月別アーカイブ: 2015年8月

ヨッフムのブルックナー交響曲第8番とドレスデン絨毯爆撃と旧ドイツ民主共和国 文:松本武巳さん

松本さんの「音を学び楽しむ、わが生涯より」に「ヨッフムのブルックナー交響曲第8番とドレスデン絨毯爆撃と旧ドイツ民主共和国 文:松本武巳さん」を追加しました。松本さん、原稿ありがとうございました。このように面白い文章を読んだのは久しぶりです。

当時のシュターツカペレ・ドレスデンをトラバントに例えるというのは言い得て妙かもしれません。ドレスデンの団員には失礼かもしれませんけれども。でも、いいじゃないですか。本当の意味でユニークな演奏ができたのですから。あの演奏を聴いて、指揮者に必死についていくオーケストラの姿を思い浮かべない人はいないと思います。

トラバント

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松本さんの文章を読んで、私は東ドイツの名車トラバントを思い出しました。私にはトラバントにまつわる思い出があります。私はトラバントにはねられたことがあるのです。しかも、場所はドレスデンです。日本人でトラバントにはねられたなどという経験を持っているのは私だけでしょう。エッヘン。

1991年に私は仕事でドイツに滞在していました。11月にはやはり仕事でドレスデンに1週間行っておりました。夜は自由です。ある晩、ドレスデンのクルチュア・パラスト(文化宮殿)のコンサートからホテルに帰る際、横断歩道を渡っていた私をはねたのがトラバントです。信号は青でした。トラバントというのはプラスチックと段ボールでできていると言われていましたが、段ボールというのは眉唾としても、プラスチックでできているというのはおそらく本当です。もし私をはねたのがベンツやBMVだったら即死していたでしょう。トラバントにはねられた私は吹っ飛びましたが、左足をちょっと打ったくらいでピンピンしていました。今に至るまで後遺症も何もありません。

それから、フランクフルトに戻って生活をしていました。その頃はまだアウトバーンでトラバントをよく見かけたものです。親子で乗っているケースが多かったと記憶しています。トラバントはどんな車にも軽々と追い越されてしまいます。でも、トラバント(通称トラビー)は必死に走るのです。アウトバーンで普通の車に乗っている状態でトラバントを見ると、トラバントが静止しているように見えます。それでもトラバントは走っています。車体が壊れはしまいか、大丈夫か、雨が降ったら段ボールが保たないのではないかという感じで走るのです。私はそれを見ながら「がんばれ、トラビー!」と応援していたものでした。なんだか懐かしい思い出です。それからもう20年以上経つのですね。

(2015年8月26日)

ヨッフムのブルックナー 交響曲第8番

昨日の続き。

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ブルックナー
交響曲全集
オイゲン・ヨッフム指揮シュターツカペレ・ドレスデン
録音:1975-80年、ドレスデン、ルカ教会
EMI(輸入盤)

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ブルックナー
交響曲第8番 ハ短調
ヨッフム指揮シュターツカペレ・ドレスデン
録音:1976年11月3-7日、ドレスデン、ルカ教会
EMI(国内盤 TOCE-13244)

ヨッフムといえばブルックナーである。先日、amazonでヨッフム指揮シュターツカペレ・ドレスデンによるブルックナーがどんな評価になっているのか見てみた。概ね高い評価がつけられている。しかし、中には手厳しい指摘もある。音質面でのマイナスを指摘する声もあるし、吹奏楽器の各奏者のピッチにバラつきがあることを指摘する声もある(第8番について)。いずれも、謂われがないわけではない。

音質面では最高級の音とは言えない。特に、以前も書いたとおり第8番は爆発的な名演奏だが、この録音は全集中で最も冴えない音で収録されている。東独ETERNAのLPで聴くとかなり見通しの良い音で聴けるのに、過去に私の手許にあったCDはどれもETERNA盤に及んでいない。何となく曖昧模糊とした感じがする。8番以外でも、国内廉価盤で聴いた人は口を揃えて音の悪さを訴えていた時期があった。EMIだから致し方ないとはいえ、全く音に恵まれない全集録音である。

管楽器のピッチについては、気になる人は気になってしょうがないだろう。第8番の演奏を聴いた友人に「ひどく下手くそなオーケストラである」と斬って捨てられたこともある。

