月別アーカイブ: 2015年6月

ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲に聴くカデンツァは

CD欠乏状態になって、図書館でCDを借りてくるようになった私がよほど哀れに見えたのか、先日友人がCD持参で我が新居に遊びに来てくれました。そのCDの中には下記のベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲がありました。

CDジャケット

ベートーヴェン
ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品61
ヴァイオリン:ヴォルフガング・シュナイダーハン
オイゲン・ヨッフム指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1959年4月29-30日、ベルリン、イエス・キリスト教会
DG(タワーレコード 国内盤 PROC-1444)

カップリング曲
ヨハン・セバスチャン・バッハ
無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第2番 ニ短調 BWV1004
ヴァイオリン:ヴォルフガング・シュナイダーハン
録音:1955年1月12-15日、ウィーン、コンツェルトハウス、モーツァルトザール

このヴァイオリン協奏曲はLPでは大変なレアものだといいます。また、1959年録音なのにLPにはモノラルしかないのだとか。LP制作時に何か事故でもあったらしいのです。DGもわざわざステレオの時代にモノラル録音盤を残すわけにはいかなかったのか、全く同じ組み合わせで1962年に再録音をします。そちらはもちろんステレオでリリースされました。

奇妙なのは、タワーレコードから発売されたこのCDがステレオだということです。どこからステレオ音源が出てきたのでしょう? 何か事故でもあってステレオのテープが失われていたのではなかったのですかと好事家から疑問の声が聞こえてきそうです。もう時効でしょうから、何があったのか関係者が証言しても良さそうですね。

そうしたことは考古学に興味がある方々にお任せして私は演奏を楽しむことにします。

友人が貸してくれたこのベートーヴェンは、質実剛健の極みでした。タワーレコードの解説には、シュナイダーハンの演奏がロマンティックだと書いてありますが、ヨッフム指揮ベルリン・フィルは大変な硬派です。にこりともしません。完全に仏頂面のベートーヴェンであります。私にはシュナイダーハンのヴァイオリンもあまりロマンティックには聞こえません。そんなことを考えながらCDを聴いていると、突然妙な音楽が始まりました。第1楽章のカデンツァです。かなり斬新であります。ヴァイオリンとティンパニが掛け合いをやったりしています。しかもなかなか長大で、延々と楽しませてくれるではないですか。今までずっと仏頂面のベートーヴェンだと思っていたのですが、ここに来て様相は一転し、大娯楽作品に変貌です。このカデンツァがベートーヴェンの曲風に合っているかどうかは若干疑問もあるのですが、聴き手の度肝を抜く演奏という意味では実に立派です。カデンツァを弾くならこのくらいのことはやってほしいものです。

このカデンツァはシュナイダーハンが、ベートーヴェン自身がヴァイオリン協奏曲をピアノ協奏曲として編曲した際に作ったカデンツァを元に作り直したものらしいです。なるほど、そうなるとかなり由緒正しいカデンツァだということになりますね。しかし、別に由緒正しくなくてもいいのです。演奏家が自作の面白いカデンツァを聴かせてくれるのならば。私が協奏曲録音を聴いていて常々不満に思うことは、カデンツァが演奏家の自作でない場合が殆どだということです。せっかく作曲者が演奏者にカデンツァを委ねているのですから、演奏者毎に違ったカデンツァがあって然るべきです。ところが、そんなことをする演奏家は今時あまりいません。私は以前An die Musikで、アンドラーシュ・シフが弾いたカデンツァについて書いたことがありましたが、それが珍しかったからです。クラシック音楽は伝統芸能だから仕方がないとしても、やはり死んだ音楽なのだとあきらめの気持ちが私にはあります。だから、私はこういう演奏を聴くと無性に嬉しいです。私にとっては久々に聴く大ヒットCDでした。

このCDを貸してくれた友人には深く感謝します。また楽しいCDを持ってきてくれることを期待します。自分で買いなさいと言われそうですが。

(2015年6月25日)

図書館CDで聴く『千人の交響曲』

葛飾区図書館シリーズ第3弾です。まさかシリーズになるとは自分でも思っていませんでしたね。今回のCDはショルティが指揮したマーラーの交響曲第8番、通称『千人の交響曲』であります。

CDジャケット

マーラー
交響曲第8番『千人の交響曲』
ショルティ指揮シカゴ交響楽団、他多数
録音:1971年8-9月、ウィーン、ゾフィエンザール
DECCA(国内盤 POCL-6001)

