ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 作品73「皇帝」
ピアノ:ニキタ・マガロフ

交響曲第5番 ハ短調 作品67
録音:1961年8月6日、ザルツブルク、祝祭劇場におけるライブ
CD2
ベートーヴェン
「エグモント」序曲 作品84
ブルックナー
交響曲第3番 ニ短調
録音:1965年8月2日、ザルツブルク、祝祭劇場におけるライブ

ジョージ・セル指揮シュターツカペレ・ドレスデン
ANDANTE(輸入盤 AN2180)

セルには名盤が少なくないが、クリーブランド管弦楽団とのベートーヴェン録音についてはかねてから疑問符を付けていた。セルはオーケストラのコントロールを徹底しているから、その仕上がりは文句の付けようのないほど均整が取れている。しかし、それを聴いて身体が熱くなるような経験を私はしたことがないのである。演奏を聴いていると、楽団員が上司に睨まれながら仕事をこなしているのではないかとさえ思われることもあった。

ところが、このザルツブルクのライブ録音はどうだろう。オーケストラが喜んで演奏をした堂々のベートーヴェンである。コントロールという言葉が浮かぶ以前にベートーヴェンの音楽が私を燃え立たせる。指揮台に立っているのは本当に同じセルなのだろうか。

セルはシュターツカペレ・ドレスデンとは縁遠かった。これはザルツブルク音楽祭が産み出した特別な組み合わせなのだ。そういえば、セルは1969年にもザルツブルクでウィーン・フィルと熱狂的演奏を行っている。セルにとってウィーン・フィルはシュターツカペレ・ドレスデンよりは近い関係にあっただろうが、やはり他流試合であっただろう。そういうとき、セルはマジャールの血を燃えたぎらせてしまうらしい。こういう録音はもう出てこないのだろうか。ベートーヴェンの他の交響曲録音はないのか。

ひとつ疑問が生じた。セルはクリーブランドでのコンサートではどんなベートーヴェン演奏をしていたのだろう? セッション録音と似通った雰囲気の演奏だったのだろうか。もしかしたら、セッションとは別人になっていた可能性も否定できない。・・・などと私は妄想に耽っているのだが、その検証を実際にしてみたくてたまらなくなった。こういうのを正月ボケという。

(2016年1月5日)

ラトルのハイドン:交響曲第90番を聴く

私はハイドンが大好きである。その魅力にとらわれ、手に入れられる録音は片っ端から聴いた。交響曲全集は3種聴き通した。

ハイドンという、クリエイターとしては異常なほど健全な人格から生まれた交響曲はやはり健全極まりない。通常の音楽ファンに交響曲としてカウントされるは104曲あるが、それだけの数があるのに病んでいる曲はひとつもない。わずか10曲しかないのにその殆どが病んでいる作曲家もいることを考えると、ハイドンの健全さは際立つ。

健全なだけではない。注文主や聴衆を楽しませようという創意工夫が曲中に溢れている。たった一人の作曲家がよくもここまで同じジャンルで別の曲を作り続けられたものだと感心する。

具体的に見てみよう。

往年の指揮者ではカール・ベームがあの風貌に似合わず見事なハイドン演奏を聴かせる。ベームは職人として曲の勘所が分かったのだろう。現代の指揮者ではおそらく、サイモン・ラトルが随一だと私は睨んでいる。以下のCDは中でもとびきりの出来映えだ。特に第90番は必聴だ。

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ハイドン
交響曲第88番 ト長調
交響曲第89番 ヘ長調
交響曲第90番 ハ長調
交響曲第91番 変ホ長調
交響曲第92番 ト長調「オックスフォード」
シンフォニア・コンチェルタンテ 変ロ長調
サー・サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:2007年2月8-10,14-17日、ベルリン、フィルハーモニーにおけるライブ録音
EMI(輸入盤 3 94237 2)

ラトルはハイドンが好きらしく、バーミンガム市交響楽団時代にもハイドン録音を世に問うている。このCDに収録されている第90番に至っては再録音だ。しかし、こちらの方が圧倒的に面白い。

問題は第4楽章だ。一旦景気よく終わるのである。このCDはライブ録音されているから、そこで盛大な拍手が入る。しかし、終わりではない。ラトルはしれっとコーダ(と呼んでいいのか分からないが)をリピートするのである。リピートされたコーダは盛大に終わる。今度こそ全曲が終わったと思った聴衆はまた拍手をする。噂では、このときラトルは指揮棒を降ろしていたという。しかし、実は終わっていない。あろうことか、もう一度コーダを演奏するのである。会場は笑いとざわめきで一杯だ。

このアイディアは秀逸だ。ラトルのCDには、聴衆を2度も騙したライブ版だけでなく、真面目に、そして聴衆の拍手なしで演奏したセッション録音版も収録されている。どちらが面白いかは言うまでもない。私はハイドンがスコアにどんなふうに記しているのか知りたくて調べたこともあるが、ハイドンの交響曲第90番なんて曲はマイナーすぎて、そのスコアを自分の目で確認することはできなかった。私のような素人に「スコアを見てみたい」と思わせた曲はこの曲ぐらいなものである。本当にどうなっているのか見てみたい!

不思議なのは、この2度もある騙しのアイディアを、ベームはおろか誰も使っていないことだ。ラトルも旧盤では採用していない。なぜだろう。指揮者が知らないのか? そんなはずはない。指揮者も人とは違ったことをしたくないのか。それともこれはラトルが思いついた特殊な演奏方法だからか?

