カテゴリー別アーカイブ: CD試聴記

ワルターのマーラー 交響曲第1番

先日葛飾区の図書館でワルターのブラームスを借りてみたのですが、同時にマーラーの交響曲第1番も借りてきました。家に帰ってよく見ると、CDのジャケット、つまり解説が付いていません。どなたかが図書館にこのCDを寄贈してくださったのでしょうが、その時にはもうジャケットがなかったのでしょうね。しかし、この曲のCDを聴きたいという私のような人間のところに辿り着いたのですから、何の支障もありませんね。

マーラー
交響曲第1番  ニ長調『巨人』
ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団
録音:1960年前後?(解説書がないため転載不能)
SONY(国内盤 28DC 5052)

ワルターのマーラー、交響曲第1番とくれば当然あのジャケットだとクラシックファンなら容易に想像がつきます。私はそのジャケットを思い出しながらこのCDを聴き通してみました。

いやあ、実に素敵な音と演奏ではないですか。これが50年も前の録音だとは。私が初めて聴いたマーラーの1番は、もちろんこのワルター盤なので音のひとつひとつに懐かしさを感じずにはおれません。私たちの世代はこの録音の後に数々のマーラーに接しました。それでも原体験となったワルター盤の特別な地位は揺らぎそうもありません。しかも、良質のステレオ録音で残されたという僥倖をひしひしと感じます。この録音を聴きながら私はまさに「ノスタル爺」化し、満足のあまり昇天してしまいそうになりました。

ところで、この録音にはひとつだけ腑に落ちないことがあります。SONYからSACDが商品化されて出回り始めた頃、ワルターのより抜きの名盤がSACD化されました。モーツァルトの交響曲第38番「プラハ」、第40番、ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」、第6番「田園」、シューベルトの「未完成」、ブラームスの交響曲第4番です。これらは私もすべて集めました。その際不思議だったのは、この中にマーラーの交響曲第1番が含まれなかったことです。もしSACD化されれば、私のようなノスタル爺が先を争って購入しそうなディスクになるはずですから、そのうちにSONYがリリースするに違いないと読んでいました。しかし、それがSACD化されることはついぞありませんでした。これほどの名盤がなぜSACD化の対象から漏れたのか。通常盤でも全く音に不満がないのですが、SONYはあの手この手を使って音を変え、それらをリリースしてきました。そして、皮肉なことに、その度毎に音が悪くなったように私は感じていました。いろいろいじり回すのであれば、最初からSACDというフォーマットを使えば良いのに。これには何か裏事情でもあるのでしょうか?

とはいえ、そのようなことを思っている間に私のSACDに対する熱意はすっかり冷めてしまいました。ケンペ指揮シュターツカペレ・ドレスデンによるR.シュトラウス管弦楽曲集がSACDに勝るとも劣らない音質で、しかもその10分の1近い価格で発売されたからです。高価なSACDを買った割にはそれに見合う音質が得られないことが続出したことも一因です。

今回私が葛飾区役所から借りてきたCDはマックルーアによる最初のCDのようです。私はこの古いCDの音で昇天しそうになったのですから、無類のノスタル爺なのでしょう。ノスタル爺には通常のCDで十分です。

(2015年6月22日)

ワルターのブラームスを渇望する

先日、ブルーノ・ワルターが指揮したブラームスを無性に聴きたくなりました。かといって、私の手許にはワルターのブラームスは1枚も残っていません。引っ越し前に処分したからです。「ああ、予想通りの展開になった。見境なく処分するのではなかった」と天を仰ぐことになりました。とはいえ、また新たに買うのも癪なので、葛飾区の図書館で借りてみました。図書館でCDを借りるのは生まれて初めてであります。

借りてきたのは以下のCDです。

brahms_2_walter

ブラームス
交響曲第2番 ニ長調 作品73
大学祝典序曲 作品80
ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団
録音:1960年1月11,14,16日
SONY(国内盤 28DC 5043)

発売時期や型番を見ると、どうやら運良くマックルーアがCD化したディスクを手にすることができた模様です。これは嬉しいです。さっそくCDプレーヤーにかけてみると、いかにもマックルーアのトラックダウンらしく、低弦が見事に強調された音が耳に飛び込んできます。それはともかく、欣喜雀躍した私は最初の部分だけを試しに聴くつもりがCD1枚分を丸々聴くことになってしまいました。ワルターは本当に聴かせ上手ですね。私はほとんど大満足です。なんだか微妙な表現ですが。

