月別アーカイブ: 2016年1月

セルのベートーヴェン

私はセッション録音を好んで聴くし、90年代以降、安易に量産されたライブ録音盤には殆ど魅力を感じない。しかし、ライブ録音といっても指揮者とオーケストラの本気演奏は、どれほど古くても価値があると思う。

例えば、セルがシュターツカペレ・ドレスデンを指揮したCDだ。

beethoven_5_szell_dresden

CD1
ベートーヴェン
「コリオラン」序曲 作品82
ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 作品73「皇帝」
ピアノ:ニキタ・マガロフ

交響曲第5番 ハ短調 作品67
録音:1961年8月6日、ザルツブルク、祝祭劇場におけるライブ
CD2
ベートーヴェン
「エグモント」序曲 作品84
ブルックナー
交響曲第3番 ニ短調
録音:1965年8月2日、ザルツブルク、祝祭劇場におけるライブ

ジョージ・セル指揮シュターツカペレ・ドレスデン
ANDANTE(輸入盤 AN2180)

セルには名盤が少なくないが、クリーブランド管弦楽団とのベートーヴェン録音についてはかねてから疑問符を付けていた。セルはオーケストラのコントロールを徹底しているから、その仕上がりは文句の付けようのないほど均整が取れている。しかし、それを聴いて身体が熱くなるような経験を私はしたことがないのである。演奏を聴いていると、楽団員が上司に睨まれながら仕事をこなしているのではないかとさえ思われることもあった。

ところが、このザルツブルクのライブ録音はどうだろう。オーケストラが喜んで演奏をした堂々のベートーヴェンである。コントロールという言葉が浮かぶ以前にベートーヴェンの音楽が私を燃え立たせる。指揮台に立っているのは本当に同じセルなのだろうか。

セルはシュターツカペレ・ドレスデンとは縁遠かった。これはザルツブルク音楽祭が産み出した特別な組み合わせなのだ。そういえば、セルは1969年にもザルツブルクでウィーン・フィルと熱狂的演奏を行っている。セルにとってウィーン・フィルはシュターツカペレ・ドレスデンよりは近い関係にあっただろうが、やはり他流試合であっただろう。そういうとき、セルはマジャールの血を燃えたぎらせてしまうらしい。こういう録音はもう出てこないのだろうか。ベートーヴェンの他の交響曲録音はないのか。

ひとつ疑問が生じた。セルはクリーブランドでのコンサートではどんなベートーヴェン演奏をしていたのだろう? セッション録音と似通った雰囲気の演奏だったのだろうか。もしかしたら、セッションとは別人になっていた可能性も否定できない。・・・などと私は妄想に耽っているのだが、その検証を実際にしてみたくてたまらなくなった。こういうのを正月ボケという。

(2016年1月5日)

ラトルのハイドン:交響曲第90番を聴く

私はハイドンが大好きである。その魅力にとらわれ、手に入れられる録音は片っ端から聴いた。交響曲全集は3種聴き通した。

ハイドンという、クリエイターとしては異常なほど健全な人格から生まれた交響曲はやはり健全極まりない。通常の音楽ファンに交響曲としてカウントされるは104曲あるが、それだけの数があるのに病んでいる曲はひとつもない。わずか10曲しかないのにその殆どが病んでいる作曲家もいることを考えると、ハイドンの健全さは際立つ。

健全なだけではない。注文主や聴衆を楽しませようという創意工夫が曲中に溢れている。たった一人の作曲家がよくもここまで同じジャンルで別の曲を作り続けられたものだと感心する。

具体的に見てみよう。

往年の指揮者ではカール・ベームがあの風貌に似合わず見事なハイドン演奏を聴かせる。ベームは職人として曲の勘所が分かったのだろう。現代の指揮者ではおそらく、サイモン・ラトルが随一だと私は睨んでいる。以下のCDは中でもとびきりの出来映えだ。特に第90番は必聴だ。