もっと多くの演奏家にハイドンを演奏してほしい。そして我々を楽しませてほしい。ハイドンの曲はそれを可能にする。私はラトルのこの演奏を聴いてラトルが好きになったし、ハイドンはもっと好きになった。もっと聴かれてもいいのに、と思う。

(2016年1月3日)

クーベリックのモーツァルトを聴く

1日から2日にかけてクーベリックのモーツァルト録音を聴いた。SONYへの録音は全6曲である。全曲を聴いても3時間はかからない。しかし、あっという間に聴き通すというわけにはいかなかった。本気で聴くには、聴く方にも相当のエネルギーが要求されるのである。1曲聴いては休み、真剣に聴いた。疲れたが、モーツァルトの音楽に浸りきることができたので満足した。

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Rafael Kubelik Conducts Great Symphonies  7CDから
モーツァルト
交響曲第35番 ニ長調 K.385「ハフナー」
交響曲第36番 ハ長調 K.425「リンツ」
交響曲第38番 ニ長調 K.504「プラハ」
交響曲第39番 変ホ長調 K543
交響曲第40番 ト短調 K.550
交響曲第41番 ハ長調 K.551「ジュピター」
ラファエル・クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団
録音:1980年6月、10月、ミュンヘン、ヘルクレスザール
SONY(輸入盤 88697884112)

1日に第38番「プラハ」、第39番、第35番「ハフナー」までを聴き、2日に第36番「リンツ」、第40番、第41番「ジュピター」を聴いた。モダン楽器によるひたすら美しいモーツァルトだった。豪快さや、重厚さを求める場合には他の指揮者・オーケストラとの演奏が俎上にのぼるだろうが、クーベリックのモーツァルトには光り輝くばかりの高貴さ、しなやかさ、格調高さがある。バイエルン放送交響楽団のアンサンブルは非常に精緻だ。このモーツァルト演奏は、いかにクーベリックが指揮しようとも、このオーケストラ抜きには成り立たなかっただろう。指揮とオーケストラが持てる力を発揮した総決算的な録音だ。また、モダン楽器によるモーツァルト演奏の最後の輝きを表した録音とも言える。

以下は余談である。

CDジャケットに掲載されているデータによると、録音は1980年の6月と10月に集中して行われている。

6月8日:第41番
6月9日:第35番
6月10日:第39番
10月15日:第36番
10月16日:第38番
10月17日:第40番

1日に1曲だ。私は1曲に数日かけているのではないかと思っていたのだが、これを見ると、1980年当時にはそんな時代がとうに終わっていたことが分かる。コンサートのリハーサルからの流れでセッションを組まなければセッション録音を行うことが難しかったのだろう。それでもセッション録音であることに変わりはない。

この時代の後、セッション録音は姿を消していく。大指揮者と名オーケストラのセッション録音だからこそこれだけ高品質の録音が完成したと私は考えているのだが、その後のクラシック音楽録音の歴史はライブでの録音に傾斜していく。その結果、夥しい数の録音が生産されたが、それらはクラシック音楽録音の資産となったのだろうか。演奏者や録音スタッフの労働時間短縮は実現したのかもしれないが、価値のないものが量産されるという皮肉な結果になっていないか。そして、今や、録音自体が減少している。

それともうひとつ。バイエルン放送響は、クーベリックの時代には数々の名録音を残した。名実ともに一流オーケストラであったが、その後はどうなのだろう。腕利きのオーケストラではある。技術的には数段向上したかもしれない。しかし、このオーケストラはクーベリックが去った後、これといった名盤を世に送り出していない。少なくとも、私は思いつかない。機能的な一流オーケストラには違いないのだが、このオーケストラはクーベリックあってこそのオーケストラだったのだ。クーベリックがいかに大きな音楽家であったかが窺い知れることである。

(2016年1月2日)

An die Musik D547

新年に何を聴くべきか。といっても私のCD棚には数えるほどのCDしか残っていない。その中から選ぶのは簡単だ。エリー・アメリングのシューベルトである。

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シューベルト
歌曲集
ソプラノ:エリー・アメリング
ピアノ:ダルトン・ボールドウィン
録音:1982年7月
PHILIPS(輸入盤 410 037-2)

冒頭の「音楽に寄せて An die Musik D547」は必聴である。今までこの曲を何回聴いたのか想像もつかないが、聴き直す度に感銘を受ける。

シューベルトは二十歳そこそこの年齢でこの曲を作った。信じられないことだ。それはまさに音楽史上の奇跡としかいいようがない。なぜなら、3分にも満たない曲の中に、人生の悲喜こもごもが凝縮されているからだ。どうして年端も行かぬ若者にそのような離れ業ができたのだろうか。シューベルトにしてみればショーバーの詩に軽く曲を付けただけだったのかもしれないが、後世の音楽ファンはこの曲を聴いて音楽を聴けるありがたさをしみじみと噛みしめているのである。

私はこの曲名をこのホームページのタイトルに使っている。ホームページ立ち上げ時には様々な名前が候補にのぼった。しかし、ひとたびこの曲を思い出すや、他のタイトルは考慮の対象にすらならなくなった。この曲は私の音楽に対する思いと完全に合致するからである。私は音楽を聴く時には、音そのものを楽しんだり、興奮したり、気分を落ち着けたりする。そして何より、音楽そのものが慰めだ。音楽がなければ、私の人生はどれだけ寂しいものになっただろうか。音楽はどんなときでも私の側にいてくれるのだ。その音楽に対する感謝がなくてどうして音楽を聴き続けることができるだろうか。「音楽に寄せて An die Musik」こそ音楽を聴く私のための音楽である。

(2016年1月1日)

2015年を振り返る

2015年を振り返ってみた。

2月には離婚が決定した。その後は、さいたま(浦和)の家を売るのと新居を探すのに奔走し、5月に東京都葛飾区の新小岩に引っ越してきた。心機一転のために新小岩に引っ越してきたのは正解だった。人生をやり直すのにこれ以上の場所はなかったと思う。