数年前に、私はブラームスの交響曲全集を片っ端から聴き比べしたことがあります。その際に、ふたつのことに気がつきました。批判や嘲笑を覚悟で申しあげますと、ひとつ目はアメリカのオーケストラによるブラームスは、地に足が着いていないような軽さがあり、それ故にわずかな違和感が感じられる場合が多いこと、ふたつ目はウィーンフィルハーモニー管弦楽団のブラームスというものがありそうだということでした。私の先入観なのかもしれませんが、誰が指揮台に立った録音でもウィーン・フィルのブラームスを聴いて違和感を感じたものは1枚たりともなく、それどころかウィーンフィルはブラームス演奏に必須の何かをDNA的に持っているのではないかと感じたものでした。

ワルターのブラームスは、アメリカの西海岸で録音されています。したがって、上記の観点からはあまり好ましからざる演奏のはずなのですが、私は最後までブラームスを満喫しました。さすがワルターの演奏であります。この演奏に対して、地に足が着いていないなどと恐ろしいことはとても言えません。ただし、「ほとんど大満足」と書いたように微妙な留保をつけたのには訳があります。1箇所だけ物足りなさを感じたからです。

この曲の第1楽章の終わり頃にやや長いホルンパートの出番がありますね。ここはブラームスが美しくも壮大な落日に惜別をおくるフレーズだと私は勝手に解釈しています。落日とは、実際に1日の落日を想起させるものでもありますし、人生の落日さえも描いているように思えます。私はその部分こそが第1楽章の白眉だと思っているのですが、ワルター盤はその箇所が少しあっけないのです。

しかし、そこまで聴いて、私がウィーンフィルのブラームスがあると感じた理由のひとつがはっきり分かりました。あくまでも理由のひとつに過ぎないでしょうが、それはホルンの音色のためです。ウィーンフィルの録音に聴くホルンの音色はやはり格別なのだと改めて思わずにはいられません。そして、コロンビア響とのセッションでは、ワルターのような大指揮者が指揮台に立ってさえ、それだけはどうにもならなかったのだと分かります。

それでもワルターのブラームスは魅力的です。たった1箇所物足りないところがあったからといってその価値を否定する気は毛頭ありません。今回はCDを図書館で借りましたが、やはり買い直した方が精神衛生上良さそうです。マックルーアのディスクを探して購入しようかと思います。

(2015年6月19日)

シューベルトの幻想曲ハ長調 D934

つい最近まで自覚はなかったのですが、私はシューベルトが好きらしいです。An die Musik上でもよく取り上げてきたように思います。そしてCD大量処分後にも一定数のディスクが残りました。幻想曲ハ長調 D934もそのひとつでした。

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シューベルト
ヴァイオリン・ソナタイ長調 D574
幻想曲ハ長調 D934
「しぼめる花」の主題による序奏と変奏曲 D802 作品160(遺作)

ヴァイオリン:ギドン・クレーメル
ピアノ:ヴァレリー・アファナシエフ(D574 と D934)
ピアノ:オレグ・マイセンベルク(D802)

録音:1990年1月、ベルリン(D574 と D934)、1993年11月、ミュンヘン(D802)
DG(国内盤 UCCG-3648)

D940の幻想曲はピアノ連弾曲でしたが、D934はピアノとヴァイオリンのための曲です。さらにD760の幻想曲はピアノ独奏曲で、世に名高い「さすらい人」幻想曲ですね。

D934の幻想曲もD940同様、シューベルトの死の年に書かれた傑作です。全部で4つの部分に分かれていますが、それも他の幻想曲同様切れ目なく演奏されます。

静寂の中から細く細く音楽が紡ぎ出されてくる第1部の冒頭は神秘的であります。いきなりシューベルトの幽玄の世界に引き込まれます。第2部で音楽が高調していったん元の静けさに戻ると、第3部が始まり、聴き慣れた旋律が聞こえてきます。シューベルトの歌曲「挨拶を送らん(Sei mir gegruesst)」D741であります。シューベルトは自作の歌曲の主題に基づく変奏曲をこの幻想曲の第3部に置いたのです。この部分が全曲の半分近くを占めます。主題自身がシューベルトらしく心に染み入るような旋律である上に、馴染み深いこともあり、この第3部は実に聴き応えがあります。その最後の部分では第1部冒頭の旋律が回帰してきます。その素晴らしさ。第4部はフィナーレらしく明るく楽天的な曲となっていますが、最後にまた「挨拶を送らん」が登場してきます。「挨拶を送らん」はなんて愛くるしい曲なんでしょうね。胸が詰まりそうになります。

