月別アーカイブ: 2015年3月

シューベルトの幻想曲ハ長調 D934

つい最近まで自覚はなかったのですが、私はシューベルトが好きらしいです。An die Musik上でもよく取り上げてきたように思います。そしてCD大量処分後にも一定数のディスクが残りました。幻想曲ハ長調 D934もそのひとつでした。

schubert_fantasiaD934_kreme

シューベルト
ヴァイオリン・ソナタイ長調 D574
幻想曲ハ長調 D934
「しぼめる花」の主題による序奏と変奏曲 D802 作品160(遺作)

ヴァイオリン:ギドン・クレーメル
ピアノ:ヴァレリー・アファナシエフ(D574 と D934)
ピアノ:オレグ・マイセンベルク(D802)

録音:1990年1月、ベルリン(D574 と D934)、1993年11月、ミュンヘン(D802)
DG(国内盤 UCCG-3648)

D940の幻想曲はピアノ連弾曲でしたが、D934はピアノとヴァイオリンのための曲です。さらにD760の幻想曲はピアノ独奏曲で、世に名高い「さすらい人」幻想曲ですね。

D934の幻想曲もD940同様、シューベルトの死の年に書かれた傑作です。全部で4つの部分に分かれていますが、それも他の幻想曲同様切れ目なく演奏されます。

静寂の中から細く細く音楽が紡ぎ出されてくる第1部の冒頭は神秘的であります。いきなりシューベルトの幽玄の世界に引き込まれます。第2部で音楽が高調していったん元の静けさに戻ると、第3部が始まり、聴き慣れた旋律が聞こえてきます。シューベルトの歌曲「挨拶を送らん(Sei mir gegruesst)」D741であります。シューベルトは自作の歌曲の主題に基づく変奏曲をこの幻想曲の第3部に置いたのです。この部分が全曲の半分近くを占めます。主題自身がシューベルトらしく心に染み入るような旋律である上に、馴染み深いこともあり、この第3部は実に聴き応えがあります。その最後の部分では第1部冒頭の旋律が回帰してきます。その素晴らしさ。第4部はフィナーレらしく明るく楽天的な曲となっていますが、最後にまた「挨拶を送らん」が登場してきます。「挨拶を送らん」はなんて愛くるしい曲なんでしょうね。胸が詰まりそうになります。

クレーメルとアファナシエフのCDはこの曲の美質を余すことなく伝えています。特にクレーメルのヴァイオリンは冴えわたっています。名録音を大量に残してきたヴァイオリニストですが、これは彼の隠れた名録音なのではないかと思っています。

(2015年3月14日)

ブラームスの風景

ブラームスを聴いていると、どこかの風景を思い浮かべることがあります。誰の耳にも分かりやすい例は交響曲第2番です。この曲を指して「ブラームスの田園交響曲である」というのはまことに陳腐ではありますが、私はいつものどかな風景を思い浮かべます。第1楽章はまさにドイツやオーストリアの田園風景です。山紫水明の景色の中に爽やかな風が吹き込んでくるような趣があります。ブラームスはよほど風光明媚な土地でこの曲を作曲したに違いない、その場所を是非この目で見たいものだと私は常々思ってきました。もちろん、交響曲第2番に限らず、ブラームスには様々な風景があります。そんなことを感じるのはブラームスの聴き方として正しくないといわれてしまいそうですが、私はどうしても風景を感じてしまうのです。

ブラームスの曲には風景があると考えたのは私だけではないらしくて、興味深いことに、ブラームスが名曲を作曲した地を写真付きで紹介している本が出ています。

ブラームス「音楽の森へ」
堀内みさ:文
堀内昭彦:写真
世界文化社
2011年刊

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本には作曲の地の美麗な写真が多数掲載されています(写真をクリックするとamazonの画面に飛びますのでご覧ください)。どれもため息が出そうな景色です。交響曲第2番やヴァイオリン・ソナタ第1番はペルチャッハ。写真が伝えるものは、現実以上に美化された断片でしょうが、それでも私の予想を裏付ける風景を見ることができました。交響曲第1番ではリヒテンタール。ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲ではアルプスのふもとトゥーン湖畔。クラリネット五重奏曲ではバート・イシュル。どの風景もブラームスの曲の中にこっそり入っていますし、この本を眺めた後で曲を聴くと「ああ、なるほどね」などと子どもじみた単純な感慨をもつのでありました。