以下、思いつくままに今年を総括してみる。

1.読書について

私は読書を趣味のひとつにしているが、さすがにこれだけ環境の激変があると読書に集中できない。今年読んだ本の数はわずか326冊だった。こればかりは致し方ない。来年は読書の質を高めることを最優先にしよう。

2.CDについて

オーディオルームのある一軒家から普通のマンションに引っ越してきたためにオーディオ環境はかなり悪化した・・・はずなのだが、いろいろ手を入れていって快適に音楽を聴ける環境ができてきた。階下の住人のことを考えると大音量は出せないが、まずまずの音にはなったと思う。また、転居によって精神的重圧から解放されたことも大きくて、音楽の楽しみ方がちょうどこのホームページAn die Musikを立ち上げた頃のような喜びに満ちたものになった。

今年最後に聴いたクラシックはALTUSのCDだ。まずはクナッパーツブッシュのアルペン交響曲。

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R.シュトラウス
交響詩「死と変容」作品24
アルプス交響曲 作品64
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1958年11月9日、1952年4月20日、ウィーン、ムジークフェラインザールにおけるライブ録音
ALTUS(国内盤 ALT074)

この「アルペン」ではクナッパーツブッシュらしい雄大な演奏が聴ける。日の出とともに豪快に山登りを始めたクナは山頂から下山する際にも自然の猛威と徹底抗戦して帰る。さすがクナだねえ。古いモノラル録音の割に臨場感のある音で聴けるのが嬉しい。

もうひとつ。こちらはシューリヒトのブラームスだ。

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シューベルト
交響曲第5番 変ロ長調 D485
ブラームス
交響曲第4番 ホ短調 作品98
カール・シューリヒト指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1965年4月24日、ウィーン、ムジークフェラインザールにおけるライブ録音
ALTUS(国内盤 ALT070)

こんな演奏が残っていたとは。ライブ録音なのでモノラルだが、それでもウィーン・フィルの音を堪能できる。弦の音がとにかくすごい。最初の音で引き込まれる。1965年だから、そんなに古い時代でもないのだが、こんなとてつもない音が出せるオーケストラだったのだと認識を新たにした。シューリヒト引退間際の大名演である。

3.LPについて

ここからは笑い話だ。今年私はLPを買った。セルのワーグナーである。

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ワーグナー
楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲
歌劇「タンホイザー」序曲
歌劇「さまよえるオランダ人」序曲
「ファウスト」序曲
歌劇「ローエングリン」第1幕への前奏曲
歌劇「リエンツィ」序曲
楽劇「ニーベルングの指輪」ハイライト
楽劇「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死
ジョージ・セル指揮クリーブランド管弦楽団
録音:1962年~68年、クリ-ブランド、セヴェランス・ホール
COLUMBIA(輸入盤 D3M 32317)

衝動的に買ってしまった。私が最後に買ったLPはビリー・ジョエルの「イノセント・マン」だった。1983年のことである。つまり、32年ぶりにLPを買ったことになる。私はLPさえ買えば、後はヤフオクか何かで廉価なLPプレーヤーを買ってどこかにしつらえれば聴けると踏んでいた。

ところが、私が現在使っているアンプにはフォノ端子がないのである。フォノ端子が付いているラックスのアンプL-509sは転居時に処分してきたのだ。何ということだろう。フォノ端子がないアンプにはフォノイコライザーを買って付けなければならないらしい。私がLPを買ったことを知った友人たちは、「伊東は一体何を考えとるのだ?」と笑っている。それはそうだ。自分でも笑ってしまうんだから。無知とは恐ろしい。

このLPをどうするか。ジャケットを飾るだけにして後のことは諦めるのも選択肢にはある。別の展開もあり得る。LPを聴く環境を整えることもできるのだ。もしかしたら、来年末にはLPを我が家でじゃんじゃん聴いているなんて夢のようなこともあり得るかもしれない。1年後のことなんてどうなるか分からないが、楽しく音楽が聴ければそれでいいだろう。

それでは皆さん、良いお年をお迎えください。

(2015年12月31日)

ブルックナー演奏に思うこと

前回、レーグナー指揮のブルックナー/交響曲第5番のCDを借りた際、もう1枚同じ曲のCDを借りていた。クナ盤である。世に名高いシャルク改訂版による録音である。

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ブルックナー
交響曲第5番 変ロ長調(改訂版)
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1956年6月
DECCA(国内盤 KICC 8424)

レーグナーの真面目な演奏を聴いた後だと、クナ盤にはたじろぐ。というより、真面目に聴いていられない。私は25年ぶりくらいにこのCDを聴いたが、久々に耳にするシャルク改訂版は途方もない編曲だった。これはブルックナーの曲なのか?

交響曲第5番はブルックナーとしても会心の作品だった。この作曲家につきものの迷いがない。紛う方なき名曲であり、傑作である。そうした曲には名演奏も現れる。例えば、ヨッフム指揮コンセルトヘボウ管によるライブ録音(1964年3月、オットーボイレン修道院、PHILIPS)だ。神々しい演奏である。ヨッフム盤を聴くと、何か現実を超越したものを感じる。しかし、クナの演奏には神々しさはない。これは断言しよう。シャルク改訂版では金管楽器による旋律線を弦楽器で浮き立たせたり、派手にシンバルを投入したりと驚きを禁じ得ない。神々しさがない代わりに庶民の日常生活感が伝わってくるような音楽になっている。それも一興ではある。