指摘事項全くごもっともなのである。ついでにいうと、8番は破綻しかけていると思う。第3楽章でも第4楽章でもヨッフムはクライマックスに向けてオーケストラを煽って強引に加速するものだから、オーケストラ、特に金管楽器が崩壊しかけている。以前私は「トランペットがぴったり指揮について行った」と書いたのだが、最近はそれもぎりぎりだったのではないかと思うようになった。金管楽器は第3楽章ではやっとのことヨッフムの指揮についていった感がするし、第4楽章ではバランスもへったくれもなく勢いで吹きまくっている気がする。私が爆発的と呼ぶのはそのためなのだが、それをヨッフムはスタジオ録音でやってのけ、プロデューサーもそれを是としてディスクをリリースしたのだから恐れ入る。完璧主義の指揮者であれば、このような録音を公式盤として世に送ることは決してしないだろう。現に、ここまで強烈で、崩壊寸前の演奏をスタジオ録音で撮って、リリースした指揮者を私は他にテンシュテットくらいしか知らない。

しかし、崩壊寸前まで追い込むからこそ名演奏が生まれるのだ。ピッチが多少合わなくても、生きた演奏であることの方が大事なのだ。ヨッフムのような指揮者とシュターツカペレ・ドレスデンのようなオーケストラ、そしてその破天荒な演奏を良しとしてそのままリリースする関係者たちすべてが揃わなければこんな録音は生まれない。もともと優秀録音ではないし、音に難があるのは認めるが、こういう録音こそ貴重なのだ。この録音がPCオーディオの時代にどんな扱い方をされるのか不明だが、せめて私が生きている間はその良さをアピールし続けたいものである。

(2015年8月23日)

ヨッフムのマイスタージンガー

カラヤン指揮シュターツカペレ・ドレスデンの「マイスタージンガー」を聴きたくなったので、図書館のCDを検索してみた。ところが、それがない。他のCDがなくても、カラヤン=ドレスデン盤だけはあるだろうと疑わなかった私はひどく落胆した。しかし、「マイスタージンガー」はどうしても聴きたかったので、代替品としてヨッフム指揮ベルリン・ドイツ・オペラ盤を借りてきた。

そして、私はすっかりこの演奏に陶酔してしまった。

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ワーグナー
楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』全3幕

  • ハンス・ザックス:ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ
  • ジクストゥス・ベックメッサー:ローラント・ヘルマン
  • ヴァルター・フォン・シュトルツィング:プラシド・ドミンゴ
  • エヴァ:カタリーナ・リゲンツァ

オイゲン・ヨッフム指揮ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団、合唱団、ほか
録音:1976年3-4月、ベルリン、イエス・キリスト教会
DG(国内盤 UCCG-4557/60)

フィッシャー=ディースカウは何を歌ってもフィッシャー=ディースカウだ。うまいことは認めるが、どこかの大学の先生が歌っていますという雰囲気がするので私は時にこの大歌手を敬遠したくなる。ところがどうだ、このザックスは。インテリ臭は残るものの圧倒的な貫禄ではないか。全曲をフィッシャー=ディースカウが睥睨している。これこそ本物のマイスターだ。この録音ではヴァルターをドミンゴが歌っているのも特色で、雰囲気抜群だ。

しかし、このディスクの本当の主役はヨッフムだ。爆発的な演奏ではないが、じわりじわりと盛り上がってくる。声楽陣も美しさが追求されていて、私は純粋にその美しさに打たれるのだが、どうやらそれだけではなさそうだ。この演奏にはひたひたと迫る高揚感があるのだ。それも、大変な高揚感だ。特に第3幕は陶酔を避けられない。これはヨッフムが並々ならぬ力で伴奏をつけているからだ。録音当時ヨッフムは74歳。十分にお年を召されている。しかし、ヨッフムの音楽はこの頃絶頂期でもあるのだ。この美しくも、興奮を呼ばずにはいない演奏はヨッフムの指揮によって作られているのだ。

私はクラシック音楽を聴き続けていて良かったと心から思った。CDを陶酔するほどのめり込んで聴いたのは久しぶりだった。そのように音楽を聴けること自体が私は嬉しい。離婚と転居が決まり、CDも、本も処分した時、私はオーディオ機器もいっそのこと処分し、クラシック音楽を聴くという趣味も捨てて人生をやり直そうと思っていたのだ。しかし、オーディオ機器を処分しなくて良かったのだ。音楽をこのように楽しんで聴けるのだから。音楽は私の人生の友であり、糧であり、慰めである。私はそれを再確認できて嬉しい。図書館のCDがこれほどの幸福を与えてくれるとは夢にも思わなかった。

(2015年8月22日)