クレーメルとアファナシエフのCDはこの曲の美質を余すことなく伝えています。特にクレーメルのヴァイオリンは冴えわたっています。名録音を大量に残してきたヴァイオリニストですが、これは彼の隠れた名録音なのではないかと思っています。

(2015年3月14日)

シューベルトの幻想曲 ヘ短調 D940

いつだったか、吉田秀和の本を読んでいたら「幻想曲ヘ短調 D940を知らなければ、シューベルトのピアノ曲を知っているとは言えない」という主旨の文章にぶつかりました。どうしても出典を思い出せないので、それが正確な表記だったか自信が持てないのですが、確かにそんな意味のことが述べられていました。私は結構シューベルトの曲を集めていたのに、その際幻想曲ヘ短調 D940と言われてもすぐに曲をイメージできませんでした。気になってCDラックを見てみると、何といくつも出てきました。私の頭に残っていなかったというのは、よほど真面目に聴いていなかったのでしょうね。

D940ですからシューベルト最晩年の作品です。聴いてみると、確かに美しい曲でした。名曲です。ピアノ連弾曲で、4つの部分からできていますが、それが途切れることなく演奏されます。いかにもシューベルトらしい切々たる旋律で始まりますが、現れる主題はどれも以前から知っていたような錯覚を覚えさせるもので、改めてシューベルトの天才を感じます。また、ピアノが激しく鳴り渡るところは「さすらい人幻想曲」に一脈通じるところがあります。ただし、「さすらい人幻想曲」がほとんど爆発的な音楽であるのに対し、幻想曲ヘ短調D940は基本的に内省的であります。なるほどこういう曲があったのかと吉田秀和に私は感謝したものでした。

それからというもの、私はこの曲を時時聴くようになったのですが、大量のCDを処分した今なお手許に残ったのはキーシンとレヴァインのCDのみでした。

CDジャケット

シューベルト
4手のためのピアノ作品集

  • 幻想曲 へ短調 D940 作品103 
  • アレグロ イ短調 D947 作品144「人生の嵐」 
  • ソナタ ハ長調 D812 作品140 「グランド・デュオ」
  • 性格的な行進曲 第1番 ハ長調 D968b 作品121-1 
  • 軍隊行進曲 第1番 ニ長調 D733 作品51-1 

ピアノ:エフゲニー・キーシン、ジェームズ・レヴァイン
録音:2005年5月1日、ニューヨーク、カーネギーホールにおけるライブ録音
RCA=BMG(国内盤 BVCC-38352-53)

この2枚組CDの特徴は、シューベルトの連弾用の曲を1台のピアノではなく、2台のピアノで弾いていることです。本来は家庭音楽として作曲された連弾用の曲を、3,000人も収容できるカーネギーホールですべての聴衆に聴かせるには無理があるので、苦肉の策として2台のピアノを使うことにしたそうです。そうでもしなければ、キーシンが巨漢のレヴァインの隣で弾くのは辛かったのだろうと私は勝手に想像していますが。

2台のピアノで弾いている時点で、このCDで聴くシューベルトは本来の持ち味とはかなり様相を異にしています。実際に2人ともコンサートの間ずっとバリバリ弾いています。スピーカーの左側がキーシンで、右側がレヴァイン。レヴァインはピアノの腕前も達者で、キーシンに引けを取らないパワーを見せつけます。こうなるとシューベルトの曲はコンサート用ショウ・ピースとして精彩を放ってきます。それもひとつの楽しみ方なのだと割り切ると大変楽しいです。

冒頭に演奏された幻想曲ヘ短調 D940では私がかつて持っていたどのCDよりもダイナミックな演奏が聴けます。シューベルトがこの演奏を聴いてどう思うか分かりませんが、私はダイナミズムを突き詰めた演奏として気に入っています。もしかしたら邪道なのかもしれませんが、こういう楽しみも許してもらいたいです。

(2005年3月1日)