この演奏を、2015年に生きるクラシックマニアが聴くから驚くのである。クナがウィーン・フィルを従えて堂々と演奏している1956年当時はどうだったのだろう。シャルク改訂版のアイディアに聴衆は大喜びしたのではないだろうか。クナも、自分が使っている版がどのようなものかを知った上で演奏し、録音したはずである。つまり、クナにとっては原典版よりシャルク改訂版が現実的な選択肢だったのである。

こうした演奏を聴くと、ブルックナーは往年の指揮者たちに大作曲家として認められていなかったのではないかと思わざるを得ない。今回はたまたまクナの交響曲第5番を聴いたからこの演奏が俎上にのぼったわけだが、往年の大指揮者たちが必ずしもブルックナーに大作曲家としての敬意を払っているようには感じられないことがある。ブルックナーの交響曲には霊感に満ちた部分が少なくないが、時として、霊感を感じられない演奏を耳にする。あえて例を挙げるが、ワルターのブルックナーがそうだ。モーツァルトではどのオーケストラを指揮しても比類のない演奏をしてきたワルターも、ブルックナーはそうではなかった。アメリカのオーケストラだからブルックナーを表現しきれなかったのではないかと私は常々考えていたのだが、どうもそうではないのだ。ウィーン・フィルを指揮した演奏を聴いてもなお作曲家への特別な愛情は感じられなかった。ワルターと並ぶマーラー門下のクレンペラーに至っては、交響曲第8番の録音に際し、第4楽章の一部を大胆にもカットしている。これ以上作曲家に対する冷淡さを例証する事例はない。

往年の大指揮者たちに、ブルックナーは身近すぎたのだろうか。オーストリアの作曲家だから親近感はあったろう。しかし、親近感はあっても、心からの尊敬があったのかどうかは疑わしい。「面白い作曲家なんだ。でもね、ちょっと手を入れてあげた方が良くないかね」程度の認識だったかもしれない。

過去の大指揮者たちの後の世代のブルックナーはどうだろう。これは名盤が目白押しだ。名演奏かどうかとは至極主観的な印象で決まるのだから、あまり決めつけるわけにはいかないが、それでもブルックナー演奏ばかりは、1960年代以降からが本当に良い演奏と録音が生まれた時代だ。ちょうどその頃から、指揮者たちがブルックナーという作曲家とある程度時間を置いて接し、真に尊敬の念を持つようになったからではないかと私は考えている。

(2015年11月3日)

レーグナーのブルックナー

図書館のデータベースを検索していると、昔懐かしハインツ・レーグナーのブルックナーが登録されていたので思わずクリック。

ブルックナー
交響曲第5番 変ロ長調
ハインツ・レーグナー指揮ベルリン放送管弦楽団
録音:1983年9月~1984年1月、ベルリン放送局
Deutsche Schallplatten(国内盤 32TC-98)

CDジャケットを掲載できないのが残念だが、最初の国内盤CDである。

以前私はレーグナーのCDをかなり所有していた。徳間からリマスタリング盤が発売された際には、その殆どを購入した。しかし、上記CDを聴いていると、私は最初に発売されたこのCDをスピーカーを通しては一度も聴いていないことに気がついた。

購入当時、私は会社の寮に入っていた。独房のような狭い部屋であった。そこにオーディオセットを持ち込んだので部屋はますます狭くなり、居住性は最悪であった。しかも、事実上音を出せない。仕方なくヘッドフォンを使ってCDを聴いていたのである。これもそうした時期に集中して何度も聴いたCDのひとつであった。

懐かしいCDではあるのだが、今聴き返してみても、演奏に圧倒的な説得力があるわけではなく、オーケストラに際立った魅力があるわけでもない。それでも、今回はスピーカーから音を出しているだけに、この録音に対しては30年近く前とはかなり違った印象を受ける。音が清冽なのである。演奏者たちが丁寧に演奏して、それを録音スタッフが丁寧に収録したということがいとも容易に想像できる。ああ、これは旧東ドイツの職人たちの仕事なのだと認識させられるのである。

演奏時間を見ると、全曲で69分だから、ブルックナーの交響曲第5番としては短い部類に入るだろう。しかし、この清冽な音を楽しむには十分な時間だ。かつて私が使っていたヘッドフォンではこのCDの演奏は分かっても、音は良く分からなかったのだ。こんな素敵な音が入っていたとはね。意外にも音そのものを楽しめたので私は大満足だった。レーグナーの他の演奏も是非聴き直してみたいと思ったが、彼が残したブルックナーもマーラーも図書館には架蔵されていなかった。ブルックナーの交響曲第5番は偶然架蔵されたものだったのだろう。これが聴けただけでも御の字としよう。

(2015年11月1日)

ベートーヴェン:交響曲第7番第2楽章

葛飾区の図書館はクレンペラーのマーラーには冷淡だったが、クレンペラーのベートーヴェンに対しては尊敬の念があったらしく、交響曲全曲を1957年録音盤で聴くことができる。交響曲第7番に関しては、何と1968年盤も架蔵されていた。

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ベートーヴェン
交響曲第7番 イ長調 作品92
ラモー(クレンペラー編)
ガヴォットと6つの変奏曲
オットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
録音:1968年10月12-14日、ロンドン、アビー・ロード・スタジオ
EMI(国内盤 TOCE-14241)

クレンペラーのベートーヴェンは録音史上今なお特別な位置を占めているが、この交響曲第7番は1957年盤に比べてあまり陽の目を見ていないだろう。一般受けしないのは、これがクレンペラー最晩年の録音に属し、テンポが以前にも増して遅くなっているからだ。

しかし、その演奏には唸らざるを得ない。特に第2楽章の美しさはクレンペラーのテンポがあってこそ生まれた。弦楽器がセクション毎に奏でる響き、それが重なった時の響き。それを言葉に尽くせない。音楽は淡々としたリズムに乗って流れていくのに、これを聴いている間は静謐な空間にいるような気がする。