この曲を生で聴くと、第1部における途方もない音量に驚きます。とんでもない音が前からどっと押し寄せてくるのです。それはベートーヴェンの『第九』の比ではありません。もう圧倒的だし、圧倒されるのが正しい聴き方だと思います。

CDで聴く時にはどうするか。できれば盛大に音量を上げて聴きたいところです。しかし、マンション暮らしになるとそれは容易にはできません。下手をすると退去を命じられるかもしれませんから。

転居後の私のアンプはフルに性能を発揮しているとは言えません。私の使っているGoldmundのプリアンプでは音量が数字で表記されます。一軒家のオーディオルームで使っていた際にはその数値は42から50くらいまでにしていました。オーディオルームは3階にあり、近所の家とはどことも接していませんでした。それでも窓は二重にしてなるべく音が外に漏れないようにしていました。しかるに、今度の部屋はマンションの最上階にあるので、上の部屋を気にせずとも、隣と下の部屋には気を配らねばなりません。すると、42から50などという音量でCDを聴くということは不可能になります。実際にはボリューム位置は22から30というところです。

その音量でショルティの『千人』を聴けるのか。それがしっかり聴けるのであります。貧相な感じは全くしません。小さい音でも痩せた音にはならず、演奏の細部まで明瞭に聞こえます。これにはちょっと驚きました。静かな環境に恵まれたということもあるのでしょうが、やはりDECCAの音作りがすごいのです。DECCA録音は、安物の粗末な再生機器でも満足しうる音質で聞けることは若い頃から知ってはいましたが、小音量でもよく聴かせてくれます。こういうのを本当の名録音というのでしょう。一部のレーベルの、大きな部屋で大音量再生することを前提とするCDは、いくらオーディオマニアの評判が良くても名録音だとは言えないと思っています。

私は改めてDECCAの録音スタッフを確認してみました。プロデューサーにデヴィッド・ハーヴェイ、録音エンジニアにケネス・ウィルキンソンとゴードン・パリーの名前が掲載されています。きっと彼らは、極東の島国でウサギ小屋に住むクラシックファンは大音量再生などできないことを知っていたのでしょう。さすがというほかありません。

ということで、マンションの一室ででもクラッシック音楽を鑑賞できることがよく分かりました。『千人の交響曲』が聴けるのですから、安心であります。

(2015年6月24日)

ワルターのマーラー 交響曲第1番

先日葛飾区の図書館でワルターのブラームスを借りてみたのですが、同時にマーラーの交響曲第1番も借りてきました。家に帰ってよく見ると、CDのジャケット、つまり解説が付いていません。どなたかが図書館にこのCDを寄贈してくださったのでしょうが、その時にはもうジャケットがなかったのでしょうね。しかし、この曲のCDを聴きたいという私のような人間のところに辿り着いたのですから、何の支障もありませんね。

マーラー
交響曲第1番  ニ長調『巨人』
ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団
録音:1960年前後?(解説書がないため転載不能)
SONY(国内盤 28DC 5052)

ワルターのマーラー、交響曲第1番とくれば当然あのジャケットだとクラシックファンなら容易に想像がつきます。私はそのジャケットを思い出しながらこのCDを聴き通してみました。

いやあ、実に素敵な音と演奏ではないですか。これが50年も前の録音だとは。私が初めて聴いたマーラーの1番は、もちろんこのワルター盤なので音のひとつひとつに懐かしさを感じずにはおれません。私たちの世代はこの録音の後に数々のマーラーに接しました。それでも原体験となったワルター盤の特別な地位は揺らぎそうもありません。しかも、良質のステレオ録音で残されたという僥倖をひしひしと感じます。この録音を聴きながら私はまさに「ノスタル爺」化し、満足のあまり昇天してしまいそうになりました。

ところで、この録音にはひとつだけ腑に落ちないことがあります。SONYからSACDが商品化されて出回り始めた頃、ワルターのより抜きの名盤がSACD化されました。モーツァルトの交響曲第38番「プラハ」、第40番、ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」、第6番「田園」、シューベルトの「未完成」、ブラームスの交響曲第4番です。これらは私もすべて集めました。その際不思議だったのは、この中にマーラーの交響曲第1番が含まれなかったことです。もしSACD化されれば、私のようなノスタル爺が先を争って購入しそうなディスクになるはずですから、そのうちにSONYがリリースするに違いないと読んでいました。しかし、それがSACD化されることはついぞありませんでした。これほどの名盤がなぜSACD化の対象から漏れたのか。通常盤でも全く音に不満がないのですが、SONYはあの手この手を使って音を変え、それらをリリースしてきました。そして、皮肉なことに、その度毎に音が悪くなったように私は感じていました。いろいろいじり回すのであれば、最初からSACDというフォーマットを使えば良いのに。これには何か裏事情でもあるのでしょうか?