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ハイドン
交響曲第88番 ト長調
交響曲第89番 ヘ長調
交響曲第90番 ハ長調
交響曲第91番 変ホ長調
交響曲第92番 ト長調「オックスフォード」
シンフォニア・コンチェルタンテ 変ロ長調
サー・サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:2007年2月8-10,14-17日、ベルリン、フィルハーモニーにおけるライブ録音
EMI(輸入盤 3 94237 2)

ラトルはハイドンが好きらしく、バーミンガム市交響楽団時代にもハイドン録音を世に問うている。このCDに収録されている第90番に至っては再録音だ。しかし、こちらの方が圧倒的に面白い。

問題は第4楽章だ。一旦景気よく終わるのである。このCDはライブ録音されているから、そこで盛大な拍手が入る。しかし、終わりではない。ラトルはしれっとコーダ(と呼んでいいのか分からないが)をリピートするのである。リピートされたコーダは盛大に終わる。今度こそ全曲が終わったと思った聴衆はまた拍手をする。噂では、このときラトルは指揮棒を降ろしていたという。しかし、実は終わっていない。あろうことか、もう一度コーダを演奏するのである。会場は笑いとざわめきで一杯だ。

このアイディアは秀逸だ。ラトルのCDには、聴衆を2度も騙したライブ版だけでなく、真面目に、そして聴衆の拍手なしで演奏したセッション録音版も収録されている。どちらが面白いかは言うまでもない。私はハイドンがスコアにどんなふうに記しているのか知りたくて調べたこともあるが、ハイドンの交響曲第90番なんて曲はマイナーすぎて、そのスコアを自分の目で確認することはできなかった。私のような素人に「スコアを見てみたい」と思わせた曲はこの曲ぐらいなものである。本当にどうなっているのか見てみたい!

不思議なのは、この2度もある騙しのアイディアを、ベームはおろか誰も使っていないことだ。ラトルも旧盤では採用していない。なぜだろう。指揮者が知らないのか? そんなはずはない。指揮者も人とは違ったことをしたくないのか。それともこれはラトルが思いついた特殊な演奏方法だからか?

もっと多くの演奏家にハイドンを演奏してほしい。そして我々を楽しませてほしい。ハイドンの曲はそれを可能にする。私はラトルのこの演奏を聴いてラトルが好きになったし、ハイドンはもっと好きになった。もっと聴かれてもいいのに、と思う。

(2016年1月3日)

クーベリックのモーツァルトを聴く

1日から2日にかけてクーベリックのモーツァルト録音を聴いた。SONYへの録音は全6曲である。全曲を聴いても3時間はかからない。しかし、あっという間に聴き通すというわけにはいかなかった。本気で聴くには、聴く方にも相当のエネルギーが要求されるのである。1曲聴いては休み、真剣に聴いた。疲れたが、モーツァルトの音楽に浸りきることができたので満足した。

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Rafael Kubelik Conducts Great Symphonies  7CDから
モーツァルト
交響曲第35番 ニ長調 K.385「ハフナー」
交響曲第36番 ハ長調 K.425「リンツ」
交響曲第38番 ニ長調 K.504「プラハ」
交響曲第39番 変ホ長調 K543
交響曲第40番 ト短調 K.550
交響曲第41番 ハ長調 K.551「ジュピター」
ラファエル・クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団
録音:1980年6月、10月、ミュンヘン、ヘルクレスザール
SONY(輸入盤 88697884112)

1日に第38番「プラハ」、第39番、第35番「ハフナー」までを聴き、2日に第36番「リンツ」、第40番、第41番「ジュピター」を聴いた。モダン楽器によるひたすら美しいモーツァルトだった。豪快さや、重厚さを求める場合には他の指揮者・オーケストラとの演奏が俎上にのぼるだろうが、クーベリックのモーツァルトには光り輝くばかりの高貴さ、しなやかさ、格調高さがある。バイエルン放送交響楽団のアンサンブルは非常に精緻だ。このモーツァルト演奏は、いかにクーベリックが指揮しようとも、このオーケストラ抜きには成り立たなかっただろう。指揮とオーケストラが持てる力を発揮した総決算的な録音だ。また、モダン楽器によるモーツァルト演奏の最後の輝きを表した録音とも言える。