ここから話は飛ぶ。

私はこの第2楽章を聴いていて、初めてこの曲を聴いた時のことを鮮明に思い出したのである。私がこの曲を聴いたのは中学1年生の春であった。私が通っていた(福島県)福島市立第一中学校には立派なオーケストラがあった。正式名称を器楽部という。彼らはおそらく新入部員勧誘とデモンストレーションを兼ねて昼休みに屋外でこの曲を演奏したのである。予告アナウンスを耳にして興味をそそられた小僧の私はそれを目を丸くしながら聴いたのである。私は今なおその時の周囲の風景や器楽部の演奏の様子を克明に覚えている。顧問の先生が曲を紹介する際に、「この曲はベートーヴェンの交響曲第7番の第2楽章です。映画『未来惑星ザルドス』にも使われました」と言ったこともはっきりと覚えている。

それが私とクラシック音楽の最初の出会いになった。私はオーケストラに入らなかったが、ベートーヴェンとはそれ以来40年以上付き合うことになった。クラシック音楽とは幸福な出会い方をしたのかもしれない。

話はまだ続く。

先生が口にした映画『未来惑星ザルドス』はそれからしばらくしてテレビ放映された。おどろおどろしい映画だったが、交響曲第7番の第2楽章がエンディングで驚くほど効果的に使われていた。壮年の男(主人公)が妻と並んで座っている。二人にはやがて子供ができる。やがて子供が成長し、青年になると親の二人を置いて出て行く。残された二人は手を繋いだまま座っている。彼らは老いて、死ぬ。そして手を繋いだまま白骨化するのである。その様子を描く間、あの第2楽章が流れているのである。子供心にも印象的な映像だった。だから、私にとってベートーヴェンの交響曲第7番の第2楽章は「未来惑星ザルドス」だったのである。

クレンペラー盤が契機となって40年も前のことがフラッシュ・バックされたので、私は自分のルーツを今さらのように思い出した。40年も経つと様々なことが変化している。しかし、ベートーヴェンの交響曲第7番第2楽章から受ける感銘の深さは40年前も今も変わっていない。それがベートーヴェンの音楽なのである。

(2015年10月22日)

「ロザムンデ」序曲を聴く

ショスタコーヴィチ漬けの反動で今度は温和なクラシック音楽が聴きたくなった。真っ先に頭に浮かんだのはシューベルトの「ロザムンデ」である。図書館のデータベースを見ると、全曲盤があった。しかも、エリー・アメリングが歌うロマンツェ「満月は輝き」が収録されている。以前架蔵していたCDであり、懐かしさのあまりクリックして借りてきた。1983年のPHILIPS録音なので音質もまずまず。エリー・アメリングのシューベルトを聴いて私は幸せな気分になった。

しかし、全曲盤だというのに、ロマンツェ以外を聴くのは辛かった。序曲からして集中して聴けない。演奏者たちは本当に集中して演奏したのだろうかと首をかしげた。音楽に芯がなくて、あたかも喫茶店で流れる有線のBGMのようだ。「ロザムンデ」序曲はシューベルトの傑作だが、間延びした演奏だとわずか10分でも十分長く感じられる。欲求不満に陥った私は「こんなはずはない」とばかりに、フルトヴェングラー盤を借りてきた。

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シューベルト
「ロザムンデ」序曲
交響曲第9番 ハ長調 D944「ザ・グレート」
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音(ロザムンデ):1953年9月15日、ベルリン・ティタニア・パラストでのライブ
DG(国内盤 F35G 50284)

これを聴くと、最初に書いたPHILIPSのCDとは全く別の曲を聴いているという気がする。きりりと引き締まった演奏であり、かつ爆発的な演奏だった。確かに「ロザムンデ」序曲はこういう曲だったと私は思い出し、この曲に対する愛着の度合いが低下したのではなかったことを確認した。

管弦楽曲の演奏の場合、音を出すのは団員たちだが、音楽を作るのはやはり指揮者なのである。異論はあるだろうが、こうした演奏を聴くとそのことは改めて実証される。

フルトヴェングラーの演奏は何と60年以上も前に行われた。音は1980年代の録音に比べるとステレオ感がなくて古めかしい。それでもこちらには音楽がある。綺麗な音が入っているとしても、音楽がない音源なら不要だ。音楽が入っている音源でなければ意味がない。

私は若い頃、ずっとクラシック音楽を聴き続けていけば、自分が老人になる頃には自分が素晴らしい新録音に囲まれていると予想し、それを疑いもしなかった。しかし、現実はそうではなかった。現代にだって有力な演奏家達がいくらでもいるのだろうが、こと録音に関して言えば、その数も質も最盛期は完全に過去の彼方にある。新録音はあれども、そこに過去には実現されていた、限界まで突き詰めたような真剣な音楽があるかどうかは疑問符が付く。フルトヴェングラーのような鬼神のごとき指揮者がもはや存在しないからだ。我々が生きる時代がその存在を求めていないのかもしれない。

こうなると、もしかしたら、多数のステレオ録音、それもデジタル録音盤が50年後、100年後には殆ど忘れ去られ、モノラル録音の数々が大事にされていることだって十分あり得る。クラシック音楽の録音は、骨董品的価値を帯びるかもしれない。

(2015年10月21日)

ショスタコーヴィチの交響曲第12番

昨日の続きである。葛飾区の図書館には、ショスタコーヴィチの交響曲第12番のCDもあった。

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ショスタコーヴィチ
交響曲第12番 ニ短調 作品112 『1917年』
エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1984年4月30日、レニングラード・フィルハーモニック大ホールにおけるライブ
STE(国内盤 VDC-25028)