映像の力

映像は強い。音を聴いているつもりでも我々の感覚は映像に支配されている。

私は二人の女子の父だったので、子どもたちに付き合ってAKB48やら乃木坂46やらといったアイドルグループの映像を見ていた。そのため、おじさんにしてはアイドルに詳しい。AKBに至っては、子供と一緒に総選挙に参加して投票していた。ぞろぞろ出てくる女の子たちの顔と名前が私は少しは分かる(キモイと若い子から冷たい視線で見られそうだが)。

しかし、どうにも頂けないのは、彼女たちがいつも口パクであることである。たまに例外があるようだが、殆ど歌っていない。テレビやコンサートで彼女たちは自分たちが歌った録音に合わせてにこにこしながら踊っているだけなのである。それなら、マイクなど持たないで踊ればいいのに、と余計なことを言ってしまいそうだが、彼女たちはれっきとした歌手なのだ。ステージで歌わないだけで、スタジオでは歌っているからだ。紅白歌合戦にも堂々と出場する。

口パクの歌手というのは歌手なのか? 正直に申しあげて、私は理屈に合わないと思う。しかし、彼女たちが出るテレビ番組や動画をこの私だってなんやかんやと言いながら大いに楽しんで見てしまうのである。

クラシック界も口パクとは無縁ではない。私にとってはショッキングな事例がある。2006年トリノ・オリンピック開会式におけるパヴァロッティである。彼はその時、大編成のオーケストラをバックにプッチーニの「誰も寝てはならぬ」を歌った。それはテレビを見ていた世界中の人々から喝采を浴びた。ところが、しばらくしてその時のパヴァロッティは口パクだったことが判明したのである。体調不良だったらしい。驚いたのは、バックで演奏していたオーケストラも、録音に合わせて身体を動かしていたことだ。YouTubeの動画は今やかなり削除されてしまっているようだが、私の記憶では指揮者をはじめ、楽団員が音を出していないようにはとても見えなかった。それはそれで大変な努力をしたのだろう。実は、この事実が発覚して以来、私はテレビ放送されている生演奏が果たして本当に生なのか疑問を持つようになってしまった。

私をはじめ、多くの人がトリノ・オリンピック開会式のパヴァロッティに熱狂した。誰もパヴァロッティが口パクだなんて思っていなかった。なぜなら、我々は「誰も寝てはならぬ」をいとも易々と歌うパヴァロッティを知っていたからである。「3大テノール」の映像を見ても、ドミンゴやカレラスとは比較にならないほど余裕たっぷりに歌っている。そういうパヴァロッティを知っているからこそ、彼の口パクは衝撃でもあったのだが、そのパヴァロッティでも口パクをせざるを得ないとすれば、極東のアイドルが口パクになるのは驚くに当たらないとも言える。

他にもある。例えば、数年前に大流行した『のだめカンタービレ』だ。非常に面白いドラマだった。原作漫画では音を出せなかったが、テレビ版でも映画版でも存分に音を出せる。我々はそれを心ゆくまで楽しんだ。しかし、主要な登場人物は実際には音を出していないのだ。テレビ版もプロが吹き替えを行っていたし、映画版でのだめのピアノ演奏を行っていたのはラン・ランだったりする。そして我々はそれに対して別に疑問を抱いてはいない。

要するに我々の感覚を支配するものは映像なのだ。AKBが口パクだからってそれを非難することはできない。口パクに疑問を持っていた私だったが、時代はますます口パクを許容する方向に流れそうだ。そのうちに、エアバンドならぬエアオーケストラが登場するかもしれない。私はきっと喜んで見に行ってしまうだろう。

(2015年8月15日)


おまけ 朗々と歌うパヴァロッティの勇姿

ヴィヴァルディの『四季』

浅田次郎の『蒼穹の昴』を読んでいたら、中国清王朝の話なのにヴィヴァルディが登場してきてきました。Wikipediaで「乾隆帝」を見ると、右にその肖像画が表示されていますね。その絵を描いたのが『蒼穹の昴』で重要な役割を演じるイタリア人・ジュゼッペ・カスティリオーネです。彼がまだヴェネチアにいた頃、一人の女性を取り合った仲だったのがヴィヴァルディでした(その女性の件は浅田次郎の創作でしょう)。

というわけで、すっかりヴィヴァルディの気分になってしまったので、思わず図書館CDを検索しました。すると、ありました。アーヨの1959年盤が。

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ヴィヴァルディ
協奏曲集『四季』作品8
イ・ムジチ合奏団
ヴァイオリン:フェリックス・アーヨ
録音:1959年4月29日-5月6日、ウィーン
PHILIPS(国内盤 PHCP-24001)