実際はブラームスが生きた時代から100年以上経っているのですから元の風景がそのまま残されているわけではありません。また、写真はあくまでも風景の断片にしか過ぎません。この本の写真を見て過大に美化するのは危険ですが、私はやはりブラームスは風景を曲に織り込んだと思いたいです。この本を見たら、それぞれの作曲の地に行ってみたくてたまらなくなりました。

ちなみに、ブラームスは自分の赤裸々な心情を曲に盛り込むこともあります。典型例はピアノ協奏曲第2番第3楽章Andanteです。寂寥感漂うこの楽章ではブラームスがやけ酒でも飲んで「俺はもうだめだ。いいんだ、放って置いてくれ」とでもつぶやいているようです。私はそのAndanteを聴くとブラームスには失礼だと思いながらくすっと笑いたくなるのですが、そんな感情を曲に込めたブラームスも大好きです。しかし、ブラームスの作曲時における赤裸々な心情をピックアップした本にはまだ出会っていません。

(2015年3月8日)

追憶のアルバン・ベルク弦楽四重奏団

CD売却話の続きです。

CDを売却する際は量が膨大だったので、業者の人に自宅まで来てもらい、査定・梱包・発送までを一挙にやってもらいました。作業が無事終了して業者が帰った後ふとCD棚を見てみると、アルバン・ベルク弦楽四重奏団によるベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲集がぽつねんと取り残されていました。

CDジャケット

ベートーヴェン
後期弦楽四重奏曲集
アルバン・ベルク弦楽四重奏団
EMI(国内盤 CC30-3197-200)

アルバン・ベルク弦楽四重奏団のベートーヴェンは旧録音がボックスセット化されています。私はそれを所有しているので、かさばる旧盤は処分しても良いと判断したのですが、業者にとっては余りありがたくもないディスクだったのでしょう。何しろ、古い国内盤で、帯はなく、背表紙は日に焼けているときています。梱包するのを忘れたというより、商品価値なしとして捨て置かれたのかもしれません。

私がこの4枚組CDを買ったのは学生の時で、何と12,000円もしたのです。それが今や商品価値がなくなっているのだとすれば時代の移り変わりを感じざるを得ません。さんざん聴いたCDですし、思い出深いのに処分しようと思った私が悪かったのかもしれません。持って行かれなかったのはきっと何かの縁です。こうなったらこのCDをずっと大事にしていきたいと決心した次第です。ボックスセットの方はディスクの枚数制限があったのか窮屈なカップリングになっているので、これが残ったのは結果的に良かったのだと自分に言い聞かせます。

私は学生の頃、弦楽四重奏曲に熱中していました。アルバン・ベルク弦楽四重奏団が来日した際は、演奏を聴きに出かけたりしました。そして驚きました。演奏に、ではなく、その音にです。なぜなら、CDと同じ音がしたからです。本当に驚きました。私はオーケストラを聴いていてCDと同じ音だと感じたことは今まで一度もありません。これからもないと思います。アルバン・ベルク弦楽四重奏団の演奏をCDで聴いている時は、これほど明確で切れの良い音が聴けるのは録音技術のお陰だとばかり思っていたのですが、そうではなかったのです。それ以来、EMIのアルバン・ベルク四重奏団の録音は興味をもって聴いてきました。1990年代には弦楽四重奏曲の録音といえば何でもかんでもアルバン・ベルク四重奏団の名前が挙がるなど、違和感を覚えたこともあるのですが、歴史に名を残す四重奏団だったことは間違いないでしょう。振り返ってみるとハイドンの弦楽四重奏曲集など、手放すには惜しいCDが随分あったように思えます。だからこそ、EMIにはぜひアルバン・ベルク弦楽四重奏団の全曲録音ボックスセットを出してもらいたいものです。ボックスセットばやりの昨今なのに、あれほどの盛名を馳せたアルバン・ベルク弦楽四重奏団のボックスセットがないのは不思議です。弦楽四重奏曲という渋いジャンルが邪魔をしているのかもしれません。