ムラヴィンスキーの指揮で聴くと、交響曲第12番は傑作になる。例えば、第4楽章でトランペットとトロンボーンが極寒の空をバリバリと突き破るように鳴り響く神話的な音を聴くと、感嘆の声も出ない。

しかし、この曲は他の指揮者で聴く場合、時として生ぬるい映画音楽か安っぽい標題音楽になることがある。事実、この交響曲には『1917年』という標題が付いているし、ご丁寧にも4楽章それぞれに標題が付いているのだ。しかも、ショスタコーヴィチの音楽がまさにその標題を描写しているのである。さすがショスタコーヴィチと言いたいところだが、分かりやすすぎることが災いし、私は逆に音楽の底の浅さを感じたものである。

標題は、
第1楽章:「革命のペトログラード 」
第2楽章:「ラズリーフ」
第3楽章:「アヴローラ」
第4楽章:「人類の夜明け」
となっている。

こういうものを見ると、私は「やれやれ」という気になる。ショスタコーヴィチにしてみればこのような曲を書かなければ命が危ない。だから恥も外聞もなくあからさまな革命讃歌を書かざるを得なかったのだろう。だが、それ故につまらなさを感じる。この作曲家の反骨精神はどこに消えたのか、と思う。私は初めての曲を聴いた時にショスタコーヴィチの交響曲への関心を半減させた。今考えてみると、最初に聴いた演奏が、この曲の魅力を伝えていなかったのだ。いや、その演奏の指揮者が、この曲はただの革命讃歌だと認識していたからこそそんな演奏になったに違いない。

ちなみに、ショスタコーヴィチの交響曲第11番にも標題が付いている。こちらは『1905年』という。楽章毎に標題が付いている点も第12番と同じだ。第11番は次のような標題が付いている。

第1楽章:「宮殿前広場」
第2楽章:「1月9日」
第3楽章:「永遠の記憶」
第4楽章:「警鐘」

これまた「やれやれ」である。私としては標題がない方がよほど楽しめる。政治的スローガンが見え隠れすると私は興ざめしてしまうのである。そうなるのは私だけなのだろうか? もし日本でも同じような作品が当局によって要請され、有力な作曲家がそれに従って作曲し、著名演奏家が演奏するとしたら、どんな気持ちになるのだろう。音楽として楽しめるのだろうか。

具体的に想像してみよう。

日本国政府が国威発揚のためと称して、日本人作曲家に交響曲を作らせる。標題は「明治維新」だ。4楽章形式で、それぞれの楽章にも標題が付いている。例えば、以下のような。

第1楽章:黒船来航
第2楽章:薩長同盟
第3楽章:戊辰戦争
第4楽章:王政復古

こうなったら、私は純粋に音楽を聴くだろうか。私は音楽の中に込められたプロパガンダを聴き、もしかしたらそれを楽しんでしまうかもしれない。しかし、それはもう音楽を聴いているのではなく、国威発揚の物語を受容しているだけなのではないだろうか。

そう思うと、ムラヴィンスキーの演奏はすごい。この人の指揮は物語を音にするなどというレベルにとどまらない。はるかに高次元だ。聴き手を音楽だけに集中させるのである。『1917年』という標題など完全に超越している。この人はショスタコーヴィチのスコアに潜む何かを見ることができたのだろう。少なくとも、ムラヴィンスキーの指揮で聴く交響曲第12番は、「底が浅い」などとはとても言えない。

(2015年10月14日)

ムラヴィンスキー

交響曲第4番を無事に聴くことができたので、時間をかけてショスタコーヴィチの交響曲をすべて聴いてみた。第1番から第15番までを集中的に聴いたのは、昔ハイティンクの全集を買った時以来だ。曲と演奏の組み合わせは以下のとおりである。

  • 1番 ロジェストヴェンスキー指揮ソビエト国立文科省交響楽団(MELODIYA)
  • 2番 ハイティンク指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、アシュケナージ指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団(DECCA)
  • 3番 ハイティンク指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団(DECCA)
  • 4番 サロネン指揮ロサンゼルス・フィルハーモニック(DG)
  • 5番 ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(MELODIYA)
  • 6番 バーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(DG)
  • 7番 アシュケナージ指揮サンクトペテルブルク・フィルハーモニー管弦楽団(DECCA)
  • 8番 ゲルギエフ指揮キーロフ歌劇場管弦楽団(PHILIPS)
  • 9番 ロジェストヴェンスキー指揮ソビエト国立文科省交響楽団(MELODIYA)、バーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(DG)
  • 10番 カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(DG)
  • 11番 ストコフスキ指揮ヒューストン交響楽団(EMI)
  • 12番 ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団(MELODIYA)
  • 13番 ロストロポーヴィチ指揮ナショナル交響楽団(ERATO)
  • 14番 ロジェストヴェンスキー指揮ソビエト国立文科省交響楽団(MELODIYA)
  • 15番 ロジェストヴェンスキー指揮ソビエト国立文科省交響楽団(MELODIYA)

マニアからは、「よりによってどうしてそのような組み合わせのCDをを選んだのか」という質問が出てきそうだ。答えは簡単である。図書館のCDだからあまり選択の余地がないのである。だが、図書館CDで全15曲を聴けたことは感謝しなくてはならない。

交響曲第4番が聴けたからには他の曲も聴けると確信していたが、その通りだった。ここ2週間ほどの間にショスタコーヴィチを文字通り聴きまくった。ショスタコーヴィチの狂気にずっと付き合っていたわけで、なんだか自分もあっちの世界に足を突っ込んでしまったような気がする。ショスタコーヴィチの交響曲第4番をクリアした時には一挙に視界が開けたように感じ、私は欣喜雀躍したのだが、本当はそういうことではなくて、危ない世界に入ったのだから、これからの音楽生活に黄色い信号がともったことを意味しているのかもしれない。