もはや古典的録音と呼んでも差し支えがない演奏です。演奏にもCDにも貫禄があります。私が手にしたCDは紙ジャケットで、CDの番号を見ても特別な位置にあることが分かります。

少なくとも日本でのヴィヴァルディ人気を決定づけた録音はこのアーヨによる『四季』だったはずです。そもそもこの録音にかける意気込みからして普通ではなかったようです。図書館から借りてきたCDの解説書を改めてしげしげと眺めてみると、イ・ムジチはわずか43分のこの曲を8日かけて録音しています。そして演奏はオーソドックスとはこのことだと謂わんばかりの楷書であります。本当に隙がありません。何となく録音したというものでは決してないのですね。イ・ムジチによる演奏が音楽界を長く席巻した後に登場したピリオド・アプローチによる演奏をいくつも聴いた今では、もっと過激さを求めたくなるところもありますが、この録音が登場した頃は曲の真価を表す演奏としてこれ以上の録音はなかったのではないでしょうか。PHILIPSの音もいまだに古さを感じさせません。

これからヴィヴァルディが忘れ去られるとはあまり考えにくいのですが、イ・ムジチの『四季』はどうなのでしょうか。40年前、30年前ほどの圧倒的な人気はさすがにもうありませんね。あと10年、20年もすると、工夫を凝らした新しめの録音に人気を取って代わられ、それこそ忘れられていくのでしょうか。若い人たちにはイ・ムジチ自体が古めかしくなっているかもしれません。しかし、私はこうして1959年録音盤を聴くだけでも清々しさを感じます。他にも私は特に評判が良いわけでもないカルミレッリ盤(1982年録音)を気に入っていて、他の録音を聴いた後でも必ずカルミレッリ盤の良さを再確認したものでした。ずっと、しかもいくつものイ・ムジチの『四季』に接してきただけに簡単に別れ話はできません。もしかしたら、私は死ぬまでイ・ムジチの『四季』を聴き続けるのではないかという気がしてきました。それもクラシック音楽ファンの生き方なのかもしれません。

(2015年8月13日)

クレンペラー指揮の『大地の歌』

ワルターの『大地の歌』と同時にクレンペラー盤も図書館で借りていたので、追記します。

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マーラー
交響曲『大地の歌』
オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団・ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
メゾ・ソプラノ:クリスタ・ルートヴッヒ
テノール:フリッツ・ヴンダーリッヒ
録音:1964年2月19-22日、ロンドン、キングズウェイ・ホール
1964年11月7-8日、1966年7月6-9日、ロンドン、アビーロード第1スタジオ
EMI(国内盤 TOCE-59020)

ワルターと並んでマーラーの直弟子であったクレンペラーは、まるでワルターの向こうを張るかのように別次元の『大地の歌』を演奏・録音しています。同じ曲を演奏しているのに、よくこれだけ違うものができたものです。

ワルターはマーラーの音楽と一体化しています。ワルターはマーラーの人となりを知っているだけでなく、心の闇まで知っていたのかもしれません。その上でマーラーの音楽を理解しています。だからかもしれませんが、ワルターのマーラーはかなり主情的です。普通の聴き方をするのであれば、一度聴けば十分です。聴き手の心理が保たないのです。私は今回ワルターの『大地の歌』を何度か聴き比べしましたが、正直申しあげてワルター盤、特にウィーン・フィル盤は何度も聴くべき演奏ではないと思い知らされました。

クレンペラーはワルターと違ったアプローチをしています。音楽から距離を置いているのです。『大地の歌』は人間の燃えさかるような暗い情念が低く呻くように、そして燃えたぎるように激しく渦巻く作品ですが、クレンペラーはその中に身を置きません。このような曲であってもクレンペラーはあくまでも客観的に音符をひとつずつ確信をもって積み上げるアプローチをします。クレンペラー盤の演奏はワルター盤と違って、カチッとした外形を保ったように私は感じているのですが、これは音楽全体がクレンペラーの冷徹で強固な意志に貫かれているからだと思っています(マーラーの場合でも、そのようにして演奏された交響曲第9番は別格の演奏でした)。交響曲第9番のような形式をもつ曲だけではなく、『大地の歌』のような曲でもそのスタイル、アプローチ方法を変えずに曲を提示できるクレンペラーは本当に偉大な指揮者だったのですね。