とはいえ、そのようなことを思っている間に私のSACDに対する熱意はすっかり冷めてしまいました。ケンペ指揮シュターツカペレ・ドレスデンによるR.シュトラウス管弦楽曲集がSACDに勝るとも劣らない音質で、しかもその10分の1近い価格で発売されたからです。高価なSACDを買った割にはそれに見合う音質が得られないことが続出したことも一因です。

今回私が葛飾区役所から借りてきたCDはマックルーアによる最初のCDのようです。私はこの古いCDの音で昇天しそうになったのですから、無類のノスタル爺なのでしょう。ノスタル爺には通常のCDで十分です。

(2015年6月22日)

ワルターのブラームスを渇望する

先日、ブルーノ・ワルターが指揮したブラームスを無性に聴きたくなりました。かといって、私の手許にはワルターのブラームスは1枚も残っていません。引っ越し前に処分したからです。「ああ、予想通りの展開になった。見境なく処分するのではなかった」と天を仰ぐことになりました。とはいえ、また新たに買うのも癪なので、葛飾区の図書館で借りてみました。図書館でCDを借りるのは生まれて初めてであります。

借りてきたのは以下のCDです。

brahms_2_walter

ブラームス
交響曲第2番 ニ長調 作品73
大学祝典序曲 作品80
ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団
録音:1960年1月11,14,16日
SONY(国内盤 28DC 5043)

発売時期や型番を見ると、どうやら運良くマックルーアがCD化したディスクを手にすることができた模様です。これは嬉しいです。さっそくCDプレーヤーにかけてみると、いかにもマックルーアのトラックダウンらしく、低弦が見事に強調された音が耳に飛び込んできます。それはともかく、欣喜雀躍した私は最初の部分だけを試しに聴くつもりがCD1枚分を丸々聴くことになってしまいました。ワルターは本当に聴かせ上手ですね。私はほとんど大満足です。なんだか微妙な表現ですが。

数年前に、私はブラームスの交響曲全集を片っ端から聴き比べしたことがあります。その際に、ふたつのことに気がつきました。批判や嘲笑を覚悟で申しあげますと、ひとつ目はアメリカのオーケストラによるブラームスは、地に足が着いていないような軽さがあり、それ故にわずかな違和感が感じられる場合が多いこと、ふたつ目はウィーンフィルハーモニー管弦楽団のブラームスというものがありそうだということでした。私の先入観なのかもしれませんが、誰が指揮台に立った録音でもウィーン・フィルのブラームスを聴いて違和感を感じたものは1枚たりともなく、それどころかウィーンフィルはブラームス演奏に必須の何かをDNA的に持っているのではないかと感じたものでした。

ワルターのブラームスは、アメリカの西海岸で録音されています。したがって、上記の観点からはあまり好ましからざる演奏のはずなのですが、私は最後までブラームスを満喫しました。さすがワルターの演奏であります。この演奏に対して、地に足が着いていないなどと恐ろしいことはとても言えません。ただし、「ほとんど大満足」と書いたように微妙な留保をつけたのには訳があります。1箇所だけ物足りなさを感じたからです。

この曲の第1楽章の終わり頃にやや長いホルンパートの出番がありますね。ここはブラームスが美しくも壮大な落日に惜別をおくるフレーズだと私は勝手に解釈しています。落日とは、実際に1日の落日を想起させるものでもありますし、人生の落日さえも描いているように思えます。私はその部分こそが第1楽章の白眉だと思っているのですが、ワルター盤はその箇所が少しあっけないのです。

しかし、そこまで聴いて、私がウィーンフィルのブラームスがあると感じた理由のひとつがはっきり分かりました。あくまでも理由のひとつに過ぎないでしょうが、それはホルンの音色のためです。ウィーンフィルの録音に聴くホルンの音色はやはり格別なのだと改めて思わずにはいられません。そして、コロンビア響とのセッションでは、ワルターのような大指揮者が指揮台に立ってさえ、それだけはどうにもならなかったのだと分かります。

それでもワルターのブラームスは魅力的です。たった1箇所物足りないところがあったからといってその価値を否定する気は毛頭ありません。今回はCDを図書館で借りましたが、やはり買い直した方が精神衛生上良さそうです。マックルーアのディスクを探して購入しようかと思います。

(2015年6月19日)