閑話休題。

交響曲第13番や第14番を聴いた後、私は交響曲第5番をムラヴィンスキーの演奏で聴いた。もはや私の耳に第5番は通俗名曲的にしか聞こえないのではないかと最初から髙をくくってCDを聴き始めた。そして、ムラヴィンスキーに打ちのめされた。

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ショスタコーヴィチ
交響曲第5番 ニ短調 作品47「革命」
エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1878年6月12日、ウィーン・ムジークフェラインザール
JVC(国内盤 VDC 1007)

何というか、もう次元が違っているのである。旋律こそあの交響曲第5番だが、音楽としてのこの曲のあり方が極限まで追求されたという印象を強く受ける。厳しい音楽の厳しい演奏だ。また、ムラヴィンスキーの演奏は時代と場所を超越して現代に生きる私に緊張して聴くことを要求している。この演奏を聴き終えた瞬間、ムラヴィンスキーは音楽の神様の一人だったのだと改めて確信した。

ムラヴィンスキーの指揮で聴けたのは第5番だけではない。第12番もあった。この曲には「1917年」という標題が付けられているが、これまたとてつもなかった。ムラヴィンスキーの演奏は鍛えに鍛えた鋼のようであり、軟弱さは微塵もない。第12番に対する評価も激変した。

これらを聴いて以来、私の頭の中にムラヴィンスキーが居座ってしまった。もうどうやっても頭から離れない。それならば他のCDも聴こうと図書館のデータベースを検索してみた。ところが、ムラヴィンスキーのCDは数えるほどしかないのである。ああ、何ということか。ムラヴィンスキーは西側の音楽家ではなかったし、メジャーレーベルで次から次へと録音をしてきたわけでもなかったのだ。こうなっては、残された数少ない録音を探して拝聴するしかムラヴィンスキーに接する方法はない。

(2015年10月13日)

ショスタコーヴィチの交響曲第4番

マーラーの交響曲を全曲聴いたところで私の脳裏をかすめたことがあった。ひょっとすると、ショスタコーヴィチも聴けるかもしれないということだ。そもそも「聴けるかも」と思うこと自体、聴けるということなのである。交響曲第5番や第7番は問題にもならなさそうだ。最難関は交響曲第4番である。

図書館のデータベースを見ると、サロネンの録音があった。

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ショスタコーヴィチ
『オランゴ』プロローグ(世界初録音)
交響曲第4番 ハ短調 作品43
エサ=ペッカ・サロネン指揮ロサンゼルス・フィルハーモニック
ロサンゼルス・マスター・コラール、ほか
録音:2011年12月、ロサンゼルス、ウォルト・ディズニー・コンサート・ホール
DG(国内盤 UCCG1606/7)

ショスタコーヴィチの交響曲第4番を長い間私は忌避してきた。CDは大量に持っていたが、ある時期から身体が拒絶するようになっていたのである。最初の数小節でCDをストップさせることが頻発し、やがて聴かなくなった。その後、ショスタコーヴィチを私は全く受け付けなくなっていた。身体が拒絶反応を示す楽曲の作り手を高く評価できるわけもないから、ショスタコーヴィチに対する私の評価はゼロに等しかった。

実際に聴いてみるとあまりの面白さに絶句した。この曲では諧謔も狂気も全部一緒くたになっている。膨大な数の素材が脈絡もなく登場する作風はマーラー的であり、違和感は全く感じなかった。音的にも楽しめる。DGは録音用マイクを各楽器毎に近接設置したらしく、ソロがクリアに聞こえる。また、オーケストラが強奏に転じるときには暴力的な破壊力をもたらす音が聴ける。

すっかり熱狂した私は都合10回ほどこのCDを聴いて堪能した。しかも、以前に比べるとはるかにこの曲を好きになっている。今までこの曲を忌避していたのは何だったのだろう。

この余勢をかって、私は他の曲にも挑戦した。まず、第8番に挑戦。ゲルギエフ指揮キーロフ歌劇場管弦楽団のCD(PHILIPS)を聴く。全く問題なし。さらに、第15番をロジェストヴェンスキー指揮ソビエト国立文科省交響楽団の演奏で聴いた(VICTOR)。全く問題がないどころか、曲のユニークさと演奏の面白さに唸ってしまった。もうどの曲も大丈夫だ。しかも、私はショスタコーヴィチを以前よりはるかに楽しめるようになったようだ。これは驚きだ。目の前に深く立ちこめていた霧が晴れて、視界が一挙に開けた感じがする。この感覚は他に例えようがない。

私がこのAn die Musikを立ち上げたのは1998年11月である。もうじき開設17年になるのだが、ショスタコーヴィチを楽しんで聴けるというのは、やっと17年前の自分に戻ったことを意味する。随分時間をかけて歩き回った挙げ句に到着したのが17年前の自分の位置だったとは妙な気がするのだが、音楽を楽しめる自分に戻ったことは本当に嬉しい。最高に嬉しい。私は17年前でも、20年前でも、30年前にだって戻ろう。音楽を楽しめることが一番の幸せだ。

(2015年10月3日)

コンセルトヘボウ管時代のハイティンクを楽しむ

ハイティンク指揮コンセルトヘボウ管のCDを聴きたくなったので、図書館データベースを検索した。すると、ベートーヴェンの交響曲第5番と7番のCDが出てきた。

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ベートーヴェン
交響曲第5番 ハ短調 作品67
交響曲第7番 イ長調 作品92
ハイティンク指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
録音:1986年1月14,15日(5番)、1986年10月21-23日(7番)
PHILIPS(国内盤 420 540-2)