ところで、このクレンペラー盤は1964年と1966年に録音されています。かなり長期にわたった録音ですが、幸運にもクリスタ・ルートヴッヒとフリッツ・ヴンダリッヒはそのまま録音に参加できました。しかし、オーケストラは、フィルハーモニア管とニュー・フィルハーモニア管の両方が並んでいます。フィルハーモニア管の実質的なオーナーであったウォルター・レッグが1964年3月10日に一方的に解散宣言をしたためです。つまり、解散宣言騒動の前後に録音が行われたのです。オーケストラの名称が変わっただけではありません。録音のプロデューサーはウォルター・レッグからピーター・アンドリーに、録音技師はダグラス・ラーターからロバート・グーチに代わっています。これは危ういところで命を繋いでもらえた運のいい録音であるわけですが、演奏からも、収録された音からもその間の継ぎ接ぎの様子は窺えません。目の眩むような色彩感を捉えきったEMI最高ランクの音と併せ、これほど奇跡的という言葉が似合う録音はありません。

(2015年8月10日)

ワルター指揮の『大地の歌』

ワルターが指揮する『大地の歌』を聴きたくなったのでウィーン・フィル盤とニューヨーク・フィル盤を図書館で借りてきました。さすがに戦前の録音は図書館では架蔵していませんでした。残念。

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マーラー
交響曲『大地の歌』
『リュッケルトの詩による5つの歌曲』から3曲
コントラルト:カスリーン・フェリアー
テノール:ユリウス・パツァーク
ブルーノ・ワルター指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1952年5月15-16日(大地の歌)、1952年5月20日(リュッケルト)、ウィーン、ムジークフェラインザール
DECCA(国内盤 UCCD-4417)

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マーラー
『大地の歌』
メゾ=ソプラノ:ミルドレッド・ミラー
テノール:エルンスト・ヘフリガー
ブルーノ・ワルター指揮ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1960年4月18,25日、ニューヨーク、マンハッタンセンター
SONY(国内盤 28DC 5055)

ワルターはマーラーの愛弟子であるばかりではなく『大地の歌』の初演者でもあることから、ワルターの『大地の歌』録音は音楽ファンの中で決定盤的な位置づけにありました。

1952年のウィーン・フィル盤は、モノラル録音でありながらDECCAの優れた録音技術によってステレオ録音と比べても殆ど遜色がない音が収録されています。極彩色の大音響で開始される第1楽章からして驚異的であります。それを演奏するウィーン・フィルがこれまた立派です。合奏部分はもちろんのこと、この曲に登場する木管楽器のソロが極めつけの音を聴かせます。そして歌手です。ソロを努めるカスリーン・フェリアーとユリウス・パツァークには長い間厚い賛辞が寄せられてきました。これほど完成度の高い録音が60年以上も前に行われたことに驚きを禁じ得ませんし、ワルターの遺産としてこの録音を聴くことができる我々は幸福であると思います。

それに比べると、1960年のニューヨーク・フィル盤はやや日陰者扱いのような気がします。「マーラー=ワルター=ウィーン・フィル」という三位一体のようなブランドがニューヨーク・フィルには求められないからでしょう。第6楽章の「告別」を歌うミルドレッド・ミラーもカスリーン・フェリアーほどの賛辞を受けていないように思えます。しかし、私はこのニューヨーク・フィル盤はウィーン・フィル盤と比べて何ら劣るものではないと思っています。わずか2日間でこの曲を録音したワルターですが、マーラーの世紀末的な音響や情緒纏綿とした響きを聴くと、ニューヨーク・フィルをワルターがウィーン・フィルと同様に完全に掌中にしていることが窺えます。おそらく録音とは別に実演のための綿密なリハーサルがあったのではないかと私は推測しております(検証しておりませんので、想像の域を出ません)。

私はいずれの録音も優れていると思いますし、それぞれから大きな感銘を受けます。ただし、一長一短はあると感じています。1952年盤は『大地の歌』の歴史の一部となるような重みを聴き手に感じさせます。それゆえに説得力があるのです。しかし、どうしてもモノラル録音であることの制約はあるのです。DECCAの類い稀な録音技術があっても、肝心の第6楽章で私は物足りなさを感じます。それはオーケストラによる長い間奏部分でオーケストラの強奏による重い響きが聴き手を押しつぶす場面です。ここばかりは1960年ステレオ録音に叶わないのです。1960年盤を聴くと、この肺腑をえぐるような響きに圧倒されるのです。身体で感じるその響きのすごさは認めなければなりません。とはいえ、どちらもワルター畢生の遺産です。ありがたく拝聴するに限ります。