以下は余談である。

CDジャケットに掲載されているデータによると、録音は1980年の6月と10月に集中して行われている。

6月8日:第41番
6月9日:第35番
6月10日:第39番
10月15日:第36番
10月16日:第38番
10月17日:第40番

1日に1曲だ。私は1曲に数日かけているのではないかと思っていたのだが、これを見ると、1980年当時にはそんな時代がとうに終わっていたことが分かる。コンサートのリハーサルからの流れでセッションを組まなければセッション録音を行うことが難しかったのだろう。それでもセッション録音であることに変わりはない。

この時代の後、セッション録音は姿を消していく。大指揮者と名オーケストラのセッション録音だからこそこれだけ高品質の録音が完成したと私は考えているのだが、その後のクラシック音楽録音の歴史はライブでの録音に傾斜していく。その結果、夥しい数の録音が生産されたが、それらはクラシック音楽録音の資産となったのだろうか。演奏者や録音スタッフの労働時間短縮は実現したのかもしれないが、価値のないものが量産されるという皮肉な結果になっていないか。そして、今や、録音自体が減少している。

それともうひとつ。バイエルン放送響は、クーベリックの時代には数々の名録音を残した。名実ともに一流オーケストラであったが、その後はどうなのだろう。腕利きのオーケストラではある。技術的には数段向上したかもしれない。しかし、このオーケストラはクーベリックが去った後、これといった名盤を世に送り出していない。少なくとも、私は思いつかない。機能的な一流オーケストラには違いないのだが、このオーケストラはクーベリックあってこそのオーケストラだったのだ。クーベリックがいかに大きな音楽家であったかが窺い知れることである。

(2016年1月2日)

An die Musik D547

新年に何を聴くべきか。といっても私のCD棚には数えるほどのCDしか残っていない。その中から選ぶのは簡単だ。エリー・アメリングのシューベルトである。

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シューベルト
歌曲集
ソプラノ:エリー・アメリング
ピアノ:ダルトン・ボールドウィン
録音:1982年7月
PHILIPS(輸入盤 410 037-2)

冒頭の「音楽に寄せて An die Musik D547」は必聴である。今までこの曲を何回聴いたのか想像もつかないが、聴き直す度に感銘を受ける。

シューベルトは二十歳そこそこの年齢でこの曲を作った。信じられないことだ。それはまさに音楽史上の奇跡としかいいようがない。なぜなら、3分にも満たない曲の中に、人生の悲喜こもごもが凝縮されているからだ。どうして年端も行かぬ若者にそのような離れ業ができたのだろうか。シューベルトにしてみればショーバーの詩に軽く曲を付けただけだったのかもしれないが、後世の音楽ファンはこの曲を聴いて音楽を聴けるありがたさをしみじみと噛みしめているのである。

私はこの曲名をこのホームページのタイトルに使っている。ホームページ立ち上げ時には様々な名前が候補にのぼった。しかし、ひとたびこの曲を思い出すや、他のタイトルは考慮の対象にすらならなくなった。この曲は私の音楽に対する思いと完全に合致するからである。私は音楽を聴く時には、音そのものを楽しんだり、興奮したり、気分を落ち着けたりする。そして何より、音楽そのものが慰めだ。音楽がなければ、私の人生はどれだけ寂しいものになっただろうか。音楽はどんなときでも私の側にいてくれるのだ。その音楽に対する感謝がなくてどうして音楽を聴き続けることができるだろうか。「音楽に寄せて An die Musik」こそ音楽を聴く私のための音楽である。

(2016年1月1日)