PHILIPSが撮った音で聴くハイティンク指揮コンセルトヘボウ管は何度聴いても美しい。ハイティンクはこの20年後にロンドン交響楽団を指揮してベートーヴェンの交響曲全集を再録音した。もはや押しも押されもせぬ巨匠となったハイティンクの指揮ぶりを楽しむのであれば断然その新録音を聴くべきだが、私はコンセルトヘボウ管の演奏でハイティンクを聴くのを無上の楽しみとしている。オーケストラの響きは断然こちらが上なのである。

ただし、第5番の演奏は今聴いてもやはり中庸の枠を出ない。例えば、この曲では指揮者のヴォルテージを反映したと思われる激烈な録音が多数あるので、ハイティンクの微温的な演奏は比較対照されるとどうしても不利だ。もっとも、私はそれでも構わない。コンセルトヘボウ管の清澄な響きで演奏される5番は爽快ですらある。音楽によほどのドラマを求めるのでもなければ、これも立派なベートーヴェンだ。芝居がかっていなくていいだろう。

一方、第7番は単純に「中庸」とは言えない。久しぶりに聴いたら、かなりの名演奏だった。ブラインド・テストをしたらハイティンク指揮コンセルトヘボウ管だと当てられる人は少ないだろう。CDに付いていた日本語解説には小林利之氏が「一般に知られている”舞踏の聖化”(ワーグナー)とか”リズムの神格化”(リスト)といった情熱的なリズムの奔流からハイティンクは背を向けて、ベートーヴェンの音楽がめざすシンフォニックな造型に意を集中する」と書いている。確かに「シンフォニックな造型」は追い求められているだろう。しかし、ハイティンクは「情熱的なリズムの奔流から背を向けて」はいない。それは言い過ぎだ。この指揮者は極端さを売り物にしていないだけで、十分情熱的なリズムの奔流を作っている。コンセルトヘボウ管の弦楽セクションも力演している。特にスピーカーの右側から聞こえるチェロとコントラバスの音は猛烈だ。(PHILIPSの音作りに助けられて入るのだろうけれども、それを言うなら他の指揮者、他のオーケストラだって条件は同じだ。)

この1枚のCDで私はしばらく音楽を楽しんだ。大量のCDを処分したのは辛かったが、それによって適度なCD渇望状態が続くことになったのは音楽鑑賞上のメリットだったようだ。図書館でCDを借りるとしても、1度に4枚までという上限がある。しかも、図書館にすべてのCDが揃っているわけではない。あるものを有り難く借りてきて拝聴するのみである。聴いたらそれを返却しなければならないから、それまでにできるだけ丁寧に聴こうとする。また、私にはデジタル・コピーを作る気は全くない。以前は何千枚というCDを所有していたから、渇望状態からはほど遠かった。CDは1枚1枚丁寧に聴くものだ。それが音楽を楽しむ秘訣だと改めて理解した。

(2015年9月29日)

マーラーの交響曲第10番に聴くカタストロフ

マーラーの交響曲第3番を聴いた後、残った交響曲は第10番だけになった。図書館のデータベースを検索すると、ハーディング指揮ウィーン・フィル盤が出てきたので、早速借りてきた。

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マーラー
交響曲第10番(デリック・クック補筆完成全曲版)
ダニエル・ハーディング指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:2007年10月、ウィーン、ムジークフェラインザール
DG(国内盤 UCCG-1389)

私はマーラーの交響曲第10番を愛聴したことがない。マーラーを日常的に聴いていた頃でさえも第10番だけは敬遠してきた。恐ろしいのである。第1楽章アダージョのカタストロフが。最初に聴いたのがどの指揮者によるものだったか覚えていないが、その恐ろしさだけは未だに忘れられない。私にとっては背筋が凍りつくような恐怖体験だった。第1楽章を最後まで聴き通すことができなかった。その後時間を空けて何度か挑戦し、かろうじて第1楽章を最後まで聴いた。今も、できれば聴きたくない曲である。

ところが、指揮者たちにとってはこの曲がマーラー演奏のフロンティアになってしまったようで、マーラーが一応完成させたと推測されるのが第1楽章だけであるにもかかわらず、クック補筆全曲版などが録音されるに至った。クラシック音楽界ではすっかり定番の曲として扱われているような気配だ。他の人はこの曲が恐ろしくないのだろうか。

それはともかく、久しぶりにこの曲を聴いてまた衝撃を受けてしまった。

第1楽章のカタストロフが暴力的に聞こえなかったのである。何と、ハーディングとウィーン・フィルは、このカタストロフを異様なほど美しく奏でるのである。私は我が耳を疑った。カタストロフがオルガンの響きのように調和して耽美的に聞こえてくるのである。いや、そんなレベルにとどまらない。その響きはもはやエクスタシーに通じるほどだ。甘美なエクスタシー。そんなことって、あるのだろうか? これはカタストロフではないのか?

第1楽章が終わったところでしばらくCDを止め、私は考えた。もしかしたら、そういうことなのかもしれない。カタストロフは破滅であり、死である。だが、それは甘美なエクスタシーをもたらすことだってあり得るのだ。生は死と隣り合わせだ。生から死への移行は理解しやすい。しかし、死から見れば死は生はすぐ隣にある。タナトスの裏にはエロスがあるのだ。想像するだけでも恐ろしいことだが、カタストロフにはエクスタシーがあるのかもしれない。

それにしても何とすさまじい演奏だろうか。ハーディングとウィーン・フィルはそんなことを意識してこの第1楽章を演奏したのだろうか。私はあまりの衝撃に呆然となった。もうしばらくこの曲を聴かなくていい。

(2015年9月22日)