ここからは余談です。

曲目を記述する際には、国内盤の表記をそのまま転記しました。1952年盤は 交響曲 『大地の歌』と記載してあります。一方、1960年盤は 交響曲 とはどこにも記載がありません。逆に交響曲とは明記しなかった1960年盤の解説書ではアルマ=マーラーの言葉を引用し、交響曲だと説明しています。これに対し、曲目に交響曲と記載した1952年盤では「マーラーはこの『大地の歌』を交響曲として扱った」というマイケル・ケネディの出典不明の言葉が掲載されていますが、アルマ=マーラーの言葉は引用されていません。そして、CDのジャケットでは、両盤ともに「Symphony」という表記はありません。こうなると何が何だか分かりません。以前から気になっていたのですが、『大地の歌』は、交響曲と強弁しなければ何か問題があるのでしょうか? 『大地の歌』は『大地の歌』であり、別に交響曲でなくとも私は構いません。どうしてもアルマ=マーラーの言葉を引き合いに出したりして交響曲だと主張するのは、奇妙な気がします。歌曲集では格好良くないということなのでしょうか? いや、もしかすると、交響曲こそが最高の音楽形態であって、それ以外は格が下がるのだとでもいいたいのでしょうか? 我らのマーラーが作った曲なのだから最高の音楽形態である交響曲でなければ気が済まないとする音楽関係者がいるのでしょうか。まさかね。

(2015年8月9日)

ラフマニノフの交響曲第2番に聴くDECCA録音

図書館のCDにアシュケナージが指揮したラフマニノフの交響曲第2番があるのを発見したので借りてきました。

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ラフマニノフ
交響曲第2番 ホ短調 作品27
交響詩「死の島」作品29
ヴラディミール・アシュケナージ指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
録音:交響曲第2番=1983年1月、死の島=1981年9月
DECCA(国内盤 UCCD-50076)

真夏にこの曲を聴くと暑っ苦しくて耐えられないかもしれないという不安はCDを聴き始めてすぐに払拭されました。それは、このCDの音響があまりにも美しく、陶酔させられるからです。この録音を聴いて、その音に魅了されないなどというクラシックファンがいるでしょうか。この音で聴けるからこそ、この曲が精彩を放つのです。

ラフマニノフの交響曲第2番は、実演で聴くと長大なだけで退屈することがあります。ところが、アシュケナージ盤は音響だけで聴かせるという離れ業をやってのけます。それがアシュケナージ一人の功績かといえばとてもそうだとは言えません。コンセルトヘボウ管という希代のオーケストラとDECCAの録音スタッフにも多くを負っているのです。

私の世代はPHILIPSやDECCAの録音によってコンセルトヘボウ管の音を知りました。この二つのレーベルが聴かせた音こそがコンセルトヘボウの音でした。PHILIPSとDECCAだけがコンセルトヘボウというホールの特性とオーケストラの響きを完全に掌握した録音を生み出したのです。特にDECCAの録音は美しかった。美しすぎるとさえ思いました。だから、もしかすると、私が聴いていたのはコンセルトヘボウにおけるコンセルトヘボウ管の音ではなく、DECCAが作ったコンセルトヘボウ管の音なのではないかと疑念を持ったこともありました。しかし、実際にコンセルトヘボウでこのオーケストラを聴いた時に、その疑念は解消されました。

では、どのレーベルも、コンセルトヘボウでコンセルトヘボウ管の録音を行えば成功するのかといえば、そんなことはないのです。DGもいくつかの録音をコンセルトヘボウで行いましたが、このレーベルは結局ホールの特性を全く掴むことができなかったようでした。DGのコンセルトヘボウ録音は音響面では失敗作です。そして、もうひとつ。RCOLiveです。コンセルトヘボウ管の自主制作盤でありながら、音質面では今ひとつでした。DECCAのスタッフは単に何となく名録音を作れたのではなく、マイク・セッティングのノウハウなど、彼らにしかできなかった何かがあったのでしょう。

しかし、今やCDの録音自体がなくなってしまいました。アシュケナージのラフマニノフは、コンセルトヘボウでのコンセルトヘボウ管の音を最高品質で楽しめるCDとして骨董品的価値を持つに至りました。現在にではなく、30年も前に最高峰があるというのは寂しいものです。

(2015年8月3日)