わが世の春を謳歌していたかに見えたこの四重奏団も、2005年にヴィオラのトーマス・カクシュカが死去すると存続の危機に見舞われましたね。カクシュカの弟子であるイザベル・カリシウスが後を継いだのでそのまま続けるかと思いきや、2008年には四重奏団が解散してしまいました。まことにあっけない幕切れでした。今思えば、私が弦楽四重奏曲をこれまでずっと楽しんでこられたのはアルバン・ベルク弦楽四重奏団のお陰だったような気がします。せめて彼らの録音は聴き続けたいものです。

(2015年3月7日)

シューベルトの幻想曲 ヘ短調 D940

いつだったか、吉田秀和の本を読んでいたら「幻想曲ヘ短調 D940を知らなければ、シューベルトのピアノ曲を知っているとは言えない」という主旨の文章にぶつかりました。どうしても出典を思い出せないので、それが正確な表記だったか自信が持てないのですが、確かにそんな意味のことが述べられていました。私は結構シューベルトの曲を集めていたのに、その際幻想曲ヘ短調 D940と言われてもすぐに曲をイメージできませんでした。気になってCDラックを見てみると、何といくつも出てきました。私の頭に残っていなかったというのは、よほど真面目に聴いていなかったのでしょうね。

D940ですからシューベルト最晩年の作品です。聴いてみると、確かに美しい曲でした。名曲です。ピアノ連弾曲で、4つの部分からできていますが、それが途切れることなく演奏されます。いかにもシューベルトらしい切々たる旋律で始まりますが、現れる主題はどれも以前から知っていたような錯覚を覚えさせるもので、改めてシューベルトの天才を感じます。また、ピアノが激しく鳴り渡るところは「さすらい人幻想曲」に一脈通じるところがあります。ただし、「さすらい人幻想曲」がほとんど爆発的な音楽であるのに対し、幻想曲ヘ短調D940は基本的に内省的であります。なるほどこういう曲があったのかと吉田秀和に私は感謝したものでした。

それからというもの、私はこの曲を時時聴くようになったのですが、大量のCDを処分した今なお手許に残ったのはキーシンとレヴァインのCDのみでした。

CDジャケット

シューベルト
4手のためのピアノ作品集

  • 幻想曲 へ短調 D940 作品103 
  • アレグロ イ短調 D947 作品144「人生の嵐」 
  • ソナタ ハ長調 D812 作品140 「グランド・デュオ」
  • 性格的な行進曲 第1番 ハ長調 D968b 作品121-1 
  • 軍隊行進曲 第1番 ニ長調 D733 作品51-1 

ピアノ:エフゲニー・キーシン、ジェームズ・レヴァイン
録音:2005年5月1日、ニューヨーク、カーネギーホールにおけるライブ録音
RCA=BMG(国内盤 BVCC-38352-53)

この2枚組CDの特徴は、シューベルトの連弾用の曲を1台のピアノではなく、2台のピアノで弾いていることです。本来は家庭音楽として作曲された連弾用の曲を、3,000人も収容できるカーネギーホールですべての聴衆に聴かせるには無理があるので、苦肉の策として2台のピアノを使うことにしたそうです。そうでもしなければ、キーシンが巨漢のレヴァインの隣で弾くのは辛かったのだろうと私は勝手に想像していますが。

2台のピアノで弾いている時点で、このCDで聴くシューベルトは本来の持ち味とはかなり様相を異にしています。実際に2人ともコンサートの間ずっとバリバリ弾いています。スピーカーの左側がキーシンで、右側がレヴァイン。レヴァインはピアノの腕前も達者で、キーシンに引けを取らないパワーを見せつけます。こうなるとシューベルトの曲はコンサート用ショウ・ピースとして精彩を放ってきます。それもひとつの楽しみ方なのだと割り切ると大変楽しいです。

冒頭に演奏された幻想曲ヘ短調 D940では私がかつて持っていたどのCDよりもダイナミックな演奏が聴けます。シューベルトがこの演奏を聴いてどう思うか分かりませんが、私はダイナミズムを突き詰めた演奏として気に入っています。もしかしたら邪道なのかもしれませんが、こういう楽しみも許してもらいたいです。

(2005年3月1日)