ワルターの『大地の歌』と同時にクレンペラー盤も図書館で借りていたので、追記します。
マーラー
交響曲『大地の歌』
オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団・ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
メゾ・ソプラノ:クリスタ・ルートヴッヒ
テノール:フリッツ・ヴンダーリッヒ
録音:1964年2月19-22日、ロンドン、キングズウェイ・ホール
1964年11月7-8日、1966年7月6-9日、ロンドン、アビーロード第1スタジオ
EMI(国内盤 TOCE-59020)
ワルターと並んでマーラーの直弟子であったクレンペラーは、まるでワルターの向こうを張るかのように別次元の『大地の歌』を演奏・録音しています。同じ曲を演奏しているのに、よくこれだけ違うものができたものです。
ワルターはマーラーの音楽と一体化しています。ワルターはマーラーの人となりを知っているだけでなく、心の闇まで知っていたのかもしれません。その上でマーラーの音楽を理解しています。だからかもしれませんが、ワルターのマーラーはかなり主情的です。普通の聴き方をするのであれば、一度聴けば十分です。聴き手の心理が保たないのです。私は今回ワルターの『大地の歌』を何度か聴き比べしましたが、正直申しあげてワルター盤、特にウィーン・フィル盤は何度も聴くべき演奏ではないと思い知らされました。
クレンペラーはワルターと違ったアプローチをしています。音楽から距離を置いているのです。『大地の歌』は人間の燃えさかるような暗い情念が低く呻くように、そして燃えたぎるように激しく渦巻く作品ですが、クレンペラーはその中に身を置きません。このような曲であってもクレンペラーはあくまでも客観的に音符をひとつずつ確信をもって積み上げるアプローチをします。クレンペラー盤の演奏はワルター盤と違って、カチッとした外形を保ったように私は感じているのですが、これは音楽全体がクレンペラーの冷徹で強固な意志に貫かれているからだと思っています(マーラーの場合でも、そのようにして演奏された交響曲第9番は別格の演奏でした)。交響曲第9番のような形式をもつ曲だけではなく、『大地の歌』のような曲でもそのスタイル、アプローチ方法を変えずに曲を提示できるクレンペラーは本当に偉大な指揮者だったのですね。
ところで、このクレンペラー盤は1964年と1966年に録音されています。かなり長期にわたった録音ですが、幸運にもクリスタ・ルートヴッヒとフリッツ・ヴンダリッヒはそのまま録音に参加できました。しかし、オーケストラは、フィルハーモニア管とニュー・フィルハーモニア管の両方が並んでいます。フィルハーモニア管の実質的なオーナーであったウォルター・レッグが1964年3月10日に一方的に解散宣言をしたためです。つまり、解散宣言騒動の前後に録音が行われたのです。オーケストラの名称が変わっただけではありません。録音のプロデューサーはウォルター・レッグからピーター・アンドリーに、録音技師はダグラス・ラーターからロバート・グーチに代わっています。これは危ういところで命を繋いでもらえた運のいい録音であるわけですが、演奏からも、収録された音からもその間の継ぎ接ぎの様子は窺えません。目の眩むような色彩感を捉えきったEMI最高ランクの音と併せ、これほど奇跡的という言葉が似合う録音はありません。
(2015年8月10日)
これは私も所有しているので、伊東さんが言わんとしていることがよく分かります。
ハイティンクの「大地の歌」も良いですが、クレンペラーの「大地の歌」は別格ですね。
クレンペラーの、大宇宙を思わせるスケールの大きな演奏も素晴らしいですが、歌手も素晴らしいです。ヴンダリッヒとルートヴッヒの歌唱を聴くと、ハイティンク版の歌唱は聴き劣りがします。
クレンペラー盤は図書館にも複数枚ありました。多くの人が聴けるといいですね。
クレンペラーの録音方法がまかり通ることから見ても、やはり「大地の歌」の本質は、管弦楽伴奏つき歌曲なのでしょうね。
そのように考えると、大地の歌は、誰の演奏が優れているかを議論する場合、指揮者やオケではなく、本来は2人の歌手なのかも知れません。
男声2名で録音した盤の存在が、この考え方を加速させる傾向があると思いますし、ピアノ伴奏版「大地の歌」の存在もあるわけですので、そんな気がしています。
ちなみに、ワルター盤ですが、個人的にフェリアーの声質が苦手で、かつ、ヘフリガーの声質が好きなため、ワルターの大地の歌は、最後のステレオ録音の方を好んでいると言う、珍しい聴き手です。